瑠衣

 雨が降っている。六月の教室は、やはりむしむしとしていて、なんだか肌がベタつくような気する。

 だから、わたしが道枝みちえだ先生の退屈な授業に集中できないのは致し方ないのだ。

「どうしました?」道枝先生が、当てられて立ったきり何も発せずにぼんやりとしているわたしに訊いた。「芸術についての筆者の考えですよ」と要求を繰り返す。

 授業を聴いていなかったし、本文も読んでいなかったので何のことか分からない。

 困ったなぁ、と視線を落とすと、隣の席に座るすばるが机の上の解答用のプリントを少しだけ動かした。指でプリントの一箇所を軽くとんとんと叩く。助け船を出してくれたらしい。

 心の中で、ありがと、とささやいてから、昴のプリントに記された解答を読み上げる。「芸術が社会に与える影響は──」

 わたしが昴の解答を言い終えると、道枝先生は、「はい、正解です」と頷いた。なんとかなった、とわたしが息を吐いたところで、「しかし、次からは自分の解答を教えてくださいね」と釘を刺された。

「……はい」

「結構」

 道枝先生に目で着席を促されたので素直に席に着く。

 すると、昴が潜めた声で、「わりぃ、バレちまった」とこちらを見ずに言った。

「いい」と応えた。芸術論ではなくお菓子のことを考えていたわたしが悪いのであって、昴が謝るようなことではない。「ありがと」

「ん」と昴が発したような気がした。



 マネージャーと言えば、多少はかっこよく聞こえるけれど、有り体に表現すれば雑用係である。野球道具の手入れをしたり、記録をつけたり、球拾いをしたり、だ。

瑠衣るいー、飲み物くれー」と昴に言われたので、「はい」と練習前に作っておいたスポーツドリンクを渡す。

 昴はごくごくと喉を鳴らし、少し甘い液体を胃に流し込む。汗が昴の喉を伝う。

 満足したのか、昴は容器から唇を離し、「ふー」と息を吐き出した。「さんきゅー」

「うん」

「じゃあな」昴はまた練習に戻っていった。背中を見つめ、しかし数瞬でやめる。

 夏の大会を目前に控え、みんな練習に熱が入っている。一応は強豪に分類されるわたしたちのチームは、現実的な目標としてベストフォー以上を目指していた。あまり野球に詳しくないわたしには、それがどのくらいすごいのかはっきりとは分からないけれど、みんなの士気の高さを見るに、かなり高い目標なのだろう。

 あたるも頑張っている。最近では心なしか無駄な脂肪が減り、引き締まってきたように感じる。

 練習を眺め、雑用をこなし、気がつけば辺りは暗くなっていた。雨は降っていないけれど、じっとりと湿った空気が流れている。やだやだ、と内心で毒づく。

 更に時間が過ぎ、今日の練習が終わり、最後のミーティングが始まった。

 このミーティングでは、わたしや一花いちかを含めた部員たちがそれぞれに課題や感想を言い、それらについて全員で検討し、改善策を考えていく。

 一方、道枝先生は意見を求められない限り静観する。曰く、自分で考えて成長できる選手になってほしいそうだ。

「そこは──」捕手と投手を除くすべてのポジションをこなせる小谷こたに先輩が、二年生の先輩に守備について教えている。わたしにはよく分からないけれど、教えられた先輩は、「分かりました! 意識してみます!」と笑みを見せた。

「うん。頑張って」小谷先輩は微笑んだ。

 なんとなく気になって昴に視線を向けると、目が合った。一秒だろうか、二秒だろうか、すぐにわたしから目を逸らした。

 ミーティングは、「腹も減ったし、今日はここまでにしよう」と大橋おおはし先輩が言うまで続いた。

 たしかにお腹はいている。ぐぅ、と騒いでいる。ぐぅ。また鳴った。周りに聞こえただろうかと見回すと、また昴と目が合った。

 まさか聞かれたのだろうか。

 この距離だ。そんなはずはないと否定しつつも、頬に小さな火が灯った。



 帰りの支度を終えて部室を出たところで、大橋先輩と昴が話している場面に出会でくわした。

「お」と大橋先輩が口をすぼめるように丸くした。

「お疲れ様でした」わたしが軽く会釈して帰ろうとすると、「ちょい待ってくれ」と大橋先輩に呼び止められた。

 なんだろう。練習中に居眠りしたことだろうか。

「なんですか」わたしの口調には愛想がない。表情の変化も乏しいから人間味に欠けるという印象を与えていると思う。もっと上手く会話をできたほうが得をするのは重々承知しているけれど、人間、そう簡単には変われない。

 でも、大橋先輩はそんなわたしの態度にも気を悪くした様子もなく、「頼みがあるんだ」と愉快そうな表情で言った。「土曜日は暇か?」

 三日後……。

 中と一花とダラダラする以外の具体的な予定は何もない。つまりは、「暇ですけど」ということだ。

 わたしがそう言うと、大橋先輩は、「そうかそうか。それはよかった」と嫌らしい笑みを深くした。

 さっきからなんなんだろう。

「じゃあさ、ちょっと偵察してきてくんない?」

「──ていさつ?」



 ──昴と共に私立埼玉俊逸しゅんいつ高等学校の練習試合を観戦すべし。

 俊逸高校は優勝候補に名前が挙がるほどの名門であり、不運なことにわたしたちの一回戦の対戦相手だ。中は、「十回やったら、八回は負けると思う」と困ったように眉根を寄せていた。

 大橋先輩はその戦力分析をわたしと昴に任せたいそうだ。

「昴はともかく、わたしは不適」と言うと、「素人の直感的で素直な感想も必要なんだ」と肩を揉まれ、「どうせ暇なんだろ」と断定された。

 そのとおりではあったし、休日の気軽な野球観戦と考えれば悪くはない。わたしは了承した。

 練習試合の当日である土曜日の駅前は、まだ朝だというのにそれなりに人が多く、特別、人が苦手ではないけれど、けっして得意ではないわたしは、待ち合わせ場所に到着した時点で少し疲れていた。

 街の人を眺めること十分弱、交差点の横断歩道の前で信号が変わるのを待っている昴を見つけた。そこそこ離れているけれど、わたしに気づいたようで、昴は片手を上げてそれを伝えた。

