診察は水曜日と金曜日の午前中にしかない。だから、毎月、月末の水曜日か金曜日に俺は学校を休む。そして、午後から授業に顔を出す。それがいつもの流れだ。

 夏の大会を初戦敗退という極めて残念な結果に終えてからひと月と少し。九月に入ったものの、未だ夏の暑さは続いていた。

 今日は九月の第四水曜日。一人でバスに乗り、通い慣れた総合病院にやって来た。空は嫌みなほど爽やかに晴れ渡っている。

 正面玄関をくぐり抜け、玄関ホールに設置された自動再来受付機から受付票を入手する。ニ階の精神科に階段で向かう。かつ……かつ……かつ……と軽快さのまったく存在しない足取りで階段をのぼっていく。

 行きたくないとか気分が優れないというわけではない。純粋に眠いのだ。昨日はつい漫画を読み耽ってしまい、寝付いたのは午前三時ころだった。

 階段を昇り切ると、右手側に精神科の受付窓口がある。診察券を入れ、廊下の壁際にある長椅子に座る。あとは呼ばれるのを待つだけだ。

 朝一の診察兼カウンセリングを狙って来たにもかかわらず、俺より先に古びた長椅子を温めていた人間が数人いるので、少し待たされるはずだ。仕方ない。

 腕を組み、じっと口を閉ざしていると、重力に引っ張られるように自然と瞼が下りていく。やがて視界が黒くなった。

 やべ、と眠りかけたことに気づく。

 恥ずかしいからではなく、看護師に起こされるのがなんとなく気持ち悪いから寝たくないのだ。寝て起きたら名前と顔と声しか知らないおばさんが目の前にいた時のなんとも言えない気持ちは、好き好んで味わいたいものではない。

 想像すると、背中がざわりとした。気ぃつけよ。



「……んまさん!」

 知っている声に意識をノックされる。髪の毛数本分は入るであろう間の後、はっとする。「あ、やべ」

「もうっ! 待ってる時に居眠りする癖、なんとかしてって何回も言ってますよね?」昔から精神科の外来を担当している看護師の、小皺の増えてきた吉井陽子よしいようこが、怒りを帯びた表情で俺を見下ろしていた。

 迅速な伏線回収──前フリに応えるボケをかましてしまった。これが一人芝居ならぬ一人漫才か、と飴玉のように口の中で戯れ言を転がす。

 しかし、間を置かずして、甘くはねぇな、と悟り、アンシメントリーに眉を歪めた。

「全然、反省してないようですね」吉井は眉間に皺を寄せ続けている。

 消えない皺が増えちまうぜ、と言いたい衝動を気合いで抑える。

ぬかくぎというか、馬耳東風ばじとうふうというか」吉井は疲れたように大きな息の塊を吐き出した。「もう高校生なんだからもう少ししっかりしてください」

 この女と血の繋がりはないが、こういうおばさんが親戚にいても不思議ではない気がする──うへぇやだやだ。

「へいへい。以後気をつけますよ」と仕方なしに言う。

「……はぁ」またため息をついた吉井は、やっと諦めたのか、「第三診察室で先生がお待ちです」と定型句を口にした。

「ほいほい」と立ち上がり、伸びをする。背骨が鳴った。特有の感触が心地良く、首を横に傾け、今度は意図的に間接液内に気泡を発生させ、弾けさせた。

 それから、一番奥の診察室に足を向けた。



 小学一年生だったころ、俺たちのクラスにケイドロのブームがやって来たことがあった。たしか夏休みの少し前くらいだったはずだ。

 ブームの始まりは、奏朔かなでさくというクラスメイトがやろうと言い出したことだった。

 朔は大きな瞳の可愛らしい顔立ちの小柄な少年で、実を言うと一緒に遊ぶようになるまでは彼のことを女だと思っていた。

 そいつが耳慣れない、けれど不思議と魅力的に聞こえる言葉を使ったから──それまでの俺はケイドロなんていうものを知らずに生きていたから、「なんだそれ?」と脊髄反射のように訊ねていた。

 おそらくほかのクラスメイトも俺と大差のない知識しか持っていなかったのだろう、おとなしく朔が口を開くのを待っていた。

 朔曰く、四年生の兄から教えてもらった遊びで、警察チームと泥棒チームに分かれてやる鬼ごっこの集団戦バージョンだそうだ。

 今にして思えば、朔は小学一年生にしては随分と聡明だったのではないだろうか。集団戦などという単語を使ったり、説明にそつがなかったりと、その早熟具合が窺える。

「おもしろそう! やる!」誰かがそう言った。その声に続き、「俺も」「私も」「僕も」と仲間に加わった人間の中に俺もいた。

 結局、記念すべき第一回目の一年二組のケイドロは十人ほどで行われることとなった。

 朔は警察チーム、俺は泥棒チームに振り分けられた。

 俺は負ける気がしなかった。このころから周りより背が高く、運動も得意で当然のように足も速かったのだ。泥棒チームの勝ちは堅いぜ、とそんな感じのことをもっと幼い言葉で考えていた──朔の語ったルールによると、泥棒チームは誰か一人でも逃げ切れればそれだけでチーム全員の勝利になるのだ。

 昼休み、校舎内の一年生が行ける場所すべてを使ったケイドロが始まった。

 スタート地点は体育館。泥棒チームの奴らがその入口へと駆け出した。警察チームが動き出す一分後までの間になるべく遠くまで行こうというのだろう。

 しかし、俺はそうしなかった。警察チームの中心にいる朔に向かって言う。「ハンデだ。俺のスタートはお前らと同じでいい」

「はぁ?」朔の横にいた坊主頭の少年──優斗ゆうとが非難するような声を出した。

 優斗は授業中にもふざけたことを言ってみんなを笑わせるお調子者で、所謂スクールカーストでは上から数えたほうが早い人気者だ。

「お前、何調子乗ってんだよ」優斗は俺を睨みつけた。

 調子に乗っているつもりはなかった。体育の授業での様子から判断するに、俺のハンデは適切に思えたからだ。だから、「だってお前らトロいじゃん」と言ってやった。「ザコじゃん、ザコ」と憶えたばかりの言葉を口にする。

「ふざけんな!」とふざけるのが得意な優斗が顔を赤くした。「お前を一番に捕まえてやる! そしたら謝れよ!」

「もうそろそろ時間だよ」朔が、優斗の気勢を削ぐように平らかな口調で言った。

 体育館の大きな時計を仰ぎ見ると、すでに一分以上経過していた。

 朔は、「これが作戦なら昴のこと見直すけど」と言ってから、しかしすぐに、「まぁ、違うよね」と勝手に結論を出した。

 作戦なんてこれっぽっちも考えていないので否定せず、代わりに、「いつでもいいぜ」と挑発する。

「うっせー! バカ!」優斗の険しい表情は、泣かせてやる、と物語っているようでもあった。

「お前のほうがピーピーうるせーよ」当然、言い返した。

 俺と優斗の言い合いを遮るように、「じゃあ始めるよ」と朔。「はい、スタート!」

 スタートの〈ター〉の辺りで優斗が飛びかかるように接近し、手を伸ばしてきた。

 なんか来そうだな、とその雰囲気から察知し、警戒していた俺は、焦ることなくそれをかわす。

「うわっ」勢い余って優斗がつんのめり、たたらを踏んだ。転ばずに済み、ホッとした顔を見せた。

 ──次の瞬間、背後から気配を感じた。ので、飛び退きながら身体を反転させた。すると、俺に触れようした体勢のまま固まった朔がいた。

 朔が口元を緩める。「背中に目でも付いてんの?」

「そのとおり!」と返し、俺は走り出した。



「はぁはぁはぁ」優斗が膝に手を突き、肩で息をしている。

 朔も似たようなもので、足を投げ出すようにして体育館の床に座っている。「すごいね。言うだけのことはある」

「だから言ったろ」褒められて満更でもない俺は表情が緩みそうになったが、こらえた。「ハンデが要るって」

 実際にこのとおりに言ったわけではないけど、朔は野暮な揚げ足取りはせず、「完敗だよ」と微笑んだ。

 その顔を、周りでへばっていた警察チームの女子が見つめていた。たぶんあの子は朔が好きなんだな、と直感的にそう思った。

 一人頷いてから、恋する少女から視線を外すと、優斗が俺を見ていることに気づいた。「なんだよ?」

「……バカって言ってごめん」優斗はためらうようにそんなことを口にした。

「おう」と尊大に応じてから、よく考えなくても俺のが悪いよな、という良心の独り言を聞いた。

 男子小学生にとって足の速さというのは、男の年収や女の年齢に匹敵する重要事項だ。理屈は知らないが、足が速いだけで一目置かれ、〈なんだかいい感じの奴〉カテゴリーに入れてくれる。

