ロベリア
虫野律(むしのりつ)
中
僕の通う公立埼玉
『今季絶望か』『山田、決断』などという文字列が表示されている。何やら肘が痛くて手術をするらしい。大変だなぁ、と思う。
教室を見回す。生徒がいくつかの塊に分かれ、昼ごはんを食べつつ喋っている。
入学式から二週間、グループというかスクールカーストというか、そういう人間社会の大好きなものがすでに形成されているように見える。きっと僕のポジションは〈あまり関わりたくはないよく分からない奴〉だろう。
そう思ってスマートフォンに視線を戻すと、右から声がした。「野球に興味があるのか?」
たぶん僕に言ったのではないだろうと考え、スマートフォンに指を這わせていると、不意に視界から文明の利器が消えた。
顔を上げると、クラスメイトの
昴は長身だ。加えてつり目で、つまりはかなり威圧感がある。そんな昴の手の中に僕のスマートフォンはあった。
返して、という言葉は飲み込み、「……どうぞ」と吐き出した。吐き出したといっても勢いよく言ったわけではない。
うむ、といった風情で頷き、昴は話し出した。いろいろ言っていたが、まとめると、〈野球部に一年生が少ないから
「どこにも入ってないんだろ?」昴は言う。「しかも野球に興味あるんだろ?」
「なくはないけど」スポーツの中で一番好きというほどではない。
しかし、僕の煮え切らない態度から漂う〈早く諦めてくれ〉という気持ちを汲み取るつもりはないようだ。昴は、「じゃあ、入部な」と折れ目の付いた入部届を僕の机に置いた。
やだなぁ、という気持ちが心の大半を占めてはいたけれど、とりあえずそれは口にせず、「スマホ返して」とだけ言った。
「おー、わりぃわりぃ」とスマホを差し出した昴の顔には反省の色はまったく見えない。僕が裁判官なら求刑どおりの刑を言い渡すだろう。
被告人、
「監督ぅー、入部希望者を連れてきたぞー」がらりと職員室の戸を開け放った昴が、元気に宣言した。昼食中の先生たちの視線が一斉にこちらを向く。
僕らのクラスの担任で、僕が勧誘されている野球部の監督をしている
道枝先生はナヨナヨした雰囲気を裏切らず、良く言えば優しい、悪く言えば気弱な性格をしていて、昴を始め少しばかりやんちゃな学生からはすでにナメられている二十六歳の男性教師だ。
素直に従い、道枝先生の下へ向かう。道枝先生は手作りらしき弁当を机に置いていた。なかなかおいしそうだ。
自分で作ったのだろうか? と僕が疑問に思った時には、「それ、監督が作ったのか?」と昴が発していた。
曲がりなりにも先生に対してタメ口はいかがなものだろうか、と苦言を呈するようなめんどくさいことはしない。
「そうですよ」なぜかはにかみながら道枝先生は答えた。一部の女性には人気がありそうな、所謂母性本能をくすぐる雰囲気をまとっている。と思う。が、僕らにそれを見せても意味はない。
「へー、自炊するんだな」訊いておきながら大して興味なさそうに応えた昴は、「こいつ」と僕に向かって顎をしゃくり、「野球部に入るってよ」と断言した。
仮入部的な感じでやってみてから決めたい、とさっき伝えたばかりのはずなんだけれど、鳥頭なのだろうか?
「本当ですか!」と道枝先生は喜色を浮かべたが、残念ながら半分以上は嘘だ。「いやぁ、よかった。実は僕は中君を見て、勿体ないって思ってたんですよ。あなたも背が高いですからね。やっぱり身体の大きさは武器になるんですよ」しかも、と何やら変なスイッチが入ったのか道枝先生はまくし立てる。「中君は左利きですよね? 右手だけでなく左手でもペンを使っていますね? 元々左利きで矯正された結果、両利きのような感じになったのでしょう?」
「はぁ、そうですけど……」ものすごく温度差を感じる。
けれど、道枝先生は気にしていないようだ。というより気づいていないのかもしれない。「ちなみにボールはどちらのほうが投げやすいですか?」と僕の目を見て問うた。
「左ですかね。でも、そんなに変わらないと思います」
「じゃあ、とりあえずいろいろ試してみましょう」
ということで放課後にいろいろ試されることになった。
僕は人付き合いが得意なほうではない。明るく喋るような性格ではないし、自分が受け入れられる自信もない。
でも、そうはいっても例外はある。物心ついたころから交流のある三人だ。
そのうちの一人──
「へー」と鈴は後頭部の中心辺りから生やしたミドルポニーテールを揺らした。彼女は平均的な身長しかないので僕と話すときは見上げる形になる。「私はいいと思うよ。
一花は明るい性格の、でも勉強が苦手な女の子で、瑠衣はどちらかというとおとなしい性格の、かといってまったく主体性がないわけでもない女の子だ。この二人も例外だ。小さいころから当たり前のように関わっていると、コミュニケーションが苦手な僕であってもそれなりには話せる。
