第二話~いきなり急降下
それが、3日前。
それから茉莉花は住宅情報誌を購入したが、家賃の高さに肝を潰した。大体、「楽器OK」な物件そのものが少ない。そういえば大学時代下宿していた子たちは、大学の近くの学校あっせんのマンションだったし、中小企業の社長の娘とか、手広くやっている自営業の息子とか、大地主の子、だったと茉莉花は思い出した。
そして今日。大学卒業後ずっと稼働している音楽教室で、将来有望だと思われていた小学4年生の女子生徒が、中学受験塾の時間との兼ね合いで月末で退会すると聞かされた。
期待をかけていた生徒だった。
「レオナちゃん塾大変そうですね?」
母親は済まなそうに頭を下げた。
「模試の点数が上がって、来月からクラス変更になったんです。ピアノに行っていると、塾の時間に間に合わないんです。それに・・・宿題が増えてしまって、ピアノも塾もはやはり負担で」
塾を変えろ、とは茉莉花の口からは言えなかった。生徒が通っている塾は、難関女子校受験対応の塾だったからだ。
もともと生徒が狙っているミッション系の中高一貫校は音楽の選択授業でかなりレベルの高いこともしており、受験を決めたのはその理由もある。茉莉花も中学受験経験者で、生徒が狙っている中学をかつて候補に入れていた経験もあるから、生徒が合格したい気持ちも手に取るようにわかった。
「村越先生は水曜日にしかここにいらしていないし、ほかの曜日と言っても送迎は難しいので・・・。音楽教室の先生に個人的に来ていただくのはあとでトラブルがあると困りますでしょう」
教室生徒の家に出張するのは「逆引き抜き」のようなもので、うまくつながなければトラブルが起こる。実際にトラブルで退職した講師も過去にはいた。
「休会は年度をまたぐことができないって規約にあるので、だったら受験が終わるまで一旦やめた方がと・・・。お世話になったのに申し訳ありません」
仕方がなかった。茉莉花は、残り2回のレッスンを一体どういう顔で過ごせばいいのか、心の中で悩みため息をついた。
そんなことがあったため、茉莉花は電車の中でぼんやり窓の外を見つめ、着信があるのにも気づいていなかった。
駅で降りると、iPhoneに留守電が入っていた。
「音楽教室でお世話になっている松宮です。レッスン中かと思い、お電話で失礼します。急で申し訳ないのですが、今月いっぱいで退会させていただきたいと思います。こちらも出先ですので詳しいことは、先生にお会いした時にお話します」
担当しているセンター教室で将来有望な松宮という中学生の男の子のお母さんからだった。
熱心な家庭で、ここ3年くらいは複数のコンクールで全国大会に進むところまで来た。茉莉花が普段はレッスンをしているが、月1回茉莉花の母校の教授にレッスンを受けており、昨年グランドピアノを買ったばかりだった。
ピアノをやめる素振りはなく、教授も「中学生のうちは月1で」と言っていたので引き抜きでもない。茉莉花が電話をしても相手は出ず、LINEも既読がつかず、メールは送信できず戻ってきてしまう。茉莉花は諦めた。
帰宅すると、また着信があった。同僚の宮島佳織からだった。
「お疲れ様です」
「あ、ごめんね村越先生。松宮和人君のお母さんから電話あったでしょ」
なぜ佳織が知っているのか。担当ではないはずだが。
「あったけど・・・松宮さんやめるって・・・」
「やっぱりね。村越先生、私の生徒の長谷川樹里ちゃん知ってるでしょ」
樹里ちゃんは人懐っこい子で、担当ではない茉莉花にもよく挨拶をしてくれる子だった。
「クラコンで全国入賞した子?ハーフの綺麗な子だよね」
「樹里ちゃんのママから変なこと聞いたんだよ。音楽教室が潰れるんじゃないかって話が、ママさんたちの間で流れてるって・・・」
茉莉花は驚いたと同時に、信じられなかった。
(松宮さんは、噂でやめることにしたのか・・・)
「いくつか教室閉鎖する話があるし、さんかわ音楽センターも閉鎖されるんじゃないかって、ママさんたちが噂してるみたいで。とにかく、金曜の講師会議で何かわかるかもしれない」
宮島佳織は爆弾発言もするが、基本的には真面目で根拠のない話はしない。茉莉花は不安になった。
(住居を探さなきゃいけないとばかり思ってたけど、仕事も先が見えないのか)
それは15年間平穏に過ごしてきた茉莉花にとっては、考えもしていないことだった。
そして、このことを皮切りに、茉莉花はいかに自分が人生設計というものをしていなかったか思い知らせることが次々に起こることになる。
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