「そういう格好なんだな」横断歩道を小走りで渡ってわたしの下にやって来た昴は、大して珍しくもないワンピースを着たわたしに開口一番そう言った。

「あなたはイメージどおり」ダメージジーンズにTシャツという、なんの捻りもない出で立ちの昴に向かって、わたしは言った。

「そうか?」と昴は下を向き、自身の服装を確かめる。「そうかもな」

「うん」

 腕時計に目をやると、午前九時を過ぎたところだった。目的地の俊逸高校へ向かう電車には、まだ少し余裕がある。けど、早めに動いたほうがいいだろう。

「行こうぜ」昴が駅構内に向かって歩き出す。

 また、「うん」と言い、後を追う。



 今日のことは一花には言っていない。一花が昴に対して恋愛感情のようなものを抱いていることは知っているけれど──わたしの行為が裏切りのような何かであるかもしれないとは思ったけれど、でも、言わなかった。

 これくらい許されてもいいはず。大橋先輩の頼みだし、やましいことは何もない。

 電車の座席に少しの隙間を空けて座り、向かい側の窓を流れる景色を眺めながら、そんな言い訳を思う。

 電車が止まり、わたしたちの乗る車両から数人の乗客が降りる。そして、入れ替わるように同じ人数が新たに乗り込んできた。

 土曜日だというのにスーツをきっちりと着たサラリーマン風の男性、わたしたちと同じくらいの年齢に見える、けれどしくこく脱色したらしき派手な髪色の少女たち、大きなお腹をした見るからに妊婦さんの女性など。

 その女性が手帳のようなものをトートバッグから取り出しそうとし──手を滑らせ、トートバッグの中身を床にぶちまけてしまった。

 煩雑な音に周囲の乗客の視線が集まった。

 大きなお腹で屈むのが大変だからなのか、妊婦さんは困ったように眉を歪めている。

 乗客の反応は三つに分かれた。嫌な顔をして無視する人、嫌な顔はしないが気に掛けることもせずに無視する人──わたしはこのグループだ──、人の良さそうな顔で拾うのを手伝う人。

 ただし、例外もあった。昴だ。

 昴は、「ちっ」と顔をしかめて舌打ちし、しかし席を立ち、妊婦さんの荷物を拾い出したのだ。

「ほら」と昴は幾つかの荷物を妊婦さんに渡した。

「ありがとうございます」妊婦さんの感謝の声は、それが単なる社交辞令でないことを物語るように罪悪感と安堵感の色をにじませていた。

 妊婦さんは大変だな、と思いながら彼女から視線を外す。何もしなかった自分を恥に思ったわけではないけれど、胸のあたりがさわさわとしたから。

「よいしょ」昴は、どかっとわたしの隣の元の位置に腰を下ろした。「俊逸高校しゅんこうは、とにかく弱点がないんだよ」

 いきなり切り出され、一瞬呆けてしまったけれど、よく考えなくてもそれが本来の目的なので本来の意味の〈いきなり〉ではなさそうだ。

「そう……」と相づちを打ち、目的を忘れていたことを忘れられるように努める。

「なんで弱点がないかっつーと、部員数が多いからなんだ」

「うん」 

「たぶん俺らの倍以上はいるんじゃねぇか」

「詳しいね」

 偵察などいらなかったのではないだろうか。

「別に。みんな知ってることしか分かんねぇよ」昴は自然体だ。特別な感情は窺えない。

「そう」

 車内アナウンスが次の駅名を告げた。昴が立ち上がる。わたしもそれに倣う。

 ふと気になって先ほどの妊婦さんを探すと、少し離れた位置に座った彼女と視線がぶつかった。会釈されたので──わたしは何もしていないのだけど──軽く頭を下げた。

 電車が停まり、ドアが開く。

「降りるぞ」

「うん」

 昴に続き、乗車口をくぐり、駅のホームに降り立つ。わたしたちの高校の近くの駅よりも規模が大きい。この駅には何度も来たことがあるので勝手が分からないわけではないけれど、人口密度が高いのは喜べない。偵察を安請合いしたことを少し後悔した。

 慣れた様子の、迷いのない足取りの昴に続き、進む。「久しぶりに来たけど、人が多いってのはやっぱ疲れんな」

「……うん」



 俊逸高校には徒歩で向かう。スマホの地図アプリに従うだけなので、迷子になるなんていう残念なことにはならない。

 しばらく幹線道路沿いの道を並んで歩いていると、アプリが、『次の交差点を右に曲がってください』と言ってきた。

 昴にも当然聞こえている。「あとちょっとだな」と言った。

 先を見る。まだそこそこの距離はある気がする。「次の次くらいの距離」

「そうか?」昴にとっては近距離らしく、共感はしてもらえなかった。

 今日は、最近では珍しく雲一つない快晴だ。当然、日射しも強いし、気温も高い。薄い生地のワンピースにもかかわらず汗をかいてしまっていた。

 横の昴を見ると、わたしと同じように汗を滲ませていた。もう夏が本格的に始まっているのかもしれない。

「大丈夫か?」不意に昴が訊ねてきた。

「何が?」

「暑さとか、疲れとか」そう言った昴の口調は、随分とそっけなかった。けれど、その奥にある感情はそうではない。希望的観測だろうか。

 ふと思う。もしわたしが、「大丈夫じゃない。もう歩きたくない」と駄々をこねれば昴はどうするのだろうか。呆れつつも休憩を取らせてくれるのだろうか。それとも不機嫌になるだろうか──いや、それはない、ような気がする。

 少し試してみたくはあったけれど、嘘偽りなく、「大丈夫」と伝えた。

「ん」昴は応えてから、「無理すんなよ」と優しい言葉を口にした。

 そうは言っても、試合開始の時間には遅れられない。「大丈夫」と繰り返した。

「そうか」昴はささやくように言い、「どうしてもダメならおんぶしてやるから遠慮なく言えよ」と笑った。

「大丈夫だってば」

 想像すると、かなり恥ずかしい絵面になった。でも、やっぱりちょっとだけ試してみたいと、そう思った。



 年季の入った校舎の俊逸高校はおよそ百メートル先だ。一応わたしたちは敵なわけで、大手を振って、「お疲れ様でーす」「おはようございまーす」と敷地にお邪魔するのはためらわれる。