 この時の優斗も本能的に俺を認めたのかもしれない。それで仲直りしたいと考えたのだろう──一緒に遊んで楽しかったからそう思っただけかもしれないけど。

 とにかく俺はこの日、朔と優斗と友達になった。

 朔は頭も顔も良くて足もなかなか速い。優斗もそこそこ動けておもしろい。俺は運動ならなんでも一番。

 当時はスクールカーストがどうとかそういうめんどくさいことは意識していなかったが、クラスの男子のトップは俺たちのグループだったんじゃねぇかな、と思う。

 ちなみに、グループのリーダーは俺じゃない。もちろん優斗でもない。

 朔はすげぇ奴だ。それは昔も今も今より先もきっと変わらないだろう。



 小学二年生の途中までは祖父母の家のあるK市ではなく、同じ埼玉県でももっと田舎の町に住んでいた。父が田舎にある大学で事務職員として働いていたからだ。

 父は優しい人だった。

 一方、母は感情の起伏の激しいヒステリックな性格で、柳眉りゅうびを歪めて喚くように激昂している姿が一番鮮明に記憶に残っている。

 朔たちと友達になっておよそ三箇月が経ったころだったか、家の近くのいつも使っているゴミ捨て場に、駄菓子屋で買ったお菓子の包装とアイスの棒をそのまま捨ててしまったことがあった。燃えるゴミの日ではなかったが、最終的には回収されるだろうし、問題はないと思ったのだ。

 しかし、その次の日、朔の家から帰ってきた俺を出迎えたのは、鬼の形相の母だった。

「いったいなんだっつーんだよ」と口を尖らせると、彼女は、「あなた、これゴミ捨て場に捨てたでしょ!」と手に持っていた透明なビニール袋を俺の目の前に突き出した。

 それに入っていたのは見覚えのある水色のお菓子の袋と〈あたり〉の文字のないアイスの棒だった。

 わざわざ拾ってビニール袋に入れたのか、と驚いた。

 次いで、当時、母が観ていた法廷ミステリーのドラマに似たようなシーンがあったのを思い出したので、「俺はやってない! 何かの間違いだ!」と真似をしてみた。

 すると、母はすかさず、「ふざけないで!」と口角泡を飛ばした。

 ゴミ捨て場にゴミを捨てただけでなんでこんなに怒ってんだよ? 意味分かんねぇ。納得のいかない気持ちでいっぱいだった。

「何よ、その顔!」母が噛みつく。

 その後、母は説教を本格的に開始した。

 まず最初に彼女が言ったのは、「燃えるゴミは中が透けて見える袋に入れて、燃えるゴミの日に捨てなきゃダメなの!」ということだった。

 それで俺は怒られてるのか、と幾分か腑に落ちたものの、でもそれくらいでここまで喚かなくてもいいじゃん、と心の中だけで反論した。

 しかし、彼女が激怒している本当の理由は別にあった。ゴミ捨て場のすぐ横にあるアパートの大家さんに嫌なことをさんざん言われたらしく、それに腹を立てているようだったのだ。お前のせいで私が怒られてしまったではないか、と。

 なんでも、その大家さんは神経質な人で、ゴミ捨て場に監視カメラを設置してゴミ出しを見張っているそうだ。ゴミ出しのルールを守らない人間が許せないらしく、母は一時間近くも怒鳴られ、嫌みを言われ続けた。

 その内容は、「共働きって言うからゴミ捨て場の準備だけで許してあげてるのに、それすらちゃんとやらないで、あなたそれでいいと思ってるの?」とほかのことにまで及んだそうだ。

 俺の家の入っていた町内会にはゴミ当番があって、朝に折り畳み式の収集ボックスを広げたり、ゴミが回収された後にゴミ捨て場を掃除したりするのだが、両親は共働きで回収直後には掃除ができなかった。かといって夜にやるのも許されず、そこで妥協案として、朝六時のゴミ捨て場の準備を毎日やる代わりに掃除などのほかの作業は免除してもらうことになったのだが、一度だけ夫婦揃って寝坊してしまったことがあった。

 大家さんはそれを蒸し返してきたそうだ。 

 母の説教は、俺が、「ごめんなさい。もう勝手に捨てません」と頭を下げた後も続いた。空腹に胃が痛んだ。カーテンの隙間から僅かに見える外はすっかり暗くなっている。

 どうやったら、何を言ったら母さんは機嫌を直してくれんだよ……?

 辟易とした気持ちが膨らんでいく。やがてそれは罪悪感や理性を押し潰し、心を占拠してしまった。気づけば、舌打ちしていた。

 それがいけなかったのだろう、母はまた声を張り上げた。「全然、反省してないでしょ! あんたはそんなんだからダメなんだよ!」

 話が今回の一件からほかのことにまで飛び火し始めた時、仕事から帰った父がリビングのドアを開けた。「ただいま」穏やかな柔らかい声音だった。

 俺の口から今にも飛び出しそうだった反抗的な言葉が消沈していく。安堵の息が通るのに充分なスペースが口内に生まれた。

「まぁまぁ円香まどかさん、落ちついて」父が母に言う。「何があったか教えてくれるかい?」

 父は母の対処法を心得ていた。理屈を多用せず、母の主観に寄り添い、彼女の言葉を否定せず、「いつも君が頑張ってくれているおかげで仕事も順調だよ」などとその存在を認めるようなことを言い、落ちついてきたタイミングで、「疲れたんじゃない? 昴のことは僕に任せて休んでて」と誘導する。

 だいたい似たようなパターンなのだが、父の真似をして母を鎮めることは当時の俺には不可能だった。

 それは当然、父も理解していた。だから、母が去った後にはいつも、「遅くなってごめんな」などと眉を下げ、慰めるように俺の頭を撫でた。

 嫌いではなかった。父のように優しい大人になれたらいいな、と柄にもなく思ってさえいた。



 二年生の秋、母が失踪した。

 秋晴れの空に突如として発生した霹靂へきれきに打たれたかのような衝撃。

 母親という生き物が子供を残してどこかに消えてしまうことが、なんでもない日常と地続きの現実だとは到底思えなかった。

 たしかに、母のことは好きではなかった。しかし、心はそんなに単純ではない。父に、母にはもう会えないのだと説明された時、涙が頬を伝った。

 後から聞いたところによると、不倫相手と駆け落ちしたらしかった。思い返せば、前兆のようなものはあった。

 失踪する少し前辺りには、母の、父を呼ぶ声は随分と冷たくなっていたように思う。会話も減っていた。

 おそらく母は嘘のつけない女だったのだろう。自分の気持ちを抑えて平静を装うことも、不貞を覚られぬように笑みを浮かべることも彼女にはできなかった。だから、恋心だか依存だか色欲だか知らないが、それらから目を逸らし、今ある生活を維持しようなんて考えられない。

 どこまでも自分本位で不気味なほど純粋だ。

 しかし、幸か不幸か、母は美しかった。俺を生んだのが早かった母は、失踪当時まだ二十八歳で、その精神性に目をつぶってもいいという男が現れても不思議ではないくらいの美貌は健在だった。

 母がいなくなってから父は声を出さなくなった。

 いや、厳密には最低限の会話はあるのだが、少なくとも家の中ではほとんど何も喋らないようになった。

 以前のように柔らかい表情を見せることはなくなり、無機質な光を瞳にたたえ、死なないために必要な食事などのタスクを黙々とこなしていた。

 一方、俺は学校を休んだりはせず、外形上は問題なく生活していた。それは、朔と──あまり認めたくはないが──優斗がいたからできたことだった。彼らは、母のように勝手に俺から離れたり、父のように無視したりもせず、かといって変に同情的な態度を取ることもなく、ただ変わらずに側にいてくれた。

 だから、俺は大丈夫だと、父のようにはならないのだと、そう思うことができた。



 母のいない静かな生活が日常の匂いを漂わせ始めたころの、秋らしく乾燥した、肌寒さを感じる夜のことだ。

 自室のベッドで眠っていた俺は、まだ暗い時間にもかかわらず目を覚ました。

 曖昧な意識が次第に明瞭になっていき、それに伴い、寒さを感じ、身震いする。「さむ」とベッドの上で自身を抱きしめるように縮こまる。上から見たら、胎児か、あるいは丸まった海老のようだっただろう。

 すぐにぬくぬくしてきてまた寝付くことができると思っていたのだが、そうはならなかった。掛け布団がベッドの横、フローリングに敷かれた絨毯の上に乱雑に広がっていたのだ。

「あー」どうりで寒いわけだ。

 寝相が悪かったのだろう、と仕方なくベッドから降りようとして、そこに人が立っていることに気づく。常夜灯の明かりしかない夜の室内で父が俺をじっと見下ろしていたのだ。「うおっ!?」と驚愕の声を上げてしまったのもむ無しだろう。「なんだよ?!」びっくりするだろ、と言い切ることはできなかった。

「喋るな」と父が手のひらを押しつけるようにして俺の口を塞いできたからだ。そのまま押し倒される。ベッドに後頭部が沈んでいる。顔の下半分が圧迫されていて呼吸がしにくい。

