第49話 だって、簡単だもん……
ハイデンバーグ号はゆっくりと墜落していた。もう、一刻の猶予もない。
「ムーツィオは……ムーツィオはどこに……」
コロンブさんが膝と膝を寄せ今にも崩れ落ちそうになっていた。迫りくる命の危機と、社員としての使命とがせめぎ合っているのだろう。
「ムーツィオが自分の意見を曲げて執務室を出たなんてやっぱり考えられない……誰かに脅されたんじゃ……そうだ、脅迫犯!」
しかし自身が立てた仮説を、コロンブさんは覆さざるを得なかった。
「でもどうやって魔蓄犬の群れを突破したの……? 魔蓄犬は何もしなかった……」
コロンブさんの顔が目に見えて混乱に染まっていった。彼女の恐怖が私たちにも伝播しようとしていた。しかしグレアムくんが叫んだ。
「もう一度探しましょう!」
それは凛とした叫び声だった。
「時間の許す限り探すんです!」
ああ、それは、そう、本当に騎士団らしい。
国民の一人も犠牲にしないという、王国騎士団の姿勢の現われだった。ここのドアを破る時に使ったハンマーを手にしたまま、彼はてきぱきと指示を出した。
「コロンブさんは副船長のパトリックさんに頼んで乗務員の避難手立てを確保してください! 俺とレディでもう一度船内を探しましょう!」
「わ、分かりました!」
コロンブさんがしゃんと姿勢を正した。それから度重なる振動に揺すぶられながらも、しっかりした足取りで大広間を後にする。娘は真っ直ぐグレアムくんを見ていた。それから口を開いた。
「避難艇を見てきます」
え、避難艇?
私は口を挟みそうになった。それはさっきコロンブさんが行った方じゃ……。
しかしグレアムくんは黙って頷いた。娘は踵を返して駆け出した。
「ちょっと、どうして避難艇を見るのよ!」
娘の肩で揺すぶられながら私は訊ねた。しかし娘は黙っていた。黙ってひたすら、落下している船内を駆け抜け、避難艇が準備された船腹に向かった。そこには六隻の、文字通り船の形をした魔蓄飛行機が並んでいて、中央部分に口がひとつ、大きく開いていた。娘はそれに近づくと、手近にあった船の中を見た。
たくさんの人がいた。人でひしめき合っていた。
おそらく食事中に避難することになったのだろう。ナプキンを胸に挟んだ男性や、フォークを持ったまま船に乗り込んでいる男性がいた。入浴中に逃げることになったのか、裸の男女が何人か。こういう時でも財産は手放したくないのだろう。貴重品の類を、おそらく部屋に備え付けられてあった金庫ごと持ち出している婦人。娘は船の中に目を走らせると、メモ帳を取り出し大きく「1」と書いてページをちぎった。それを丸め、避難艇の中に放り込む。
娘はそんな行動を、残りの全ての避難艇に対しても行った。すなわち入り口のところで船内を見て、やはり様々な姿の乗客たちを見てはメモ帳に数字を振り……「2」「3」「4」「5」「6」……丸めて船の中に放った。それからパトリックさんのところにいたコロンブさんに声をかけた。
「他の乗務員は?」
「まだ船内を捜索中……」
「引き上げさせてください」
しかし娘の声は小さかった。
「引き上げさせてください。全員に避難命令を」
「しかし……」
「避難命令を」
コロンブさんは娘の言葉に少し戸惑った顔を見せたが、しかし娘が沈黙の幕を下ろすと決断したらしかった。彼女は胸元の魔蓄に口を寄せた。
「リリアーヌさん?」
すぐに応答があった。
「はい!」
「総員引き上げてください。避難します」
「しかしまだムーツィオが……」
「避難します」
私は娘の腰辺りからコロンブさんを見た。やるべきことを示唆されたからか、彼女の目にはいくらか強い光が、灯っていた。
「一人の人間のために大勢を危険に晒すことはできません。パトリックさん、これからの行動について指示を」
すると娘が歩き出した。それは明らかに避難艇に入るのではない動きで、強い歩調でつかつかと、この部屋の出口を目指していた。私は娘に訊ねた。
「どこへ行くの?」
娘は答えなかった。嫌な予感はしていたが、しかしそれは同時に、いつも私を高揚させてくれるあの言葉が控えている気配も感じさせていた。私は続けた。
「何か分かったのね?」