「ふむ」と顎に手をやって芝居がかった声音で発した昴は、「グラウンドの外側を調べてみよう」とそのファッションセンス同様、シンプルでストレートな方法を提案してきた。

 ここでわたしは思い至ったことがあった。「あのさ」

「なんだ?」と昴はこちらを見た。

「もしかして、わたしたちって不法侵入の犯人になっちゃうの?」

 昴は、にやりと唇で三日月を作り、一拍の後、「これでお前も不良の仲間入りだな」と声を踊らせた。

 わたしたちの玲瓏れいろう高校には、ステレオタイプの不良はほとんどいない。昴は不良というよりはやんちゃな学生といった感じだし、一花はただのチャラチャラしたギャルだし、中とわたしは地味だし、すずはクールな優等生だし、うん、やっぱり不良はいない。

 口を閉ざして自分の高校の校風について考えていると、昴は何を思ったのか、「どうした? やめたくなったか?」とからかいの中に心配の絵の具を数滴混ぜたかのような不思議な声色で問うてきた。

 わたしの口から、くすりと小さな笑みが零れ落ちた。

 上手く言えないけれど、可愛いな、という気持ちが湧いたのだ。

「なんだよ」複雑な心情は霧散し、不機嫌と怪訝が昴を占拠していっているようだ。

「ううん」なんでもない、と首を振る。可愛いな、と思っただけ、とは言わないでおく。代わりに、「早く行こ」とグラウンドを目指し、横の小道に入る。道の両側は住宅が並んでいる。

「お、おう」戸惑った声が後ろから聞こえた。

 やっぱり可愛い。



 土地勘があるわけでも地図を見たわけでもないけれど、わたしたちはグラウンドと細い道路を隔てる緑色のネットに行き着いた。ネットの高さはどのくらいかな、と顔を上げる。うん。よく分からない。

「お、くもだ」昴が言った。

 くも? 雲なんてない青空が広がっているけど……、と嫌な予感からあえて目を逸らし、空から昴に視線を移す。「あっちのほうがよく見える」と控えらしき野球部員たちが集まっている場所とわたしたちが今いる場所の中間地点を指差す。

「バカか?」昴は真顔だ。この言葉は本心からだろう。「俺らは敵なの。そんな奴らがあんなに近くからから観戦していいわけねぇだろ? 離れた所からこそこそ覗き見るのがロマンってもんだ。そっちのほうがわくわくするだろ。違うか?」尤もらしい物言いだけど、言っている内容はとてもくだらない。

「嫌だ」譲れないものが、わたしにもある。

「だいたいよぅ」昴は左右を見た。「蜘蛛なんてそこらにいるから移動しても意味ないって。それどころか、ゲジゲジとか蜂とかもいるかもしんねぇし」

「もう帰る」

「部室にも蜘蛛はいるだろ? それはいいのかよ」

「よくない。見つけ次第、中か一花になんとかしてもらってる」

 でも、今はそうはいかない。ただ、偵察は必要だとも思う。ので、「……」と沈黙してしまう。

「はぁ」昴はこれ見よがしにため息をついた。それから、「バイト始めたって話、したっけ?」と唐突に話題を変えた。

 そういえばそんなことを誰かから聞いたような気がする。直接には聞いていないので、ううん、と首を振る。

「ちょっと前から学校の近くのマックでバイトしてんだよ。で、そのバイト代がこの前入ったんだ」

 おや? と内心で呟く。あくまで内心でだ。

 昴は、表面上は黙り込んだままのわたしから整列している俊逸高校と対戦相手の生徒たちに視線を移動させ、続ける。「だから今の俺は金に少し余裕がある」

 ほうほう。話の先はほとんど読めているけど、「それで?」と白々しく促す。

「お前……」いい性格してんな、と零してから、「この偵察が終わったら昼飯奢ってやるよ」と仕方なさそうに口にした。

「……」わたしは焦らすように数秒返答を先送りにし、それから、「なんでも?」と重要事項を確認した。

 うわぁ、と昴は顔をしかめた。「なんかカツアゲにあった気分なんだけど」

「失礼な」わたしは健気に頑張っているだけだ。なので、ちょっとしたご褒美があってもいいじゃない、と思う。「ひどい誤解。わたしは悲しい」

「はいはい」昴は疲れたように息を吐き、そして数歩移動し、犯人の手掛かりを探す鑑識官のようにネットを見回し、「ほら。こっちには今んとこ、虫はいねぇよ」とわたしに顔を向けた。

「……」応答をせずにグラウンドを見た。

 ネットの向こう、グラウンドでは俊逸高校の対戦相手──都立清雅せいが高等学校の選手たちがそれぞれの守備位置に立ち、試合開始を待っている。日射しは強い。気まぐれに吹いた緩い風が肌を撫で、草木の青臭い香りが鼻腔びこうをくすぐった。

 どうした? と昴が言うので、「なんでもない」という言葉を微風そよかぜに乗せるようにそっと口にした。

 わたしが昴の横に並んだ時、投手の投球練習が終わり、試合が始まった。 



 俊逸高校対清雅高校の練習試合は、スコアボードに零と一のみが登場する、プロ顔負けの引き締まったものであった。わたしにはよく分からなかったのだけど、昴は、「ありゃあ、やべぇな」とか「全員、ほかんとこなら四番を打てる」などと愚痴と感心を混ぜたようなことを言っていた。

「でも、十回やって二回は勝てるんでしょ?」わたしが訊ねると、昴は、「いや」とにらむように選手たちを見つめたまま否定し、「三回は勝てる」と中よりは強気なことを言った。

 そう、とわたしは応え、静かに観戦しているフリに戻った。頭の中はお昼ごはんのことでほとんどいっぱいだったから、フリ、である。

 試合は四対三で俊逸高校の勝利であった。昴曰く、「ま、なんとかなるっしょ」だそうだ。

 俊逸高校の人たちは明らかにわたしたちを認識していたと思うのだけど、昴は、「さ、試合も終わったし、バレねぇうちに退散するぞ」と言い、わたしの返事を待たずに歩き出した。

 太陽は真上の辺りにある──アナログ式の腕時計は十二時前を示していた。どうりでお腹が空いているわけだ。

 小走りで昴に追いつく。「お肉とお魚と麺とお米とケーキが食べたい」わたしは自分の食欲に正直なのだ。

 けど、昴は怪訝そうな顔をした。「なんだそりゃ? どんだけ食うんだよ」

「そんなには食べられない」わたしは少食ではないけれど、大食いでもない。一般的な十代女子の食べられる量しか入らない。

「めんどくさい奴だな」昴は同じ歩幅で歩きつつ少し考え、やがてわたしが行きたいお店に思い及んだのか、「あー」と気の抜けたような間延びした声を出した。そして、正解を口にした。