ちなみに、幼馴染みはもう一人いるけど──鈴の双子の兄だ──彼とはあまり仲が良くない。ので、それなりには話せない。
鈴の美しい顔を眺めながら質問に答える。「一花は『いいんじゃない』って。瑠衣にはまだ話してない」でも、やめたほうがいい、とは言わない気がする。
「瑠衣は止めないんじゃない?」鈴も僕と同じ意見のようだ。
廊下を歩く人が減ってきた。そろそろ授業が始まる。
鈴と別れ、教室の戸をくぐると、眠たそうにしている昴が目に入った。きっと居眠りするんだろうな。昴のことはほとんど知らないけれど、当たっていると思う。
放課後にグラウンドに連行された僕を、野球部の人たちは快く迎え入れた。
道枝先生は、準備運動を終えた体操着姿の僕に、「じゃあ、まずはキャッチボールをしましょう」とグローブを渡した。すぐにおかしなことに気づく。グローブの指が六本あるのだ。
これはどういうことですか? と訊く前に、「それは両利き用のグローブです。指の入れ方は、やりやすいようにすれば大丈夫ですよ」と説明された。
なるほど、と頷き、右手にはめる。とりあえずは人差し指を出して装着する。思ったより柔らかい。
「じゃあ、やりましょうか」道枝先生が開始を宣言した。
「はぁ」ため息ではなく、気のない返事である。
初めは近距離でボールを投げ合っていたのだけど、途中、「少しずつ距離を離していきます。きつくなったらすぐに教えてくださいね」と道枝先生は言って、投げるたびに一歩ずつ後退し始めた。
僕に根性なるものは存在しないので、きつくなったら直ちに根を上げるつもりだったのだけど、広いグラウンドでのびのびとボールを投げることが案外楽しく、結局、「いったん休憩にしましょうー!」と言い出したのは道枝先生だった。
おそらく僕を気遣ったのだろう。見た目より体力があるのか、道枝先生はまだまだ余裕がありそうだからだ。大学までずっと野球をやっていたそうだから、この程度はウォーミングアップにすぎないのかもしれない。
「いいですね! これなら投手不足が解消されるかもしれません」僕のほうに駆けてきた道枝先生は、そう言って笑った。
「投手ですか?」僕にやれというのだろうか。初心者にやらせるポジションではないように思う。
「おや」と少し驚いたように目を開いた道枝先生は、「野手希望でしたか?」と続けた。
野手希望も何も、「そういうの、何も考えてなかったです」というのが僕の本音だ。
「そうですか。でも、きっと投手が向いてると思いますよ」
「はぁ、そうですか」と言いつつ、たしかに思いっきり投げるのは楽しい、と納得する自分もいた。
結論から言って、初めての練習を終えた僕は野球をやりたくなっていた。道枝先生の予言どおり、打つことより投げることに魅力を感じたので、やるなら投手がいいなぁ、と思ってもいた。
道枝先生は、「あなたは肩がかなり強いですよ」「チームとしては投手をやってもらいたいですね」「仮に投手が合わなかったとしても、野球において肩の強さは正義ですから活躍の仕方はいっぱいありますよ」などと言って僕をその気にさせた。
けれど、と暗くなった家路を行きながらためらう。
僕みたいな初心者が、「投手がやりたいです」なんて気軽に言ってもいいのだろうか。それに……。
「私も反対はしない」瑠衣の、透明感のある声に下を向いていた顔を上げた。「中がやりたいならやればいい」
「そっか」
「うん」
それきりお互いに無言になってしまった。別に険悪なわけではなく、僕も瑠衣も口数が少ないので自然とこうなるのだ。
家が見えてきた。
朝の教室で僕は昴に、「野球部入るよ。それで投手を目指してみる」と告げた。
すると、昴は、「山田のファンだもんな」と斜め上に外れた感想を洩らした。
「そういうわけではないよ」
「そうなのか?」
「そうだよ」
「そなんだ」とそっけなく言った昴は、「投手を目指すなら肩や肘の状態にはほんっとーに気を使わなきゃいけないからな。そこら辺は後で教えてやるよ」と一瞬だけ視線を自分の右肩に送った。
それに気づかないフリをして、「ありがと」と応えた。
教室の戸が開き、道枝先生が入ってきた。「おはようございます」
「ぉはよーす」という、日本語のネイティブスピーカーならではの
「えー、ショートホームルームを始めます」と言った道枝先生は、保護者会があるとか、委員を決めなきいけないとか、そういう話をして、「それでは今日も一日頑張りましょう」と締めくくった──ように見せかけて、「あ、それから」と声を発した。なんだよ、まだあんのかよ、という視線を浴びたのだろう、道枝先生は慌てたようにやや早口で、「最近、近くで他校の生徒が暴漢に襲われる事件があったそうなので、皆さんも気をつけてください」と一息に言い切った。
ふーん、あっそう。春だし、変な人も元気なんじゃない?
