第50話 俺は行けない

 娘の声の先。

 薄暗闇の奥、ムーツィオ氏の石像の前に、彼はうずくまっていた。

 グレアム・ウィンストン。娘の最愛の、騎士。

 手にはハンマーがあった。この広間のドアを破るのに使ったハンマーだ。そのハンマーを杖にするようにして、グレアムくんはしゃがみ込み、項垂れていた。娘が続けた。

「密室、とコロンブさんは言いました。でもそれは正確じゃない」

 娘はまた一歩、グレアムくんに近づいた。

「正確には『グレアム・ウィンストンが開かないと言っただけのドアがある部屋』、です。複数の人間を介して確認された事実じゃない」

 静かな声が淡々と、だが悲しそうに続ける。

「この部屋から、他の石像が綺麗になくなっているのは……」

 と、娘が周囲に目を走らせる。

「グレアムくん。あなたが錬金術で元の人間に戻したから。あなたが幼い頃クリスホイドで慣れ親しんだ錬金術で人を助けたから」

 グレアムくんが振り返った。その目は薄っすらと……濡れていた。

「これは推測ですが」

 娘は続ける。

「私とコロンブさんがこの大広間の前であなたに出くわしたあの場面は、もしかしたらあなたが石像に変えられていた人たちを逃がして、避難艇に避難するよう指示した後だったのかもしれない。その証拠に、避難艇には裸の男女が数名いました。この避難指示が出る直前まで石像に変えられていた男女なら、裸でいても仕方がないです」

 それから、と娘は唇を噛んだ。

「あなたは一人、復讐を遂げるために大広間に戻ろうとした。部屋を破るのに使ったハンマーでムーツィオ氏の石像を粉砕しようと、そう思って大広間ここへ戻ろうとした。そこに私たちが来た。あなたは即座に一計を案じた」

 娘は足を止めた。それはグレアムくんから十数歩離れたところで、娘はそれ以上彼に近づけない様子だった。娘が何故この距離を詰めなかったのか、あるいは詰められなかったのか、今になっても分からない。

「まず『ムーツィオ氏が大広間に入っていった』という演出をしようとした。私たちの意識を一度大広間に向けた。そうしておいて次に石像以外何もない部屋を見せて『大広間にムーツィオ氏はいない』という誤解を生ませた。本当は目の前にあったのですが……一旦『この部屋にはいない』ということを私たちの目に。いないと分かれば他の部屋に行くしかありません。いないと分かればこの広間を離れなければなりません。そうしておいて最後に、『この部屋で見つからない以上他の部屋に行くしかない』という指示を出した。コロンブさんには避難手立てを確立させるような形で。私には船内をもう一度捜索させるような形で。そうして残ったこの部屋で、あなたはそのハンマーでムーツィオ氏を砕こうとした」

 するとグレアムくんがすっと立ち上がった。

「……そして躊躇っている内にあなたが来られた」

 グレアムくんが振り返った。

「さすがです、レディ」



 船が大きく揺れた。続けざまに何かが爆発する音。ハイデンバーグ号の命が果てようとしていた。しかし娘とグレアムくんは向き合ったままだった。

「レディ。俺には姉がいたことは話しましたよね」

 娘は黙ってうなずく。

「姉さんはいつも俺を助けてくれた……いつも俺を庇ってくれた。レディ、あなたは東クランフの田舎、クリスホイドで身寄りのない子供たちがどう扱われていたか知っていますか。かつての敵国との狭間の町で、親のいない、家族のいない、孤独な子供たちがどんな目に遭っていたか分かりますか」

 娘はただただ黙っていた。

「人として扱われないのです。俺の友達は実験動物として地元の貴族に飼われていました。色んな薬品を試されたり、『人はどこまで痛みに耐えられるのか』という実験台にされたり。そうして用がなくなったボロボロの友人を、その貴族はゴミみたいに道端に捨てました。俺が気づいて駆け付けた時にはもう、およそ人の言葉を離せないような状態だった……」

