がけっぷちラプソディ
さきぱんだ
第一話~出ていけなんて聞いてない
波風立たない平穏な生活なんてつまらないと思っていたけれど、平穏な生活ができるというそのことが、いかに普通ではないことなのか・・・。
村越茉莉花は、仕事からの帰宅途中、電車の中でそんなことをぼうっと考えていた。
いつものようにiPhoneの画面を見てLINEのチェックをしたりすることも忘れてしまったかのように。
そう、自分の平穏な生活は、1週間前のあの日に崩れてしまったのだ。
茉莉花は38歳になったばかり、音大でピアノを専攻し、卒業後は楽器店音楽教室の講師をしている。
週に6日教室で稼働しており、実家で両親と同居していた。
茉莉花の家は5年前に弟が職場の異動で家を出て、そのまま3年前に結婚した。その頃から父が食道がんを患い、1ヶ月前に亡くなった。家には茉莉花と母が残された。
その父をを送って1ヶ月ほど。
茉莉花の家は浄土真宗のため、一般的な四十九日ではなく、三十五日を執り行い、葬儀にも出てくれた親戚がやってきた。家から葬式を出すのが初めてで、何もわからないまま母とともに、手探りで、とにかく手落ちがないように、失礼に当たらないように、戒名を付けることから三十五日まで、仕事の合間に走り回ってきた。
その親戚が居る中で、弟が放った言葉。
「この家は俺がもらったで、母ちゃんとねえちゃんは出てってくれんか」
母は青ざめ、おじたちも顔色を変えた。
「慶太、何を言うんや!」
「おじさんらには関係ないで、口出しせんといてくれ」
「遺産としては確かにお前のもんになったかもしれんが、まだお母さんとまりちゃんが住んどるだろ」
「今日明日に出てけちゅうのは、無理やないか。引越し屋の手配もあるし、家も借りんならん」
おじたちが口々に慶太をさとす。
「うちを・・・うちを出て行けなんて、慶ちゃんなんで」
母の声は震えていた。
「瑞浪のおじさんちに行けばいいが。寺だで、部屋たくさんあるし」
「瑞浪からじゃまりちゃんの職場が遠いが」
「慶ちゃん、どうしてそんな急に、出てけって言うん?まりちゃん困っとるがね」
里佳が尋ねると、「おばちゃんには関係ないじゃん」慶太はつぶやいた。
里佳は「そんないい方ないが…」とため息をついた。
寒い。
8月の下旬で、エアコンを効かせているからというだけではない寒さが、茉莉花を襲った。
ぶるっと体を震わせ、茉莉花は自分の肩を抱いた。自分に関係があることなのに、全然違う場所で話されているような気がしてならなかった。
誰も、何も言わない中、壁掛けの時計の音だけがかすかに響いた。その沈黙を破ったのは、やはりこの中で最年長の謙三おじだった。
「慶太、いくらなんでも、今日明日のうちになんとかしろは無理だろ。確かにまりちゃんは何も考えとらんかったかもしれん。ほんでも、今のお前は鬼みたいな顔しとるぞ。姉ちゃんに鬼になってはいかん。お母ちゃんの顔を見てみろ」
慶太は不服そうな顔だったが、長老の謙三おじには反論できなかった。
「もちろん期限は決めたほうがええでな」
「じゃ一ヶ月」
「無理でしょ!」
茉莉花は悲鳴をあげた。本棚いっぱいの楽譜、服も普段着と、演奏用のドレス。靴。それだけでも大荷物だ。使わないものもあるかもしれないから、コンパクトにまとめるにしても時間は必要だ。
そして、ピアノ。
音を出す場合、借りられる部屋は限られてくる。1ヶ月では見つかるかどうか。しかも、貯金もあまりなかった。母を連れて出るには、お金も足りない。
「じゃあ、六か月。これでどう?俺としては随分譲歩したつもりだが」
茉莉花は下を向いた。弟の言うことに反論できるほどのカードを自分は持っていない。
結局、謙三おじのとりなしで期限は「1年」ということになった。
今から親子2人で住める、ピアノも置ける住居を探しても、引越しの手配、手続きなどがあるから、妥当な線だということだ。
もし見つからなければ、瑞浪の雅彦おじの寺に母娘で間借りして、仕事を探すという取り決めに、茉莉花は文句が言えなかった。
おじたちが帰宅したあと、和室で放心状態になっていた茉莉花に、慶太の妻、ゆきねが声をかけた。
「おねえさん、湯呑片付けてくださいよ」
その声で我に返った茉莉花は、頭を下げた。
「あ、ごめんね。今持って行くわ」
お盆に湯呑を載せて立ち上がった茉莉花の横を通るゆきねの声が聞こえた。
「ほんと、しっかりしてください」
そして。すれ違いざまに。
「使えないお嬢さん」
ほんの、小声でのつぶやき。微かに舌打ちも聞こえた。
茉莉花の心の中に、黒いシミが広がった。
(お嬢さんは、あんただがね)
弟の妻、ゆきねは28歳で、老舗の料理旅館の一人娘だ。よくゆきねの両親が嫁にやったと茉莉花は思う。
ゆきねは初対面から、年の離れた茉莉花を煙たがっているところがあった。それはなんとなく感じていたが、一方的に避けられている理由が全くわからなかった。口数も少なく、相手から打ち解けようという態度は見られないため茉莉花もなんとなく話しづらかった。母も、息子よりも若いゆきねのことははれものに触るような扱いをしていた。
喪主を決めるときもそういえば、茉莉花は口を挟む間もなく慶太がが「長男がやるもんだ」と決めてしまったことを思い出した。反論できない自分が、今回のことを引き起こしたと言えなくもない。
ため息をつくこともできず、茉莉花は頭をブルブルと振った。
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