「失礼します」小声でそう言ってから昼休み中の職員室に入り、真っ直ぐに道枝先生の下へ歩を進める。
道枝先生は隣の席の
村瀬先生は、ロングストレートを茶に染めた英語教師で、恋愛にはあまり関心のない僕の目にも美人に映るくらいの、たぶん、結構な美人さんだ。
あと少しの所まで近づいた段階で僕に気づいた道枝先生は、「お」と口を丸くした。「ちょっとすみません」と村瀬先生に断りを入れてから、僕に顔を向け、「どうしました?」と
「大丈夫ですよ」と応じた村瀬先生は静かに見守っている。
なんとなく罪悪感が湧いてきたので端的に正式に野球部に入りたい旨を伝え、そして、「できれば投手をやりたいです」と付け足した。
「それはよかった!」と道枝先生は相好を崩し、「中君ならきっといい投手になりますよ」と根拠に疑いのある判断を口にした。
くすくす、という笑い声は現実には存在しないと僕は思っているけれど、村瀬先生から零れ落ちた音はそんなふうに表現するのがしっくり来る。
「あ、いや、すみません」なぜか道枝先生は村瀬先生に謝った。
僕は〈すみません〉や〈ごめんなさい〉が口癖の人があまり好きではないけれど、村瀬先生は気分を害したふうもなく、「いえいえ」と道枝先生に言い、次いで、「頑張ってね」と僕に笑いかけた。
うん、やっぱり美人だ。
しかし、僕は村瀬先生の美しさよりも二人のおいしそうな弁当に魅力を感じている。
「はぁはぁはぁ」荒い息を整えようと意識してもまったく意味はなく、僕は肩を大きく揺らしていた。
投手の練習メニューは〈走ること〉の占める割合が大きい。下半身の強さが大切らしく、「まずはとにかく走ってもらいます」と道枝先生は憎たらしい笑顔で告げてきた。
投手というくらいだから投げる練習が中心なんだろうと呑気に構えていたら、この仕打ちである。「投げるのが好きなら投手がお勧めですよ」といったことをほざいていたのに、ひどい詐欺に遭った気分だ。というより詐欺そのものである。
けれど、そう主張した僕に、昴は、「世の中そんなもんだ」と訳知り顔を作ろうとして、しかし失敗したにやけ面で言い、投手をやっている先輩たちは、「ほらほら、休憩は終わりだぞ」「動いた、動いた」と尻を叩いた。どうやら初日に見せた優しさはすっかり忘れてしまったようだ。
これが体育会系か、と半ば悟りの境地に達し、つまりは諦めて仕方なく重い足を動かし始めた。
練習が終わったのは暗くなってからしばらく経ってからだった。校舎に付いている大きな時計は、もう少しで夜の八時半になることを伝えている。こんなに長時間運動した経験はほとんどない。とても疲れた。
早く帰って寝たいと考えながら何とはなしにグラウンドを見回すと、遠くのほうで昴と道枝先生が話しているのが見えた。道枝先生が頷き、昴が離れていく。
何を話していたのだろうと気にするような探求心は僕にはない。
次の日、昴は午後から学校にやって来た。市立の総合病院に行っていたそうだ。
元気な様子の昴が、「病院に行っていた」と言ってもいまいち説得力に欠ける。
それは瑠衣も同感だったようで、「寝坊した?」と平坦な口調で訊ねた。
「ちげぇよ、馬鹿」昴は鼻で笑った。「ただのサボりだ」
「なるほど」「なるほど」僕と瑠衣の声が重なった。
「はっ」愉快そうに昴は笑った。
高校生活は中学生の僕が予想していたものよりも随分と忙しく、思うに、一般的な社会通念上は〈充実した〉という修飾語が付けられるようなものであった。
と言うと、おそらく嘘になる。
なぜなら相変わらず僕は周りとの距離を縮めることができずにいたからだ。これは周りの人間──クラスメイトや野球部の部員など──が悪いわけではなく、もちろんいじめられているという事実もなく、僕が自らそうしているからというだけの話だ。
自信がないんだと思う。僕みたいな人間が、彼ら彼女らの仲間になれっこないと考えてしまう。そして、その判断が間違っていないと思っている。
だから、「中って、なんか壁があるよな」と言われてしまう。
学校のトイレでクラスメイトが僕について話している。運がいいのか悪いのか、僕が端の個室にいることには気づいていないようだ。
「別にいいんだけどね」先ほどとは違う声が言った。「いてもいなくても特に問題はないし」つーか、と挟み、「そういうポジションにいたいんだろ、あいつ」
そうだよ、と教えてあげたくはならない。正解ではあるけれど。
「たぶんな」最初の声が肯首し、「知らんけど」とすぐに補足した。
足音がして、ドアの開閉音。少し待ってみても換気扇の音以外はしない。誰もいないね、と鍵をスライドさせてドアを開けた。
洗面所の鏡を、つまり自分を見つめる。自分に問いかけたりはしない。そういうキャラじゃない。
僕ら一年生も野球部の雰囲気に慣れた五月の連休明け、道枝先生は練習開始前に僕らを集め、「次の日曜日に練習試合を行います」と唐突に宣言した。
「おー」「どことですか?」「帰りに焼肉行きましょう、監督の奢りで」「おー」「やったぜ」などと部員たちが盛り上がる。
「奢りませんよ。教師の給料をナメないでください」道枝先生は夢も希望もないことを言った。「でも、勝ったら前向きに検討しますよ」今度は検討する気がない時の常套句を口にした。
「おー!」「流石だぜ!」「監督マジイケメン」部員たちがはしゃぐ。
「で、相手は?」と言ったのは昴だ。
「えー、おほんっ」道枝先生はわざとらしい咳払いをしてから口を開いた。「こういうとき、野球漫画なら強豪との練習試合が組まれますよね?」
たしかに、と内心、頷く。たぶんほかの部員たちもそうしている。ごくり。誰かが喉を鳴らした。期待感が漂っているのが分かる、
道枝先生は、グラウンドに半円を描くように体育座りをした僕らに、もったいつけた笑みを見せてから、「埼玉国際大学の皆さんがお相手してくれるそうです」と告げた。
埼玉国際大学は、僕らの高校からそう遠くない場所にある、〈ザ・田舎の大学〉といった風情の大学だ。最近の流行りなのかは知らないが、学部名は文学部や経済部といったものではなく、グローバルコミュニケーション学部とかマネジメント学部とかの、カタカナがふんだんに使用されたものだ。そして、偏差値はすこぶる低い。所謂、Fランというやつだ。今の僕でも学科試験は難なく突破できると思う。
ただし、スポーツには力を入れていて、野球部もそれなりに強い。
「強敵ですが、胸を借りるつもりではなく」と言ったところで道枝先生はいったん言葉を止め、しかしすぐに続きを口にする。「胸を貫くつもりでいきましょう」
しんと沈黙。次いで、「ぷっ」と誰かが吹き出した。
「監督よぅ、そういうなんつーの? 熱血ノリはやめたほうがいいと思うぜ?」昴は生意気な口調と言葉使いで言った。「監督の雰囲気的に似合わなすぎてキモイ」生意気を通り越して割とひどいことを言う。「芝居掛かった言い方もウザイし」とはいえ、内容には強く共感できる。
「キモイ……。ウザイ……」道枝先生はうちひしがれている。「そうですか……」テンションの落差がすごい。「じゃあ、スターティングメンバーを発表します……」
かつてこれほどまでに暗い表情を浮かべてスタメンを告げた監督がいただろうか。いや、いない。いや、いるかもしれないけど、少なくとも僕は知らない。
「六番ピッチャー、天馬昴」道枝先生がその名を告げた瞬間、僕の横に座る昴がぴくりと
素直に喜ぶのがカッコ悪いとでも思っているのだろうか。そうだとすれば、なんだか反抗期の中学生みたいで可愛いな、と本人に聞かせたら怒り出しそうなことを考えた時、「投手の皆さん」と道枝先生の声。
なんだ、なんだ、と僕を含め、投手を希望している部員たちが、道枝先生の眼鏡に視線をやる。
「先発は昴君ですが、積極的に継投をして全員に投げてもらいますからね。しっかり準備しておいてください」
ふーん。ま、流石に野球歴一箇月未満の僕に出番はないでしょ──「中君には抑えをやってもらいます」え?
