第14話 通過儀礼、通過指令

 石畳で舗装された中庭を抜けると、自称トレジャーハンターとそのお付きの外国人旅行者二名、ケイトとドミニクが優雅にアフタヌーンティーを楽しんでいた。


「奇怪だぁ、奇怪だ。ドミニクそんなに驚くことかな?三人とも同じ顔をしているよ?」

「そりゃそうだろケイト。誰が死地で呑気に紅茶を飲む奴がいる」


 心廻じぶんとナズナ、釜無の三人はガチガチに固められた緊張感が目の前の気の抜けた光景で解けてしまう。全員何も言うべきか分からず閉口してしまう。


「そうは言うが、君もちゃっかりご随伴に預かってるじゃないか」

「今はまだ二月だ。流石にまだ寒い」

「ええと!…ケイトさんとドミニクさん。どうして御二方がここに居るんです?」


 いつまでも黙っているわけにはいかない。ケイトとドミニクの話題が紅茶から茶菓子を奪い合う前に思いきって最初の疑問をぶつける。


「あぁそうだった、そうだった。私達は出迎えだ。ここから先へ行っていいのは心廻、君だけだ」

「な!?」


 ケイトから返ってきたのは、いきなりの宣告だった。心廻に驚く声も気にせず、彼女は言葉を続ける。


「不安なら、……まぁそこの手斧の方かまなしも一緒に良いよ。護衛として言い訳が立つ。彼女も何も言うまい」

「だが、『かつての全能』、伊豆ナズナさん。貴女だけは別だ。理由は大方お察しだろう?」

「……まぁね」


 とんとん拍子に話が進んでしまい困惑する。ケイトももちろんだが一人納得するナズナも意味が分からない。無意識に声を荒げてしまう。


「な、なんでですか!?というかケイトさん何で貴女がクロエの事を知ってるんです!?」

「心廻君、安心すると良い、君と彼女の因縁に俺達は関係ない。」


 それまで黙っていたドミニクが諭すように、落ち着いた口調で答える。そのおかげか少し落ち着きを取り戻した。そのまま黙ってケイトへ続きを促す。


「まぁ……単なる雇われさ。心廻少年、君にはドミニクが世話になってる。誠意として言うが、私達は『遺人』だ。そして場を整ける為の裏方として、ここにいる。それ以上の事は言えないし言わない」

「俺も『遺人』だが雇われの単なる御付きだ。大した事は知らない」


 話さない、知らないと言われたら心廻も黙って受け入れるしかない。


「あたしらだけしか入らないのは分かったから、さっさと鍵を開けろ」


 ケイトの長話が我慢の限界なのかそれまで沈黙していた釜無は口を開く。どうやら二人で話し込んでいる代わりにさっきまで周囲の警戒をしてくれていたらしい。


「おぉっとすまない。忘れてた」


 急かされたケイトはティーカップをソーサーに優雅に置いて立ち上がる。そして懐から古めかしい鍵を取り出した。半円形の針金を通してぶら下がった十数個の鍵束は取り出されるとじゃらりと金属音が鳴った。

 ケイトはその中の一つを選び取り鍵穴で差し込んだ。カチャンッと重厚な扉の鍵が開く音がすると、ケイトはこちらに向かって恭しく芝居掛かった口調で一礼する。


「さぁさ、正しく地獄の釜の蓋は開かれた。要らぬお節介だが、あまり私情に囚われず、ただ事実を受け止める覚悟をおススメするよ」


「ご忠告ありがとうございます。ですが彼女は俺の仇敵です。憎悪を捨て去ることはできそうにありません」


 対する答えは明白だった。応える声は思わず、心の中の押さえきれない感情を滲ませた。心廻の様子にナズナはひとり目を伏せたまま黙っている。


「それもまた結構。自身が選んだ選択ならば、私は君を尊重するよ」


 心廻の様子に、ケイトは一つ頷くだけで肯定も否定もしなかった。その一連の様子にドミニクは何か言いかけたが、結局は何も言わず御付きに徹した。

 