 頭の中をひっくり返されたように混乱していた。今までに聞いたことのない、暗く重い、しわがれた父の声に心が縮み上がっていた。

 なぜ? 何がしたいんだ? 怖い。どうすればいい……。

 目まぐるしい、しかし終わらないメリーゴーランドのような思考はなんの役にも立たず、大きく開いた父の瞳を見つめることしかできなかった。

「喋るなよ」再びそう命令した父は、俺の口から手を離した。冷たい空気が口元に触れる。

 それから、父は俺の腰に手をやり、パンツごとパジャマのズボンを引きずり下ろした。

 意味が分からず、「え」と呆気に取られた。

 場違いにも、ズボン下ろしの遊びのことが頭に浮かんだ。みんなのいる場所、教室とかでターゲットに背後から近づき、いきなりそいつのズボンを下ろすのだ。そうすると、ズボンを下げられた奴以外は、だいたい笑ってくれる。

 しかし、ここには俺と父以外はいない。盛り上がる要素は見当たらない。やはり理解できなかった。

「何すんだよ」と言った瞬間、骨盤の側面、足の付け根の辺りを強かに平手打ちされた。ばちん、という音が響き、次いで、じんわりと痛みが広がっていく。

「黙ってろ」父は無表情で繰り返した。恐ろしい声だった。

 俺はそれに従うほかなかった。

 父は乱暴な手つきで俺をうつぶせにさせた。

 理解の及ばない事態への困惑と父に対する恐怖で息が苦しい。

 やにわに、肛門にひんやりとした冷たさを感じた。ぬるぬるとした感触に、シャンプーやボディーソープでも塗られたのかと怪訝に思う。現実ではなく夢なんじゃないか、と疑い、そうであるように願った。

 父から衣擦れのような音がした。うつぶせの状態のまま背後を確認しようと肩口を少し浮かせるようにしながら首を捻ると、父も俺と同じように下半身を露出させていた。

 はぁ?

 父の、膨張したペニスを見たのは初めてだった。訳が分からない。訳が分からなかったが、心臓は狂ったように早鐘はやがねを打っている。

「四つんばいになって尻を上げろ」

 四つんばい、という言葉の意味が分からず、まごついていると、またぶたれた。尻がじんじんと痛む。

「四つんばいって──」

「犬と同じ体勢になれっ」父は焦れていた。「早くしろ!」

 なんでそんなことしなきゃいけないんだよ、という不満はあったが、逆らうことはできなかった。

 膝を曲げ、ベッドの上で犬のような体勢になると、父は硬くなった自身の性器を俺の肛門にあてがった。そして、裂けるような強い痛みが身体を貫いた。

「がは」というような濁った声と共に息が洩れた。鋭い痛みと異物感を、肛門とその奥に感じ、あれほど言われたにもかかわらず、「いってー」と声を上げていた──次の瞬間、脇腹を叩かれた。大きな音が室内に反響しているようだった。

「静かにしろっ」父はそう言ってからもう一度、手を上げた。反射的に目をつぶる。また痛み。まるで遠慮会釈のない暴力に涙が滲んだ。

 そして、父は腰を動かし始めた。

 父の腰が尻にぶつかる──父が突くたびに肛門が切りつけられたように痛み、腹の底から圧迫感が込み上げてきて吐きそうになる。

 知らず知らず手を握りしめていた。歯も食いしばっている。

 痛み。不快感。恐怖。怒り。

 心の軋む音を聞いた。しかし、人間、そう簡単には狂えない。限界であろうと苦痛を感じる自我は途切れない。ただただ苦しかった。

 いつまで続くのかも分からない身体刑しんたいけいのような行為に悲鳴を上げ続けていた心が、その声を枯らし始めた。

 その時、規則的だった父の動きが激しさを増した。それに伴い、今まで以上の痛みが訪れる。

「ぅ、ぅ、ぅ」と細切れになった呻き声が、父が奥深くを突くたびに食いしばった歯の隙間から洩れる。

 それから、父はすぐに、「……っ」と微かな声を発し、動きを緩め、そして、動きを止めた。



 行為が終わった後、父は、「誰にも言うな。言ったら殺す」などと何度か脅し文句を口にしてから部屋を出ていった。

 深夜の自室でベッドに仰向けに横たわり、天井を見ていた。もう眠れそうになかった。

 俺はこれからどうなるんだろう、と唐突に漠然とした不安感が湧いてきた。

 しかし、分からない。先のことも父のことも全然分からない。

「いてぇ……」独りごちた。

 ぼんやりとしていると、涙が滲み出した。目尻に溜まり、ほとんど間を置かずして溢れ、顔を伝い、枕に染み込んでいった。なかなか止まってはくれなかった。



 父の性的虐待はその後も何度も繰り返された。

 仕事から帰り、飯を食い終わると、俺を使って射精する。それが父の日課になったようだった。

 抵抗はできなかった。ためらいなく暴力を振るう父が恐ろしかったのもあるが、もし俺が反撃して、そのせいで父が俺を捨ててどこかに行ってしまうことが何より怖かった。母に続いて父もいなくなってしまったら、と思うと不安で仕方がなかった。

 それに、俺で性欲を処理するようになってから、父は──以前ほどではないが──優しさを見せるようになっていたというのもある。俺が我慢していれば好きだったころの優しい父に戻ってくれるのではないか、と期待を抱いていたのだ。

 我ながら自分のバカさ加減に呆れてしまう。八歳になったばかりの自分の子供をオナホールのように扱う人間が、優しいはずがない。しかし、そんな簡単なことにも気づけなかった。

 俺たちの学校は進級するたびにクラス替えをするのだが、二年生になってからも朔と優斗とは同じクラスだった。

 給食を食べ終え、各々おのおのが好きなことを始めた教室で自分の席に座ったまま、ぼーっとしていると、朔と優斗がやって来た。「サッカーするから昴も来いよ」優斗が最初に口を開いた。

「……いや、いい。行かない」俺は口だけを動かして応えた。

「えー、なんでだよー」それから優斗は、「お前、俺らしか友達いないんだからどうせ暇なんだろー?」とからかうように笑う。

「……うるせー」小さな声で言った。

「感じわ──」優斗の声を遮るように、「分かったよ」と朔。「でも、気が向いたら来てね」と続けた。

「ああ」行くつもりなんてまったくなかったけれど、ゆるゆると頷いた。

 優斗はおもしろくなさそうに下唇を突き出していた。



 教室のそこかしこで声が生まれている。何を話しているかは分からないが、楽しそうに見える。俺から机三個分、離れたところで女子のグループがお喋りをしている。

 その中の一人、髪をお団子のように結った少女──紗奈さながこちらを横目で見た。目が合う。が、次の瞬間には友達のほうに視線を戻していた。何もなかったかのようにお喋りを続けている。

 あー、そういや紗奈は朔が好きなんだっけ。

 俺は、「くだらな」と呟いた。

 サッカーとか恋愛とか、そういう楽しそうなことを楽しいと感じる余裕がなかった。周りの奴らがまるで別世界の住人であるかのように思えて、いらいらしていた。お前らは気楽でいいよな、と。

 まさにねた子供そのものだったのだ。

 すべてから逃げるように目を閉じる。瞼の裏にちかちかとした光の残滓ざんしが見えた。けれど、それもすぐに消えていく。



 数日後の朝、目を覚ますと、俺は身体をほとんど動かせなくなっていた。

 身体が鉛のように重かったのだ。思考も頭の中に霧が立ち込めているかのように不明瞭だった。

 風邪だと思って熱を測ると、三十六度三分だった。

 あれ、おかしいな。でも、たしかに鼻水も出てないし、喉も痛くない。風邪じゃないのか。けど、身体が……。

 なんて説明したらいいんだ……、と悩んだけれど、学校には行けそうもなかったので、ストレートに、「今日は休みたい」と父に伝えた。

 すると父は、「そうか」とだけ言い、電話を手に取った。学校に電話しているようだった。「風邪をひいてしまったみたいでして」「三十八度三分ありまして」「今日は休ませます」などと言っていたので、仮病を使ったのだとすぐに察することができた。終わると、「今日は家でおとなしくしてるんだよ。いいね?」と心配するような声色で言った。

 素直に頷く。

 仕事に行く父の背をリビングのソファから見送った。

 身体も頭も重くてだるい。リビングは、しんと静まり返っている。

 この日、俺は、流石に今日は父さんも何もしないだろう、と思い、心なしかリラックスしていた。朝の父は優しかったし、おとなしくしていろとも言っていた。ぺニスを舐めろだとか、四つんばいになって尻を上げろだとか、そういうことをするのは、おなしくするのとは遠いところにあると思ったのだ。

 だから俺は、帰ってきて食事を終えた父がいつもとまったく同じように、「さぁ、服を脱いで」と命令してきた時には耳を疑った。

 そして、「い、嫌だ」と言ってしまった。

 父は、まるで信じられないものを見たかのように目を見開き、「ふざけるなっ!」と震える声で怒鳴った。

 リビングのソファーに座っている俺に、気色ばんだ顔で近づき、右手を上げる。

 来るであろう痛みを思い、心臓が大きく跳ねた。

 視界が大きく揺れた。ソファーから硬いフローリングに転がり落ちる。頭を床に打ちつけ、ゴト、という音が脳に響いた。数秒遅れてようやく痛みを感じた。顔を殴られたらしかった。再び驚愕し、戸惑いを覚えた。