「……え?」
「中君は、すでに球速だけならかなりのものですから、やれるでしょう。抑えと言ったら、やっぱり球速ですからね」分かるでしょう? と言外にほざいているが、何も分からない。
「フォークなんて投げられませんけど……」名クローザーは落ちる球を投げているイメージがある。
「フォークやスプリットがなくても点さえ与えなければいいのです」
「そもそも抑えられないですよ」
「そもそも練習試合だからいいのです」舌の根も乾かぬうちにとはこのことである。暖簾に腕押しとも言う。
おそらく道枝先生の中では決定事項なのだろう、と覚られぬように小さく嘆息する。
投げること自体が嫌なのではない。僕みたいな新参者が重要な場面を任されると反感を買うのではないか、と心配しているのだ。ただでさえ道枝先生は、「中君は才能がありますよ」とか「中君が来てくれて助かりましたよ」などと事あるごとに僕を褒める。残念ながら素直には喜べない。出る杭は打たれると言うし、いじめまではいかなくとも今後の部活動に影響がないとも言い切れない。
だから断りたかったのだけれど、思うようにはいかないらしい。
右の肩を軽く叩かれた。昴だろう、と振り向くと、やはり昴で、「頼むぞ」と笑いかけられた。
「頑張るよ」
ふ、と脱力したような吐息。もちろん昴だ。
僕らの町には幾つかの大きな病院があるが、〈地方独立行政法人〉と〈市立〉の文字が名称に含まれている、地元の人が〈市立病院〉と呼ぶその病院に行ってきたのは昨日のことだ。運良く午前中に用事が終わり、その気になれば学校に行くこともできたけれど、脳内会議は満場一致で〈そのままサボり〉を採択した。
一日ぶりの学校はいつもと変わるわけもなく、もちろん僕の教室でのポジションも変わらない。
授業を聴いているフリをしている生徒に、開き直って居眠りをしている昴、それなりにまじめに勉強に取り組んでいる大半の生徒の気配を感じながら過ごす。そうして気がつけば放課後になっていて、野球部の部室に向かっていた。
「ストレートだけでいいですよ」道枝先生はそう言っている。「難しいことは考えなくてもいいです。あくまで実戦というものを体験してもらうことが一番の目的ですから」とも付け加えていた。
そういうものか、と思いつつ部室の引き戸を開ける。
部室には昴がいた。彼は、「おう」と制服を脱ぎかけた状態で言った。
「うん」テンションは低いが、僕はいつもこんな感じだ。
引き戸を閉める。昴の隣──自分のロッカーの前に行き、そのスチール製の扉を開けた。
その日の練習が終わり、さぁ帰ろうかという時に昴に、「マックに寄ってこうぜ」と誘われた。
「マック?」少しだけ意外で首を微かに傾げた。昴は野球に関しては非常にストイックだ。てっきり食事にも気を使っているのかと思っていた。だから、「何を食べるの?」とほとんど間を置かずに訊いていた。
「そりゃあ、テキトーなハンバーガーとポテトだろ」マックでほかに何を食うんだよ、と言いたげだ。
「そう」ナゲットが一番好きだ、とは言いづらくなってしまった。
「予定でもあんのか?」
「ないよ」
「じゃあいいじゃん」昴のつり目に見つめるられる。
「まぁそうだね」
僕らの高校は、やや田舎よりの、しかしそれなりにインフラや店舗が揃っている町にある。高校に最も近いマックまでは徒歩で十五分くらいだろうか。
「もう遅いですから寄り道せずに帰ってくださいね」という道枝先生の言葉に、「うい」「はい」と応え、校門を通過し、夜の町へと昴と二人で飛び込む。春先の夜は快適だ。川沿いの土手道を進む。
十分ほど進んだところで、昴が、「昨日、病院でお前を見たぜ」と切り出してきた。
「行ってたからね」と会話を広げる気のない応えを返す。
どこで見られたのだろうか。入り口を入ってすぐの会計のカウンターが並んでいるところ? それとも二階かな?
