第39話 サイコロ
仕入れ門から外に出た私たちは、草むらに身を隠しながらヴァニアミン爺さんとやらの家を目指した。町を出ると女たちは私たちを見失ったらしく、統率の取れない動きをし始めた。一応……撒けたらしい。
途中、岩の陰や、小さな谷に身を潜め、休憩しながら歩を進めた。娘は各所にメモ帳の紙を置いて行った。「3」「4」「5」。
果たしてヴァニアミン爺さんの家に着いた。グレアムくんは地図を見て、もう一度敵意を確認してからドアを叩く。
「おう、おう」
返事がしてから、嫌になるくらいのんびりとした間が空いてドアが開いた。足がよぼよぼの、二本の杖をついたお爺さんだった。
「おう、グロア……グリ……グル……」
「グレアムだよ」
「おお、グレアム」
まるで初めから知っていたかのようね。
「何か用かのう」
「訊きたいことがあるんだ。すぐ済むから……」
と、言いかけたグレアムくんのことを、ヴァニアミン爺さんは笑顔で包んでから、小さく頷いた。
「おうおう、慌てるな慌てるな。ヴァニアミン爺さんはゆっくり話を聞いてやるから。まぁ、立ち話も何じゃから、中に」
グレアムくんは一瞬、困ったように娘を見たが、しかし娘は優しい笑顔を彼に向けた。そういうわけで私たちは、お爺さんに案内されるまま家の中に入った。娘は慎ましく一礼をしてから中に入った。
*
本!
家の中には圧倒されるくらい所狭しと本があった。本棚はいっぱいいっぱい、床にも大量の本が積まれていて、何だか迷路のようだった。グレアムくんも娘も体を横にして蟹歩きで進むのだが……ヴァニアミンお爺さんはどういうわけか真っ直ぐに前に進んで行った。不思議。杖をついているのに。
やがて暖炉のある部屋まで連れ来られると、お爺さんは大きな揺り椅子に座ってそれを大きく軋ませながら体を揺すった。どうもあれをゆらゆらさせるのが楽しいらしい。
「ほっほ。別嬪さんじゃのぉ」
娘をいやらしく見て、おじいさん。もう、男の人っていくつになっても……。
「レディかえ」お爺さんが訊く。
「ええ」グレアムくんが頷く。
「ヴァニアミン爺さん。あなたに質問があってきました。レディ」
グレアムくんに促されるまま娘が前に出る。
「お爺さん。不躾な質問をお許しください」
「構わんよ」
「この地方に伝わる歌について訊きたいのですが」
「ああ、あれかの」
するとお爺さんは調子っぱずれな鼻歌を歌い始めた。
ああどうか
届きますように、神様
私のこの想い
私のこの気持ち
心からしたためますので
どうか
やっぱり。と娘はつぶやいてから質問を続けた。
「その歌には男性が歌うものと女性が歌うものとありますね」
「ああ」お爺さんはつぶやいた。
「テュルクとの戦争が続いていた頃からある歌でのぅ。古い歌のように思われておるが儂からしたら最近の……最近のでもないかのぅ。生まれる前からあったな」
「クリスホイドには男性と女性の間に心的な壁がありますね」
娘の続いた問いにお爺さんは頷く。
「男の行いに女は口を出さん。女の行いに男は口を出さん。それは決して不干渉という意味ではなく、お互いにお互いが敬意を払った……」
「今の歌も、この町の女性は詳細を知りませんね」
「まぁのぅ。今のは男歌と言ってこの町の男の間で知られておる歌じゃ。女しか知らんのは女歌と言われていてこれは儂も知らん。もしかしたら最近の若いのは男歌、女歌、どっちも知っとるのかもしれんが、昔からこの町に住んどる女は男歌に関しては知らんことの方が多いじゃろうて。むしろこの町の部外者の方がよく知っとるかの。何でも一時期男歌女歌を合わせた歌がランドンで流行ったのだとか……これも随分昔のことじゃがの」
「誰かが流行を仕掛けたのでしょうか」
「そうじゃろうの」
「誰かは心当たりがありますか」
「ムーツィオ氏じゃろうの。エルメーテ・アンドレーア・ムーツィオ。少し前までこの辺りを拠点に活動していた芸術家貴族じゃな。二十年前くらいかのう、タロールの方にいる遠縁の親戚を頼ってそっちで芸術活動を始めたのじゃが、元々はこの辺に長いこと根ついていた地方貴族じゃて。人身売買やら召使の処遇やらなかなか黒い噂のある一族じゃったが、何せ芸術と商売の才能があっての。お前さんもおなごなら知っておろう。彼奴はカバンの銘柄なんかも持っておるからの」
ムーツィオってあの人? 大手カバンブランド「エルメーテ」の創始者のこと? そうだとしたらかなりのお金持ち……この辺りで活動をしていたこともあるのね。
ぎゅっという音がした気がした。それがグレアムくんの袖を握る音だと気づいたのは少ししてからだった。娘がそっと彼を見やってから、小さくつぶやいた。
「……何か?」
「いえ、かつて姉にプレゼントしたことのあるカバンで」
グレアムくんは優しく微笑んだ。
「いつかレディにも」
「わっ、わた、私は……」
「他に好きなブランドが?」
「わ、私には母がいますから……」
娘が私の肩紐を握る。あらいいのよ? 私に気をつかわなくっても。
と、唐突にドアが叩かれた。しわがれた女性の声が聞こえてきた。
「グレアム!」棘のある調子だった。
「そこにいるのは分かってるよ」
私たちはぎょっとしてドアの方を見る。いつの間にか、人の気配が濃くなっていた。
ドアの向こうの女が叫ぶ。
