第46話 虎と猫

土曜日になった。


僕はたった今から『俺』だ。

俺は生まれてこの方、喧嘩なんてものには、無縁の男だった。

だが、今日は違う!


俺は『虎』になるのだ。


小梢から三人で会おうと言われてから、密かにYouTubeで格闘技術を学んだ。

『けんちゃん』との一騎打ち、望むところだ。

小梢だって『俺が幸せにすると言えないのか?』と言っていた。あれは、力づくで小梢を奪い取れという事だったのだ。


そして俺は今、灯台の見える断崖にけんちゃんと対峙していた。

ここは観光スポットなのだが、俺たちの決闘に恐れをなしたのか、観光客は一人も居なかった。


まるで、巌流島で決闘をした宮本武蔵と佐々木小次郎のようだ。


「じゃあ、二人とも思いっきり殺し合ってちょうだい」


小梢が冷たい表情で言い放つが、俺は実際のところビビりまくっていた。

よく見ると、ケンちゃんは身長が180cm以上あるし、体格も良い。


中肉中背の俺よりも、明らかに引き締まっている。

しかも、俺は喧嘩未経験だ。勝敗は火を見るよりも明らかだった。



「良いのか? 小梢。

殺さないまでも、仕事できないくらいには怪我をするかも知れないぜ」


「ええ、ケンちゃんの好きにして」


「分かった。俺もお前にちょっかい出したコイツが許せないでいたんだ。

遠慮なくやらせてもらうぜ」


「ちょっと待った!」


「?」


「あの……、やっぱり暴力は良くないよ。

は、話し合わないか?」



僕は『猫』になっていた。



「情けないな、この期に及んで怖気づいたのか?

小梢、どうする?

こんな情けないヤツ、殴る価値もないんだけど」


小梢は、ケンちゃんの問いかけに応えず、僕の方に歩み寄ってくる。

顔に怒りの表情を浮かべていた。


「その……、前にも言ったけど、小梢がケンちゃんの方が好きだと言うなら、僕は手を引くよ。

小梢の幸せが一番大切だと思うから」


小梢は構わずに僕に詰め寄る。

その表情は怒りから悲しみに変わっていた。


「やっぱり分かってない……」


「へ?」



小梢は僕の横を通り過ぎると、そのまま進んでいく。その先は崖になっていて落ちればひとたまりもないだろう。


「こ、小梢?

何処に行くの? ちょっ、あぶないよ!」


直ぐに小梢を追おうとするが、足がすくんで動けない。


(くそ!、足! 足! 動け!)

僕は必死で自分の太ももを叩くが、まるで地面に根が生えたようにビクともしなかった。


その間にも、小梢はどんどん崖の方へと歩いて行く。


「小梢! やめろ!」





「うわああああ!!!」





気が付くと、僕はベッドから半身が落ちた状態だった。

どうやら夢を見ていたようだが、酷い夢だった。


一度ならずも、二度までも小梢を失うなんて……。

僕は、自分が手を引くと言ったものの、やはり小梢を失う事は耐えがたいものだとハッキリと気づいた。


例え喧嘩になったとしても、ケンちゃんにボコボコにされたとしても、決して自分から小梢をあきらめるなんて言わないと誓った。


僕が小梢を幸せにするんだ。



(でも、どうやって……?)


今のところ、小梢がケンちゃんと別れて僕と付き合う可能性は殆ど見込めていない。

小梢が迎えに来るという時間に合わせて身支度を済ませたが、全く策が浮かばなかった。

このままでは、夢のように崖から飛び込まないまでも小梢を失う事は確定している。


僕に残されているのは、最後の悪あがきで小梢に想いをぶつける事しかない。

ジリジリと焦りの気持ちが湧いてきた頃、部屋のチャイムが鳴った。


(キタ!)


僕はゴクリと唾を飲みこんだ。おそらく小梢はケンちゃんと一緒だ。

僕は震える手でドアノブを回した。



「おはよう。今日は寝不足だったりしない?」

玄関を開けると、小梢が一人で立っていた。


「あ、おはよう。時間どおりだね」

そう言いながら、僕は辺りを見渡したが、ケンちゃんの姿は見えない。


「何をキョロキョロしてるの?」


「あ、いや、行こうか……」

もしかして、ケンちゃんは既に海で待ち構えているのかも知れない。

だが、そうなると佐々木小次郎はケンちゃんだ。




『森岡遅いぞ!』


『むふふ、ケンちゃん敗れたり!』




もしかして、僕が勝つのか?


「何をニヤニヤしてるの? 気持ち悪い」

僕が妄想に浸っていると、小梢の冷ややかな声が突き刺さった。


「あ、いや、何でもない……

あの車は?」


「あ、お母さんのよ。家族で使っているの。

それより、ふざけないで。今日は真面目にして!」


「(いつも、ふざけてるつもりは無いけど……)ゴメン、ふざけてなんかないよ。今までで一番真剣だ」


小梢は一瞬怪訝そうな表情をしたが、直ぐに厳かな表情に戻り、「さあ、行きましょうきっと首を長くして待ってるわ」と言い、ドライバーズシートに座り、シートベルトを着けた。


僕も助手席に座り、同じようにソートベルトを着ける。


やがて車が動き出すと、何処かで聞いた事のあるような曲がカーオーディオから流れてきた。


「お母さんが若い頃に聴いてた曲だから、古いけど気にしないで。

20分くらいで着くと思うわ。安全運転だから心配しなくても大丈夫よ」


「その……、待たせても大丈夫なの?」


「? うん、ずっと待ってたから、少しくらいは許してくれると思う」


(そんなに待たせてるのか⁉)


僕は、ケンちゃんが怒りの表情で僕を待ちわびているのだと思うと身が縮む思いがした。


(これは……、何発殴られるか分かったもんじゃないな……)

だが、僕は絶対に自分から小梢を諦めるとは言わないつもりだった。


車が海の方へ近づくにしたがって、潮の香りが強くなってきた。

窓から流れ込む空気も少し湿った感じがする。


「潮の香りがするわね……

初めてデートした時、潮の香りが懐かしくて深呼吸したのを思い出しちゃった」


これから振る相手に、思い出のデートの話をするなんて、なんて残酷なのだろう。

小梢の気持ちがますます分からなくなってきた。


自然と僕の表情は曇る。


「さっき、ふざけるなとは言ったけど、そんなに神妙にならなくても良いわよ。

そんなんじゃ、彼女が心配するじゃない」




「へ?」




聞き間違いだろうか?

今、小梢は『彼女』と言ったように聞こえた。



「あ……の、小梢さん?」


「な、なに? 急に」


「ところで、どちらへ向かうので?」


「ヤダ! 今頃何を言ってるの?」



「いや、だって、何処に行くとか、誰と会うとか聞いてないし……」


「? この間『分かった』って言ったじゃない。今までその話をしてたじゃないの?


もう!」


小梢は混乱しているようで、少し運転が乱暴になる。



「着いたわ」



車が止まったのは、共同墓地の駐車場だった。





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