第五話~海坊主、襲来
かのんとスタバで話をしてから、茉莉花の心の片隅に「婚活」と「自活」の2つの単語がずっと引っかかっていた。どちらも、かのんと話をするまでは思い浮かびもしなかった。茉莉花は、その答えはどうしたら見つかるのかと悩んでいた。
そんな矢先、茉莉花の稼働先の1つであるカルチャーセンター「カルチャー
駅前商店街の中にある、「
もともと錦城堂書店の社長の西畑は、常町ビルの家主とは懇意にしていた。だが、ビルの老朽化も進み、立て替えか売却か、という話になっていたという話を、カルチャー常町教室の生徒の親から茉莉花は聞いた。
茉莉花たち音楽教室の講師は、カルチャー常町の入口の鍵と音楽教室として使っている部屋の鍵をカルチャー常町から預かる形になっていた。カルチャー常町担当の講師は4人いて、それぞれが鍵を預かっている。茉莉花は稼働日のため、部屋の鍵を開けようとやってきた。
幼児のグループレッスンで午後2時半に入口を開けようとしていた茉莉花の前に、海坊主のような男が立ちはだかった。
「お前、音楽教室?」
ガラガラ声で坊主頭、おそらく身長180㎝以上はある、筋肉質な黒タンクトップに革のスリムパンツ姿の男に、茉莉花は身の危険を感じた。
(不審者?)
「お前の鍵俺によこせ」
ガラガラ声の台詞が、茉莉花には理解できなかった。
「へ?」
間抜けな返事をした茉莉花に、海坊主のようなその男はイラついた。
「鍵をよこせっつってんだよ!!!」
海坊主は入口の壁を叩いた。茉莉花は震えながら尋ねた。
「あなた誰ですか」
「いいから鍵をよこせ」
話が通じない。茉莉花は体が震えた。このビルはセコムは入っていないのか。
「これは音楽教室の鍵です。関係者でもない方に勝手にお渡しすることはできません」
勇気を振り絞って訴えると、海坊主はギョロ目をむいて吐き捨てた。
「音楽教室だぁ?そんなもん糞くらえだ。とっとと鍵をよこして出てけ」
押し問答をしていると、グループレッスンの幼児が母親と一緒にやってきて、海坊主を見て泣き出した。あとから来た生徒の母親たちにも不審そうな顔でジロジロ見られた海坊主は
「また来るからな」
と言い残して去っていった。茉莉花は腰が抜けそうだった。
その後、グループレッスンの生徒の親が機転を利かせて警察に電話をしてくれていたらしく、茉莉花はレッスンの合間に海坊主のような男の特徴や、「鍵を返せと言われた」という話を伝えた。
海坊主のような男がやってきて、「鍵を返せ」とまくし立てた話を担当者に告げるべきなのだろうか、と、茉莉花は考えた。どう考えても自分ひとりで解決できそうにない。
海坊主はどこの誰なのかわからないし、きっとまた来る。警察には伝えたが、また来られても困るし、近隣と余計なトラブルは起こしたくない。大体雇われの自分に取れる責任なんて大したものはないのだ。考えあぐねて、担当の尾関健一に相談しようと茉莉花は思い立った。
営業の尾関とは、なかなか携帯が繋がらなかった。
ちょうど午後7時半からの中学生が部活で骨折をして医者に行くというので休みが入り、やっと尾関に電話をすることができた。
「鍵を、返せ?!」
受話器の向こうの尾関の声色からも、困惑の様子が伺われた。
「本当に、常町カルチャーからそんな話が?」
「鍵を返せと言って来た人物が、常町カルチャーの関係の人物だとすれば本当だと思います。とりあえず、上のものに確認しなければならないし、生徒も来るのでと帰ってもらいました」
受話器の向こうから、大きなため息が聞こえた。(ため息つきたい方は私だよ、尾関君)茉莉花は心の中で呟いた。
「常町との契約は、今年いっぱいですよ。社長が在籍生徒のこともあるからと直接、常町の上層部にかけあってくれたし、僕もその時担当者だからいたんですよ」
「尾関君が嘘付いてるとは思えないけど、じゃあ、どうしていきなり来て鍵を返せって話になるの」
尾関に苦情を言っても仕方がないことは分かっていたが、茉莉花も強めの口調になっていた。
「わかりませんよぉ、僕だって」
20代の営業担当の尾関は身長が高いが優男風だ。
「分からないじゃ困ります。本当に怖かったんですからね」
「海坊主みたいな男、でしたか?あ、ちょっと待ってください、一旦切ってかけ直します」
電話は切れた。尾関も大変なんだなと少し同情したが、こちらもいきなり海坊主のようないかつい男から一方的に鍵を返せ、出て行けと言われた衝撃から立ち直っていない。だが、なすすべもなく茉莉花は、出席シールの整理や入金伝票のチェックをしながら尾関からの電話を待った。
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