「その女の子だけ差し出せばお前のことは不問にしようじゃないか」
「かわいいグレアム、早くこっちにおいで」
「グレアムかわいそうに。その子にたぶらかされたんだね」
グレアムくんは難しい顔をしてヴァニアミン爺さんを見た。お爺さんは首を傾げて「今日は騒がしいのう」とだけつぶやいた。このお爺さんが関与したわけではなさそうだ。となるとやっぱり、あの魔蓄時計か。思いのほか索敵範囲が広いのかもしれない。
グレアムくんが叫ぶ。
「お母さん、地図を!」
「だからあなたに『お母さん』だなんて……」
「はい」娘が私の中から地図を取り出す。
「……この家の裏手には敵がいないな」
グレアムくんはそう確認してから口を開いた。
「ヴァニアミン爺さん! ありがとう、助かった! ……裏口つかってもいい?」
「行け行け。愛の逃避行かの」
「そんなところ!」
娘の顔が沸騰したみたいに赤くなった。
「あ、あいの、あいの……」
「レディ、お早く!」
グレアムくんに手を取られ娘がよろよろと歩き出した。彼に導かれるままにお爺さんの家の裏手に出ると、その先には金色の草原が広がっていた。グレアムくんは娘を庇いながら歩き出した。娘の顔はその間も真っ赤だった。
*
「どこを目指しているの?」
ある程度、ヴァニアミン爺さんの家から離れたところで。
私はグレアムくんに質問を投げた。彼は一瞬こちらを振り返ると、「失礼、行き先を告げていませんでしたね」と断ってから続けた。
「不明戦車のあるところです」
「それって『耳の壁』の近く?」
「ええ。あの辺りの壁はもう撤去されていますが」
「好都合です」娘が小さく頷いた。
「ありがとうございます、グレアムくん。いよいよ本物が見れます」
するとグレアムくんがちょっと顔を逸らしてからつぶやいた。
「お役に立てて嬉しいです。レディ」
やがてその「耳の壁」のあった場所に着いた。
山の麓。切り立った崖が大地を引き裂いている。あそこに壁を建設するのはさぞかし大変だっただろう。そもそも山があるのだから壁なんか……とは思ったが、国境を示す壁だ。きっちり作らないと亡命者が現れる。それほど当時のクランフ、それから後続の東クランフは厳密だった、ということだろう。
「あれか……? 多分、あれです、レディ」
グレアムくんが草むらに身を潜めながらつぶやいた。切り立った崖の下。壁の残骸らしき、破壊されたレンガが堆く積まれた辺り。ハンマーを横たえたような車が置かれていた。ハンマーの打面がドーム状に丸まっている。その円周に無限軌道が敷かれていて、円筒の中心部分から伸びた棒の先にはフックがあり、どうもそこに鎖を通す仕組みのようだった。
「あれは……?」
と、娘が目を細めた。視線の先、どうも積まれた瓦礫の向こう。「耳の壁」の境界線の先だから、旧テュルク帝国側だ。壊れかけの壁があった。そこにはどうも……郵便局の記号?
遠目だからいまいち分かりにくい。もっと近くに……しかし、グレアムくんがまたも娘を庇った。
「ヤニーナさんにブリヘーリヤさん……こっちにも追手が……」
彼の視線の向く先。
不明戦車の陰に女性が二人いた。手には……鍬と鋤。
「グレアムくん」
娘がメモ帳を破くとそこに大きく「6」と記した。それを手頃な石ころの下に置いてから、続ける。
「ちょっと酔うかもしれません。私にしっかり掴まってください」
グレアムくんが黙って娘を見た。娘は頬を染めながら手を差し出した。
「さぁ」
グレアムくんは黙って娘の手を取った。娘は彼に静かに抱きつくと……まぁまぁお熱いこと……耳飾りを外して、掌の上で転がした。
耳飾り。真っ赤なサイコロの、耳飾り。
転がって出てきた面は「2」だった。ああ、私が作ったものながらこれ結構気持ち悪くなるのよね。もっと優しい設計にしておけばよかった、と思いながらも娘に身を任せる。
「転移します。掴まって」
娘の体がぴったりくっついたからだろう。
今度はグレアムくんの顔が赤くなっていた。あら、意外とかわいいところもあるのね。
と、視界が歪んだ。ぐにゃりと崩れたそれはやがて重力を失い……これが気持ち悪いのよね……しばらくそのまま揺さぶられると、やがて視界が元通りになった。目の前には大きな楢の木があった。娘はそっと背伸びをすると、枝に刺してあった「2」の紙を回収した。
「い、今のは……」
驚くグレアムくんに娘は告げる。
「番号を振っておくとその地点に飛ばしてくれるサイコロです。こういう広い範囲で謎解きをする時は役に立ちますね」
と、娘はグレアムくんと繋がっていた手を見てぎょっとした。それから慌てて手を解く。
「ご、ごめんなさい、いきなり手を握ったらびっくりしますよね」
「いえ、レディ。俺は嬉しかったです」
「はいはい。それはまた後でやって頂戴な。こんなところに飛んできて何がしたかったの? 無作為に飛ぶから狙ってここに来たわけじゃないでしょうに」
すると娘は小さく笑って頷いた。
「うん。この町の近辺ならどこでもよかった」
そうして緩んだ娘の顔を見て、私はハッと息を呑んだ。それから訊ねる。
「あなた、分かったのね?」
娘はハッキリ頷いた。
「だって、簡単だもん」
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