第33話 ビンタ二発

小梢だけ居残りさせられたことが気がかりだったが、後ろ髪を引かれている場合ではなかった。


「森岡先生、次の授業の準備を手伝っていただいても良いかしら?

何時もは生徒にお願いするのだけど、まだ時間もあるし、先に済ませておきたいんです」


授業の準備というのは嘘だろう。先ほどの校長室でのやり取りで、海咲が心中穏やかでない事は僕にだって分かる。

だが、逃げる事は出来ない。僕は海咲から叱責されることを覚悟した。


「ええ、僕で良ければお手伝いいます。どうすれば良いですか?」


「ありがとうございます。では、体育準備室までお願いできますか?」


こうして僕は、海咲に体育準備室まで連行されたのであった。


体育準備室は校舎の裏の目立たない場所にある。確か、ここで土門華子は虐めグループの被害に会ったはずだ。そう思うと少し胸が痛んだ。


海咲は体育準備室の鍵を開けると、重そうな扉を引いて中に入り証明を点けた。

中は埃臭く、薄暗い照明が不気味な雰囲気を醸し出している。


「こっちよ」と海咲に促され奥の方に進むと、そこで海咲は立ち止り仁王立ちした。


「言葉通り、私が授業の準備で呼び出した訳じゃない事くらい、いくら圭ちゃんでも分かるわよね」


「はぃ……」


返事さえも消え入りそうなくらい語尾が萎んでしまう僕の頬に一瞬、風が舞ったかと思うと、パチンという乾いた音と共に痛みが走った。


「今のは私の分」と言い終わるか終わらないうちに、追撃の一撃が僕を襲った。

今度は先ほどの倍はあろうかという威力で、思わず僕はよろける。


「それは、雪村先生の分、彼女はこんな事しないだろうから、私が代理で叩いてあげたわ」



(既に小梢からも二発もらってるんですけど……)



「どうして、雪村先生と恋人だったことを隠したの?

確認したじゃない。知ってたら、あなたをデートに誘ったりしなかったし、恥をかくような事もしなかったわ」


「すみません……」


「さっきから、そんな事しか言えないの?

いっそ、あの時にわたしの事を抱いてくれたら良かったのに、そうしたら男なんてそんなものだって割り切れた。

いったい何なの? 変に優しくして期待持たせて、そういうことをアチコチでやってるんでしょ。


その東京から来た子も、中途半端な事してるでしょ。


それで一番好きなのは雪村先生?」


容赦ない海咲の叱責に、僕は返す言葉が見つからなかった。先日、小梢の部屋でも同じことを言われたが、僕が優柔不断なために海咲を傷付けてしまったことに申し訳ない気持ちしかない。


「今朝、ちゃんと雪村先生の顔を見た?」


「え?」


「やっぱり、気づいてない。

雪村先生、あまり寝てない顔だったよ。圭ちゃんの事が心配だったんだよ。それなのに何? 呑気に。


どうして、私や有村さん、その東京の子に優しくしている分を、どうして雪村先生に全部あげないの?


見たところ、お互い好き同士のようだけど、圭ちゃんが雪村先生に全面的に甘えてるようにしか見えない!」



「確かに、今回の事では雪村先生に甘えてしまいました。

けど、全面的に雪村先生に気持ちを向ける事ができないんです」


「あきれた。まだ何か隠してる事があるの?

どんな事情があるか、言えないのなら聞かないけど、雪村先生を一番大切に思う事は出来るでしょ」


「はい、直ぐには無理かもしれないけど、いつか雪村先生と幸せになりたいです」


「もう一発殴って良い?」


「ええ?」


「冗談よ 笑


でも、羨ましいな~ そんなにお互いを想いあって。

私もいつか、そんな人に巡り合いたい……


それにしても、雪村先生も森岡先生が好きなのに、何が妨げになってるのかしら?

よほど不味い事でもあるのかな?

あ、ごめんね。詮索しないって言ったのに」


妨げになっているのは、小梢が自らかけている鍵がなかなか開けないからだ。

もう少しと言うところで、解けそうで解けない。

そのもどかしさは僕も自覚している。



「まあ、でも校長の粋な計らいで、二人の週末デートも実現する事だし、これがきっかけで関係修復になるんじゃない?」


「だと良いのですが……」



おそらく、小梢は今夜の見回りをデートなどという浮ついた気分で行おうなんて1グラムも考えていないだろう。

妙なところに頑なな彼女の事だ。足が棒になるくらい歩き回るかもしれない。

そのくらいは覚悟しなければならないだろう。


海咲には曖昧に苦笑いして見せたが、実際に夜になって駅で待ち合わせた僕は、やってきた小梢の格好に唖然とするのであった。





「え……と、その恰好は……、どういう意図で?」


「変だった?

だって歩き回るでしょ、だから動きやすいようにと思って、それに学校の仕事だし、制服がないわたしにとって、制服代わりにと思ったんだけど」


なんと小梢は学校のジャージを着て現れたのだ。しかも何時かジョギング帰りにしていたように髪を後ろに束ねている。まるでこれからジョギングでもするかのようだ。


「いや……、たしかに仕事だけど、なにもジャージを着てくる事ないのに……

遠足じゃないんだし……」



「なによぉ、いったい誰のせいでこんな夜中まで仕事しなきゃいけなくなったと思ってるのよ?」


僕が呆れていると、小梢は少し拗ねて見せた。

あまりの可愛さに、思わず身をよじらせずにはいられない程であった。


「そうだ!

明日からは圭君もジャージにしない?

一緒にジョギングしましょう。どうせ運動不足なんでしょ?」


「いや、見回りって言っても有村さんが立ち寄りそうな場所を回るだけだから走り回るわけじゃないよ」


「せっかくだから、仕事と健康維持を兼ねて行動すれば良いじゃない。

そうしましょうよ。

そうだ、やっぱり今日から走りましょう。だから、一度帰って着替えてきなさいよ」


「ええ?」

良いよ、明日からで(いや、明日からも嫌なんだけど……)」


僕が消極的になっているのも構わずに小梢は歩き出す。


「つべこべ言わないの、時間がもったいないから圭君の家まで一緒に行くわ。

そこから走りましょう!」


こうして僕は、4年ぶりに自分の部屋に小梢を招き入れる事になったのだった……。





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