 タッチパネルを指で叩く。すると、注文の確認画面が表示されたので、〈はい〉の文字をタップする。少しして小さなお皿に載った、ハンバーグ、つぶ貝、サーモンのお寿司がレーンを滑り、やって来た。

 わたしたちは俊逸高校の最寄り駅の近くにある回転寿司店に来ていた。このお店は、というより最近の回転寿司はお寿司の食べられる総合飲食店と化しているので、いろんなものを自分のペースで食べたい気分だったわたしには丁度よかったのだ。

 わたしがクイズ感覚で要望を伝えたことに気づいた昴は、「めんどくさい奴だな」と最初よりも気持ちの込められた声音で言っていた。

 ハンバーグ寿司を咀嚼そしゃくすると、肉の旨味と特製ソース──特製といってもマヨネーズを使ったありふれたものだ──の味が口内に広がった。

 うん。変に凝っていなくて食べやすい。普通に、「おいしい」。

「思うんだけどよ」箸でつぶ貝のお寿司をつまんだ昴が言う。「寿司屋でハンバーグってのを最初に始めた奴は、ロマンを分かってるバカか、伝統を分かってないバカのどちらかじゃねぇかな」

「さぁ?」仮にその推測が正しかったとしても、そのバカのおかげでわたしの欲望は満たされているのだから悪いバカではない。

 結局、お店を出たのは午後一時半ころだった。

「ごちそうさま」礼を言う。

「おう。本当にな」昴が苦笑する。「瑠衣って、意外とちゃっかりしてるんだな」

「そうかな」

「ああ」

 駅前の大通りを歩きながら、これからどうしようか、と思案する。もうこれといった予定はない。けど、せっかくだし、もう少し──。

「──あ」やにわに、昴は何かに気づいたような声を発した。「あれ」と前方を歩く少女を指差した。「あれって小豆沢あずさわじゃねぇか?」

 小豆沢は鈴の名字だ。おいしそうでとてもいい名字だと褒めたことがある。鈴は、「あなたは食べ物のことばっかりね」と呆れたように眉を歪めていた。

 昴ほどではないけれど、わたしも目は悪くない。目を細めずともその歩き方と後ろ姿が彼女のものであることが分かった。ので、「うん。たぶんあれは鈴」と答える。「何してるんだろ……?」

 鈴は白いロングシャツと裾を少しまくったベージュのチノパンを着こなしている。目鼻立ちの整った、クールな印象を与えるルックスの鈴が着ると、大人っぽさが際立つ。かっこいいな、と思う──それはいいのだけど、なんだか違和感を覚える。

 なんでだろう? という疑問の答えはすぐに出た。鈴の歩くリズムが変なのだ。視線を何かに固定しているようでもあるし、これではまるで──。

「尾行でもしてんのか?」昴が先に口にしたそれにわたしも頷く。「わたしにもそう見える」

 鈴の視線の先を見やる。すると、彼女と歩くペースが同じ人物を見つけた。ここからだと、淡いオレンジ色のスカートを穿いた女性であることくらいしか分からない。

 そういえば……、とたった今、思い出した。あれは一箇月前の日曜日だっただろうか。

 近所に住む鈴は、その日、わたしの家に来て一緒にテスト勉強をしていた。鈴は頭がいいので、わたしはよく勉強を教えてもらっているのだ。その時に、「伯父さんの探偵事務所でバイトすることになった」と言っていた。

 つまり、鈴は今、探偵の仕事として尾行していると考えられるということだ。

 それを昴に伝えると、「ほーぅ」と唇の両端を吊り上げた。まるでイタズラっ子のようだ。というより、そのものだ。

 先んじて、「そっとしておこう」と言う。

 しかし、「人生を楽しむには、ほんの少しの悪意が必要だと思わないか?」と訳の分からないことをまた言い出した。

「ダメ」わたしは言った。でも──。

「またまたぁ。瑠衣もホントはおもしろそうって思ってんだろ?」素直になれよ、と青少年に道を踏み外させることを生業なりわいとする人間が言いそうなことを口にした。

「……」正直、気にはなる。

「よし、決まりだな」昴が笑う。

 何も決まってない、という言葉が喉を越え、唇の裏まで来るも、結局、わたしは何も言わなかった。

 それじゃあ忍び寄るゴキブリのように可及的速やかに小豆沢に近くぞ。昴はそう言って、歩調を速めた。

 数瞬迷って、わたしも続いた。



 昴は鈴の背後に音もなく忍び寄り、「よぅ。楽しそうだな」といきなり声を掛けた。

「っ!?」クールな鈴は──自身のイメージを気にしたか否かは不明だけれど──悲鳴を上げることはなんとか踏みとどまったようだった。「天馬てんま……、それに瑠衣も」

 少しの罪悪感がわたしに気まずさを覚えさせた。そのせいでどんな言葉から始めればいいか分からなくなってしまったわたしは、「元気?」とかなり不自然な挨拶を口にした。

「今、忙しいんだけど」鈴は少し低めの声でやんわりと拒絶した。彼女は、ちらりと横目で道の先を見る。

「まぁまぁ、いいじゃねぇか」昴は愉快そうに言う。「邪魔はしねぇから俺らも仲間に入れてくれよ」この絡み方自体がすでに邪魔以外の何ものでもない。

 ちっ、と鈴から舌打ちが聞こえた。それからため息。「どうせ退かないんでしょ?」

「当然」昴は力強く頷いた。

「私の指示には従ってもらうからね」

「当然」同じように昴は顎を引いた。

「瑠衣もだよ」と鋭利な目がわたしを射貫く。美人が怖い顔をすると本当に怖い。

「分かってる」と肯首する。

 歩きながら話そう。鈴はそう言って歩き出した。わたしと昴も足を動かし、三人で横並びになる。

 すると、鈴は口を開いた。「休日、暇な高校生が街をうろついてる。そういう感じを出して」

「オッケー」昴は軽佻浮薄けいちょうふはくな口調で了承した。頬が緩みかけていることが、わたしの不安をあおる。

「分かったけど……」とわたしは鈴の視線をなぞるように目を動かす。わたしたちの三十メートルほど先をさっき見つけたスカートの女性が歩いている。

 彼女を尾行しているということで間違いないのだろうか?

