一花

瑠衣るいが好きなんだ。付き合ってほしい」

 すばるがそう言ったらしい。

 それに対して瑠衣は、「……よろしくお願いします」といつもの平坦な口調で答えたそうだ。

 二人は付き合うことになった。つまり、あたしは失恋したわけだ。

 正直、とても複雑だ。昴のことは本当に好きだったけど、瑠衣も大切な存在。

 裏切られたという理屈の通らない気持ちと、応援したいという気持ちが、せめぎあって心を圧迫している。

 でも、あたしは瑠衣を傷つけることはできない。瑠衣とあたるすずがいたからあたしは生きてこられた。

 小学五年生の時、あたしはいじめられていた。

 その内容は、他人からすれば、「大したことない」「そのくらいで不幸ぶるな」と言いたくなる程度のものでしかないのかもしれないけど、当時のあたしは本当に苦しんでいた。

 例えば、無視。例えば、良くない噂を流される。例えば、からかわれる。そして、軽い暴力。そういうありきたりなものだ。

 けど、そんなあたしにも好きな男の子ができたことがあった。小学五年生のクラス替えで初めて一緒になった、久遠大智くおんだいちという、さらさらとした髪の綺麗な顔立ちの少年だ。

 なぜ好きになったのかというと、庇ってくれたから。

 ある日、保健室──生理痛で休んでいた──から教室に戻ると、あたしの教科書やノートがぐちゃぐちゃにされてゴミ箱に捨てられていた。ご丁寧にもいちごミルクが掛けられていて──いちごミルクの紙パックも捨てられていた──教科書やノートはべっとりと濡れていた。

 呆然と立ち尽くすあたしをみんなは笑っていた。声を上げて笑うようなことはしない。くすくすとささやくような嘲笑だった。

 視界がぼやけ出し、涙が零れ落ちた。それを見て、またみんなが楽しそうに笑う。

 身体が震え、もう嫌だ、と思った時、「俺の教科書見せてやるよ」と後ろから声を掛けてきたのが大智だった。

 初めは何を言われたのか分からなかった。しかし、少しして理解が追いついた。そして、口を開く。「ダメだよ。そんなこと……」

 そんなことをしたらあなたもいじめられてしまう。そういうニュアンスを込めたつもりだった。

 しかし、大智はあたしの言葉なんて聞こえていないかのようにゴミ箱の中から教科書をつまみ上げた。「あーあ、こりゃあひでー」

 社会の教科書だった。ページはちぎられ、いちごミルクの甘ったるい匂いを漂わせている。

 下唇を強く噛んだ。やろうと言い出したのは美月みつきだろうか。愛莉あいりだろうか。

 五年一組で女子の中心になっている可愛い女の子たちを思い浮かべた。けれど、彼女たちに顔を向けることはできない。泣き顔を正面から見られたくなかったし、彼女たちが恐ろしかったのだ。

「お前ら、いい加減にしろよな!」突然、大智が声を上げた。「こんなことしてなんになるんだよ! しょーもねぇことはやめろ!」

 ああ、ダメ。大智もいじめられてしまう。

 あたしの中に絶望が広がっていく。助けようとしてくれた大智に、あたしのように苦しんでほしくなかったのだ。

 辛い現実から目を逸らしたかったのかもしれない。無意識に、ぎゅっと目を閉じていた。

 しかし、大智がいじめられるようなことはなかった。

 その日の給食の時間、美月と愛莉は媚びたような声色を時折使いながら、つまりはいつもと同じように大智と話していたし、昼休みには大智は健太けんたたち──クラスのうるさい男子たち──と楽しそうにふざけあっていた。

 あたしは胸を撫で下ろした。よかった。本当によかった、と。

 


 数日が経ち、大智が注意したあの時から直接的な暴力や嫌がらせを一度も受けていないということに気がついた。相変わらず仲間外れにはされていたけれど、それでも苦痛は減っていた。

 大智はあたしに構うようになっていた。事あるごとに話しかけられた。

 大智はほかの男子とは違って垢抜けていた。服も仕立ての良さそうなものを着ていたし、仕草の一つ一つが洗練されてもいた。彼の父親は有名国立大学から埼玉で最大シェアを誇る地方銀行に将来の役員候補として入行したエリートらしい。大智は、少し乱暴な言葉使いを除けば、〈育ちがいい〉というイメージそのままの少年で、当然のようにスクールカーストのトップだった。

 もしかしたらそのおかげで、あたしのようないじめられっ子に優しくしても許されているのかもしれない、と思っていた。

 九月の下旬、帰りの会が終わったところで大智があたしの下にやって来た。「今日、暇?」

 少し離れた席の美月と愛莉が不自然にぴくりと身体を揺らした。聞き耳を立てているようだった。

 彼女たちのほうには顔を向けず、大智だけを見るようにして答える。「暇だよ」

「よかった」と頬を軽く綻ばせた大智は、「今日、俺んちに来ない? コジロウに触らせてやるよ」と言った。

 コジロウとは大智の家で飼っているペルシャ猫の名前だ。以前、写真を見せてもらったことがある。ふさふさの白い毛がとても気持ち良さそうだった。不機嫌そうな顔も不思議な愛嬌があって可愛いと思う。

「行きたい!」あたしは二つ返事で了承した。

 大智が嬉しそうに、「来い来い」と笑った。

 美月と愛莉を盗み見る。おもしろくなさそうに、むすりとしていた。

 優越感があたしの心を愛撫する。

 あたしのことを、「キモい」と言っていじめている美月と愛莉よりもあたしのほうが上の存在であるように感じて、とても気持ち良かった。

 美月が大智のことを好きらしかったというのも快楽を強めていた。その美月には見せない優しさをあたしにだけは見せてくれていることが嬉しかった。

 あんたよりあたしのほうが可愛いってことでしょ? 大智にとってはあんたなんかよりあたしのほうが特別なんだ、と今までの鬱憤を晴らすように心の中で嘲笑ってさえいた。

 学校から直接、大智の家に向かうことになった。

 いったん家に帰ってランドセルを置いてから大智と待ち合わせて、それから彼の家に向かおうと最初は思っていたのだけど、「それだと一緒にいられる時間が減っちゃうじゃん」と言われてしまったのだ。

 どうしてそういうことをなんでもないことのように口にするのだろう。逆らえるわけないじゃん、とあたしは舞い上がっていた。

〈恋に恋する〉ではないけれど、ふわふわとしていたのは事実だった。

 小学校から二十分ほどの場所に大智の家はあった。あたしの家とは違い、大きくておしゃれな家だった。

「上がってくれ」大智が玄関扉を開けて、そう言った。

「う、うん」緊張から少しだけ声が上擦った。恥ずかしくて頬が熱くなる。「お邪魔し、ます」

「コジロウしかいないから気使わなくていいよ」

 一拍後、はたと気づいた。それって二人きりってことじゃん……、と。

 コジロウは、リビングに通されたあたしを、「なんだ、大智の友達か」とばかりに一瞥だけして瞳を閉じた。

「撫でてもいいよ」大智は、飲み物とスナック菓子をお盆に載せて持ってきながら言った。

 コジロウは眠っているように見える。触ったら怒らないかな。

 だから、「いいの?」と訊ねた。

「いいよ」大智がソファに──あたしの隣に座る。でも、一人分くらいの距離がある。「コジロウはおとなしいから」

「そうなの?」じゃあ、と立ち上がり、猫用の丸いベッドで休んでいるコジロウに近づく。

 おそるおそる手を伸ばすと、「ん? ああ。触りたいのか」という顔をあたしに向けた。「仕方ないな。少しだけだぞ」あたしの脳内ではコジロウはそう言っていた。



 たっぷりとコジロウを撫で回した後、あたしたちはビデオゲームをして遊んでいた。

 敵のキャラクターにやられてしまい、テレビ画面に『GAME OVER』と表示された。

 その時、横に座っていた大智が、「一花いちかって、好きな奴はいるのか?」と唐突に訊ねてきた。

 素朴な疑問を訊ねるときのような気取らない口調であったため、昨日食べたものを答えるような気軽さで、「いるよ。大智が好き」と言いかけてしまった。

 しかし、すんでのところで舌を制御し、「いるよ。大智は?」と返すことに成功した。

「俺が好きなのはお前だよ」大智は即答した。呼吸が止まるかと思った。「四年生の時から気になってた。可愛いなって思ってた」

 少女漫画やドラマでしか目にしたことのないセリフに顔が火照る。熱い。上手な受け答えが思いつかず、「あの、えと、あ……」と寝言のように聞き取りづらい声で言うことしかできない。