 扉を開く前に心廻はナズナの方へ顔を向ける。


「いいのか、ナズナ?」


 心廻は一人残る事になったナズナが心配なので、側まで寄って声を掛けた。


「……ここは下手に逆らってケイトさん達に邪魔されたくないし、少し話したいこともあるから先に行って、それに───何があっても、絶対追いつくから」


 それは言外の必ず助けられるという自負だった。確かにナズナはその身の『神秘』で釜無との危機を助けた。その彼女がそう言うのならば、助けられる立場である心廻は何も言うことはできない。


「……え?」

「───心廻、早くしろ!」


 その意味の真意を訊ねる前に釜無に急かされてしまった。声がした方へ振り向くと開いた扉を押さえて、わざわざ心廻を待ってくれていた。

 待たせるわけにはいかないので、慌てて心廻は釜無の後を追う。玄関をくぐり、扉が閉まる中、後ろへ振り向くと、空には夕焼けが訪れようとしていた。西日に包まれる中、ナズナの顔が目に入る。その顔は、小さな微笑を浮かべていた。

 一見、なんてことのない、心廻と釜無ならきっと大丈夫だろうという確信と信頼めいた笑みに見える。しかし心廻には一抹の不安を感じる笑みだった。


 そして間もなく扉は閉じられた。


 ────


 屋内は薄暗く、窓から夕陽が差し込んでいた。照明はどれも点いておらず、電気が通っていないのは察せられた。

 心廻と釜無は、奇襲を警戒し、緊張から自然と無言になりながら廊下を歩いた。

 結果だけでいえばそれは徒労に終わった。


 一人の少女は、悠然と椅子に腰かけていた。


 大きな広間だった。端部屋なのか大きめなガラス戸からはテラスが見える。だが外は木々が生い茂っているせいで夕陽の光が入らず薄暗い。

 僅かに差し込んだ夕陽が照らす部屋の中、クロエはよく薄暗がりでもうおく目立つ白髪を揺らす。


「やぁ、待ち遠しかったよ。心廻」

「俺は待ちきれなかったよ。この時を」


 二人は憤怒と笑みでまるで正反対な表情を浮かべる。だが相手を見つめる瞳はどちらも乾いていた。


 ────


 瞬間、傍で控えていた釜無が飛びかかった。反撃の隙も与えない速攻の不意打ちがクロエに迫る。


「『死頭区域ヘッド・デッド・ライン』」

「っ……‼、『神秘』か!」

「……なっ!」


 だがその言葉と共に、クロエの胸ぐらを掴み、手斧を振りかぶった態勢のまま釜無は急静止してしまった。

 その隙に腐臭を伴いゾンビ達が現れ四肢を捕み、釜無はたちまち拘束されてしまう。だが振り下ろしかけた腕で抵抗しているのかガタガタと手斧が震えている。釜無は拘束されたが、その刃はクロエのすぐそこまで迫り拮抗している。


「通らせて良いのは心廻だけって言ったのに……あのケイト

「心廻の護衛としてな。元々は無力化したかったが、……まぁこれでも良いか。心廻、私を抑えている間はクロエもゾンビを動かせない、これでイーブンだ。済ませろ」

「もともと私は争うつもりは無かったけど、君達からしたらこうでもしなきゃ公平じゃないか。───じゃあ、ここからだね。心廻、こっちに来ると良い」


 心廻はクロエの言葉に反応せず、少女の目の前までただ黙って歩く。そして奇しくも夕陽が沈む公園で出会った日を再現するかの様に二人は向かい合う。しかしもはや少年と少女ではなく、復讐者と仇敵として相見える。


「さて、今回は何の話をしようか?今見せた手品神秘も紹介したいけど、折角だし人類神秘ゾンビ化計画に因んで、ゾンビについて話そっか。───死体からゾンビになったら、生命力、失われた部分を補うように、心臓を求めるのは知っているよね?」


 釜無に胸ぐらをつかまれた事などお構いなしに、沈黙する心廻に向けて、クロエは話を続ける。


「なら生きた人間をゾンビにしたらどうなる?多少人間性が失われるが原始的欲求に従い、不死性を得られる。


 そしてクロエは救世を謳う。だが心廻が返すのは端的な否定の言葉だ。


「戯言だね、それは立派な生物への冒涜だ」

「そう怒ることかな?既に生死に関わらず、人の心は死に絶え始めているのに……人はもう生きながらにして死んでいる。死んだ様に生きるのと、生きる為に死ぬ。どちらが正しいかなんて人でなしにはわからないよ」