川から湿った風が吹き、僕らの前を通り過ぎた。昴の足が石を蹴飛ばす。硬質な音がし、しかしすぐに消える。
「昨日は整形外科に行ってたんだ。肩が痛くてよ」昴は静かな口調でそう言って、すくめるように肩を上げた。
「大丈夫なの?」
「大丈夫」と答え、一拍の後、「医者を信じるならな」と言い足した。
「そう」と半ばささやくように言いつつ、昴が投げれなくなった場合、チームの投手力はそれなり以上に落ちてしまうなぁ、と案じる。
この前まで中学生だったにもかかわらず、素人の僕にも昴は高校球児としてほとんど完成しているように見える。実際、昴のピッチングフォームやバッティングフォームは機能的な美しさを備え、かつ安定している、と道枝先生と野球部の部員たちが称賛しているので、僕の感想も的外れではないと思う。
「何番を打たせるのがいいですかねぇ……。三番? 二番? OPSを考えるならクリーンナップに置くべきでしょうか……?」と道枝先生が独りごちているのを聞いたことがある。
僕が後ろにいるのに気づいた道枝先生は、昴はどの打順もこなせる好打者だと説明した。投手としてもやや技巧派よりの右の本格派で、スタミナもあるから安心して試合を任せられる、と続け、「いやぁ、贅沢な悩みっていいもんですね」と笑っていた。
昴本人も、「プロを目指している」と公言していて、努力もしている。
だから僕は、こういう人がプロになるんだなぁ、と思っている──わけではない。なぜなら昴は中学生の時に右肩に怪我をしたらしいからだ。若いうちから怪我をする選手はプロにはなれない、又はなれても大成しないイメージが、なんとなくだが、ある。昴がそうとは限らないけれど。
橋を渡る。マックはもうすぐそこだ。水の匂いに油のそれが混じり出す。
「
白髪のおじさんが頭に浮かぶ。「……知ってるよ」
「あの人、俺の主治医なんだけど、毎回ポカリの素晴らしさについて語ってくるんだよ」なんでか知らんけど、と零す。
「へぇー」と息に相づちを乗せ、「好きなんじゃない?」と音を風に流す。
ジャンクフードの匂いが食欲を刺激している。目の前には〈健康よりも大事なものが人生にはある〉と考える人たちによって創られ、運営され、そして支持される飲食店がある。
僕が入り口に向かって進むと、背中に、「あのよ」と声を投げられた。昴の球は取りやすい。それと同じように声も聞き取りやすい。
「……」無言で振り返ると、昴と目が合った。
先に逸らしたのは僕だった。
その視線を追うように昴も視線を動かし、ガラス越しに店内の様子を窺う。「混んでんな」と呟き、そして、「なんつーか、上手く言えねぇけど」と前置きし、「そんなに周りの奴らを毛嫌いしなくてもいいんじゃねぇか」と続けた。
「嫌ってるわけじゃないよ」
「あー」昴は気の抜けた炭酸のような声を発した。「そうだな、距離を取ってるって感じか」
「……」
僕が答えずにいると、昴は、「別に責めてるわけじゃねぇよ」と淡白な声音で奏でた。「いろいろあるのかもしんねぇけど、そんなに難しく考えなくてもいいんじゃね?」
「難しく考えてるわけではないよ」という僕の言葉は聞こえていないかのように、「俺だって割と変わってるけど普通にやれてるし、監督の話では俺らの世代は良くも悪くもおおらかな奴が多いらしいし、テキトーで上手くいくと思うぜ」と言った。
「……そっかぁ」
「ああ」
「ちょっと驚いたよ」
「ああ?」と今度は尻上がりに発し、「俺だってたまには優しさを見せたりするんだぜ」と──。
「変わってる自覚はあったんだね」
「……はっ」昴はおどけるように笑った。「ひでぇな。傷ついたわ」それから、「入ろうぜ」と入口に向かって歩き出した。
今度は僕が昴の背中に、「うん」と言葉を投げる。返事はない。
昴がプロになれるかは分からないけれど、その夢が叶うといいなぁ、と少しだけ思う。
練習試合の前日の土曜日は練習は休みだ。特にやることもないので、自宅の自室で昨日の昴とのやり取りを瑠衣と一花に話したところ、「マネージャーやってあげようか」と一花が言い出した。
現在、野球部にマネージャーはいない。じゃあ、
もしも一花がマネージャーをやってくれるのなら僕も楽ができる。一花の魂胆は見え透いているけれど、(少なくとも僕には)デメリットはない。
うん。頷き、「そうしてもらえるとみんな助かる」と都合のいいことを言う。
「でしょー? 感謝してよねっ!」
一花の言い方にはやや納得できないが、「ありがと」と言っておく。
「一花、できる……?」黙ってジャスミン茶を飲んだり、ポッキーをかじったり、時折頷いたりしていた瑠衣が、ぼそりと訊ねた。
どうだろ、と首を捻る。一花が野球の話をしているところは見たことがない。
「失礼な。できるに決まってんじゃん」と唇を尖らせた一花は、しかしすぐに笑みを作り、「一緒にやろうよ」と瑠衣を誘った。ふーん。
「……やる」瑠衣は小さな声を出した。
「ありがとー!」
一花が嬌声めいた声を上げるも、瑠衣は特に言葉を返すことなく、無表情のままポッキーへ手を伸す。木の皿の中は空だ。それに気づいた瑠衣の指が宙で止まる。彼女の視線がポッキーの箱に吸い寄せられる。まだ一袋残っている。迷いなく手に取り、びりびりと開封し、黒い棒を皿に出す。チョコレートの甘い香りが漂う。
大丈夫だろうか、と心配になる。二人の頭の中に野球のことは、たぶんない。
かりかり、という音が耳にくすぐったい。
練習試合の日──日曜日がやって来た。場所は埼玉国際大学のグラウンドだ。
高校に集合してから道枝先生の運転するバスで向かう。運動部によりこき使われているこのバスは、随分と汗臭い。
「マジで運転できたんだな」運転席の後ろの座席に座った昴が感心したように呟いた。