「よかったら、俺の彼女になってほしい」大智は泰然とした様子で言った。

 あまりの恥ずかしさに、プリーツスカートの端を握りしめ、うつむいてしまう。

 当時のあたしは〈付き合う〉ということが何を意味するのか漠然としかイメージできていなかった。けど、その響きはあたしの心のひだをくすぐった。心の敏感な部分が潤んでいくようだった。

 それに打算もあった。大智の彼女になればあたしのクラスでの立ち位置も変わるのではないか、と。

 そして、美月の悔しがる顔が目に浮かんだ。

「あた、しも好きっ」あたしは喘ぐように言う。「大智の彼女になりたいっ」

 大智は、「ありがと」と柔らかく笑った。



 楽しい日々だった。一緒に帰ったり、二人で映画を観に行ったり、買い物をしたり、キスしたり。

 クラスメイトの態度はどこかよそよそしいものだったけれど、聞こえるように悪口を言われることも物を捨てられることもなく、気にはならなかった。

 顔のない人形のようなクラスメイトなんてどうでもいい。大智さえいてくれれば充分。あたしはそう考えていた。

 秋が深まり始めた十月の中旬、「日曜日、家に来いよ」と大智はあたしを誘った。

 あたしに断る理由なんてあるはずがなく、「うん。行く」と反射的に答えていた。

 当日、チェック柄のキュロットスカートに白いパーカーという服装で大智の家を訪れた。

 大智の部屋に通されると、熱いカフェオレを出された。前にカフェオレが好きと言ったのを憶えていたようだった。

 それから、あたしはお喋りを始めた。

 この前こんなことがあったよ。お母さんに何々を買ってもらった。何々の漫画がおもしろい。あの配信者が可愛い──。取り留めのないことを話し続けた。

 大智は時折、相づちや質問を挟みながら聞いていた。

 三十分か一時間か、それくらいの時間が経過したころ、頭がぼんやりとしてきたことに気がついた。

「……ん」目をこする。

 初めは気のせいかと思ったけれど、脳みそがわたあめになったかのようで、思考が虫食い状になっていた。舌がもつれるような感じがして喋りにくくもなっていたし、寝ぼけているような状態だった。

「なんだか眠くなってきちゃった……」意図したわけではないけれど、甘えたような声が出た。

 大智に可愛いと思ってもらえたかな、と呑気に考えていた。

「寝てもいいよ」大智はベッドを指差す。「寝顔見せてよ」と意地悪そうに笑う。

「何言ってんだよー、ばかー」舌足らずになっていて、話すのが煩わしい。

 不意に大智があたしの手を握った。「目、しょぼしょぼしてるぞ」おいで、とあたしの手を引き、ベッドに導く。

 大智のことはすっかり信用していて、あたしに危害を加えるわけがないと考えていた。だから、寝顔を見られるのは恥ずかしかったけれど、それ以外の不安は感じていなかった。むしろ、大智のベッドで眠ることに妙な高揚さえ感じていた。

 ベッドに腰を下ろし、枕に頭を沈めると、大智の匂いに包まれた。

 どきどきと心臓が照れている。でも、人生で初めて感じる、くすぐったい安心感が心を温めている。

 また大智に手を握られた。彼の熱があたしに侵入してくるかのように感じて、それが嬉しくて、ぎゅっと握り返す。

「おやすみ。一花」と言った大智の顔に、一瞬、冷嘲れいちょうの影が差したような気がした。

 んー、眠い……。

 瞼が下りてきた。視界から光が消えた。

 

 

「──」

「──」

「──?」

「──」

 複数の声がする。誰かが会話をしているのだろうか。眠気が薄らいでいく。

 寝返りを打とうして、異変に気づき、はっとする。

 目を開くと、よく知った眼球たちがあたしを見下ろしていた。美月と愛莉、健太、それから大智。

 あたしが寝ている間に大智が呼んだのだろうか。

 訊ねようとして、目を見開く。口が開かなかったのだ。口元のひきつるような感覚とゴム臭い人工的なにおいから判断するに、ガムテープで口を塞がれているようだった。

 加えて、あたしは服を脱がされていて、全裸だった。両手首から先はガムテープでぐるぐる巻きにされていて、指を広げることも、両手を離すこともできない。咄嗟に身体を隠すように丸まる。

 訳が分からなかった。抗議の声を上げようとしても、「──っ! んんっ!?」とくぐもった音が洩れるだけだった。

「あははは! いい反応!」美月が赤い唇を歪め、綺麗に並んだ白い歯を見せて笑う。

「ね!」まるで陰湿さを感じさせない清楚さすら孕んだ声音で愛莉が言う。「ほんと、かわいそー」と大きな二重の瞳を綻ばす。

「一花って、結構エロい身体してんだな」大柄な健太が粘ついた笑い声を立てた。

「あはは! サイテー!」「きゃー、変態ー」美月と愛莉が囃し立てるように言った。

 健太の股関の辺りが盛り上がっているのが視界に入って恐怖が加速する。

 当時のあたしにもそれなりの性知識はあった。自分がこれからどうなるのかも想像できてしまった。

 身体が小刻みに震え出した。涙が滲み、零れる。鼻水が出てきて呼吸が苦しくなる。

 苦しい。助けて。怖い。助けて助けて助けて──。

 いったい誰に向かって懇願していたのか、助けてくれる人間なんてここにはいないというのに、繰り返した。誰か助けて、と。

 次の瞬間、口のガムテープが勢いよく剥がされた。大智だった。

 一瞬、大智が助けてくれたのだと愚かにも思ってしまった。すがるような目を彼に向けていた。

 大智が口を開く。「騒ぐなよ。お前の裸は撮影済みだ。名前と住所付きでネットにばらまかれたくなかったら静かにしろ。いいな?」今までに聞いたことのない、冷たく、恐ろしい声だった。

「ぁ、あっ、ぅぇ……?」混乱していて大智の言っていることがすぐには理解できなかった。

 しかし、「ほら」と美月が声を弾ませながらスマートフォンをあたしに向けてきて、強制的に理解させられた。

 画面には大きく股を広げたあたしの画像が表示されていた。眠るあたしの顔もしっかりと映っている。

 美月がスマートフォンの画面を指で擦ると、画像が切り替わった。今度は、両手を頭の上に上げるようにした状態の、顔と胸がよりはっきりと分かる画像だった。

「こんなのもあるよ」美月は楽しそうにスマートフォンを操作する。「一花ちゃんのお尻の穴ー」愛嬌たっぷりに言い放って肛門のアップ画像をあたしに見せた。「かわいーねっ!」きゃはは、と美月と愛莉の品のない嘲笑が響く。