 姉さんも、とグレアムくんは続けた。

「ある屋敷に召使として働かされることになった。そこでひどい目に遭ったそうです。以来姉さんは大人の男性を怖がるようになった。道を歩く時、俺は姉さんの盾になりながら歩いた」

「グレアムくんもひどい目に遭ったのですか」

 娘は続けた。

「沼屋敷でひどい目に遭わされたのですか」

「……ええ」

 グレアムくんは濡れた笑顔を向けてきた。

「レディ、俺はあなたに嘘をついていた。俺は『沼屋敷で召使として働いていた』なんて言いましたが、あれは嘘です。実際、俺はあの屋敷で動物以下の扱いを受けていました……」

 娘が静かに涙を拭った。

「カラスの餌にしてやろう、と首から下を庭に埋められたことがありました。悪魔を呼ぶ儀式の生贄として、何時間も柱に縛り付けられて鞭で打たれたこともあります。面白いからと肥溜めに突き落とされ、やっとのことで這い上がってもまた蹴飛ばされ、ということを繰り返されたこともある」

 そこに姉さんが来た……。そう、グレアムくんは続けた。

「姉さんは俺を守るつもりで、あれほど怖がっていた男に立ち向かっていった。ムーツィオの屋敷に住み込みで働くことにして、奴隷以下の扱いを受けていた俺を助けようとしてくれた。俺がひどい目に遭って屋敷の廊下に裸同然で丸くなっている時、姉さんはよくやってきて食事と上着を貸してくれたっけな。そんなある日姉さんが、俺に言ったんです。『逃げなさい。それからこのお金を使ってまず宿を借りなさい。宿を借りたら、何でもいいから仕事を見つけて。立派に生きて』」

 その時姉さんから……と、グレアムくんは自分の制服の襟に触れた。

「姉さんの服からボタンをちぎったんです。姉さんだと思って大事にしようと誓った。沼屋敷を抜けた俺はオリガ婆さんのところに行って少しの間泊めさせてもらいました。オリガ婆さんは身寄りのない子供たちを育てていることで有名でした。沼屋敷にいてもその噂は耳に入った。彼女の元なら一旦生きられるんじゃないか、そう思って逃げ込みました。オリガ婆さんには『沼屋敷で働いていた』なんて嘘をついたけど、彼女は特に疑うことなくそれを受け入れた。それから俺はすぐにクリスホイドを出て、東クランフのゲルリンで美術館警備の仕事に……ここから先は話しましたっけね」

 先日クリスホイドで沼屋敷に行こうと思ったのは、と、グレアムくんが天井を見上げて続けた。

「もしかしたら姉さんの痕跡があるかもしれないと思ったから。俺がいなくなった以上、姉さんがあの屋敷で働く理由はなくなりました。きっと沼屋敷を出て、きっとどこかに逃げて、きっと誰かの妻に、なんて思っていたのですが、そこで姉に出会った……石像にされていた姉に」

 グレアムくんが握ったハンマーに力を込めたのが分かった。

「石像にされた人間は少しでも欠けると元には戻せません。同じ重さ、同じ量じゃないと変換はできない。あの日、俺が見つけた姉さんの石像は大きく欠損していた。多分、ムーツィオはタロールに引っ越すに当たりいくつか自分の人間石像コレクションを放棄したんでしょうね。その中に元召使の姉がいた。捨てられた時の衝撃か、あるいは元から欠けていたのか、姉はもう人間には戻れない体になっていた」

 だから俺は、俺は……。グレアムくんの目に暗い何かが宿っていた。

「でもレディ、あなたがいた。あなたが俺を明るい方に導いてくれた。復讐なんて忘れよう。そう思っていました。けどこの仕事が舞い込んだ。どうしようもないと俺は思った。運命の嵐はどう足掻いても俺を逃がしてはくれないのだと、そう悟りました。だから俺はカードを出した。『あなたが人を石像にして遊んでいることは知っている。場合によっては告発する。あなたの釈明が聞きたい』そう、送りました。しかしあいつはそのカードを暖炉魔蓄に捨ててしまったようですがね。それから爆発が起きて、このままじゃ何も為せないままムーツィオと離れることになると思った俺は急いで奴の部屋に向かって、乱暴でしたが銃で脅しました。それからこの大広間に連れて行って、目の前で石像を人間に戻して釈明をさせてやろうと……せめて、せめてムーツィオがこれまでの非を認めて謝罪してくれれば、それで許そうと……本当は許したくなんてないのですが、それでも人生の明るい方に目を向けて生きようと、そう思っていました。けれどムーツィオの態度は違った」