 なぜなら、父は顔や腕などの人目につく場所を殴ることはなかったからだ。尻や腹、背中をぶたれることは少なくなかったが──少しでも嫌そうな表情を浮かべると殴られた──顔をぶたれるのは初めてだった。

 髪を鷲掴みにされ、頭を引っ張り上げられる。すぐに、「親に逆らうんじゃないっ!」と頭をソファに叩きつけられた。くらくらしていると、父は両手で俺の首を掴み、「ふざけるなっ……、ふざけるなっ……」と繰り返しながら首を締め始めた。

 呼吸ができない苦しさに父の手を外そうとするも、手に力が入らない。

 そして、意識が深海に引きずり込まれるかのような感覚がし、次の瞬間には俺は気を失っていた。



▼▼▼



 朔は始業前の朝の教室に入ると、坊主頭──優斗を見つけて声を掛けた。「おはよう」

「んんんー」優斗は口に何かを含んだままくぐもった声で返した。おそらく、「おはよー」と言ったのだろう。

 学校に食べ物を持ってくることは固く禁じられているはずだが、優斗にはそれを遵守じゅんしゅしようという気は皆無であるようだった。「食うか?」と一切の後ろめたさを感じさせない表情で、半月形の歯形がくっきりついたコンビニのものらしきおにぎりを差し出してきた。

 登校途中に買ったのだろうか。優斗のお父さんは医者をしているらしく、お小遣いも朔ら三人の中で最も多い。買い食いの頻度はクラストップだろう。

 朔の胃の中で朝食のトーストが未だ存在感を主張している。「私だけじゃ満足できないの?」昨日観たドラマでヒロインの女性が言っていた台詞が脳裏に浮かんだ。

 ドラマの主人公の男性は、「一人だけで満足できるわけないじゃないか! 俺の性欲は無限大さ!」と清々しい笑顔を見せていたが、朔にはそれが正解であるようには思えなかった。来週この続きが放送される。あまり楽しみではないが、どうなるか気になって結局は観てしまいそうな予感はあった。

「ありがと。でも、僕はいいや」朔は首を振った。

 ご飯粒をほっぺたに付けた優斗は、「ホントにいらないの?」と確認するように訊いてきた。

「うん。大丈夫」と頷くと、優斗は、「あっそ」と応え、おにぎりにかぶりついた。

 朝の会まではまだかなり時間がある。教室内には朔たちを除くと数人しかいない。いずれの生徒も、「あー! おにぎり食ってる! 先生に言ってやるからなー!」などと声を上げるような性格ではない。せいぜいが、「うまそう……」と呟く程度だ。

 窓際の昴の席に目をやる。まだ昴は来ていない。物言わぬ机があるだけだ。

 胸がざわざわと、あるいはちくりとした。

 昴のお母さんがいなくなったという話は聞いた。どうやら不倫というものをしていたらしい。

「美しい花には棘があるってことだな」と小学五年生の兄は訳知り顔をしていた。

「じゃあ、美人じゃない人には何があるの?」朔は訊ねた。

 すると兄は、「え」と想定外の事態に狼狽えたような様子を見せたが、「うーん、あー、そうだな」と繋いでから、「美しくない花には毒があるな。うん」と答えた。

 それはひねくれすぎじゃないか、と思ったが、兄は自分の発言に満足したように、「棘と毒の二択だ」と笑っていたので、「ふーん、そうなんだ」と本心を飲み込んだ。

 母親が失踪した直後の昴は、だいぶ落ち込んでいた。

 昴は、猫に対する偏ったイメージを人間という容器に押し込み、そこに怖いもの知らずという調味料を加えたような性格をしている。

 その昴が暗い顔をして教室に入ってきたのだ。朔と優斗のみならずほかのクラスメイトも、何かあったのか、と心配そうにしていた。

 昴に対してどういう態度を取ればいいのか決めかねていた朔は、兄に訊ねた。どうすればいいんだろう、と。

 すると兄は、「今までどおりでいいんじゃねぇか」と買ってもらったばかりのスマートフォンを弄りながら興味なさそうに答えた。

 おざなりな言い方だったが、朔にはそれが一番いいような気がした。きっと昴は気を遣われるのを嫌がる。プライドが高いから憐れみの感情を察知すると不機嫌になり、そして、傷つく。そう思われた。

 朔は兄の助言と自身の推測に従い、いつもと変わらぬように声を掛け、話をし、遊びに誘った。昴もいつもと同じように応じ、遊びに参加してくれた。

 そうして過ごしていくうちに昴の顔に差す影も薄くなっていった。

 食べ物の好き嫌いが激しかったり、将来はヒモになると公言していたり、法律なんてただの道具と断言して万引きしたり、お前みたいな要領のいい女は反吐が出るくらい嫌いだと言って告白してきた女子を泣かせたりと、人間性に著しい欠陥があるとしか思えない兄であるが、時折、本当にごく稀に真理を語ることがある。ような気がする。

 朔は心の中で兄に感謝を述べた。

 しかし、昴はある日を境に深い闇をまとい出した。朔にはそう見えた。

 優斗も同じであったらしく、「どうしたんだよ? 腹でも痛いのか?」と軽い調子で昴に問うた。

「なんでもねぇよ」昴の声は何かに怯えているようでもあったが、そっぽを向かれて口を閉ざされては根掘り葉掘り訊ねるわけにもいかなかった。

 昴の闇は日に日に暗く、黒く、深くなっていった。

 最近では、話しかけてもすぐには返事が返ってこないことが増えた。いつも上の空で朔たちのことなど眼中にないようだった。

 優斗とゲームの話をしていると、教室に人が増えてきた。目が自然と昴を探す。教室を見回しても昴はいない。 

 八時二十分を過ぎても昴は現れなかった。昨日は高熱を理由に休んでいたが、担任の片山かたやま先生曰く、今日も昴は体調不良で休むそうだ。

 片山先生は四角い眼鏡を掛けた二十九歳の女の先生だ。彼女は昴の休みを伝えると、朝の会を終わらせた。

 不安感が心をくすぐる。そわそわする。嫌な感じだ。

 朔は考えすぎだと自らに言い聞かせた。

 だいたい何があるというのだ? 風邪で休むなんてことはそれほど珍しいことではない。よくあることだ。

 と、頭では分かっている。しかし、払っても払っても晴れない霧のように、この日、朔の中から不安感がなくなることはなかった。



 そして、それは次の日も同じだった。

「熱がなかなか下がらないそうです」片山先生は感情を窺わせない口調で告げた。

 朔の不安はいよいよ無視できないレベルになってきた。

 今日、お見舞いに行ってみよう。

 始業時間まで十分近く残して朝の会を終えた片山先生が、むすっとした顔のままマネキンのように立っているのを眺めながら、朔はそう決めた。

 おもむろに片山先生が口を開いた。「……少し早いですが、一時間目を始めます」

「えー!」という声は優斗のものだ。彼は一分一秒でも授業時間を減らそうと努力している。「もっとさぁ、ほかのクラスみたいに歌を歌ったりとかなんかないのー」

「ありません」片山先生は冷たくそう言うと思われたが、口をつぐんでいる。

 おや。意外といけるか? と思ったのか、優斗は続ける。「三組はアンケート取って、人気の歌を歌ってんだってよ。俺らのクラスもそういうのやろーよー。授業時間増やさないでさぁー」

 クラスメイトの何人かが頷いている。みんなちょっと長い一時間目は嫌なようだ。

 しかし、片山先生は、実はアンドロイドで人間の子供の行動を観察して自身の人工知能を進化させている、と種明かしされても半信半疑程度には信じてしまいかねないくらい冷たい人だ。優斗の提案は氷の刃で一刀両断されるかに思われたが──。

「分かりました」片山先生は起伏のなさすぎる語調で言った。

「え、まじ?」思わずといった様子で優斗が洩らした。

 教室で動揺が波打っている。みんなが小声で話し始めた。「どうしよ、私、歌苦手なんだけど」「どうせ音楽の授業のやつでしょ」「アニメの歌がいい」などなど。

「ですが、今日はなんの準備もしていないので」片山先生は言う。なんの準備もしていないので? とみんなが彼女を見る。「アカペラでボーカロイドの曲を歌ってもらいます」

 片山先生の口から〈ボーカロイド〉という単語が出たことに脳がエラーを起こしたように混乱した。

 彼女は最近流行っている曲を指定した。聴いたことはあるが、難しすぎて朔には歌えない。みんなもおそらく同じようなものだろう。

 優斗に非難の視線が集まる。お前のせいで訳の分からないことになったぞ、と。

「あはは……」優斗は笑って誤魔化そうとしているが、たぶん無理だろう。

 朔はため息をついた。



 放課後、小学校を後にした朔は、「俺も行く」と明示的な意思表示をすることなく当然のように付いてきた優斗と共に昴の家へ向かった。 

 昴のお父さんは大学で事務員をしているという。何度か会ったことはあるが、優しそうなおじさんという印象を受けた。

 とはいえ、平日の午後三時過ぎに在宅してはいないだろうから、会うことはないはずだ。

 昴の家に到着した。

 家を囲むように塀があり、道路から玄関まで石畳の小道が延びている。玄関の左側に屋根付きの駐車場が、右側には芝生の前庭がある。外壁は白っぽく、屋根は赤茶色だ。どことなくヨーロッパの雰囲気が漂っている。