 ────ただ一つ確かなことは、私にはそれができてしまう『神秘』によって実現できてしまう。つまり人類は人類の悲願を叶えられない。

「人にはもう未来がないのさ」


 瞬間、クロエに向かって銀閃が奔った。心廻が懐からナイフ──部屋に入る前に予め釜無から受け取っていた──を突き立てる。しかしそれを見越してゾンビが現れ身代わりとなる。釜無を抑えているのとは別に、自身を警護用のゾンビらしい。しかもそれ故頑丈なのか片腕の肉を切り裂きはすれど、骨を切断するには至らず、ナイフは埋もれて止まってしまう。

 更には、今の衝撃で襟首を掴んでいた釜無の拘束が外れ、クロエはその場に倒れ込んでしまう。絶好の機会だが目の前のゾンビが邪魔で近づけない。

 心廻の絶好の不意打ちを躱し、相手の策を対処しきったクロエは、倒れたまま、小さく微笑を浮かべる。

 しかし心廻にとっては今それは重要なことではなかった。不意打ちが失敗したことを気にも留めず、クロエの言葉に心廻ははち切れんばかりの激情を吐きだす。


「そんなものが人の進化であってたまるものか!不死の選択肢を提示しているつもりかもしれないが、それは死の選択を奪っているに過ぎない!」


 不死など得ても不老でもない肉体はどうなる朽ちていく死体をただ無情に眺めていろとでもいうのか。

 塵となった我が身が風に攫われていくのを、土の中で沸いた蛆に蝕まれるのを受け入れろというのか。

 ゾンビとはそういうことだ。死なないのではなく死ねないのだ。そんなものを心廻は断じて人の進化とは呼ばない。


「死骸に痛みがあると思ってる?」

「悼むことすらできないと言ってるんだ」

「────ッ、まったく君という男は………本当に記憶喪失なのかい?疑わしくなってくるよ」


 心廻の返す言葉にかつての面影を感じたのかクロエが訝しそうに質問をしてくる。

 無論、返事は一言。


「だから殺す」

「………そうだね、君の憎悪は本物だ。君の決意も、君の人生も本物さ。だが君は前提を間違えてる」


クロエは憐憫の眼差しを向けながら、ただ言葉を続ける。


「君はもう死ねない不死のゾンビだよ?」

「────」


 瞬間、自身から熱が消えた。最初は何を言っているかわからない。だが段々とクロエの言葉の意味を理解すると共に、身体から嫌な脂汗が噴き出てくる。


「心廻、ナズナは君に『神秘』の残り香が移っていると言っていたけれど…………それは違うよ。それは君自身が持つ『神秘』、私が君を殺した何よりの証」


 止まった思考とぼやけて歪む視界の中で『死霊遣い』の宣告は、残酷にもはっきりと聞こえた。



 ───全てのゾンビはすべからく殺すべきだと思うんだ。

 それは、かつて心廻自身が発した言葉であり、誓いだった。しかしその誓いは今や自分を殺す呪いとなる。呆然とする心廻、絶好のチャンスに目の前のゾンビがナイフが突き刺さった状態のまま、もう空いていや片方の手で容赦なく心廻の胸を貫いた。


「ぐ、ああああああっ!!!?」

「心廻ッ!?」


 遠くで釜無が自分を呼んだ気がしたがそれどころじゃない。視界が明滅する。動揺と激痛で頭が混乱し何も考えられない。夕焼けの差す部屋を映す瞳は視界を更に赤く、黒く染めていく。


 貫かれた胸と共に、尊厳もまた同時に砕かれた。




 ……………本当にそうか?