「今の状況を簡単に説明するけど、大きなリアクションはしないでよ」有無を言わさぬ迫力が鈴にはあった。

「おう」「うん」昴とわたしが肯首する。

「お察しのとおり、私は今、探偵の仕事で、あのパステルオレンジのロングスカートを穿いた女性を尾行してるとこ」変な声は上げないでね、と念を押してから鈴は続ける。「目的は浮気調査ね」

「おー」昴は楽しげな声を発した。空気を読んだわけではないけれど、わたしも小さく、「ぉー」と声を出した。

「遊びじゃないんだからね」鈴は僅かに眉をひそめた。「分かってる?」

「わぁーってる、わぁーってる」声色から判断するに、たぶん昴は分かっていない。

「……なんでよりによって君らに会っちゃうかなぁ」鈴がぼやく。

 昴と一括りにされるのは納得できないけど、やっていることは同じなので甘んじて受け入れるしかないと思わなくもない。だから、「ごめん」と口から出た。

「こうなったら協力してもらうから」鈴が言った時、ターゲットの女性が十字路を右に曲がった。視界から消えてしまった。どうするの? という意味を込めて隣の鈴を見ると、鈴は、「あの十字路まで走るよ」と言って駆け出した。

 尾行って慌ただしいのね、と思いつつ鈴の背中を追う。

 十字路に着くと、鈴だけが角にあるコンビニの壁から顔を覗かせ、女性の曲がった道を見る。ホッと安堵の息を吐いたのか、その背中が小さく揺れた。「よかった」と彼女の口から零れた。「尾行を続けるよ」

 土曜日の昼間はやはり人通りが多い。なので、尾行はしやすいと思われる。常に女性を視界の端に置きながら鈴の話を聞いた。

 依頼人はスカートの女性の旦那さん──旦那さんは医師をしているそうだ。奥さんであるスカートの女性は専業主婦で、子供はなし。年齢は二人とも三十代。旦那さんは、奥さんの勤めていた個人経営の喫茶店の常連客だったそうで、旦那さんからアプローチしたらしい。

 古風なエプロンドレス姿でウェイトレスをする奥さんに青年が熱い眼差しを送るシーンを思い浮かべていると、昴が、「勝ち組じゃん」とつまらなそうに言った。

「そうね。奥さんも美人だし」鈴はスマートフォンを取り出し、奥二重に眼鏡を掛けた優しそうな女性の画像を見せてくれた。「これが浮気を疑われてる女」

 たしかに美人だ。これなら浮気相手には困らないだろう。

「ふーん」昴は大して興味のなさそうな声を出した。そして、「なんで疑われてんだ?」と訊ねた。

「それが」鈴はいったん息継ぎをした。「旦那さんの同僚が、若い男と奥さんが二人きりで買い物してるとこを見たらしいの」

「……」昴は呆気に取られたのか、目をしばたたいた。「それだけ?」

「それだけ」鈴はあっけらかんと答えた。

「そんなん、奥さんに自分で訊けばいいじゃん。『あの男はなんだ?!』ってよ」昴は、「わざわざ探偵を使うとか、金のある人間の思考はよく分からんな」とぼやくように続けた。

「本人に問いただすのは動かぬ証拠を掴んでからにしたいんだって」

「そんなもんかね」

 そんなもんかもね、と思いながら奥さんに目をやると、彼女は立ち止まり、スマートフォンを耳に当てていた。あ、と声を洩らしたのは、わたしだけではなかった。

 相性の悪そうな昴と鈴が顔を見合せ、無言で頷き合う。それから、わたしたちの目の前にあるブティックに一瞥をやった鈴が言う。「ここのショーウィンドウを見てる風を装って」

 うん、と内心で頷き、実際にショーウィンドウを見てみる。わたしたちが着るには大人っぽすぎる洋服を着たマネキンがいた。値札を見ると、わたしのお小遣いではとてもじゃないけど買えない額が記載されていた。

 奥さんがスマートフォンを耳から離した。移動はせず、その場でスマートフォンを弄りながら立っている。誰かを待っているように見える。

 間男はどんな奴かなぁ?! と昴は好奇心を一切隠そうとしていない。「やっぱ、若いイケメンなんかな?」

 ゴシップネタに群がる三流記者のようであまり品は良くないとは思うけれど、わたしも興味がないわけではない。離婚や損害賠償のリスクを負ってまで付き合いたい男の顔を見てみたくはある。

 そんな浮わついた心情のわたしたちを見てため息をついた鈴は、「期待してるとこ悪いけど」と前置きしてから言う。「浮気してると確定してるわけじゃないからね? 仮に浮気してたとしても今日会うかも分からないし」

「その心配はいらないみたいだぜ」昴は言った。

 その言葉の意味をほとんど間髪を入れずに理解したわたしは、逸る気持ちを抑え、ゆっくりと目だけを奥さんに向けた。

「う、そ……」わたしの呟きは街行く人々のざわめきにかき消された。

 わたしの目には、奥さんと親しげに話す道枝先生が映っている。

「なぁ、あれって監督だよな」昴がショーウィンドウに顔を向けながら訊ねた。

「だと思う」わたしが答えたすぐ後に、「国語の道枝先生だね」と鈴も無表情で言った。

 わたしの知る道枝先生は、野球が関係するとき以外は〈すみません〉が口癖の、まじめで大人しいお兄さんだ。そんな人が不倫なんてするものだろうか。

 気づけば、信じられない気持ちに表情が引きづられ、呆然と口を半開きにした間抜けな顔のわたしが、ガラスにうっすらと映っていた。ガラス越しに昴を見ると、彼は僅かに肩をすくめた。「人は見かけによらねぇな」

「まだそうと決まったわけじゃない」鈴はあくまで冷静だ。

「でもよ、見てみろよ」昴は顎で道枝先生を指した。「照れくさそうにしてねぇか、あれ」

 我慢できずにそちらに顔を向ける。たしかに道枝先生ははにかんだような笑みをたたえている。

「……まぁ、怪しいことは認めるよ」鈴は言う。「ただ、思い込みは禁物。あくまで確定した事実のみから慎重に判断する」

「流石、優等生は言うことが違うな」昴が皮肉な口調でからかう。

「はいはい」鈴はあしらうように応えた。



 待ち合わせ場所で少し話した後、道枝先生と奥さんは歩き出し、駅前にある百貨店を訪れた。並び歩く二人の間には一人分くらいのスペースが空いている。

 百貨店の入口の自動ドアをくぐった二人は、慣れた足取りで歩を進める。

 それを追いかけるわたしと昴と鈴。客観的に見て、わたしたちは不審者そのもののような気がしたけれど、探偵とはこんなものなのだろう、鈴に、ついでに昴にもそれを気にした様子はない。