「ね、見えないよね」昴の左側──通路側に座る一花が頷いた。「オートマ限定って感じ」
「ははは。よく言われますよ」道枝先生は苦笑いを洩らした。
昨日、道枝先生に通話用アプリで、『一花と瑠衣がマネージャーをやりたいそうです』と伝えたところ、間髪入れずに、『それでは、早速、明日からお願いします!!』と返ってきた。あまりの速さにちょっと引いた。
そういうわけで、一花は誰に
昴はというと、一花に対しても僕やほかのクラスメイトに取るような態度で、つまりは良くも悪くも自然体で接している。それは学校の教室にいる時と同じで、不思議な安心感を僕に抱かせる。
「ところで一花さん」道枝先生は軽快にハンドルを捌きながら口を開いた。
「なんですかぁー?」一花の口調を一言で表現すると、〈チャラい〉だ。たぶんギャルとかいう人種なのだと思う。いかにも地味ないじめられっ子然とした外見の道枝先生とのコントラストはなかなかおもしろい。
「野球のことはどのくらい知ってますか?」道枝先生は半ば答えを察しているであろう質問を口にした。
「ホームランを打って三振を取れば勝てるスポーツ!」
一花の、小学二年生が持つ野球のイメージをスッキリとまとめたような発言に、バスの中に笑いが起きる。
「間違ってはいないけどさ」「真理なんだよなぁ」「言うは易く行うは難しなんよ」
部員たちのコメントに一花がむくれる。「今まで野球と関わってこなかったんだから仕方ないでしょっ!」
「分かりました」道枝先生は言う。「野球のルールやマネージャーの仕事は中君と昴君に教えてもらってください」
「はぁ?」「え」昴と僕の声が重なった。次いで、「はぁーい、分かりましたー!」と一花の声。
「めんどいんだけど」という昴の苦言は、「監督命令は絶対なのです」と理不尽な体育会系そのものの発言で一刀両断された。
野球部に入って分かったのだけど、道枝先生は野球のことになるとグイグイ来る。普段、教室で見せるおどおどした彼の姿は、バックスクリーンの彼方に行ってしまうらしい。今回もそうなのだろう。僕らがいくら文句を言っても無駄ということだ。
はぁ、と僕は内心で嘆息し、「はぁ」と昴は実際に嘆息した。
「わたしにも教えて……」瑠衣がささやき声に近い声音でぽつりと言った。存在感が薄いうえにまったく喋らないからすっかり忘れていた。
「分かった。ちゃんと教えるよ」瑠衣のためなら素直に頷ける。
「ちょっと! あたしと扱い違くない?!」一花が抗議の声を上げた。
「気のせいだよ」と言ってみる。
僕ら高校生にとって大学生は大人なイメージがある。お酒を飲んで車を運転してバイトをし、たまに勉強をする。そんなイメージだ。
「今日はお時間を取ってくださり、ありがとうございます」
道枝先生の挨拶に、禿げ頭かつ小太りの男性──大学の
「ありがとうございます。勉強させていただきます」道枝先生にとっての気楽な対応はこれらしい。
「……」一拍の後、フランクなノリは望めそうにないと諦めたのか、小さく、「ふっ」と息を洩らした細谷監督は、「それじゃ、適当にグラウンドを使ってもらって大丈夫ですので、九時三十分の試合開始までにアップを済ませておいてください」と道枝先生の後ろで固まっている僕らに一瞥をくれつつ、言った。
「はい。ありがとうございます」道枝先生は腰を折った。そして、試合に関する細かいこと──使用するバットのことなど──について細谷監督と話し始めた。
時間を持て余した僕が、一塁側ベンチの辺りにいる対戦相手らしき選手たちを見ると、その人たちは座って会話に興じたり、バットやボールを弄んだりしていた。
パッと見は僕らとそう変わらないように思う。けれど、向こうは年上で、おそらく野球歴も僕はもちろん昴たちよりも長いはずだ。たぶん負ける。きっと打たれる。
僕が投げた球が快音と共に弾き返される様子が目蓋の裏にありありと浮かぶ。振り返ると、内野や外野を守る部員たちが非難の目を向けていて──。
「なんか弱そうだな」最近よく聞く声がネガティブな思考を遮った。
「そうかな」と応えつつ、細谷監督に聞こえていませんように、と祈る。しかし、彼と目が合う。ぱっちり二重だ。「少なくとも癖は強そう」という印象を抱いた。
「そうか?」昴にはそうは見えないようだ。「俺の勘は『あのデブは堅実な采配をする』って言ってるぜ」声を潜めるつもりは皆無らしく、むしろ聞こえるように言っているのではないか、と思わせる声量だ。
「元気があっていいですな」細谷監督は口角を上げて道枝先生に言った。
「すみません」といつもの調子で口にした道枝先生は、「昴君。失礼ですよ」と昴に声を飛ばす。
「さーせん」帽子を少し浮かせるだけで頭は下げずに、昴は気だるげに言った。
ついでに僕も、「すみません」と謝っておく。
「おう」と嫌みのない声色で発した細谷監督は、「デブの恐ろしさを見せてやるから楽しみにしとけ」と笑った。
「ふんっ」昴は傲慢不遜な王のように小馬鹿にしたような息を鼻から洩らした。
道枝先生は苦笑している。僕も同じ表情をしている。
僕の所属するチームには、投手は僕を含めて五人いる。三年生が二人、二年生が一人、一年生が二人だ。昴が一回と二回を担当し、先輩方が繋いで、最後を僕が投げる。らしい。
先攻は相手チーム。ホームベースからマウンドにかけて向かい合う形で並び、「お願いします!!」と試合開始の挨拶をしてから、スタメンの選手たちはそれぞれの守備位置に散っていき、僕を含め控えの選手たちはベンチへと向かう。
途中、なんとなく振り返ると、昴があくびをしていた。非常にリラックスしているように見える。泰然としたその雰囲気は見ていて安心できる。この人ならば上手くやってくれるだろうと思える。
投球練習として昴が最初に投じた球は──ベンチから見た限りでは──ストレート。捕手を務める