 ここには何度も来たことがある。勝手知ったる昴の家。朔と優斗はためらうことなく石畳を踏み、玄関に向かう。

 玄関扉の前に立つと前庭がよく見えるが、前庭に面した掃き出し窓はカーテンが閉められていて中の様子までは窺えない。家の中に人の気配はない……ように感じるが、そんなことはないはずだ。

 朔は腕を伸ばし、自身の身長より頭一つ分ほど高い位置にあるインターフォンを押した。

「……」「……」

 しばらく待ったが、応答はない。

 優斗は、「いないのかな?」と独り言のように言い、もう一度インターフォンを押した。

 が、黒い機械から声が発せられることはなかった。朔と優斗は示し合わせたように同じタイミングで耳をそばだてた。

 とても静かだ。あまりに静かすぎて薄気味悪さすら感じてしまう。

 どうしたのだろう? 寝てるのかな。

 朔はそう考えた。あるいは、熱のせいで動きたくないのかもしれない。

 今日は諦めてまた明日来よう。

 そうするのが常識的な判断だと朔も思う。けれど……。

「……」眉間に皺が寄る。

 胸騒ぎがする。最近の昴は、どこか遠くに行ってしまいそうな独特の儚さを漂わせているように感じる。そんな状態にもかかわらず、もう三日も声すら聞いていない。

 しかし、だからといって朔にできることはほとんどない。

「行こう」朔は優斗にそう言って玄関に背を向けた。

「う、うん」戸惑ったような声で応えた優斗がすぐに横に並んだ。



 翌日の土曜日。

 午前十時前、朔は待ち合わせの公園の錆付いたブランコに座っていた。すると、優斗がメタリックブルーのマウンテンバイクを入口に停めるのが見えた。

 これから優斗と二人、昴の家に行くのだ。

 ブランコから立ち上がる。手には赤茶色の錆が付いている。ズボンに拭い、優斗の下へ走っていく。

 走り出してすぐに、優斗の自転車のカゴにビニール袋が入っていることに気づいた。到着するなり、「それ何?」と訊ねた。

「お母さんが持ってけって」優斗はそう言って袋の口を開けてみせた。中にはフルーツを使用したゼリーが何個か入っていた。

 なるほど、と納得すると共に朔は自分の自転車のカゴに視線をやった。朔の自転車のカゴには、「風邪ひくとジャンキーな油っこいもの食いたくなるよな!」と兄に押しつけられたポテトチップスがあった。

 兄が言うので、「そうなの? 僕はならないけど……」と疑いながらも持ってきてしまったことを恥じた。常識的に考えてポテトチップスはない。

 上方修正されつつあった兄の評価が元の低い位置に戻っていく。

 そして、兄の言葉は原則として疑うべき、と結論を出した。



 昴の家からは相変わらず人の気配がしなかった。

 車がないことから昴のお父さんは仕事などに行っていると思われたが、風邪をひいているという昴はいるはずである。

 しかし、今日もインターフォンは無言を貫いていた。

「……居留守してんじゃね?」優斗はそう言うや否や、「おーい! 昴ー!」と声を上げた。

「……」朔は微かな期待を抱きつつ待ったが、やはり物音一つしない。

 前庭の掃き出し窓に目をやる。閉め切られたカーテンは微動だにしない。 

 本当にいない? 具合が悪くて動けない?

 いくつかのパターンが、「あんたはさかしいね」と母から言われた朔の脳裏を過っていく。

 そして、疑うべき兄の言葉が甦る。

「優しそうな顔した奴が鬼畜だったっつー事件はなんで起こると思う?」恋人と共に自分の娘に売春を強要していた母親が、恋人の性欲が娘に向き始めたことに嫉妬してその娘を殺害した事件の二ュースを観ていた兄が、唐突に口を開いた。テレビに登場したその母親の中学生のころの同級生は、『クラスでは、おとなしくて優しい子でした』と語っていた。

「さぁ? 悪い人ほど仮面を被る有用性を理解していて演技に熱心だから、とか?」朔は思いついたことをなんの検証もせずにそのまま口に出した。

 少し離れた所で緑茶を飲みながら朔たちの会話を聞いていた母が渋い顔をした。飲んでいるお茶が苦かったのかもしれない。

「それは凡人のクソみたいで程度の低い浅薄な意見だ。本質は全然違う」兄は確信しているようだった。「優しそうな奴ってのは、自分にも優しいんだ。ちょっと辛い環境に置かれると耐えられずに楽なほうに流される。気持ちいいほうに落ちていく」するとあら不思議、と兄はおかしそうにおどけた。「歯を磨くように習慣的に虐待を繰り返す愉快なモンスターが誕生するのさ」

 それは一部の場合にしか当てはまらないのではないか、と思ったが、しかし完全な間違いのようにも思えなかった。たしかにそういう人もいそうではある。

 でもさ、と朔は切り返した。「〈優しそう〉じゃなくて本当に優しい人は違うんでしょ?」

 母は満足げな顔で何度も頷く。お茶の味に慣れてきて、その良さに気づいたのだろうか。

 一方、兄は心底嫌そうにこれでもかというほど顔をしかめた。「そんな奴は絶滅危惧種だから心配はいらない」

 別に心配はしていないが、朔は、「分かった」と物分かりの良さを取り繕ってみせた。

 昴のお父さんが兄の言うところの〈愉快なモンスター〉である可能性は低いとは思うが、朔は頭に浮かんだ妄想じみた推測を完全には否定することができない。

 家を出る前、昴の家に電話を掛けてみたが、虚しく呼び出し音が聞こえるだけだった。それは留守だからでも風邪で寝込んでいるからでもなく、もっとおぞましい理由によるのではないか。そうであるならば最近の昴の思い詰めたような表情にも納得できる。

 朔は無意識に眉を歪めてしまっていた。

「な、なぁっ」優斗は戸惑ったような表情で呼びかけてきた。「怒ってんのか?」

「怒ってないよ」

「じゃあ、もう帰ってゲームしようぜ」優斗はここにいたくないようだった。薄気味悪さを感じているのかもしれない。

「……」朔は無言で玄関扉のレバーハンドルタイプのドアノブに手を掛けた。力を込めるもレバーは動かない。しっかりと施錠されているようだ。

 次いで、前庭に侵入し、掃き出し窓を観察する。内側のクレセント鍵はつまみ部分が上を向いている。こちらも通常のやり方では開きそうにない。

 昴の、泥棒の下見のような行動を呆然と見つめていた優斗も前庭に入ってきた。「こういうの、いけないんじゃないの……?」ひそひそ声で言った。

 普段はふざけることの多い優斗であるが、もしかしたら僕らの中で一番まじめなのかも、と朔は思う。

「いけないことが必要なこともあるんだよ」朔も小声で教え諭すように努めて穏やかに言った。

 朔はまじめなほうではあるが、ルールだからという理由でルールを守ることを正しいとは考えていない。

 今の自分にルールを越える正当な理由がないことは分かっている。しかし、しかし。

「優斗だって学校にお菓子とか持ってきてるでしょ」このくらいそれと同じようなものだよ、と適当なことを口にする。

「そっかなー?」優斗は得心がいかないのか首を傾げた。

「そうそう」大したことないさ、とハミングするかのように軽く、明るく言う。「そういわけだからほかの窓も調べてみよう」

 朔は返事も待たずに隣家の敷地との境界にある塀と昴の家の間へとするりと身体を入れた。陽光が差し込みにくく、閉塞感はあるが、幅は一メートル弱ほどはある。小学校低学年の二人ならば余裕を持って進める。

 尻込みしつつも優斗はしっかり付いてきていた。「朔って不良だよね」

「自分では優等生だと思ってるんだけど」

 宿題を忘れたこともないし、日直の仕事をいい加減にやったこともない。不良というのは的外れなラベリングだろう。

 優等生の朔は、人目を警戒しながら家をぐるりと回り、手の届くすべての窓とドアを確認した。

 すべて施錠されていたし、カーテンも完全に閉められていた。

「……いったん退却しよう」朔は振り返り、言った。

 優斗はホッとしたように小さく肩を下げた。しかし、「いったん?」と怪訝そうに眉を曲げた。

 不安そうにする優斗が小動物じみていて、つい口元が緩んでしまう。「大丈夫。来るとしても次は僕一人で来るから」

「……何、企んでんの?」優斗は、じとっとした目を向けてきた。

「それは秘密」朔は唇の前で人差し指を立てて悪戯いたずらっぽく微笑んだ。

 優斗の耳が微かに朱に染まったように見えなくもないが、見なかったことにした。



 その日の夜、朔は昴の家に電話を掛けた。

 六コール目が鳴り終わり、次で出なければ諦めようと考えた時、がちゃっと安っぽい音がして、『もしもし』という声が、心霊スポットを歩く時のような慎重さで朔の鼓膜を震わせた。この扉、開けるけど、ゆっくり静かに開けるから幽霊さんは気にしないでね、と。