 信念に従えば自分も死ぬべきだ。

 ───だが「不死を許さない」。その信念はなにも奪われていない。何も変わってはいない。………、寧ろ怒りで力がみなぎる。殺すべき者に自分も加わってしまったが、今為すべきことは変わりない。


 再び熱が灯った身体で覚悟を決めた。すぐさまナイフを持つ手を確認する。刃はゾンビの片腕に未だ突き刺さったままだ。ならばもう片方の腕で胸を貫いたゾンビの腕を引き抜けないよう抑えながら無理矢理組み付く。貫かれた胸から激痛が走るが、おかげで間合いを詰められた。ここならなんとかだ。


 ちらりとクロエの方に視線を向けてみると、未だ憐憫の眼差しを向けていた。だが表情とは裏腹に、冷汗を流し存外余裕が無さそうに見えた。しかし目を離した隙に組みついたゾンビが、両腕が塞がったまま無理矢理噛みつこうと襲い掛かってくる。けれども心廻がすべきことは変わらない。苦痛に顔を歪めながらただ一振り、その手に握ったナイフを前へと押し出した。


「ッッ───!」

「なっ……!?」


 そして。ありえない事態にクロエの反応が一瞬遅れる。


 今度は心廻に絶好のチャンスが訪れた。それを見逃す理由は心廻にはない。


 そして再びナイフは閃いた。


 ────


 倒れ伏すクロエを、前に周囲に注意を払う。

 釜無の方を見ると、ゾンビの拘束を振り解いている。クロエが倒れ、ゾンビも動かなくなったらしい。


「………心廻、その穴は平気なのか?」

「えぇ、幸か不幸かゾンビの体質か、血も全然流れていませんし」

「………………そうか、なら私は他の部屋を見て回ってくる」


 そう言って心廻の無事を確認した釜無は、拘束を解き終えると奥の部屋に進んでいった。

 それを見送った心廻は、改めて目の前に倒れ伏したクロエを見つめる。ナイフの効果だろうか?自分と同じく血は流れておらず、ただ眠っている様にしか見えない。


 心廻は改めてその手に持つナイフを見つめる。釜無に渡されたそれは、物体ではなく精神を切りつけるナイフだという。本当なら切りつけた対称を物質、精神に関わらず破壊、ないしは死亡させる物らしい。……本人かまなしが弱ってる今は、物体はすり抜けて、精神は気絶させるぐらいがせいぜいらしいが。

 …………そして自分の胸の傷を確認する。完全に背中まで貫通し、腕一つ分の穴ができていた。自分がゾンビだと言われると今更応急処置をする気にもならなかった。

 人間であったら完全に助からないだろう深手を負いながら、心廻は何事もなく立っている。痛みすら治まり、今や平気な状態だった。その事実に、その『神秘』の非現実さに恐怖し体が震える。


「───心廻、件の『聖遺物』は他の部屋には見当たらかった。代わりにこんな物があったぐらいだ」


 放心してる間に邸宅内を簡単に調べ終えたのか、釜無がこちらに戻ってきた。心廻が不死だった事実を受け入れる為に、距離を置いてくれたらしい。いや、どちらか

というと放心する心廻を放っておいただけかもしれない。そうして彼女は懐から人の形をした紙、俗にいう形代と呼ばれるものを取り出す。


「こいつはほんの一部で、他の部屋に大量に保管されてあった。恐らく人と結びつけたこれの心臓を抜き出して、ゾンビにするつもりだったんだろうさ。探すとしたら後は本人だけだ」

「……そういえば、そういう話でしたね。既に別の場所で隠してる可能性とかはないんですか」


 どうやら拘束を振りほどいた後、手短に『人類神秘ゾンビ化計画』に関係する『聖遺物』を探していたらしい。


「そういえば、『聖遺物』って見てわかるんですか?」

「私は『神秘』を匂いで判別できる。一応他の部屋でも嗅いでみたが、彼女以外それらしいものは感じなかった」


 得心がいった。姿かたちがどんなものか分からなくても『神秘』に限って言えば、匂いで有るか無いかの判別はできる。思えば彼女と初めて出会った時も、ナズナの『神秘』の残り香で自分は殺されかけたのだった。

