穴の底
九十九
穴の底
ぽっかりと大きな穴が開いていた。
大きな穴はどこまでも深く、深く、底の見えぬ穴だった。
底の見えぬ穴は、家の座敷に開いていた。
丁度そこは、大好きだったおじさんが事切れていた場所だった。
「おじさん、そこに居るの?」
ぽつり。穴の中に声を投げかけてみる。
穴は私の声を吸い込んで、やがて辺りはしん、と静まり返った。
「おじさん、そこに居るの?」
飽きもせず私は穴へと声を投げ入れる。
いずれ降り積もった声が底になるのではないかと期待して、声を投げ入れる。
「おじさん、そこに居るの?」
声が降り積もるなんてこと無いと知っていながら、私は穴の中へと声を投げ入れる。
返事が欲しいわけじゃない。
穴が塞がって欲しい訳でもない。
穴の底に何があるのか気になっているのだ。
あの日、消えたおじさんの身体が穴の底に沈んでいるのではないかと、思っているのだ。私は。
おじさんは不思議な人だった。私には見えないものがおじさんにはよく見えた。私には見えなくなったものがおじさんにはよく見えた。
私はそんなおじさんが好きだった。おじさんが訪ねて来て、話を聞かせてくれる座敷と言う空間が好きだった。私にとっての特別は、不思議で優しいおじさんと、日に当たった畳の匂いのする座敷だけだった。
家族の誰もがおじさんを怖がる中で、私だけがおじさんを好いていた。家族の誰もが私を見ない中で、おじさんだけが私を見てくれた。
私はおじさんが好きだった。おじさんの不思議な話が好きだった。
ただ、それだけだった。
おじさんの身体が冷たくなって横たわっていたのは、雪が降り積もる静かな夜だった。
階段を下りた先で横たわるおじさんを見て、私は最初、寝ているのだと思った。あまりにも静かな夜だったから、なんとなくそんな風に思ったのだ。目を凝らさずとも簡単にその下に広がる血だまりが目に入ったと言うのに。
私はおじさんに触れて初めて、彼が冷たくなっていることに気が付いた。
揺り起こそうと触れた手が氷に触れたようにかじかみ、喉がひくりと鳴って声は出なかった。暫しの間の後、おじさん、と言葉を紡ぎかけてようやく血だまりの存在に私は気が付いた。
そうやって私はおじさんの目が覚めないことを知った。
誰かを呼びに行かなくてはいけないと、私の中で警鐘が鳴った。
私は家を飛び出して、隣に住む友人へと助けを求めた。夜中であったと言うのに、友人は嫌な顔せずついて来てくれた。
家に戻った時、座敷におじさんの姿は無かった。
血の痕一つない光景に、きっと怖い夢を見たのだと友人は私の頭を撫でた。朝が来ればきっと元通りだと諭す友人に私は頷いて、部屋に帰り布団の中へと潜った。
次の朝、おじさんの姿は家から消えていた。代わりに、夜になると座敷にぽっかりと穴が口を開けた。
その日から、私はおじさんの姿を探して穴の中に声を投げ入れている。
「おじさんがね、生きているとは思ってないの」
私がそんな風に言えば、友人は優し気な顔を苦しそうに歪めた。
「なんとなくね、そんな気がするの」
あの夜に見た光景は、本当の事なのだとそんな気がしているのだ。
友人は何かを言いたげに口を開いたが、やがて諦めたように閉口した。
「声って降り積もると思う?」
友人は是とも非とも答えなかった。ただ曖昧に笑って、私の頭を撫でた。
「早く底が見えたら良いのに」
そうすればあの日消えてしまったおじさんが、そこには居るような気がするのだ。
穴の前で私は座り込む。穴の縁に手を伸ばしてみても穴は掴めない。
「おじさん、そこに居るの?」
穴はいつものようにぽっかりと口を開けるだけで、底は見えない。
「おじさん、そこに居るの?」
家族はもう、誰も私の存在すら認識しない。見ないものとして扱うのと、存在しないものとして扱うのは少し違うのだと、おじさんが居なくなった日に私は知った。
見えぬ穴に問いかける私を家族がどんな目で見ていたのかなんて、私は知らない。おじさんが居なくなって数日後には家族も皆どこかに行ってしまった。
「おじさん、そこに居るの?」
おじさんだけだったのだ。私の居場所は。血の繋がりの無いおじさんだけが私のこの家での唯一の居場所だったのだ。
穴は今日もぽっかりと開いているだけで、底は見えない。私の声は降り積もらない。
「いっそ飛び込んでしまえたら良いのに」
口に出して、ようやくその考えに至った。
そうだ、飛び込んでしまったら底が見える。
それはとても良い考えのような気がして、けれども同時に戻ることは出来ないのだろうと直感した。
私は穴の縁を撫でる。
「友達にお別れしてくるから待っていて」
穴が震えたような気がした。
「飛び込んでみようと思うの。あの穴に」
友人は一瞬何を言われたのか分からないと言った顔をした。
「飛び込んだら穴の底が見えるでしょう? だから飛び込んでみようと思うの」
その場で軽やかにくるりと回る。とても良い考えが浮かんだ私は上機嫌だった。対して友人の顔は険しくなる。そんな顔をさせたいわけじゃない私は眉を下げた。
「大丈夫、底を見るだけだから、大丈夫」
友人にとってはきっと気休めの大丈夫だ。
「だから、ね。でもきっと、穴に入ったら」
戻れないと思うの、とは最後まで言えなかった。
遠くで歌が流れている。家に帰りましょう、と歌が流れている。
私は友人に笑いかけてから、きびすを返した。
「掘って見たら良いよ」
引き戻される感覚。友人の声。
痛いくらいに掴まれた手の先、友人は泣きそうな顔でそう言った。
「穴の下を、深く、深く、掘って見たら良い」
一緒に掘るから、と縋るような目の友人は震える声で私に言った。
春の匂いがする夕暮れ時、狭い床下に友人と二人で潜って肩を寄せ合う。
「ここが穴の下」
そっと土を撫でる。何となく、そこだけ温かい気がして私は首を傾げた。
「一緒に掘ろう?」
友人は首を傾げる私にスコップを手渡す。私はそれに頷いて、土を掘り始めた。
ほとんど四つん這いに近い姿勢では私も友人も満足には動けなかった。それでも一度掘り始めると、そんなことも気にならなくなって無我夢中で掘り進める。
掘って、掘って、掘って。深く、深く、穴を掘って。
そうして、こつん、と何かに当たる感触がした。
「底だ」
思わず、そう呟く。
私は一つの予感に追い立てられるようにスコップを手放し、手で掘り進め始めた。
友人は私の片手を握り、繋ぎ止めるようにその場に縫い付けた。
底には温かく白い塊があった。
「おじさん」
呟き、白い塊をそっと持ち上げて、片手で抱きすくめる。
「おじさん、ここに居たんだ」
白い塊になったおじさんの頭を、そっと撫でる。幼い頃のいつの日か、迷子になった私におじさんがそうしてくれたように。
座敷の中にぽっかりと穴が開いていた。
私は穴の縁を撫でる。
「おじさんは底に居たよ」
穴は震え、そうしてそっと閉じた。
穴の底 九十九 @chimaira
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