「こんばんは。奏朔です」朔は先生や知らない大人と話すときに使う声色で名乗った。

『あー、朔君か。こんばんは』昴のお父さんは、幽霊の正体が単純なトリックによるものだと知った時のような──安堵と落胆を混ぜたような声音で言った。

 朔は突然の電話を詫びる言葉を並べ、それから昴の体調について訊ねた。

 すると、昴のお父さんは申し訳なさそうに声のトーンを落とし、『それが……、昴、学校に行きたくないみたいなんだ』とためらいがちに口にした。

「……どうして行きたくないんですか?」

 昴のお父さんは、『妻が』と話し始めようとして、しかしすぐに、『母親が』と言い直し、続ける。『いなくなったことで随分と無理をしていたみたいで、身体が重くてまともに動かせないそうだ』

「電話に出るのも難しそうですか?」

『そうだね。電話には出られない』

 昴のお父さんの話や口調には、特別おかしなところはない。しかし、怪物の舌に舐められたかのような悪寒を背筋に感じた。

 とはいえ、「そうですか。分かりました」と言うほかない。

 礼を述べ、電話を切った。「……」

 しばらく電話機に付いた微細な傷を眺めていたが、やがて朔は決心した。

 昴の家に侵入しよう、と。



 日曜日、朔と優斗は朔の家にいた。ビデオゲームの休憩中に、「昴が心配だからちょっと不法侵入してくる」と、ちょっとトイレに行ってくる、と言う時と同じ口調で朔は告げた。

 優斗は訝るように訊ねた。「『不法侵入してくる』って、どうやって? 鍵はどうすんの?」

「鍵はどうもしないよ」

「じゃあ、窓を割ったり──」

「割らないよ」

 朔は、くすりと笑みを洩らした。優斗が、「えー、わかんねぇー」と言う様がおかしかったからだ。素直だなぁ、と微笑ましい気持ちが湧いてもいた。

「あ!」優斗は、はっとしたように声を発した。「分かった! 鍵を盗むんだろ!」

「盗まないよ。鍵はどうもしないって言ったじゃん」

「……うがー!」突然、優斗は声を上げ、「答えを早く教えろー!」とアニメキャラクターの描かれたクッションを朔に向かって投げた。朔の顔にぶつかり、ばふ、という音を立てて絨毯に落ちた。

「びっくりしたぁ」朔がそう言うと、「あ、ごめん」と優斗は素直さを見せた。

「難しいことじゃないよ」と前置きしてから朔は問うた。「前にさ、『ゴミ出しを監視してるおばさんがいる』って昴が話してたのを憶えてる?」

「そんなこと言ってたっけ?」

「言ってた」朔は確かに記憶していた。「『監視カメラで観てて、少しでもルールを破るとすんげぇ怒るんだ』って愚痴ってたでしょ」

「うーん」なおも思い出せないようだ。優斗は首を捻っている。

「『俺んち毎回ゴミ捨て場の準備をしなきゃいけないんだけど、かなり前に一度だけ寝坊してやらなかったことがあったみたいなんだ。あのおばさん、それを未だに根に持ってるっぽくてさ。ありえねぇよな?』って言ってたのは?」朔は昴の真似をしつつ訊ねた。

「まったく憶えてない」

「まぁいいけど」と流した朔は、「優斗はゴミ出しの手伝いする?」と話を進める。

「たまにやってる」

 朔は軽く顎を引き、相づちを打った。「じゃあさ、自分一人しか家にいないときにゴミを捨てに行く場面を想像してみて。そういうときって、優斗なら玄関に鍵を掛ける?」

「掛けるわけないじゃん……あ」優斗もようやく朔のやろうとしていることを察したようだ。

 朔の作戦は、昴のお父さんがゴミ捨て場の準備に行っている間に玄関から侵入するというものだ。そして、昴のお父さんが仕事に行くまで家の中の適当な場所に隠れていて、彼が家を出てから二階にある昴の部屋に向かう。このやり方ならば鍵を開ける必要もないし、仮に朔の不安が杞憂に終わったとしても窓を割るなどして侵入するようなやり方よりは大事おおごとになりにくいだろう。

「なるほどなー」あったまいいー、と優斗は、はしゃぐように言った。「朔は、ただの不良じゃなくて頭のいい不良なんだな」と納得顔で頷く。

「……」



 月曜日の早朝、朔は昴の家の外壁の陰に身を潜めていた。

 十二月の早朝は暗い。

 冷たい風が顔の皮膚を撫でた。今日の最低気温は一度だと気象予報士のお姉さんが言っていた。

 それを意識すると一段と寒く感じ始めた。手のひらをこすり合わせる。摩擦熱は一瞬だけ朔を温めてくれた。

 その時は唐突に訪れた。

 玄関扉が開く音がし、ダウンジャケットを着た昴のお父さんが出てきたのだ。

 来た!

 朔は息を殺して気配を極力抑えるようにする。獲物を狙う肉食獣みたいだな、と冷静な自分が苦笑する。

 肉食でも草食でもなんでもいいの、と自答したところで、昴のお父さんが敷地を出てゴミ捨て場のあるほう──朔から見て左側──へ向かった。彼の姿は頭頂部を除き、家を囲む塀により見えなくなっている。つまり、向こうからも前庭や玄関の様子は分からないということだ。

 今しかない、と即断し、弾かれたように、しかし足音に気を配りながら外壁の陰から出る。

 紺色のブルゾンのポケットに入れていたビニール袋を左手で取り出しながら右手で玄関扉を開ける。中は、一週間ほど前に遊びに来た時とさほど変わっていないように見える。

 やっぱり考えすぎだったのかな。

 という迷いが脳裏を過ったが、迷っている時間はない。素早くスニーカーを脱いでビニール袋に入れ、玄関のすぐ近くにある、階段下の小さな納戸なんどの扉──引き戸──を勢いよく開ける。埃っぽい臭いが朔の顔全体を包み込んだ。顔をしかめるも、ただちに納戸の中──掃除道具などが収納された二畳ほどの空間──に入り、扉を閉める。

 ふー、と息を吐く。心臓が強く脈動し、そのたびに全身が痙攣するように感じる。

 数秒も待たずして玄関扉の開閉音がした。心臓が跳ねる。

 息を潜めていると、足音が遠ざかっていった。リビングのほうへ行ったように思う。

 危なかった。あと少し遅ければ見つかっていた。朔は胸を撫で下ろした。

 それから、朔は辛抱強く身動みじろぎもしないで昴のお父さんがいなくなるのを待った。

 光のない、狭く、カビ臭い納戸は、さながら懲罰房ちょうばつぼうのようではないか。朔はそんなことを考えていた。

 三十分か四十分か、幾ばくかの時間が経過し、また足音が近づいてきた。足音は朔の近くを通過し、頭上──階段を移動する。

 二階には昴の部屋がある。

 昴のとこに行ったのかな。

 確証はないが、その可能性が高いような気がした。

 少しして階段を降りる音がし、足音はまた家の奥に向かった。

 更にしばらくして廊下を歩く音が再び目の前を通り過ぎた。次いで、玄関の土間を踏む、擦ったような独特な音がし、玄関扉のラッチとストライクが、がちゃりと柔らかい金属音を発生させた。すぐに同じような音がして、そして、施錠する時の、金具が下りてぶつかる音。二十秒ほどして、少しだけ輪郭のぼやけた車のエンジン音を聞いた。遠ざかり、聞こえなくなる。

「……」

 念のため頭の中で三百数えてから、納戸の戸をそっとスライドさせる。引き戸は、お前の心情なんてお構いなしだぜ! と言わんばかりにがらがらと耳障りな音を立てた。

 今まで生きてきてこれほど音に気を使ったことはない。こんなに疲れるとは思っていなかった。僕には空き巣は向いてなさそうだ、と朔は苦笑を洩らした。

 朔は慎重な足取りで階段を昇り始めた。

 昴の部屋は二階の短い廊下の突き当たりにある。何度も遊びに来て見慣れた焦茶こげちゃ色のドアをノックしようとして、しかしそこで動きを止めた。

 勘を信じ──というよりも、最悪の場合を想定し、ここまで来てしまったけれど、昴のお父さんが嘘をついていなくて、本当に心身の疲労で休んでいるだけだった場合、昴はなんと言うだろうか?

「学校に行きたくない」と言い出すような精神状態で、会話を交わしてくれるだろうか?