…………いや、正しくは自分自身ゾンビの『神秘』だったか。

 どちらにせよ他人に移っても嗅ぎ分けられるのなら今この場で見落とすという事は無いだろう。ならば………


「『神秘』の匂いは、心臓のある左胸が強い。…………主従関係の強化の為に生命力の核として埋め込んだのか。……心廻、やれるか?」


 釜無が指摘した箇所を見ると、服の上からでは分かりづらかったがクロエの首から下は幾重にも巻かれた包帯が覗いていた。ならばそこに件の『聖遺物』があると釜無は断言する。そしてそれは言外に彼女の処遇を訊ねていた。

 ならば答えは前から一つだ。


「やれます。……やらせてください。……家族の仇なので」

「…………そうか、心廻。……なら念の為、目覚めても動けないようにしておく。それとナズナを呼んでくる」

「ありがとうございます」


 クロエの四肢を拘束した後、程なくして釜無は警戒の為に部屋を出た。彼女なりに気を遣ってくれたのだろう。

 心廻はその配慮に内心安心する。これから行うことはきっとクロエと同じぐらいが醜いだろうから。


 ────


 目の前には気絶したクロエが仰向けに倒れている。

 貴重な『聖遺物』を壊してしまわないよう心廻は、釜無から部屋を出る前に告げた言葉を反芻しながらナイフを構える。


───心廻、『聖遺物』はその心臓に宿り隠されている。

──だが大丈夫だ、その程度のナイフじゃあ傷はつかず、弾き出されるよ。


 膝をつき慎重に衣服はそのままで胸にナイフを突き刺す。……確かに貫いた感触はない。ほとんど抵抗を感じず、刃はワンピースを裂いてはいなかった。

 しかし何故か『聖遺物』が弾かれた様子もない。

 緊張して刺しどころが悪かったのかと、焦ってナイフを動かす。だが勢い余って突き出た鍔がクロエの服の端を引っ掛けてしまった。

 ワンピースは軽くよれてしまうが、服の下から肌着の代わりに幾重にも巻かれた包帯が露わになる。しかしたった今引っ掛けたせいか、留め具が外れてしまった。

 擦れて布がズレ、隙間から肌が露わになる。反射的に少女の素肌を見てしまう罪悪感が沸くも、それはすぐに吹き飛んだ。


「───え?」


 心廻は目の前のに愕然とする。

 少女の身体は病的な白さ、……否、生物的にありえない白さとあちこちにまるで入れ墨のように黒く、黒く変色し腐敗した肌を覗かせていた。


 


 心廻が愕然したのはその肌に縫われていたであろう千切れた縫い糸だ。脆くなった縫い糸が千切れたことにより、本来塞いでいた筈の傷跡が開き始める。傷口が目一杯までひとりでに開かれていく様はとても異様に見えた。メリメリ、メリメリと超常の力で押し広げられた傷口はすぐに限界まで広がり、残った縫い糸はどんどん千切れていく。それでも止まらず無事だった肌がどんどん裂かれていく。

 『神秘』の人を慮るなんて一切しない無遠慮な狂気。恐ろしい光景に心廻は身じろぎもできず、ただじっとそれを見守る事しかできない。

 やがて傷が広がる動きは止まる。すぐ傍で見守ってた心廻は、謎の脅迫観念に駆られ、クロエの開いた傷口をのぞき見る。


「ん…」


 同時にクロエも目が覚め、微かに身じろぎしながら瞼を上げる。


「あぁ……」


 驚嘆とも悲嘆とも取れる声は、果たしてどちら発したのだろうか。

 しかし心廻は見てしまった。知ってしまった。


 希代の『死霊遣い』臓腑クロエ、その胸の中は空洞で、。『聖遺物』など見る影もない。目覚めたクロエは仰向けで虚空を見つめながら告げた。


「見てしまったんだね、心廻、私の伽藍がらん鬼哭きこくを」


 同時にナズナが釜無を伴い、心廻とクロエの目の前に現れた。この場に来たばかりな筈の少女はまるで全てを察していたかのように言葉を発した。



 少女達は同時に声を上げる。二人は全てを知っていた。

 何も知らないのは少女に囲まれ膝をついている少年ただ一人だった。


 その心は、泣きたい程悲しく、けれども空しい程晴れていた。

 全ては何も覚えていないが故に。


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