ちらりと相手チームのベンチに目をやると、細谷監督が目を細めていた。ほう。やるではないか。そんなことを思っていそうな顔に見えなくもない。
試合が始まった。第一球。大きく振りかぶった昴の右腕から放たれたのは──変化球。おそらく、多彩な変化球を操る昴が二番目に得意とする、球速のある落ちるカーブだろう。
左打席に入った一番打者は、膝元に食い込み、キャッチャーミットに吸い込まれたそれを見つめ、首を傾けた。表情に変化はないが、たぶん困っていると思う。道枝先生曰く、昴のコントロールと変化球はプロトップレベルらしいから、大学の強豪チームでも簡単にはいかないはずだ。ちなみに、直球は高校トップレベルらしい。ちょっと前まで中学生だったのが信じられない、とみんな言っている。
予定調和のように六人の打者からアウトを奪った昴を、道枝先生と部員たちが、「お見事」「可愛くねぇー」「もっと手加減してやれよ」「正直、引くわ」と労う。
僕は、「お疲れ」とだけ言った、聞こえなくても構わないというつもりで小さく。
昴は先輩方に、「うるせー。相手がザコすぎるだけだっつーの」などと返しながら僕に向かって片手を上げた。
〈打の玲瓏〉と言われるくらいには、僕らのチームの打撃力は高い。はずなんだけれど、スコアボードには零が並んでいた。
振り抜いたバットを引き戻した大橋先輩が、マウンド上でロジンバッグを弄ぶ投手に一瞬だけ険しい視線を送り、それからバッターボックスを後にする。ベンチに戻る途中、次の打者である六番の昴──今は一塁を守っている──に耳打ちする。
ベンチからでは何を伝えたのかは分かりかねるが、「ストレートには手を出すな」とか、「カーブの時はグローブが下がる癖があるぞ」とか、そういうことを言ったのだろうと思っておく。
「いやぁー、ありゃあキツいわ」ベンチにどかっと腰を下ろした大橋先輩がぼやく。「高校生相手に大人げなさすぎだろ」
「でしょうね」となんでもないことのように言った道枝先生は、マウンド上の選手に視線をやった。「あの投手は、大学ナンバーワンピッチャーらしいですから」
初耳である。しかし、大橋先輩にとっては既知だったらしく、驚いた様子もなく、「いやでも、昴のほうが総合的には上ですよ」と相手の投手を見やる。「うちのチームなら、一点くらいなら──」
昴のバットから発せられた快音が、大橋先輩の言葉を止めた。こなれた動作でバットを放った昴が駆け出す。打球は左中間の奥に落ち、バウンドしてフェンスに当たる。センターを守る選手が、ボールをキャッチして無駄のない挙動で二塁に送球。しかし、その時には昴はすでに二塁に到達していた。僕らを鼓舞するかのように、あるいは相手チームを挑発するかのように握りしめた右手を上げた。
一花が、「よっしゃあっ!」と声を上げ、「ホント、可愛くねぇな!」と大橋先輩が笑みを溢れさせた。
「いいですね」道枝先生も褒める。「お手本のようなスイングです」
ちょっと前まで中学生だった高校一年生に二塁打を打たれた大学ナンバーワンピッチャーを見る。眉一つ動かさないポーカーフェイスは崩れていない。打たれても点が取られなければ問題はないということだろうか。
次は二塁手の
道枝先生は腕を組んだまま見守っている。これは〈好きにやってください〉というサインだ。
昴の性格を考えると、たぶん──。
相手の投手が投げたボールを小谷先輩が大きく空振りし、わざとらしくならない程度によろける。次の瞬間、捕手の選手が小谷先輩を避けるように僅かに身をずらし、三塁に走り出した昴を刺そうと送球する。
審判が、空気を切るように手を左右に広げた。セーフだ。昴が三盗を決めてしまった。
「うわぁ」という僕の声は歓声ではない。どん引きして洩れた声である。
「よしっ」道枝先生が腕組みを解いた。手を動かし、サインを出す。その内容は〈積極的に攻めてください〉だ。ここがターニングポイントだと判断したのだろう。
頷いた小谷先輩が構える。相手の投手が投球動作に入り、球を放つ。小谷先輩はすぐに身を屈めてバントの構えに変更。一瞬遅れて一塁手と投手が前進し、二塁手が一塁のカバーに向かう。が、一塁と二塁の間を狙ったプッシュバントが成功する。
昴は? と思った時には、すでにホームベースの左側に滑り込んでいた。手を伸ばし、ホームベースをタッチする。
「おっし!」という誰かの声が聞こえた。「わぁー」という一花の声も聞こえた。「すごい……」という僕の呟きは、誰かに聞こえたかは分からない。
一塁に目をやると、小谷先輩はちゃっかりと一塁に到達していた。
「ちょれーわ」ベンチに戻るなり、昴はそう言った。先輩のサポートを受けて生還したことは頭から消えているとしか思えないふてぶてしい発言だ。
大橋先輩が昴の尻を叩いた。「ナイラン」
「うす」と小さく応えた昴は、尻が痛むのか、いつもよりそっとベンチに──僕の隣に座った。「あとはお前が抑えれば上カルビが食える」牛タンもハラミもだ、と忘れてはならない大切な情報であるかのように厳かに付け加えた。
「……分かってるよ」強張った、険のある語調になってしまった。
昴は上半身を前に倒し、下から僕の顔を覗き込んできた。そして、笑った。
「何?」むっとした。不機嫌が眉をひそめさせている。
「お前、可愛い顔してんな」
「はぁ?」と困惑が語尾を持ち上げた。
一方、一花は、「ほー、へー、ふーん」とハ行に首ったけのようだ。
「焼肉屋でもパフェとか頼むのか?」昴がからかうように問うた。
「……頼まないよ」一瞬、前回焼肉に行った時に食べたチョコレートパフェが脳裏をかすめたが、大した問題ではない。
「嘘つきー」と一花の声が通り過ぎていったが、やはり大した問題ではない。