ぐすり、と娘が鼻を鳴らした。それが何を示すのか、私には何となく分かってはいたが、黙っていた。すると娘が答えた。
「だって、簡単だもん……」
娘の調子は明らかにいつもと違った。明らかに困惑して、明らかに躊躇っていた。私は胸の中の不安を吐き出した。それは娘の心に寄り添う意味もあった。
「……それは突き止めなきゃいけないこと?」
もし、ああもし、これから娘の前に晒される真実が、どうしようもなく辛くて目を背けたくなるようなものなのだとしたら、そんな真実には目を向けなくてもいいと、私はそう言ったつもりだった。しかし娘は答える代わりに耳元に触れた。サイコロの、耳飾り……。
「分かるよね?」
娘の言葉に私は悟った。
娘は何かする気だ。そしてそれはサイコロを使った緊急脱出をしなければならないほど、差し迫った問題だ。私は黙った。いや、本当のことを言うと、親として、娘の母として、自らを危険に晒すような行動は止めるべきだったのかもしれないが、しかし私には保護者としての自信があった。何かあったら我が身に代えても娘を守る。そのための覚悟はできている。そのための術も、魔法も知っている。そして何より娘自身が準備している。止める必要はない気がした。それに言っても聞かないことは分かっていた。
「安全第一よ」
そんな言葉が口をついて出た。これが私の、せめてもの親らしさだったのかもしれない。
「うん」
娘は船の奥を目指した。何度か大きな揺れがあったが、しかし娘の足取りは乱れなかった。
*
娘は大広間に戻ってきた。ひしゃげて破られたドアが足元に無残に転がっていた。魔蓄の供給経路が断たれたのだろう。部屋の中は真っ暗だった。薄暗闇が娘を出迎えた。
「ムーツィオ氏が、部屋の暖炉魔蓄でカードを燃やしたのは……」
部屋に入るなり娘は話し始めた。
「それが明らかにこれまでの脅迫状とは質を異にするものだったからです。おそらくですが、ムーツィオ氏の過去の罪を告発するものだったのでしょう」
娘の足音が暗闇に響いた。そして私は気づいた。仄暗い世界に、娘以外に、息をしている存在がいる。
「あなたが送ったカードですね」
娘の声が広間に響く。
「カードと脅迫状は内容が違いました。ムーツィオ氏の対応から見ても明らかです。脅迫状には私たちを手配するほど公に対応を見せましたが、カードの方は隠そうとした。おそらくムーツィオ氏が過去に犯した罪について、『こちらは具体的な情報を握っているぞ』というメッセージだったのでしょう。漠然と復讐を誓う脅迫状とはものが異なった」
誰も娘の言葉に答えなかった。視界はただただ暗かった。
「ムーツィオ氏に送られていた脅迫状の犯人はマクシミリアン船長です」
娘は淡々と続けた。
「もっともこれは推測の域を出ません。ですが、船長の失踪後残されたあの紙にはかなり濃い筆跡で文字が書かれていました。私には見覚えがありました。航海日誌。私たちが初めて操舵室に入った時、マクシミリアン船長が手にしていた航海日誌には彫り込んだように濃い筆跡の文字がずらっと記されていました。おそらくですが船長の筆跡です」
グレムリンたちが放棄し始めていたのは……。娘は続けた。
「他でもない、船のトップである船長がこの船を粗雑に扱おうと……破壊しようとしていたから。妖精たちは敏感です。人の心の闇にも気づく」
私は暗闇の彼方を見た。そこには人間のものと思しき丸い背中があった。
「マクシミリアン船長は、ムーツィオ氏への復讐のつもりでこの船に乗り込み、そして破壊することで本懐を成し遂げようとした。わざわざ破壊する船に乗り込んだのは、厳重な船のセキュリティを確実に突破でき、かつ計画実行の際の非常事態に事細かに対応できる現場にいたかったから……ですかね。これも推測の域を出ません。でもパラシュートがひとつなくなっていて、船長が姿を消したとなれば、その二つを結びつけることに反対する人間は少ないでしょう。そしてもう一つ、この案を補強する材料があるとすれば……」
娘は呪文のように唱えた。人名を。人の名前を。
「オーギュスト・ドラン。モーリス・ワディンガム。マリリン・ウィンストン。シビル・シールズ。エデルトルート・ユーバシャール……」