 それからグレアムくんは、懐から小さな水晶のようなものを取り出した。録音魔蓄だとすぐに分かった。

 そしてそこから聞こえてきた声は、ひどく醜く、聞くに耐えないものだった。

〈……姉さん? ウィンストン? あああの貧相な体の娘のことか。あのガキは穴という穴を犯した後に石にしてやったよ。泣き叫ぶ様は傑作だったな……〉

「レディ、聞いて下さい。俺は銃で撃とうとした」

 グレアムくんが腰の銃に手をやった。

「けれど、石像から解放された人たちが代わりに提案してきた。こいつを石像にしてやろう、と……」

 グレアムくんは振り返り、石にされたムーツィオ氏を見つめた。

「一人が元からあったムーツィオの最新作を……これは調べたところ、稀少な石を錬金術で変形させていたことが分かりました……土台に変えた。そして数名が、その上にムーツィオを無理やり乗せて、別の一人が錬金術式を書き込んでムーツィオに適用した。そうして石になった彼を、全員が砕こうとした。でも俺は止めた。放っておいても石になったんだ。船が沈めば石像だってただじゃ済まない。手を下す必要はない。それより逃げることを優先しろ」

 全員を説得するのは大変でした。グレアムくんはそうつぶやいた。

「で、みんながいなくなった後、俺の心にはやはり復讐の悪魔が戻ってきていた。俺がさっきみんなを止めたのは、他人に壊されるのが嫌だったからだ。そう悟りました。でも、壊せなかった……」

 彼の言葉に何も言えなかった。娘も沈黙を守っていた。それは彼への恋慕がそうさせるのか、あるいは哀れみ、あるいは同情がそうさせるのか、私には分かりかねたがしかし娘は黙っていた。グレアムくんは続けた。

「まだ怖かった、のかな。あんな目に遭わされた男だから。それかもしかしたら姉さんが止めてくれたのかも。こんな奴のために手を汚す必要はない、って。そして、レディ。俺にはあなたがいた……最愛の女性が」

「グレアムくん」

 娘がようやく沈黙を破った。

「ムーツィオを元に戻してください。今の話を聞く限り、あなたには脅迫の罪しかありません。そしてその脅迫も、情状酌量の余地がある。今なら罪に問われないかもしれない。今なら引き返せるかもしれない。それは、そう、私なんかが簡単に言っていいことじゃないかもしれませんが、私はグレアムくんに復讐なんてしてほしくない。お願いです。どうか……」

 しかし娘の声にグレアムくんは無表情だった。彼が黙っているので娘は跪かんばかりの勢いで項垂れて続けた。

「どうかお願いします。お願い、戻ってきて……」

 すると今度は大きな爆発がした。船体が大きく揺れる。転びそうになった娘の手を、グレアムくんが優しく受け止めた。二人は見つめ合った。

「レディ。逃げなければ」

 グレアムくんのその言葉に娘の顔が仄かに晴れた。

「あの、私、避難艇に番号を振っておきました。このサイコロを使えば一瞬で逃げられます。だからまず石像をもと……」

 そう言いかけた娘の唇を、グレアムくんは優しく塞いだ。優しいキスだった。

「レディ。愛しています」

 レディが好きでよかった。

 グレアムくんは娘の耳の辺りをそっと撫でた。その時私は、気づくべきだった。

「逃げましょう」

 グレアムくんの言葉に娘が今度こそ明るい表情を見せた。しかしグレアムくんの目は静かだった。

「でも俺は行けない」

 娘の目が見開かれる。彼は娘から身を離した。

 グレアムくんの手にはサイコロがあった。耳元を撫でた時に取っていたものだった。

「どうかご無事で」

 グレアムくんがサイコロを振った。

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