 百貨店の中は冷房が利いていて、少し肌寒いとわたしは感じた。

「さみぃんか?」昴に訊ねられ、反射的に、「大丈夫」と首を横に振ってしまった。

「外で待っててもいいけど」昴が平坦な口調で言った。

「いい。大丈夫」再度、口にした。

「あっそ」昴はそれだけ発し、わたしから意識を外すように目を細めた。

 鮮魚コーナーで道枝先生と奥さんが商品を手に取って何かを話している。

「これは鮮度がいまいちね」「ですね。その割に結構お高いです」「やっぱり商店街で買いましょう」「分かりました」

 こういう会話が交わされ、手に持った商品が戻されるのを想像したけれど、実際には商品は彼らの持つ買い物かごに入れられたので、わたしの想像とは逆の会話がなされた可能性が高い。

 二人はその後も和やかな雰囲気で買い物を続け、レジに並んだ時には午後の二時半まであと数分という時間だった。

 ここまでストーカーばりに観察した感想は、「なんか恋人っぽくない」だ。

「なんか距離が他人行儀じゃね?」昴もわたしと同じ意見のようだ。

「たしかに恋人というよりも友人って感じね」鈴も頷く。

 やっぱり道枝先生が不倫というのは何かの間違いじゃないだろうか。道枝先生の特徴を一言で言うと、〈野球オタク〉だ。人妻と恋愛をするようには見えない。

「なぁ」という呼びかける言葉から始め、昴は問いかけた。「浮気を疑う根拠って、目撃情報だけなんだよな?」

「基本的にはそうね」鈴は含みを持たせた言い方をした。 

 聞き返されることを前提にした言い回しに聞こえたので、「基本的には?」と期待に応える。

「なんでも、スマホを見せてくれないんだって」鈴は気だるげに肩をすくめた。

 旦那さんが奥さんに、「ちょっとスマホ見せてよ」と頼んだのだろう。それに対し、「嫌よ。なんで見せなきゃいけないの?」などと返されたということかな。

 これは難しい問題に思える。やましいことがないなら見せてもいいだろという意見も分かるけど、夫婦間でもプライバシーは尊重されるべきというのも一理ある。

「うーん」昴は腕組みをして唸った。



 百貨店を出た二人を尾行していると、道枝先生が片手を上げるのが見えた。すると、タクシーが二人の所で停車した。後部座席のドアが開き、奥さんから先に乗り込み、次いで道枝先生が座席に座る。ドアが閉じられると、タクシーは赤信号に並ぶ列に加わろうと顔をそちらに向けた。

「どうすんだ?」と昴が訊いた時には、鈴も道枝先生と同じようにタクシーを捕まえていた。流石、仕事が早い。

「早く乗って」という声に従い、タクシーに身を滑り込ませる。わたしと鈴が後部座席で昴が助手席だ。

 ドアが閉まるか閉まらないかのところで、鈴は綺麗な白い手袋をした運転手に向かって口を開いた。「あの」と前のタクシーを指差し、「──のタクシーを」とナンバーを告げ、「追ってください」と結んだ。

「あの──のタクシーを追ってください」という台詞は、いかにもドラマのようで、不思議な高揚感を惹起じゃっきする。

 頭髪の大半を失った初老らしき運転手の男性も、「お!」と好奇心に満ちた声を発した。タクシーを車道に捩じ込みつつ、「お嬢ちゃんみたいな可愛い子からその注文を聞く日が来るとはなぁ」と感慨深そうに洩らした。

 タクシー運転手の男性はお喋りだった。「東京にいたころは刑事さんと犯人を追いかけたこともある」と自慢気に語ったかと思うと、「俺にも高校生の娘がいて、今年、大学受験なんだ」と愚痴のようなものを零し、気がついた時には、「ところでお嬢ちゃんたちは探偵かい?」と核心を突いてきていた。

「……なんでそう思ったんですか?」鈴が訝るような顔で訊ねた。

「なぁに、ただの勘だよ」と笑った運転手の男性は、すぐに、「まぁ、根拠もなくはない」と白状した。「ターゲットのタクシーに乗ってる二人、見たところ若い男女だ。お嬢ちゃんたちがまさか犯罪捜査じゃあるまいし、それなら浮気調査かなんかのバイトなんじゃねぇかって思ったんだよ」

「そうですか」鈴は観念したように息をついた。それから、運転手の男性に問う。「ご意見をお伺いしたいんですが、よろしいでしょうか?」

「なんだ?」敬語ではないけれど──どちらかと言うと粗野な言葉使いではあるけれど、運転手の男性からは柔らかい印象を受ける。どことなく昴に似ているな、とそのうなじを見つめる。

「あの二人は肉体関係があると思いますか?」鈴は訊ねた。

「肉体関係ねぇ……」ハンドルを回し、スムーズに右折。加速し、進む。ややあってから運転手の男性は、「白だ」と口にした。「本当にただの勘だが、俺には白に見える」

「……なるほど」鈴は神妙な面持ちで言う。「ご意見、参考にさせていただきます」

「おいおい」運転手の男性は困ったように言った。「あんまり当てにすんなよ? 責任は取れないからな」

「いや、俺も白だと見てる」何かを考え込んでいたのか、タクシー内ではほとんど喋らず、腕を組み、難しい顔をしていた昴が、不意にその雰囲気を緩め、そう口にした。「だってよ、監督って村瀬むらせに気があるよな?」

 村瀬先生は学校のみんなが認める美人さんだ。年齢も二十七歳と若く、生徒からの人気も高い。

 道枝先生が村瀬先生と話していたところを思い浮かべる。普段の二割増しくらいの笑み──ちょっと気持ち悪い──の楽しそうな表情ばかりが思い出される。言動が三割増しくらいはぎこちなくなってもいた。