それはムーツィオ氏の部屋にあったアルバムに記されていた名前だった。石像の下に書かれていた、おそらくモデルか何かになった人の名前。娘は最後の一人の名をもう一度唱えた。
「エデルトルート・ユーバシャール。船長の名前はマクシミリアン・ユーバシャール。同姓です」
確か、東クランフのクリスホイドでは……。娘の声はかき消されてしましそうなくらい細かった。
「子供たちがお遊びに使うくらい、錬金術が浸透しています。錬金術の特徴は『性質の変換』、つまり『鉄の塊を同じ重さの金に変えられる』。これを応用すれば……」
それから娘が口にした事実はおぞましい内容だった。
「人を石に変えられますね」
脳裏にあの石像たちが蘇った。この大広間に飾られていた石の像が。妙に生々しい石たちが。
「私たちが不明戦車の一件でクリスホイドを訪れた時、ムーツィオ氏には奴隷の酷使や人身売買の噂があることを聞きました。これはそう、やはり推測の域を出ませんが……」
娘は続けた。
「ムーツィオ氏は、生きた人間をそのまま石に変えて、それを芸術活動として楽しんでいたのでしょう」
エデルトルート・ユーバシャール、推定マクシミリアン船長のご親族は……。娘の言葉は続いた。
「ムーツィオ氏によって生きたまま石にされたのです。偶然にもマクシミリアン船長は東クランフの出身。クリスホイドにいた可能性はあります」
そんなおぞましいことを……じゃあこの闇の中にいるのはムーツィオ氏? 私は目を凝らした。丸まった背中は少し硬質な気配を感じさせたが、明らかに石像のものとは異なった。それはやはりうずくまっていた。
「話をこの船に戻しましょう。先程コロンブさんは……」
娘は歩を止めなかった。
「ムーツィオ氏が自分の意見を曲げて執務室から出たことを不思議がっていました。誰かに脅されてそういう行動に出たんじゃないかと……私もその線には同意します。芸術家肌のムーツィオ氏がそんな簡単に自分の発言や意見を曲げるとは考えにくい。となると彼は自発的に行動したのではない、外部からの力によって動いたのだ。この結論には同意できます」
魔蓄犬は何もしなかった。娘はコロンブさんの言葉を引用した。
「それは裏を返せば、魔蓄犬が反応できない人間があの執務室を訪れ、ムーツィオ氏を脅迫したのだということになります。つまり、マスターカードを持っていた」
娘が暗闇の中を進んだことにより、私はやがてうずくまっているそれが誰か分かるほどにその人物に近づいた。目の前には石像があった。『我が終焉』。ムーツィオ氏の石像……。
「ところで、今あなたの前にある石像には、少なくとも私たちがこの船の新作発表会に来た段階では、土台がありませんでした。元は割と小ぶりな像だった。しかし今、私たちの前……あなたの前にある石像には土台があります。しっかりと、大きい」
ここで錬金術のもう一つの特徴です。
私は娘を見上げた。娘の目には涙が浮かんでいた。
「『物質の変形』。例えば鉄の塊を変形させて一本の剣を作れる。これは逆を取れば、鉄の剣一本を鉄の塊に変形させることができることを示唆します。あなたは元々あった『我が終焉』にこれを使いました。オリジナルの『我が終焉』を土台にして、その上にムーツィオ氏を乗せた……。こうすれば、オリジナルの石像をどこかに運ぶことなく目的を達成できる。オリジナルの石像とすり替えることで、ムーツィオ氏の姿を消すことができる」
それから目の前の人物が行ったことを想像して、私は再び怖気を振るった。
「錬金術でムーツィオ氏を石にしましたね」
娘は再び名前を告げた。
「オーギュスト・ドラン。モーリス・ワディンガム。マリリン・ウィンストン。シビル・シールズ。エデルトルート・ユーバシャール……」
娘の我慢が限界を迎えた。娘は涙を呑んで、時々小さな嗚咽を漏らしながら、それでも懸命に続けた。そうするしかなかった。私は目を瞑った。
「この中にいます。マリリン・ウィンストン」
娘が、石像の前でうずくまっている人物の背後に立った。
「ムーツィオ氏の失踪の犯人……ムーツィオ氏を石にした犯人は、あなたですね」
彼は黙っていた。
「グレアム・ウィンストン……」
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