「どうして……」あたしは放心したように力なく呟いた。

「ああ、それはな」大智が言う。「健太が『セックスしてみたい』っつったんだよ。で、俺はひらめいたわけ。一花なら丁度いいなって」

 ひどーい、と美月が妖艶に笑う。

 それに、と大智は続ける。「喜ばせてから叩き落とすとどんな顔するか見てみたかったんだ。だから、みんなでお前を騙すことにした。でも、楽しかったろ? 恋人ごっこ」

「一花ちゃん、私のことバカにして見下してたよね?」美月はあたしの目を見て言った。そして、「調子乗んなよ」と底冷えするような声を出した。「大智があんたみたいなキモいブスを好きなるわけないんだよっ」

 くすくすと愛莉が笑っている。にやにやと健太が笑っている。

 美月は大智に抱きついた。「大智は私のだから」

 大智は、その言葉を否定したり、美月の抱擁を嫌がる素振りは見せずに、ただ、笑っている。声を出さずに笑っている。

「そんな──」のあんまりだ、と続けようとしたあたしを健太が遮った。「もういいか? いいよな。ちんこがむずむずして辛いんだ」

 健太があたしの脚に手を伸ばした。

「い、嫌──」

「喋ったらダーメ」愛莉があたしの口に手をやった。「あ、でも」と透明感のある声で続ける。「世界中の人に一花ちゃんの恥ずかしいところを見てほしいなら声出してもいいよ?」

「ぁ……ぅ、ぅぅ」恐怖があたしから反抗の意思を奪っていく。「……」

「分かってくれたんだね」ありがとう、一花ちゃんいい子だね、と愛莉は花が咲くように笑った。それから、「これからは一花ちゃんは私たちの奴隷だよ。逆らったらどうなるか分かるよね?」と訊ねてきた。

 頷くことしかできなかった。

 そして、あたしは犯された。



「学校に行きたくない」「家から出たくない」と言うあたしを鈴、瑠衣、中の三人は責めなかった。

 理由を訊かれても頑なに口を閉ざして一切の説明をしていないにもかかわらず、「仕方ないわね。あなたが話したくなるまで待つわ」「分かった」「僕らは一花の味方だよ。協力できることがあったら言って」と受け入れてくれた。そして、それは両親も同じだった。

 ありがたかった。無理に聞き出そうとせずに、しかしいつもどおり一緒にいてくれた。引きこもっているあたしの話し相手になってくれた。

 たぶん、彼女たちがいなければ自殺していたと思う。

 あたしは彼女たちと両親に甘え、学校に行かない生活を二週間ぐらい続けた──事件は十月の下旬に起きた。廃業したパチンコ店で大智の遺体が発見されたのだ。

 学校から帰った鈴は、あたしの部屋を訪れ、それを教えてくれた。「他殺みたいよ」とすました顔を崩さずに言う。

「ほんとなの?」

 同級生が殺されたということをすぐには現実だと認識できなかった。殺人事件なんてテレビの中だけのファンタジーのようなものだと思っていた。人生で関わることなんてない、と。

「本当」鈴は言う。「臨時の全校集会で校長が言ってたわ」それに夕方のニュースでもやると思う、と補足した。

「……」絶句するというのとは少し違うけれど、言うべき言葉が見つからなかった。

 たしかに大智のことは憎んでいる。でも、たとえ偽りの上にある恋心だったとしても、一時は本当に好きだった人だ。殺されてよかった、嬉しいな、とはならない。

 鈴が、じっとあたしを見ていた。

 二重瞼の大きな瞳で彼女は何を見ようとしているのだろうか。ばつの悪さを感じ、視線を逃がす。

「前、久遠君と付き合ってたよね」鈴は確認するように訊ねた。

「う、うん」

「やっぱりショック?」

「そう、だね」言葉に詰まりそうになりながらも答えた。「悲しいよ」

 本当にそうだろうか。自分が口にしたことが疑わしくて、そう自問した。しかし、あたしの心は朧気な蜃気楼のようで、明確な答えを示してはくれなかった。

「そう」鈴の口調はそっけないものだった。



 夕方、ニュースを観ようとリビングに行くと、お母さんが血相を変えていた。「一花! これ観て!」とテレビを指差す。

 テレビ画面の中で、美人ではあるけど鈴ほどではない女性アナウンサーが深刻そうな顔で原稿を読み上げている。『……昨日、廃業したパチンコ店○○の建物内で久遠大智さんが遺体で発見されました。遺体は背中と下腹部を鋭利な刃物で刺されており……』

「久遠大智ってあなたのクラスの子でしょ?!」お母さんは興奮しているようだった。

 テレビに集中したまま、「うん」と頷く。

「ひゃー、怖いね」お母さんの言い方には、言葉とは裏腹にどこか牧歌的な響きがあった。「あなたも気をつけなさいよ」

「分かってるよ」

 女性アナウンサーは、『警察によると』と前置きし、言う。『大智さんが行方不明になる直前の、二十六日の二十一時ごろ、県道△号□□線沿いの道で同年代らしき男子児童といるところが目撃されているそうです。二人は自転車に乗り……』

 男子児童? 誰だろう。知ってる子かな。

 あたしは同級生の顔を順に思い浮かべる。そして、顔をしかめた。忘れようとしていた健太の気持ち良さそうな顔が甦ってきたからだ。

 その様子を見たお母さんは、「あなた……」と憐れむような表情を浮かべた。「この大智って子のこと──」

「違うから!」斜め上から核心をつかれ、つい強く否定してしまった。

「……」短い沈黙の後、お母さんは、「変なこと言ってごめんなさい」と弱々しく眉をひそめた。

 あーもうっ! めんどくさいなー!



 十一月に入り、久しぶりに学校に行った。教室の引き戸を開けると、複数の視線があたしを突き刺した。

 その中には美月のものもあった。教室の入り口で立ち止まったまま見つめ合うも、すぐに彼女は視線を逸らした。

 変なの、と胸の中で呟く。

 美月の瞳の奥に怯えの光があったような気がしたからだ。

 もしかして、と思い至ったことがあって、愛莉を、次いで健太を見る。すると、二人からも似たような反応が返ってきた。

 あたしは確信した。美月たちはあたしが大智を殺したと考えている、と。

 でも、それじゃあ男子児童と一緒にいたという目撃情報と矛盾するんじゃない? やっぱり美月たち変。

 しかし、そこで思考をやめ、あたしは自分の席に向かった。

 当時のあたしにはよく分かっていなかったけれど、たぶん、強姦の共犯者が殺されたという事実を目の当たりにしたことで、彼女たちの中に僅かにあった罪悪感が、自分たちも復讐されるかもしれないという合理性のない強迫観念じみた不安を肥大化させていたのだと思う。

 少しだけ大人になった今なら、人間という生き物がしばしば理屈に合わない感情を抱くことがあると知っている。悪ぶっていても美月たちも所詮はただの人間にすぎなかったということだろう。

 

 