「……」うん。これは小学生でも察してしまうくらい分かりやすい。ので、「そうだね」と肯首する。

 鈴も、「公然の秘密になってるね。村瀬先生も当然気づいてるだろうし」と続いた。そういえば、村瀬先生は鈴のクラスの担任だった。

「だろ?」で、話は変わるが、と昴が言ったところで、「おっと。どうやらターゲットはコンビニに寄るみたいだぜ」と運転手の男性。

 前方、五十メートル先、左側にあるコンビニに二人を乗せたタクシーが入っていくのが見えた。

「いったん通り過ぎて、適当なところでUターンしてコンビニの前を通ってください。もう一度様子を見たいです」鈴は一瞬の逡巡しゅんじゅんすらせず指示を出した。

「あいよ」運転手の男性もそれに応え、あらかじめそう言われるのが分かっていたかのように滑らかにタクシーを操作する。

 大手牛丼チェーンの駐車場に入り、巧みなハンドル捌きで転回し、車を道路へ向ける。ウィンカーを点滅させ、右折。

 業界最大手のコンビニの看板が近づき、そして、通過する──二人はコンビニに立ち寄るようだ。入口の自動ドアをくぐっていた。

 一方、彼らの乗っていたタクシーは、コンビニを出ようとしているところだった。一瞬、そのタクシーを運転する男性と目が合った気がしたけど、どうだろうか。

「停めてください。ここで降ります」鈴はやや早口で言った。

「了解」運転手の男性は、進行方向の右手側にあるカラオケ店の駐車場にタクシーを静かに停車させた。「ほら、領収書」

「ありがとうございます」鈴が受け取る。

「頑張れよ」運転手の男性が言った。

 わたしたちが降りると、タクシーはどこか嘘臭いエンジン音と共に動き出し、車の群れの中に消えていった。

 行くよ、という鈴の号令に従い、足早にコンビニへ向かう。

 コンビニの隣のカーディーラー、そこに展示された車の陰からコンビニの入口を覗き見る。

 二人はもう行ってしまったのだろうか、と不安が過った時、自動ドアが開いて買い物袋を手に提げた道枝先生と奥さんが出てきた。

「よかった……」鈴が息を洩らした。「たぶん、これから依頼人の自宅に行くんだと思う。ここからすぐだから」

「旦那さんは今は?」ふと疑問に思い、わたしは訊ねた。

「仕事。今日は当直だそうよ」

 つまり、「明日まで帰ってこないのね……」ということ。

 ひゅー、と冷やかすように昴が口笛を吹いた。「ヤリ放題じゃねぇか」

 ちょっと! 静かにしてよ! と鈴がたしなめる。

 へいへい、と昴は肩をすくめた。

 道枝先生と奥さんはコンビニの駐車場から脇の道に入った。その先は車の気配の薄い住宅街だ。

「おうちはあっちなの……?」わたしが問うと、「そう。ここから徒歩で五分くらい」と鈴が答えた。

 人通りが少ないから距離を取る必要がある。鈴がそう言うので、ギリギリ見失わない距離で追跡する。

 わたしたちが住宅に挟まれた道を進み始めた時、昴が急に足を止めた。振り返ると、昴は犬小屋にいるシベリアンハスキーと見つめ合いながら顔をしかめていた。

「何?」立ち止まった鈴が訊ねた。

「あ、ああ。すまん」昴はそう言ってからまた歩き出した。「俺、毎朝、川の土手道をランニングしてんだけど、散歩してるシベリアンハスキーに毎回吠えられんだよ。それでなんとなく苦手なんだよ、あの強面ヤクザ顔」

「へー」と昴の左側を歩く鈴が発し、「そうなんだ。可愛いのに」と鈴の左側を歩くわたしが言う。

 鈴は、「じゃあ、違う道を走れば?」と提案した。

「いやでも、その犬とすれ違うとこ以外は理想的なランニングコースなんだよ。俺の中では」昴は答えた。

「それなら仕方ないわね」鈴は興味なさそうに言った。



 数分後、道枝先生と奥さんは白とグレーと黒のみが配色されたシックな印象を与える大きな住宅の前で足を止めた。

 あれが奥さんのお家だろうか、と鈴に目で問うと、鈴は無言で頷くことで肯定の意を表した。

 それを証明するように奥さんが門扉に手を掛け、開けた。彼女は振り返り、道枝先生に何事かを言い、すると道枝先生は頷き、門扉の向こうへと入っていった。続いて奥さんが入り、門扉を閉める。扉の金属がぶつかる硬質な音がしたことが想像された。

 辺りは住宅街に相応しい静寂に包まれた。けれど、昴が、「さて、どうすんだ?」とそれを破る。

「……」ほっそりとした顎に手をやり、沈思黙考した鈴は、「とりあえず近づいてみよう」と結論を出すのを先延ばしにする判断をした。

 監視カメラがないか注意しながら奥さんのおうちの前まで来た。塀が高く、中の様子は分からない。ひとの家の前でこそこそと相談するわけにもいかないので、「いったんコンビニまで戻ろう」と鈴は指示した。

 来た道を戻ろうとして数歩進んだところで昴が振り返った。「……」

「どうしたの?」

 昴はわたしの質問には答えず、「あのよ、さっきの話だけど」とまた歩き出しながら言った。

 さっきの話? と疑問符が脳内に発生した。けれど、それがタクシーの中で言いかけた何かであることに刹那の後に思い至った。

「さっきは何を言おうとしたの?」おそらくはわたしと同じ思考過程をたどったであろう鈴が、昴に訊いた。

「ああ」と昴が頷く。「依頼人の奥さんはさ、喫茶店で働いてたんだよな?」

「そうよ」鈴は、それがどうしたの? と訝るように答えた。

「職種は?」昴は、登下校中の小学生のように小石を蹴った。からからと転がり、電柱にぶつかった。

「職種?」虚をつかれたのか、鈴は困惑を浮かべて繰り返した。

「ウェイトレスなのか」それとも、と昴は続ける。「料理人なのかってこと」

 あ、と洩らした鈴は、「……伯父さんは『喫茶店で働いていた』としか言ってなかった」と悔しそうに唇を噛んだ。「天馬の言いたいことは分かった。私もその可能性が最も高いと思う」そして、スマートフォンを取り出してどこかに電話を掛ける。

 十歩くらい進んだところで、鈴が、「確認したいことがある」と電話の向こうの人物に言った。「……杉浦章子すぎうらしょうこさんは料理人だったの?」

 国道の喧騒が近づいてきた。制限速度に配慮しているようには見えないセダンが横切った。

「……そう」と疲れたように言った鈴は、「本当に伯父さんって性格悪いよね」と毒づき、「こういうのはこれきりにしてって言っても無駄なんでしょうね」と更に嫌味を重ねた。それから少し話した後、飾り気のない透明なケースに入ったスマートフォンを耳から離し、ため息をついた──通話は終了したみたいだ。

「よぅ、名探偵」すかさず昴が口を開いた。「真相は分かったかい?」と嘲笑うような口調。

「……念のため依頼人の自宅に盗聴器を設置して確かめるけど、まぁ、変なことはしてないでしょうね」

 ここまで聞いてもわたしには何のことかよく分からない。結局どういうことなのだろう?