「顔に出やすいとこはなんとかしたほうがいいな」昴は目を細めて言った。
「あーもう、うるさいなー! それも分かってるってば!」つい声が大きくなった。
「楽しそうなところ申し訳ありませんが」道枝先生が言う。「中君はそろそろ準備をしてください」
はっとして顔を声のほうに向けると、控え捕手の
「すみません!」急いで肩を作らなければ、と立ち上がる。
「がんばっ」と一花が言った。
背中に昴の視線を感じたけれど、振り返りはしなかった。
「ボールフォア!」審判がそうコールしたのを受け、打者はバットをグラウンドに置き、駆け足で一塁に向かう。
「やばい……」僕は呟いた。
最終回のマウンドに上がった僕は緊張していた。元々、制球力に自信はなかったけれど、練習ではそれなりにコントロールできていた。しかし、本番──本番といっても練習試合だけど──を迎えると、一球もストライクに入らなかった。
原因は明白だった。僕のメンタルの弱さだ。失敗してはいけない、と思えば思うほど筋肉が鉛になったかのように重くなっていく。
まるで現実感がない。気がつけば音が消えていた。世界から僕だけが切り離されたかのようだ。
やっぱり無理だったんだ。だいたい道枝先生もおかしいよ。なんで野球を始めて一箇月くらいしか経っていない人間に抑えをやらすのさ。まともに使える球はストレートしかないのに抑えられるわけないじゃないか。しかも相手は大学生。しかも強豪チーム。絶対無理だってば。
不平不満が頭の中を圧迫していく。
ノーアウト満塁。それが今の状況だった。次に四球を出したらついに点を与えてしまう。そうなったら僕らの勝ちは消える。
責められるだろうか。もしかしたら表面上は優しく励ましてもらえるかもしれない。でも、本心では不満はあるはずだ。中が登板さえしなければ気持ち良く練習試合を終えられたのに。なんでいつも中ばっかり。依怙贔屓じゃん。そんなふうに思われるだろう。いや、すでに思われているはずだ。
「よぅ」肩に腕が回された。昴だ。「余裕なさそうだな」そう言う昴は落ち着いている。その余裕綽々な様子が──そう思うことが理不尽だと理解していても──今は憎たらしい。
「余裕なんてあるわけない」泣き言だ。情けない。
「もっとテキトーでいいんじゃねぇか」たかが練習試合だろ、と昴は言う。
そういう問題ではない、と喉元まで出かかったが、僕の周り──マウンドに内野陣が集まっていることを認識し、息が止まった。
「お前なぁ」大橋先輩が口を開いた。叱責される。そう思った。けれど、僕の聴覚が捉えたのは、「そんなに焼肉食いたいのか?」という冗談めかした言葉だった。
ぷぷ、と小谷先輩が息を洩らした。小谷先輩だけではない。みんな笑っていた。
答えられずにいると、僕の肩に腕を回したままの昴が、「こいつ、焼肉よりチョコレートパフェが楽しみらしいっすよ」と語調をおどけさせた。
「お前なぁ」大橋先輩がまた口を開いた。「フルーツパフェのがうめぇだろ。なんでチョコなんだよ」
「……」気づけば口を開け、呆けていた。大橋先輩もパフェが好きなんですね、と場違いに呑気な感想が頭に浮かんだ。
不意に大橋先輩がまじめな顔になった。「負けてもいいんだって。今回は実戦経験が積めればそれでいいって監督も言ってたろ?」
それはそうだけれど。
大橋先輩は続ける。「お前ってさ、なんか難しく考えて勝手に自滅してくタイプだろ。良く言えば責任感が強いっつーの? そんな感じ」周りで何人かが頷く。「悪く言えば……」そこで大橋先輩は口ごもり、「えーと」と助けを求めるように小谷先輩に顔向けた。
苦笑した小谷先輩は、「悪く言えば、周りを信用してない」と大橋先輩の言葉を引き継いだ。
「そう。それ」大橋先輩が小谷先輩を指差し、言った。そして、また僕を見て話し始める。「なんだろうな。臆病なんかな? それとも自己評価が低いんかな?」顔に出やすいらしい僕を見ている大橋先輩には、どちらも図星であることが手に取るように分かったのだろう。「だよな」と小さく発した。「はっきり言って」とはっきり言ってから言葉を止めた大橋先輩は、唇の端の片方だけを吊り上げ、一瞬だけ昴を見た。「才能だけなら昴以上だぞ、お前」
「……は?」声を出したのは随分と久しぶりな気がした。
「実力は俺が一番だけどな」昴は言った。
しかし、大橋先輩は昴の発言は聞こえていなかったかのように僕の目を見つめたまま、「みんな認めてるんだから自信持てよ。自信持って投げて、そんで結果を見て、課題を分析して、で、練習する。それで完璧よ」と明瞭な口調で言った。そして、「大丈夫」と笑った。「負けても全員で全力で騒いで焼肉は必ず奢らせるから」
「当たり前なんだよなぁ」「日曜日を潰した償いは必要」「自分、抹茶パフェのおいしい焼肉屋知ってますよ」それぞれが勝手なことを言う。
「そこはフルーツパフェだろ」大橋先輩が言った。
「もうスイーツ食べ放題にでも行けよ」という昴のツッコミに、「タメ口かよ」「生意気すぎんだろ」と先輩方からツッコミが入る。
昴は肩をすくめた。それに伴い解放された僕の肩にはまだ熱が残っている。
「じゃ、そういうことだから」と大橋先輩は僕の右肩にキャッチャー用の分厚いミットを当てた。そして、「ほれ、解散解散。あんまり待たせると怒られっぞ」と背を向け、自分の守備位置に向かった。
「じゃあな」と残し、昴も行ってしまった。
マウンドから見える光景が、きらきらと耀いている──なんてことはないけれど、ただ、少しだけ、そう少しだけ、僕を野球に誘うような変わった人間に出逢えたことを幸運に思えた。
大橋先輩が構えたミットは開いている。たぶん大丈夫。今度は──。
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