 大智を殺した犯人が捕まらないまま時は過ぎ、あたしは小学校を卒業した。

 そして、地元の公立中学校に進学した。

 とはいっても、小学校のメンバーがそのまま進学しただけなので、セーラー服を着るようになったということを除けば、環境的には大きな変化はなかった。

 転機が訪れたのは、中学二年生に進級した時だった。転校生が来たのだ。

 転校生は望月晴もちづきはるという名の、中学生の男子にしてはやや長めの髪の少年だった。

 あたしは晴に恋をした。気づけば目が彼を追っていた。会話を交わすだけで自然と笑みが溢れていた。

 周りの目にも一目瞭然だったようで、「一花、分かりやすいよね」と鈴は言い、「本当にね」と中は優しい苦笑いを浮かべていた。

 晴とはいい雰囲気だったと思う。

 けれど、あたしは告白することができなかった。大智のことがあったから、恋人になったらまたひどい目に遭わされるんじゃないかという不安が心にこびり付いていて、付き合うということに抵抗があったのだ。

 友人の距離からいっこうに近づこうとしないあたしを見て脈がないと判断したのか、はたまた元々そういう目であたしを見ていなかったのか、三年生になった晴はほかのクラスの子と付き合いはじめた。

 ホッとしたような、悔しいような、切ないような、複雑な気持ちだった。

「よかったの?」ある日、中はあたしに訊いた。「後悔してない?」

「……してないよ」と答えると、胸が軋み、甘い痛みを感じた。

 この時、あたしが思ったのは、馬鹿馬鹿しいな、ということだった。

 大智みたいなくずはめったにいないのに、その幻影に怯えて好きな人に「好き」と言えないなんて虚しすぎる。悲しすぎる。

 そして、次に好きな人ができたときには不安があってももっと積極的に動こうと決めた。

 そう思えたのは──前向きになれたのは、中と瑠衣、鈴がいたからだ。万が一辛い目に遭っても、彼女たちは味方でいてくれると信じられた。

 あたしは彼女たちに感謝している。もしかしたら依存しているのかもしれない。

 あたしは瑠衣と昴を応援しなければいけない。

 心中、複雑ではあるけれど、あたしがうじうじとした暗い表情をしていたら二人は気持ち良く付き合えないだろう。

 だから、笑おう。いつもみたいに。



 野球部の練習が終わって玲瓏れいろう高校の校門を出たところでスマートフォンが鳴った。

 メッセージが来たようだった。通話よりもメッセージ機能のほうがよく使われる通話アプリを立ち上げる。

 麻央まおから、『週末、暇?』『暇ならカラオケ行こうよ』『叶音かのんは来るって』と送られてきていた。

 麻央と叶音とは、バンド好きの女子高生に絶大な人気を誇る地元のインディーズロックバンドのライブで知り合った。

 ライブハウスという特殊な空間のおかげか、すぐに意気投合したあたしたちは連絡先を交換し、友達になった。

 彼女たちとはたまに遊んでいる。麻央は県内トップの進学校に通っていて忙しいから頻繁には会えないけれど、交友は春から続いている。

 失恋ソングを歌うのもいいかもしれないと思ったあたしは、『行きたい!』と返信した。慌てて、『日曜日でいい? 今週の土曜日はダメで』と付け足す。

 すぐに、『もちろんいいよ』と返ってきた。

 というわけで、日曜日は遊びに行くことになった。

 さぁて、何を歌おうかな。



 う、上手いっ……!

 と麻央と叶音の歌声に戦慄したのは数箇月前のことで、今となっては、「わー!」と謎のテンションでタンバリンをガシャガシャするのもお手の物だ。

「ふー」と息をついた麻央はマイクを置き、「ちょっと休憩ー」と言ってストローに口を付けた。刺激的な黒い液体が彼女の口内に吸い上げられる。「ぷはー」

「でも、珍しいね」次の歌の演奏を一時停止した叶音が麻央に言う。「あんた、洋楽嫌いじゃなかったっけ?」

 それはあたしも思っていた。普段、麻央は邦ロックばかりを歌っている。なのに今日はバラード調の洋楽が多い。

「実はね」と麻央はそう訊かれるのを待ってましたとばかりに話し出した。「好きな人ができたんだ。うちの学校の一個下の後輩なんだけど、その子が洋楽が好きらしくて」

「おー」「おー」あたしと叶音の声が重なった。

「それで頑張って洋楽の練習をして、そこそこ歌えるようになったから、まずはうちらに聴かせてみようって思ったわけね」うちらはパイロットフィッシュかよ、と叶音はツッコミを入れた。

「どんな子なの?」写真とかないの? とあたしが詰め寄ると、麻央は、高校生が持つには値が張りすぎるハイブランドのバッグへと手を入れ、スマートフォンを取り出した。

「この子」麻央のスマートフォンには中性的な、ちょっとメイクすればそこら辺の女性芸能人よりも可愛くなりそうな美少年が表示されていた。「さく君っていうんだけど、めちゃくちゃかっこよくない?」

「うん。かっこいい。麻央、すんごい面食いだね」

 あたしが言うと、麻央はやや不満げな表情を見せた。「バカ! 一花は全然分かってない! 朔君はかっこいいだけじゃないの。勉強もできるし、優しいし、頼りになるし──」

「はいはい、分かった分かった」叶音が呆れたように言って、コップを手に取った。ストローを使わず、コップに口を付けて飲む。彼女の左手首にある有名ブランドの腕時計──今年の新作らしい──が電灯の光を反射して煌めいた。

 麻央も叶音もファッションにお金を掛けられて羨ましいよ、と言ったことがある。すると彼女たちは、「親がそこそこお金を持ってるから」と同音を奏でた。

 世の中にはいろんな親いるんだなぁ、と実感する。あたしのお母さんやお父さんに、「ハイブランドのコートが欲しい」と頼んでみても、「何バカなこと言ってるのよ」「自分でお金を貯めて買ってくれ」と言われるのが落ちだ。別に不満ではないけれど。

 麻央はまだ喋りたそうにしている。聞いてあげないとかわいそうなので、「朔君とはどんな感じなの?」と話しやすいようにしてあげた。

 麻央は水を得た魚のように喋り出した。

 一段落したところで、「ベタぼれじゃん。付き合ったらバカップルまっしぐらなんじゃねぇ?」と叶音は感想を述べた。それから、「そういえば一昨日さ、高校のトイレで盛ってるバカップルに遭遇したんだよ」と興味深い情報を口にした。

「え、何、学校でヤってたの?」あたしたちの中で一番清楚な見た目をしている麻央の口から一番明け透けな言葉が出た。

「そうそう」と叶音は頷き、「トイレに入ったら、『あ、あ、あっ、だめ……、んっ、ん……』って聞こえてきて、ぎょっとしたよ」とハイクオリティな喘ぎ声を披露してきた。

「ほーっ!」と発するあたしと、「ひゃー!」と発する麻央の表情はどちらもにやけている。

 そして、あたしの失恋話を聞いてもらったり、叶音の悲惨な点数のテストの話に笑ったりしていると、電話が鳴った。壁の時計を見ると、終了時間が迫っていた。

 店を出てから気づいた。あたし五曲しか歌ってないや、と。

 まっ、いっか。

 


 翌週の土曜日、部活もなく特に予定がなかったので駅前をぶらついてちょっとした小物を買ったあたしは、秋晴れの太陽の下、家路に就いていた。

 気まぐれにいつもは使わない道を選び、住宅街を進んでいると、子供特有の甲高い声が聞こえてきた。

 発生源はすぐに判明した。少し歩いた先に大きな住宅があり、そこの庭で幼稚園児ぐらいの子供たち三人が遊んでいたのだ。

 足を止める。家を囲む塀──門扉の横には〈ファミリーホーム こもれび〉という表札があり、更にその横には〈補助者及びアルバイト急募〉という表題の張り紙がある。

 ファミリーホーム?

 あたしは耳慣れない単語に首を傾げた。

 あの子供たちは兄弟姉妹じゃないのかな? 