 わたしだけが置いてきぼりになっていることに苦笑を洩らした昴が、小さい子に教え諭すような様子で言う。「監督がいつも手作り弁当を食べてることは知ってるよな? 一人暮らしの男が毎日用意するには凝ったやつ。瑠衣も見たことあんだろ?」

 茶色一色というのではなく、バランス良くカラーコーディネートされたおいしそうなお弁当を食べる姿を、雑多な記憶の集合体の中から引っ張り出す。たしかに凝っていた。あれを毎日一人で作る様を想像すると、祭の後の静けさに似た淋しさを覚える。なので、「おいしそうだけど、淋しそう」と頷く。

「淋しそうか?」昴が首を傾げ、しかし間を置かずして、「いや、それはどうでもいい」と首と話を戻す。「じゃあ、監督の好きな村瀬の趣味は知ってるか?」

「……さぁ?」今度はわたしが首を傾げた。彼女とは英語の授業でしか関わりがないし、英語は好きじゃないのでいつもほかのことを考えて授業をやり過ごしている。わたしが知らないのも無理はない、と内心、言い訳をしてみる。当てずっぽうで、「洋楽とか?」と疑問文を舌の上で転がす。

「いろいろちげぇよ。あの人、歌は演歌が好きって言ってたろ」お前、授業中なんにも話聴いてないんだな……、と昴は呆れた顔を浮かべた。

 ここぞとばかりに鈴も、「そんなんだから赤点取るんだよ。教えるほうの身にもなってよね」と小言を投げて寄越した。

「分かった。善処してみる」心の中で、気が向いたら、と条件を付けておく。そんなことよりあなたたちは何に気づいたの? と視線をやる。

 何かを諦めたように微かな笑みを一瞬だけ洩らした昴は言う。「村瀬の趣味は料理だ。昼休みに職員室に行った時に村瀬の作った弁当を見たことがあんだけど、監督のを数段レベルアップさせた感じの、金の取れそうな完成度だった」駅弁コンテストとかで優勝してそうな感じ、と昴は自分の例えの上手さに満足したように頷いた。

 先ほどと同じように、マンションかアパートの一室で一人、手の込んだお弁当をこしらえる村瀬先生を頭に浮かべる。きっと鼻歌交じりに──演歌は似合わないけれど──野菜の肉巻きとかを作ったりするんだろう。味見をした時には、「うん、上出来」などと言って口元を綻ばせているに違いない。道枝先生にはない華やかさがあるような気がする。少なくとも淋しさは感じない。

「わたしは村瀬先生のお弁当のほうが好き」実際に見たことはないけれど、この判断はおそらく正しい。

「おう。めんどくせぇから突っ込まねぇで続けるけど、要するに、だ。俺と小豆沢は、監督は村瀬と共通の趣味を作るのためにあの女に料理を教わってんじゃねぇか、って思ったわけ」

「なるほど」そういうことだったのか、と膝を打ちたい気持ちになった。それなら納得だ。道枝先生ならそういう回りくどいやり方をしそうだ。

 でも、あれ? とまだ判明していない、かつ無視できない点に気づく。「結局、道枝先生と奥さんはどうやって知り合ったの?」

「それを調べるためにも盗聴器を仕掛けるの」鈴が答えた。

「つーかよ、俺が監督に直接訊いたほうが早いんじゃね?『この前、年上の女と歩いてるとこ見たぜ? 村瀬に報告しとくわ』って言えば、訊いてもいないことまで喋ってくれそうだし」

「うわぁ」鈴は昴から距離を取った。「あんたも性格悪」

 コンビニに到着した。この瞬間、わたしは重大なことに気づいて腕時計を見た。短針は三と四の中間の辺りに位置していた。お腹に手を当てる。

「どうした? 具合悪いのか?」昴が心配の声を発する一方で、鈴は、「あー」と察したらしい表情を見せた。

 だから、鈍い昴のために優しいわたしは言う。「おやつを食べなきゃいけない」

 丁度よく目の前にコンビニもあることだしね。

「あー」鈴と同じように昴は発した。



 月曜日、昴は有言を実行したらしい。その時の道枝先生の慌てぶりはなかなか愉快だった、と中も言っていた。

 道枝先生曰く、あの奥さん──杉浦章子さんとは親戚だそうだ。料理人をしていたことを知っていて、実際に彼女の料理を食べたこともある道枝先生は、昴の推理どおり、彼女に料理を教えてもらって村瀬先生と共通の趣味を作り、村瀬先生の気を惹こうと考えたという。そして、料理を教えてほしい、と章子さんに頼んだそうだ。専業主婦の生活に退屈し始めていた章子さんは、それに承諾した。

 意外と律儀なところのある昴は、事の真相──道枝先生が嘘をついていないとしたら、だけど──を鈴に伝えた。鈴は、ありがと、と素直に礼を述べたそうだ。

 それからしばらく経ち、俊逸高校との試合までひと月を切ったころ、三時間目と四時間目の間の休み時間に、鈴はいきなり、「盗聴した結果も白。全部、道枝先生の言ったとおりだった」と告げてきた。

 わざわざ教えてくれた鈴には悪いけど、今となってはあまり興味がないので、「……そう」とだけ応える。

「予想どおりの反応ね」鈴はそう言ってから、「どうでもいいなら忘れて」と付け足した。

 声音は冷淡だけど、不機嫌ではないはずだ。鈴はいつもこんな感じだからだ。その容姿と相まって、「お高くとまっている」と陰口を叩かれることもあるようだけど、鈴は気にしていないように見える。

 知らず、鈴の顔を見つめていた。

「何? 私の顔に何か付いてる?」鈴が疑問を口にした。

「ううん」と首を振る。そして、「昴とは仲良くなれた?」と訊ねた。

「天馬と? 別に仲良くなってはいないよ。話すことなんてほとんどないし」

「……そう」関心があっても同じ台詞を読み上げていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る