 面と向かって、「二度と来るな」と拒絶されやしないだろうか?

 あまり楽しくなさそうな未来を想像してしまい、眉間に険しさが浮かぶ。

 だが、朔の網膜に焼きついた昴の暗い表情──まるで「助けて」と言っているような──が、逃げ帰ることを良しとはしない。

 朔は右手で木製のドアをノックした。コンコンコンという硬い音が廊下の静寂に吸収され、物言わぬドアは閉じられたままだ。

「……」

 レバータイプのドアノブに自身の小さな手をやり、しっかりと握る。ドアノブを下げて、そして、ドアを引いた。

「っ!?」

 朔の目に飛び込んできたのは、紙おむつを穿き、タオルらしきものを口に噛まされ、大の字になるようにベッドに縛り付けられた昴の姿だった。

「昴っ!!」普段、大きな声を出すことはほとんどない。しかし、朔は悲鳴のような声を上げてしまった。

 駆け寄り、「昴っ!!」ともう一度、名を呼ぶと、昴は緩慢な動きで朔に顔を向けた。寝ぼけ眼のように瞼が半分くらいしか開いていない。口を塞いでいるのはタオルではなく手拭いだった。後頭部で固く結ばれている。手足を縛るビニール紐はスチール製のベッドの脚にくくり付けられている。

 急いで手拭いを外そうとするが、結び目が固すぎてもたついてしまう。しかし、そう時間は掛からずにほどくことができた。

 手拭いを取り除くと、昴は、「朔……」とかすれた声を出した。

「ちょっと待ってて」そう言いながら朔は視線を勉強机に向けた。

 あった。

 ペン立てにハサミを見つけた朔は、それを手に取り、昴の手足を縛るビニール紐を切断していく。

 程なくして昴を拘束する物はなくなった。

「いったい何があったの?」

 問いかけるも、昴から答えは返ってこない。

 ふと、つんと鼻を突く臭いが気になった。公衆トイレの臭いに傷んだ魚の臭いを足したような生ぐさにおいに顔をしかめる。

 すると、昴は呟くように言った。「かっこ悪いとこ見せちまったな……」

「かっこ悪くないよ」と言ったものの、話を聞かないことには適切な言葉を選ぶことはできない。が、まずは優先順位の高いことからだ。「救急車呼ぶよ」

「……」昴は困ったように眉を歪めた。迷っているようでもあった。

 その心裏を読み切れるわけではないが、肉体的にも精神的にも昴は随分と衰弱しているように見える。「悪いけれど」と前置きし、「ダメって言っても呼ぶからね」と続け、「すぐ戻る」と言って部屋を出た。

 これからどうなるんだろう。

 階段を降りながら、朔はそう独りごちた。



▼▼▼



 朔に助けられた俺は救急車に乗せられ、病院に運ばれた。そして、その日のうちに入院が決定した。

 昼過ぎには父方の祖父母が病室にやって来た。彼らは、「すまん」「ごめんなさい」と謝罪の言葉から口にした。

 その翌日、父が逮捕されたという話を聞いた。

 不思議なもので、あれほど親というものに執着していたにもかかわらず、それを伝えられた時は不安よりも、「やっと休める」という安堵のほうが大きかった。

 二箇月ほど入院し、医者の口から、「そろそろ退院しよっか」という言葉が出た。

 すると、祖母は満を持していたかのように、「これからは私たちと暮らしましょう」と滑らかに口にした。その口ぶりは提案しているようでもあったが、行間からは有無を言わせぬ決意のようなものが窺えた。

 俺は転校することになった。つまりは、朔や優斗と別れなければならなかったということだ。

 同じ埼玉県だし、会おうと思えばいつでも会えるよ。朔はそう言っていたが、俺の中から淋しさは消えなかった。

 退院日、朔と優斗は見送りに来てくれた。病院の駐車場が別れの場所だった。

「元気でね」朔は少女のような顔に微笑みを浮かべて言った。

「ああ」照れたわけではないが、愛想良くするという超高等技術を会得していなかった俺は短く応えた。

「昴……」一方、優斗は泣きそうになっていた。ずず、と鼻水をすする音が冬の空気を震わせる。「電話しろよ」と涙声で言ってきた。

「ああ」やはり俺は同じように応えた。

 一通り別れの言葉を交わし、車に乗り込む直前、俺は振り返った。言いそびれていたことがあったのだ。

「ん?」朔が促すような声を発した。

 優斗も、なんだ? という顔をこちらに向けている。

「ありがとな」

 朔にはもちろん優斗にも感謝している。彼らがいたから小学校は楽しかった。入院中も嫌なことばかりを考えずに済んだ。

「ふふ」と朔が蠱惑こわく的な笑みを洩らした。「どういたしまして」

「うん」優斗も冷たい空気のせいで赤くなった頬を緩めた。「また遊ぼうな」

「ああ」

 絶対また遊ぼう。心の中でそう付け足した。 



 それからは順風満帆な人生だった。などということはない。

 心的外傷後ストレス障害という病気がある。簡単に言うと、トラウマになるってやつだ。

 ただし、正式な精神疾患としてのそれは、日常会話で登場する時の〈ちょっと嫌なことがあって苦手意識がある〉という程度では収まらない、もっとずっと深刻なものだ。

 時折、予兆もなく、父に殴られ、強姦されていた時の恐怖や嫌悪感、不快感が甦ってくることがある。加えて、煙草の臭いを嗅ぐと、父の口を思い出してしまい、吐き気がする。世界に現実感がなくなることもあれば、今まさに体験しているかのように感じることもある。

 退院した俺は紹介状を手に祖父母の家に一番近い総合病院を訪れた。

 そこで俺の主治医になったのが、柳沢淳一やなぎさわじゅんいちという頭の真っ白な、五十歳くらいに見える男性だった。

 彼の診察とカウンセリングは、俺が想像していたものとは少し違っていた。

「煙草の臭いがダメなんだ」と俺が言えば、「じゃあ、煙草を吸ってみよう」と小学生の俺に言い、「空気の美味しいところで吸うと最高らしいよ。今度、登山に連れてってあげようか?」と最低な提案をし、「最近、身体の疲れが取れないんだ」と相談すると、「じゃあ、キャッチボールでもしようか。昔、高校野球で鳴らした百四十ニキロの直球を見せてあげるよ」と諦念を顔にこびりつかせた看護師を尻目に病院の中庭に飛び出す。

 あと、なぜかポカリをやたらと薦めてくる。そんなはちゃめちゃな医者だった。

 柳沢先生との付き合いは高校生になった今でも続いている。

 今日の診察では初めに、「今年の夏の大会は初戦で敗退してしまったけど来年はいいとこまでいけそうだ」という話をした。

 しかし、柳沢先生は俺の話を、「そんなことより」の一言で終わらせてしまった。そんなことより、「彼女できたか?」ということらしい。さらに、「あ、別に彼氏でも言いけど」と意地悪く唇の端を吊り上げてさえいた。

「……いないっすよ」父以外と性的な関係を持ったことはない。だから、俺の言葉に嘘はない。

 のだが、柳沢先生の観察眼は確かなようで、「でも、好きな子くらいはいるんだろ?」と図星を突いてきた。

 今日は気が向いたらその話もしようと思っていた。

 自分で言うのもなんだが、俺は精神科に通わなければいけないような人間だ。そして、好きになった子も普通じゃない。

 たしかに付き合いたいという気持ちはあるし、告白してみたくもある。けど、仮に相手が受け入れてくれたとしても、それがお互いにとっていい結果に繋がるかは分からない。

 恋愛なんてそんなもんだ、と言われてしまえばそれまでだが、一般的なものよりハイリスクではあると思う。

 それならこの恋の萌芽ほうがは、覚られないうちにそっと摘み取ってしまったほうがいいのではないか。

 言うべきか言わざるべきか逡巡する間、柳沢先生は黙していた。

 結局、「……いるよ」と動かぬ証拠とカツ丼をセットで提供された容疑者が自白する時のようにゆっくりと告げた。

「へー! どんな子? 可愛い? おっぱいは大きい?」柳沢先生は机に身を乗り出すようにして矢継ぎ早に質問をした。

「……変わってる子」

「へー、ふーん」柳沢先生は何かを思案するように顎にささくれだった手を添えた。「何かある子なんだ」

 かなわないなぁ、と眉をひそめながら苦笑し、「そうっすね」と答える。

「話す気はある?」ないならないで別に構わないよ、と高級そうな椅子に背をもたれさせた。

「……いや、話すよ」

 そう言って俺は不安と迷いについて話し始めた。

 柳沢先生は、「ほー」「なるほどなぁ」「青春だねぇ」などと相づちを挟みつつ聞いていた。

 話し終わってから俺は訊ねた。「どうすればいいんすかね」

「そうだなぁ……」と天井へ視線をやり、ややあってからこちらに目を向けた。「ま、医者としての意見を言うなら、『やめとけ』だな。難しい子の相手をするのは、昴には少し早い。最初はスライムみたいな子で練習したほうがいい。レベルが上がってきたら捨てればいいだけだしな」