 よく見ると、たしかに子供たちの顔は似ていない。

 じゃあ、ここは孤児院?

 現代日本に孤児院という呼称の施設はないような気がするけれど、おそらくそんな感じの場所なのだろうと思った。

 こういうのもあるんだな、と社会の光と影を知った気になったあたしは、再び歩き出そうとし、「興味がおありですか?」と声を掛けられた。

 振り返ると、五十代くらいのエプロン姿の女性が立っていた。保育士とお母さんを足してニで割ったような雰囲気のその女性は、「よかったら中でお話ししませんか?」と微笑んだ。

「いえ、あたしはそういうんじゃなくて──」

「まぁまぁそう言わずに」女性はなだめるように言った。「少しだけお時間を頂けませんか?」

 張り紙にある〈急募〉の文言に嘘はないのだろう。慇懃いんぎんな口調の割に強引だ。

「……」あたしは無言で子供たちを見やった。小さなブランコに乗って一生懸命に足を揺らしている。

 別に子供は嫌いではない。小さくて可愛いとも思う。けど、深く関わったことはない。孤児院の職員の真似事なんてできるとは思えない。

 女性はあたしの内心を見透かしたように、「そんなに難しく考えなくても大丈夫ですよ。子供たちと一緒に遊んでもらえればそれだけでも充分助かります。毎日じゃなくても大丈夫ですし」と言った。

 かなり都合のいい話に少しだけ心が揺らぐ。

 アルバイトをすればお金が入るわけで、そうすると麻央や叶音のようにいいものを身に着けられる。今日だって、いいな、と思う服やアクセサリーはいくつもあった。でも、お小遣いには限りがあるから諦めざるを得なかった。

 とりあえず話を聞いてみようかな。そう思い、「分かりました」と不慣れな敬語を口にした。

 


「ファミリーホームというのは、ちょっと規模の大きな里親制度のようなものです」女性──飯塚恵子いいづかけいこと名乗った──は、ファミリーホームをそう説明した。

 そもそも里親というものが漠然としか分からない。「はぁ、里親ですか」とあたしはピンと来ていないことを示すように小さな声で言った。 

「実の親に問題のある子を預かって第二の家族として一緒に暮らす場所と言ったら分かりやすいかしら?」飯塚さんは優しげな声音で自身の説明を噛み砕いた。

「問題?」と聞き返してしまった後に敬語が崩れていることに気づき、急いで、「ですか?」と言い足した。

 微笑ましいものを見るように目を細めた飯塚さんは、「そう」と頷いた。「虐待とか病気とかが原因で実の親と暮らせなくなった子たちを預かるの」

 ああ、なるほど、と納得した。そして、「あたし、年下の子のお世話をしたことなんてないですし、そういう子と関わったこともないんですけど、大丈夫ですか?」と訊ねた。

「大丈夫よ」飯塚さんは断言した。「配慮が必要なこともあるけれど、基本的には特別扱いはいらない。難しく考えないで近所の子と遊んであげるような気持ちで接してもらえればいいわ」

「そんなもんですか」

「そんなもんです」数秒後、飯塚さんは視線を下げた。「もちろん、無理にとは言わない」しかし、すぐに視線を上げ、あたしの目を見て、「でも、最近、補助者の方とバイトの子が急に辞めちゃって猫の手も借りたいくらいなのよ。短時間だけでもいいからお手伝いしてもらえるととっても助かるわ」と続けた。

 あたしは猫だったのか、とくだらないことを考えつつ、「勤務時間なんですけど」と切り出した。「あたし、野球部のマネージャーやってて平日は忙しいんです。それに週末も毎回来られるわけじゃないです」

 我ながらこの条件で雇ってくださいとお願いするのは無理があると思う。

「まぁ!」飯塚さんは口に手を当てた。「野球部のマネージャーさんだったの!」青春ねー、いいわねー、と楽しそうに笑う。

「やっぱりこの条件じゃ難しいですよね」

 元からそれほど期待はしていなかった。断られること前提で確認したつもりだったのだけど、飯塚さんは、「それでもいいわよ」と平然と口にした。

「え、いいの?」驚きの声を発した。

「ええ。たしかに毎日来てくれるほうがありがたいけれど、仮に週一だったとしても私の負担が減るのは事実だし、不満はないわ。それに何より、若い人が遊んでくれると子供たちが喜ぶのよ」

「……」少し考えて、あたしは頷いた。



 お父さんとお母さんに許可を貰ったあたしは、日曜日の午前にこもれびを訪れた。飯塚さんは笑顔であたしを迎え入れてくれた。

「みんなに紹介したい」と言うので、飯塚さんに従い、リビングに入る。

 広いリビングには五人の子供たちと四十代ぐらいの女性がいた。

 ソファに座ってテレビを観ている小学校高学年ぐらいの少年、その隣で携帯ゲーム機で遊んでいる小学校低学年ぐらいの少女、部屋の床に直接座ってブロックで何かを作っている幼稚園児ぐらいの少年、小さな身体をテーブルに乗り上げるようにして絵を描いている幼稚園児ぐらいの少女、その様子をじっと見つめる幼稚園児ぐらいの少女。そして、テーブルに頬杖を突いて彼女たちを見守る女性。

「はーい、みんな注目!」飯塚さんが溌剌はつらつとした声を発した。

 子供たちが一斉にこちらを見る。彼女たちの瞳には、好奇心と無関心が共存しているような複雑な色彩が浮かんでいるように見える。

「たまに遊びに来てくれることになった水雲みずも一花さんです」と飯塚さんが言ったのに合わせて軽く会釈しておく。挨拶をお願い、と目で促されたので、「はじめまして。水雲一花です。いろいろと分からないことだらけですが、頑張るのでよろしくお願いします」とさっき考えた挨拶を口にした。

 子供たちの反応はない。様子見をしているようだ。

「それじゃあ、今度はみんなのことを教えてあげて」飯塚さんは子供たちに向かって言った。

 子供たちが顔を見合せた。一、二秒後、テレビを観ていた一番年長の少年がこちらを向き、口を開いた。「平野蓮ひらのれん。小六」

 反抗期を先取りしているかのようなぶっきらぼうな口調に若干たじろぎつつ、「よろしくね」と応える。

 次はソファでゲームをしていた少女だった。「高橋柚葉たかはしゆずはです。小学三年生です。よろしくお願いします」

 見た目の幼さに反したしっかりした挨拶に若干ひるみつつ、「うん。仲良くしてね」と返す。

 ほとんど間髪を入れずに、「ねぇねぇ」と手を引かれた。絵を描いていた少女があたしを上目遣いに見上げている。

「なぁに?」と努めて優しい声を出す。その響きが幼稚園の先生みたいに聞こえて、案外いけるかも、と調子に乗ってみる。

「お姉ちゃん、彼氏いる?」

 タイムリーに傷を抉る質問に、「はぁ?」と険のある声が出た。これは幼稚園の先生というよりヤンキーっぽいかもしれない。やっぱり無理かも、と心が転調する。

「はるま君、描いて」少女は女子児童向けの漫画をあたしに見せるように開いた。

 漫画の中では、謎のキラキラをバックに美少年と美少女が手を繋いでいる。

 この子をあたしに描けと?

 絵心なんてないので、だいぶ尻込みしつつ、「わ、分かった。任せて!」と絞り出した。

 次はどの子だ? と残りの子供たちを見やると、ブロックで遊んでいた少年は一瞬で目を逸らし、絵を描いている様子を眺めていた少女は逸らさずにじっとあたしの目を見つめてきた。二人には何かを喋ろうという気はなさそうだ。

「補助者の浜口はまぐちです」見守っていた女性が、余所行きらしき愛想のある声で、そう名乗った。「水雲さんは高校生なのよね?」

「はい。玲瓏高校に通ってます」

「玲瓏高校というと……」浜口さんは話を広げようとしているようだったが、彼女が会話の糸口を見つけるよりも先に、「玲瓏といったら高校野球でしょ? 一花さんはそこのマネージャーさんですものね。すごいわぁ」と飯塚さんが自身のほうへ糸を手繰たぐり寄せた。「やっぱり練習はハードなの?」

「練習量はほかのとこより多いみたいです」

「はぁー、大変ねー」飯塚さんは感心したように言った。

「ねぇねぇ」焦れたような声があたしを呼んだ。「早く描いて」まだ名前を知らない少女は少しだけ眉間に皺を作っていた。



 昼食──あたしも料理を手伝った──を食べ終えた子供たちは、幼稚園トリオのお昼寝組と小学生コンビのお昼寝しない組に分かれた。

 あたしはというと、二階の子供部屋で蓮君の勉強を見てあげていた。完全にミスキャストである。

「自慢じゃないですが、あたしは勉強が苦手です。特に数学が全然できません」と主張したものの、「現役高校生なら私たちよりはできるでしょう?」「玲瓏って偏差値悪くなかったわよね?」「勉強といっても小学生のだし、この前まで小学生だった一花さんなら雰囲気も分かるでしょう?」と言われて押し切られてしまった。鈴、助けて。

「これ、分かんない」算数の宿題を解いていた蓮君が淡白な口調で言った。びくりとした。

「ど、どれ?」おそるおそる覗き込む。

 平面図形の問題らしかった。正方形の内部に三角形があり、辺の長さの大半が伏せられている。この状態から正方形の面積を求めなさいという問題だ。

 冷や汗が滲む。

 全然分かんないんだけど? あたしが小学生の時はこんなのやらなかった。もっと素直な、補助線ぴーん! 公式どーん! 解答ばーん! みたいな問題ばかりだったはずだ。

「解答と解説はないのかな?」すがるような思いで訊ねた。

「あったらわざわざ訊くわけないでしょ」蓮君は小バカにするように言った。

「そ、そうだよね」

 やべぇ、どうしよう。問題をにらみつけても答えは降ってこない。

 現実逃避するように窓の外に視線を向ける。空は晴れ渡っていた。いい天気だなぁ。

「分からないなら──」

 蓮君が何かを言いかけるも、こもれびの前の道路に見覚えのある人物──叶音を見つけて、「あれ?」と遮るように声を発した。

 叶音はこの前のあたしのように立ち止まってこもれびを見ている。

「何?」蓮君は怪訝そうな表情を浮かべた。

「ううん。ちょっと友達を見つけちゃって」

「ふーん。あっそ」蓮君は問題に視線を戻し、「それよりこの問題の解き方は?」と催促してきた。

「え」えーと、それはぁ……。「ごめん! まったく分かんない!」

「……そうっすか。じゃあいいや」蓮君はそれだけ言って、また口を閉ざし、ほかの問題を解き始めた。

 鈴か麻央に訊いてみようかな。あの二人ならきっと解けるでしょ。

 スマートフォンを手に取り、ふと気になって窓の外に視線をやると、すでに叶音はいなくなっていた。

 なんだったのだろう? 叶音もこういうのに興味があるのかな? 



 こもれびでバイトを始めてひと月が過ぎた。意外にも順調にこなせていて、自分の隠れた才能を発見した気分になっていた。

 そんなあたしにメッセージが届いた。『柚葉ちゃんが帰ってこないの。一花さんは何か知らない?』飯塚さんからだった。

 どういうことだろうか。

 部活の途中だったけれど、部室に引っ込み、電話を掛ける。飯塚さんはすぐに出た。

「もしもし、一花です」

『今、学校よね? ごめんなさいね。でも、私、心配で……』飯塚さんは力なく言った。

「いいんですけど、でも、帰ってこないってどういうことですか? 家出でもしたんですか?」

『違うの。学校を出てから行方知れずなのよ。いつもならとっくに帰ってきてる時間なのに』飯塚さんの声からは焦燥と疲弊が窺える。『事件に巻き込まれたんじゃないかと思うと心配で心配で』

 部室にある時計を確認する。十九時四十五分を示していた。

 まだ一日も経っていないから無断で遊び歩いているだけという可能性もあるけれど、小学三年生という年齢と柚葉ちゃんのまじめな性格を考えると違和感が拭えない。

 事件かもしれない、と思考する。「……警察には話したんですか?」捜索願というものがあったはずだ。

『いえ、まだよ。でも、八時になっても帰ってこなかったら電話するつもり』

「そのほうがいいですね」

 それから幾つかの言葉を交わし、デジタル式の時計が十九時五十五分を表示した時、『警察に電話してみるわ。部活中なのにありがとね』と飯塚さんは言った。

「分かりました。あたしも何かに気づいたらすぐにお知らせしますね」

 通話を終える。いったい何が起きているのだろうか。

 


 柚葉ちゃんがいなくなってから三日が経った。土曜日、いつものように朝にこもれびを訪れると、飯塚さんはいつもとは違い、暗い表情を浮かべていた。

「おはようございます」形だけの挨拶を済ませ、早速、「警察の人から連絡はありましたか?」と訊ねた。

「向こうから連絡がないからこちらから電話を掛けてみたのだけど、目撃情報がないらしくて全然見つけられないみたいなのよ」飯塚さんの目の下には隈がある。心配で眠れていないのだろう。

「警察って、偉そうにしてる割には使えないですね」大智の事件も未解決のままだし、警察というのは無能なのかもしれない。

「はぁ」と飯塚さんは大きなため息をつき、「警察が頼りにならないんじゃ、私たちはいったいどうすれば……」とうつむいた。

「実はちょっと気になることがあるんです」

 あたしの言葉に飯塚さんは顔を上げた。「気になること?」

「それでお願いがあるんですけど──」

「何? なんでも言ってちょうだい!」飯塚さんは藁にもすがるといった様子で言った。

「柚葉ちゃんの両親の情報をできるだけ詳しく教えてください」



 飯塚さんは預かっている子供たちの個人情報をアプリケーションソフトウェアのワードでまとめていた。

 そこにはあたしの予想を裏付けるものがあった。

『〈高橋柚葉〉父・不明。母・高橋叶音』と記されていたのだ。

「やっぱり!」あたしは声を上げた。

 叶音の名字は知らなかったけど、彼女の二十八歳という年齢を考えると、柚葉ちゃんくらいの子供がいても不思議ではない。つまり、あたしは叶音が自分の子供である柚葉ちゃんを連れ去ったのではないか、と考えているということだ。実の母親による連れ去りだとしたら、声を上げるといった抵抗も基本的にはしないだろうからスムーズにいくだろう──目撃情報がないこととも矛盾しない。

「何か分かったの?」

 飯塚さんに問われたが、まずは情報の整理と確認が先だ。「『高橋叶音は、覚醒剤の使用及び営利目的の譲渡で懲役二年六箇月の実刑判決を下され、それに伴い親権喪失の審判を受けた』とありますけど、これは間違いないですか?」

「ええ。今年の二月に出所したらしいわ」飯塚さんはよどみなく答えた。

 懲役云々については初耳だったけど、二月に出所したのならあたしと出会った時期との矛盾もない。ワードファイルに記録された生年月日もあたしの知る叶音の年齢と一致する。それに、彼女の世代で叶音という名前は少し珍しいように思う。

 つまり、同名の別人である可能性は低いと言える。

 ダメ押しにもう一つ確認。「かの──柚葉ちゃんのお母さんの仕事って分かりますか?」

「服役中に調理師免許を取ったらしくて、私立わたくしりつの高校の食堂で働いていたはずよ」彼女の母校だそうよ、と付け足した。

「その高校って、白砂はくしゃ高校ですか?」

「あら」飯塚さんはあたしをまじまじと見つめた。「どうして知ってるの?」

 本人から聞きました! と言うメリットはなさそうなので、「ここから近くてやんちゃな子に寛容な私立ってなると白砂かなって思ったんです」で押し通す。

 ちょっと厳しいかな、と思ったけど、飯塚さんは、「流石は強豪チームのマネージャーさんねぇ」と意味不明な納得の仕方をしてくれた。大丈夫かこの人?