 ひでぇ言い草だ。

 柳沢先生は続ける。「ま、でも、個人的には試してみてもいいと思うよ。『あの時ちゃんと気持ちを伝えてたら』なんてのはありがちな後悔だけど、ないほうがいいだろ?」

「まぁそうっすね」

「とりあえず襲いかかっちゃえばいい。悩むのはやることやってからにしたら?」 

「……」

 なんでこの人に相談したんだろうという後悔と、どうしてこの人は逮捕されてないんだろうという疑問が肩を組んで、「セカンド・オピニオン! セカンド・オピニオン!」と声を上げている。

 だけど、たしかにそうだな、と思う。告白していないうちから、「付き合っても上手くいかないかもしれない」と不安がるのは俺らしくない。「あの時、ビビってなければなぁ」なんて後悔もできればしたくない。

 柳沢先生が壁の時計に目をやった。もう四十分近く経っている。そろそろ時間だろう。

「分かりました。言うだけ言ってみます」俺は診察を終わらせるべく結論を告げた。

「お! そうかそうか。そりゃあ楽しみだな」と柳沢先生は年の割には若々しい笑顔を見せた。



 学校には午後から顔を出すことにした。

 勉強は好きではないけど、苦手でもない。だから、普段なら授業はそれほど苦ではない。

 しかし、今日は授業に集中できそうもなかった。いざ告白しようと思うと、心がそわそわと落ち着かない。

 つい彼女を見てしまう。幸い、向こうはそれに気づいていないようだった。

 放課後、いつもどおりに部活に参加し、そして、あっという間に帰る時間──夜の九時を過ぎている──になった。

「お疲れ様でしたー」マネージャーの一花いちかが疲れを感じさせない元気な声で挨拶をして帰っていった。

 俺も早く帰ろうと部室で着替えをしていると、ホワイトボードの近くの椅子に見覚えのあるスマートフォンがあることに気がついた。

 一花のじゃん。

 一花のスマートフォンのケースには淡黄たんこう色の小さな花が一輪だけ印刷されている。

 手に取り、部室の引き戸へと視線をやった。

「……行くか」

 今から追いかければ、俺の足ならすぐに追いつける。家の方向はだいぶ違うが、仕方がない。

 部室の、汚れだらけの引き戸に施錠し、鍵を監督に渡す。「お疲れっした」

「お疲れ──」監督の挨拶を最後まで聞かずに駆け出す。「様……。何を急いでいるんでしょう?」という声が遠ざかっていく。

 玲瓏れいろう高校は大きな川の近くにあり、その川は玲瓏高校から北北西に向かって伸びている。俺の家はその川の西側、学校から見ると北西の位置にあり、一花の家は東側、学校から見ると北東の位置にある。

 学校を出た俺は橋を渡った。東側の土手道をひた走る。

 この町はどちらかというと田舎だ。なので、夜の土手道は人の気配がまったくない。

 けれど、静まり返っているわけではない。虫たちが盛んに鳴いているからだ。

 土手道と川はかなりの高低差がある。走りながら横目で河川敷を見下ろす。街灯はほとんどなく、住宅街ゆえに駅前のようなネオンサインもなく、川は闇に包まれている。

「……は?」河川敷に生い茂る、ススキを始めとした背の高い草たちが不自然に揺らめいたように感じ、思わず足を止めた。

 暗く、距離もある。しかし、目を凝らせばそこに人がいると分かる。

 心臓が大きく跳ねた。その脈動は急速に激しさを増していく。

 見間違いでなければ、河川敷には二人の人間がいる。一人が覆い被さるようにして動いている。川のせせらぎと風に紛れつつも、微かに、「──やっ!」「──!」と声が聞こえた。

「うっそだろ。勘弁してくれよ」俺は震える声でおどけるように言った。そうしないと、気を失ってしまいそうだった。

 俺の遥か下方、河川敷の茂みの中では強姦が行われているようだった。そういえば、地元の中学生が強姦されたというニュースがやっていた。監督も、「注意するように」と言っていた。

 走っていた時以上の汗が溢れ出る。

「──っ!」息を飲んだ。衣服を剥ぎ取られまいと必死に抵抗している人間の顔が、先ほどまで一緒に部活をやっていた少女のそれに見えたのだ。

「一花……」かすれる声を洩らした。

 暗くてよく見えないから気のせいかもしれないが、俺にはそう見えた。

 身体が凍ったように動かない。

 父の怒鳴りつける声がする。何度も何度もぶたれた腰や臀部が痛む。飲まされた精液の苦味と生臭さが口内に広がる。肛門を貫かれ、直腸を抉られる不快感と屈辱感が心を締めつけてくる。

 回転性の目眩がして、ふらつく。堪らず膝をついた。俺自身の荒い呼吸が父のそれに重なり、強烈な自己嫌悪が生まれる。

「……くそっ」苛立ちが口をついて出た。

 なんでそういうことすんだよ。なんで俺の前でやるんだよ。なんで一花なんだよ。

 理不尽な現実に怒りが湧く。けど、一番ムカつくのは──。

「なんで動けないんだよ……!」

 もうずっと昔のことを言い訳にして一花を助けずにいる自分自身が、父よりも下衆な人間に思えて、悔しくて、怒りが込み上げてくる。

 その時、一際大きな声が聞こえた。「やめてっ!」

 うつむいていた顔を上げる。下着を脱がされた一花が、顔を殴られていた。痛みのせいか、一花の抵抗が弱まる。

 暴漢が自身のズボンに手を掛けた。

 ふと、今まで一花や瑠衣るいあたると過ごした記憶が走馬灯のように脳裏を流れた。

 楽しかったと思う。あまり人付き合いの得意なほうではない俺だけど、彼女たちとの時間は嫌いじゃなかった。

 もしここで何もしなかったら、俺は今までどおり彼女たちと友人ではいられないだろう。彼女たちが許しても俺が俺を許せない。

「──おいっっ!!」気がつけば叫んでいた。涙が滲む。立ち上がり、「てめぇふざけんなよっ!」と土手を駆け下りる。

 ズボンを足の付け根の辺りまで下ろして尻を出していた男が、ぎょっとしたように振り向いた。

 飛び出したはいいが、こっからどうすればいいんだ? とりあえず落ちてる石でも投げるか? それとも素直にぶん殴るか? はたまた警察に電話するか?

 そう思った時、男の側でぐったりしていた一花が動いた。仰向けに横たわったまま、長い足で男の男性器を踏むように蹴りつけたのだ。

「うわぁ……」同情する気は毛頭ないが、一切の手心を加えていないであろう強烈な一撃に俺は引いた。

 男は濁音を発しながら身体をくの字に曲げ、次いで、亀のようにうずくまった。丸出しの尻がいやに目につく。

 一花が、「警察に電話してっ!」と指示を出した。

「おう。分かった」と応え、スクールバッグからスマートフォンを取り出す。

 警察に電話して事情を話す。この場所を伝え終わった時、男が立ち上がった。素早くズボンを上げた男は、落ちないように片手でズボンを押さえたまま逃げ出した。

「あ」と俺が声を洩らすと、スマートフォンの向こうにいる警察官の男性が、『どうしましたっ!? 何かありましたか?!』と焦ったように訊ねてきた。

「それが……」と答えつつ一花を見ると、彼女は、「大丈夫」とにんまりとした。

 大丈夫ってどういうことだ?

 一花は訝る俺を放って、先ほどまで自身が横たわっていた辺りを漁りはじめた。

 そして、程なくして、「あったーっ!」と喜びの声を上げた。

『何が起きてるんです?! 大丈夫ですか!?』と言っているスマートフォンを耳から離し、「何を見つけたんだ?」と落ち着いた口調で訊ねた。

「へっへー」これっ! と一花が見せたのは二つ折りタイプの財布だった。

「まさか……」

「そう。そのまさかです!」一花は誇らしげに言う。「襲われてる時、どさくさに紛れて財布を抜き取ってそこら辺に放り投げてたんだよね。警察に行く時に犯人の証拠があったほうがいいと思って」

「うわぁ……」俺はまた引いた。

「ちょっと! 引かないでよ」

「いや、すまん」

 それから、一花は何を思ったのか、「怖かったー」とわざとらしく言いながら抱きついてきた。「もうダメかと思ったー」

 どう応えたものかと悩んでしまう。その恐怖はよく分かるけど、一花を見ていると疑わしく思えてならない。意外と大丈夫なんじゃね? と。

 パトカーのサイレンが聞こえてきた。スマートフォンからは、『間もなく到着します!』という言葉が発せられた。

 俺は小さく安堵の息をついた。

 恐怖はある。そんなに都合良く楽にはなれない。けど、と思う。

「かっこよかったよ。ありがと」とはにかんだように言う一花を見ると、泣きながらでも行動してよかったな、とそう思う。

 朔のように誰かを助けられた。少しだけ自分を好きになれそうな気がした。

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