 飯塚さんの天然っぷりは差し置くとして、あとは動機と背景をはっきりさせたい。

 といっても、親権を失った母親が子供を連れ去る理由として考えられるものはそんなに多くないと思う。〈子供に会いたいから〉とか〈子供と長く一緒にいたいから〉といった感じじゃないかな──ん? あれ? 

 親権のない親って子供に会えないんだっけ? 面会とかできないの?

「あのぅ」飯塚さんの瞳を見る。「柚葉ちゃんのお母さんは面会には来てなかったんですか?」

「面会したいっていう話はしていたわ」飯塚さんは、「でも」と眉をひそめた。「彼女、お薬だけじゃなくて虐待もしていた疑いがあるのよ。裁判では虐待に関しては認められなかったみたいだけど、私は怪しいと思ってる。男の影響で覚醒剤をやるような女がまともな子育てをしていたとは、とてもじゃないけど思えないわ。だいたい、父親が誰か分からないっていうのもおかしいし」だから、と鼻の穴を膨らませた。「柚葉ちゃんのために未成年後見人として面会はお断りさせていただいたわ」

 あちゃー、と心の中で額を押さえた。

「一花さんはこの女を疑ってるの?」飯塚さんが訊ねた。

 叶音のことは友達だと思っている。その想いが──友達を疑う後ろめたさが、「ええ。まぁそんな感じです」とあたしに煮え切らない答え方をさせた。

「気持ちは分かるけど、この女のことは警察も調べてるはずよ。普通、親のところにも話を聞きに行くでしょ? それでも見つからないのなら違うんじゃないかしら」

 それは尤もな意見に思える。でも、あたしは飯塚さんの知らない情報を持っている。それを併せて考えると推測できることがある。

 ワードファイルには、『祖父母は他界している』ともある。

 柚葉ちゃんが祖父母の家で暮らさずにファミリーホームにいるということは、そういうことなのかなと思ってはいた。

 つまり、叶音が前に話していた、「親がそこそこお金を持ってるから」高価な時計などのブランド品を多数所有しているという話は嘘ということになる。

「柚葉ちゃんのお母さんの資産状況は分かりますか?」考えられるパターンを限定するために質問を重ねる。

「覚醒剤を買うお金がなくて売人の彼氏の手伝いをしていたくらいだし、逮捕された時はほとんどお金を持っていなかったはずよ。出所したからといってその状況がすぐに改善するとは思えないわ。でも、一応真っ当に働いているようだし、慎ましく生活する分には問題はないんじゃないかしら?」

「ご両親の遺産や保険金はなかったんですか?」

「うーん」飯塚さんは思案顔を見せた。「詳しくは知らないけれど、柚葉ちゃんの祖父母が亡くなったのはこの女が逮捕される前だったわけだし、仮に遺産とかを受け取っていたとしても使い切っていたんじゃないかしら。覚醒剤を売ってお金を集めていたのだから、そういうふうに考えるのが自然だと思うわ」

 それなら叶音はどうやってブランド品を手に入れたのかという疑問が生まれるけど、刑務所を出てすぐの、高収入に繋がる特別な技術を持たない女性が、高価な物──大金を得る方法は限られているだろうから考えられる現実的な真相のパターンは少ない。

 要するに、身体を売るか、お金を持っている男と付き合うか、犯罪に手を出すかの三択のはず。

 この中で子供と会いたいという動機を元にした誘拐と相性がいいのは、〈お金を持っている男と付き合う〉だろう。もしかしたら〈身体を売る〉と両立しているかもしれない──嘘をついて隠したことを考慮すると、例えばデリヘルをやっていて仲良くなったお客さんと付き合い出したというパターンかもしれない。

 あたしの推理はこうだ。

 出所して仕事を見つけた叶音は、柚葉ちゃんと面会を重ねて信用を回復させ、いずれはまた一緒に暮らしたいと考えていた。しかし、飯塚さんに面会を断られてしまったことで、正攻法では会うことすらままならないと思ってしまった。

 けど、どうしても柚葉ちゃんに会いたい。

 そこで、付き合っている男性に協力してもらい、柚葉ちゃんを連れ去ることにした。つまり、柚葉ちゃんはその男性の家に軟禁されているのではないか、ということだ。

 叶音の彼氏さんの心情的にも、恋人が子供に会うのに協力するだけならば、例えば身代金やイタズラ目的の誘拐と軟禁に比べて抵抗は少ないはずだ。軽い気持ちで協力していてもそんなに不思議ではない。

 この推理、なかなかいい線いってるんじゃないかな、と思っているのだけど、これをそのまま飯塚さんに伝えると、即、警察に話すだろう。そうすると警察はもっと本格的に叶音を調べるかもしれない。

 あたしとしては、それは避けたいと思っている。〈叶音が自主的に柚葉ちゃんを返しに来た〉という形にしたいのだ。そちらのほうが穏便に済むはず。

 なので、「柚葉ちゃんのお母さんが怪しいと思ったんですけど、よく考えるとそんなことはなかったです。勘違いで時間を取らせてごめんなさい」と嘘をつく。

「いいのよ、一花さん。柚葉ちゃんのためにいろいろ考えてくれたんだものね」飯塚さんは影のある微笑を浮かべて優しい声音で言った。

 ちくりと罪悪感が心を刺した。痛みを感じると同時に、「ごめんなさい」という言葉が零れ落ちた。



「もう少し調べてみたいので、今日のバイトはお休みさせてください」と言ってこもれびを出たあたしは、近くにある公園にやって来た。

 早速、『今、話せない?』『急ぎの相談がある』と叶音にメッセージを送った。

 数分後、『いいよ』と返ってきたので、電話を掛ける。

 すぐにスマートフォンから叶音の声が聞こえた。『どした?』

「急にごめんね」と言う。そして、言葉に詰まる。

 柚葉ちゃんのこと連れ去ったでしょ?! と詰問することはしたくない。けど、どう切り出せばいいんだろうか。

『大丈夫か?』叶音は心配そうな声を洩らした。『何があった?』

 優しいなぁ、と思う。

 仮に叶音が真犯人だったとしてもきっと分かってくれるはずだ。真犯人でなかったとしたら不快な気持ちにさせてしまうだろうけど、叶音ならば最終的には許してくれるだろう。

 あたしは覚悟を決めて口を開いた。「相談っていうのは柚葉ちゃんのこと」

『っ!』息を飲む気配が耳をくすぐった。

「実はあたし、こもれびっていうファミリーホームでバイトしてるんだ」

『……』叶音は応えない。

「叶音、昔、いろいろあったんだね」

『……』

「飯塚さん、ひどいよね。少しくらい会わせてくれてもいいのにね」

『……』

「叶音は前にさ、『彼氏いない』って言ってたけど、本当は違うんじゃないかってあたしは思ってる」だってあなた美人なんだもん、と。

『……』

「柚葉ちゃん、いなくなっちゃったんだ。こもれびの子供たちもみんな心配してる」

『……』

「ねぇ、叶音」すぅ、と大きく息を吸い、吐く。そして、言う。「柚葉ちゃんがどこに行ったか知らない?」

『……分からない』

「……そっか」

『一花の……、一花の考えを教えてくれ。柚葉はどこにいると思う?』その言い方は問いかけるというよりも、懺悔しているように聞こえた。

「叶音の彼氏の家とか?」

『……』

「……」

『……はぁ』叶音は疲れたように、観念したように息を吐いた。『そうだよ。柚葉は今、洋平ようへいの家にいる』あ、洋平ってのはうちの彼氏ね、と言い足した。

「柚葉ちゃん元気?」

『元気だよ』

「それはよかった」

『なぁ』

「何?」

『うち、どうすればいいのかな。つい連れてきちゃったけど、ずっと洋平の家に閉じ込めとくわけにもいかないし、学校にも行かせないといけないし』

「素直に謝るしかないんじゃない? 今回の場合、監禁罪と略取・誘拐罪が成立するかもしれないんだけど、監禁罪はともかく、特に変なことしてないただの未成年者の拐取かいしゅは親告罪なんだって」さっき鈴に教えてもらったことを伝える。

『親告罪? 何それ』

「被害者とかが警察に『犯人を捕まえて!』ってお願いしない限り起訴されない犯罪」

『じゃあ、柚葉が何も言わなけりゃ大事おおごとにはならないってことか?』

「ううん。柚葉ちゃんだけじゃなくて柚葉ちゃんの保護者の飯塚さんにも許してもらう必要がある」

『あー、そりゃあそうか』叶音の声が曇る。『厳しそうだな……』

「ただ、許してもらえさえすれば連れ去ったことについては罪に問われなくて済む」

『連れ去ったことについては、か』

「監禁については警察と司法の判断次第だけど、でも、それは仕方ないよ」

『うん……』呟くような相づちだ。

「あたしも一緒に行ってあげるからそろそろ柚葉ちゃんを帰してあげようよ」

『……そうだな。そうだよな』叶音は自分に言い聞かせるように繰り返した。『分かった。柚葉に訊いてみる』

 柚葉に訊いてみる? 

 その言い回しに違和感を覚えた。それではまるで柚葉ちゃんが帰りたがっていないようではないか。

「もしかして柚葉ちゃん、『帰りたくない』って言ってるの?」

『はっきりとそう言ってるわけじゃないけど、〈帰りたい〉とは言ってない』

「それってさ──」柚葉ちゃんが叶音に気を遣ってるんじゃないの?

『分かってるよ』叶音はあたしの言葉を遮った。『たぶん、柚葉はうちのためにおとなしく洋平の家にいてくれてんだ』子供に甘える親ってダサいよなぁ、とため息をついた。

「うーん」

 叶音とあたしが柚葉ちゃんを連れて飯塚さんの下に謝りに行った場合どうなるかを考えてみる。

 間違いなく飯塚さんは怒るよね。叶音のことを嫌っているようだし、容赦なく警察に通報するかもしれない。

 でも、叶音の話を併せて考えると柚葉ちゃんはそれを止めそうな気がする。かなり大人びた子だし、穏便に済ませようとして庇うのではないだろうか。叶音を嫌ってもいないようだし。

 それに、この場合って監禁と言えるのか? あんまり監禁って感じがしない気がする。

 黙り込んだあたしに、『どうした?』と叶音が訊ねた。

「なんとなく大丈夫じゃないかなって思っただけ」

『そうかな……』叶音は不安そうに小さな声を洩らした。

 あまり無責任なことは言いたくないけれど、それでもあたしは、「うん」と答えた。



「柚葉ちゃん!」柚葉ちゃんを見た飯塚さんは、悲鳴じみた声を上げた。次いで、叶音をキッと睨む。「どういうこと!? あなたが柚葉ちゃんをさらったの?!」こもれびの玄関にヒステリックな声が響き渡る。

「はい。すみません」叶音は反論することなく謝罪した。

 柚葉ちゃんが飯塚さんと叶音を交互に見る。そして、あたしに困り顔を向けた。

「まぁまぁ、飯塚さん、落ち着いて」なだめようと口を挟む。「柚葉ちゃんは元気ですし、そう怒らなくても──」

「ダメよ!」飯塚さんは声をあららげた。「こういうことをなぁなぁで済ませたっていいことなんかないわ!」怒髪が天を衝く勢いだ。

「は、はい」あまりに恐ろしい形相に、つい頷いてしまった。

「警察に電話します! おとなしくそこで待ってなさい!」飯塚さんは唾を飛ばして喚き、家の中へ行こうと背を向けた。

 が、「待って!」という柚葉ちゃんの声に足を止めた。「お母さんをいじめないで」

 飯塚さんは振り返った。「……いじめてなんかいないわ」

「恵子さんは勘違いしてる」柚葉ちゃんは飯塚さんを真っ直ぐに見ながら言う。「学校の帰りにお母さんを見かけて、私から話しかけたの。私が『一緒にいたい』ってお願いしたの」

「柚葉……」あたしの隣で叶音が呟いた。

「この女にそういうふうに言えって言われたのね?」飯塚さんはあくまで叶音を悪者にしたいようだ。

「違う!」柚葉ちゃんはそう言って叶音に抱きついた。「ずっと淋しかった。お母さんに会いたかった」と瞳を潤ませる。

「っ!」叶音もそれにつられて涙を滲ませる。

 ここがターニングポイントと見たあたしは、すかさず穏やかな口調で言う。「柚葉ちゃんもこう言ってることですし、今回だけは大目に見てあげてもいいんじゃないですか?」

「……」飯塚さんは迷っているようだ。曲げられた眉が彼女の複雑な心境を表しているように見える。

「私からお母さんを取らないで」柚葉ちゃんは涙声で言う。「お願い」

「……」短くない沈黙の後、飯塚さんは小さくないため息をついた。そして、重そうに口を開いた。「今回だけですからね。次は誰がなんと言おうと厳正に対応します。いいですね?」

「はい。すみませんでした」叶音は余計なことは口にせず、再度、頭を下げた。

「ふんっ」飯塚さんは不満そうに鼻を鳴らした。



 その日の夜、リビングで柚葉ちゃんとゲームをしていると、彼女はおもむろに口を開いた。「一花さん」

「何? 手加減はしないよ」あたしは子供相手といえども接待プレイをするつもりは一切ない。

 違う違う、と笑った柚葉ちゃんは言う。「私、女優さんを目指してみようと思う」

「ほう」

「なかなかだったでしょ? 私の演技」そう言って柚葉ちゃんは小悪魔的な笑みを見せた。

 これは照れ隠しだろうか。それとも本当に演技だったのだろうか。

「いいんじゃない? 叶音に似て、柚葉ちゃんも可愛いからきっと上手くいくよ」

 柚葉ちゃんは、今度は年相応の無邪気な笑みを浮かべた。「ありがとうございます」

 柚葉ちゃんの微かに赤みを増した頬を見る。

 子供って可愛いな。そう思いつつも、あたしは八連コンボを決めてやった。柚葉ちゃんの操作するキャラクターがボロ雑巾のようになる。

 うわぁー。大人げなー。柚葉ちゃんの声が耳を通り抜けていった。

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