第38話 市街地
「オリガおばさん」
グレアムくんが腰の銃に手を添えた。
「オリガおばさんでもそれは駄目だ」
娘がすかさず耳に手をやった。しかし私はそれを律した。「いざという時までとっておきなさい!」
「グレアム」
オリガお婆さんは悲しそうな声だった。
「その子は私たちの領域に踏み込んできたんだ。罰は受けないとね」
「俺が踏み込ませた」
グレアムくんは銃を抜いた。腰の剣にも手を添えている。
「俺の紹介の仕方がまずかったんだ。責める相手を間違えている」
「ああ、グレアム、グレアム」
オリガお婆さんはフォークを持った手を小さく振った。
「クリスホイドでは女は男を責めちゃいけないんだ」
グレアムくんは小さく笑った。
「それは初耳だな」
「クリスホイドの男は一人の女性に忠誠を誓うからね」
彼女のオッドアイがじとっと娘を見つめた。
「多少のおいたは許してあげないといけないのさ」
「俺はこの方に忠誠を誓った」
グレアムくんのこの一言に娘が唇を噛む。
「命に代えても守る。オリガおばさん。フォークを置くんだ」
「駄目さね」
オリガお婆さんはゆっくり歩くと台所へ行った。手にしたのは包丁だった。
「撃てるもんなら撃ってみな。この辺りの子の、身寄りのないお前たちの乳母だった私を殺せるもんなら、ね」
グレアムくんが黙った。後退りし、後ろ手に娘を抱き寄せる。私は猫の姿になろうとした。だが、グレアムくんがそれを察した。
「お母さんはカバンのままで!」
「まだあなたに『お母さん』だなんて……」
しかし、グレアムくんは私の言葉を待たず。
オリガお婆さんの頭上に向かって発砲した。そこには小さなランプがぶら下がっていて、グレアムくんはその鎖を撃ち抜いた。ランプが下に落ちて、オリガお婆さんの足下に小さな火の水溜りを作った。
グレアムくんが娘を抱いた。片手に持った拳銃で戸の蝶番を破壊する。そのまま突進して戸を破壊した。娘を抱いたまま、生家を飛び出て駆け出す。
「わ、私走れます!」
娘が甲高い声を上げたが、しかしグレアムくんは娘を離さなかった。察するに、自分の背中を盾に娘を守っているのだ。あの家から包丁の類が飛んできても、娘を守れるように。
*
そのままひたすらに丘の麓に向かって駆け抜けたグレアムくんは、どこまでも続く塀の傍に伸びている大きな
「すみません、レディ」
グレアムくんが項垂れる。
「まさか、オリガ婆さんが、急に、あんな……」
「この地方には何か秘密があるの?」
私の問いに、しかしグレアムくんは首を横に振った。
「全く心当たりが……もしかしたら、大人たちの間には何かあったのかもしれませんが」
「ちょっとあなた、クリスホイドの地図は持ってる?」
グレアムくんに訊ねると、彼は「本来は必要なかったんですが、不明戦車の場所を調べる目的で持っています」と騎士団服のポケットからそれを取り出した。
私は猫の姿に化けると呪文をつぶやいた。途端に、地図の上に赤い点が一斉に浮かび上がった。四、五、六……とにかくたくさん!
「こんなに……」
「何ですかこれは」
グレアムくんの問いに私は答える。
「私たちに敵意を持っている存在の数とその地点よ」
「オリガおばさんの一件で急に増えたんですか? 何でこんないきなり……」
私はつぶやく。
「何か魔法か、魔蓄があったのかも」
「尻尾を踏んじゃったみたいね」
しかし私たちの慌てぶりに対して娘は落ち着いた様子だった。敵に囲まれた恐怖心と言うよりは、むしろグレアムくんに抱きすくめられたことに胸を高鳴らせているかのようだった。
「ちょっと、呑気な顔している場合じゃ……」
と、私が娘を嗜めようとした時だった。
娘は小さく笑うと、グレアムくんにこう告げた。
「列車の中で聴いた曲について教えてください」
グレアムくんがぽかんと娘の方を見る。娘は静かに続けた。
「あの歌はクリスホイドに伝わる歌ですか?」
「ええ」グレアムくんが頷く。「古い歌だそうです」
「いつ頃から歌われるようになったか分かりますか?」
「さぁ……」グレアムくんが困ったような顔をする。
しかし娘があの歌について知りたがっていることは伝わったのだろう。彼は難しい顔をすると地図を見つめた。それから、ある一点を指差した。
「ヴァニアミン爺さん」
グレアムくんは続けてつぶやく。
「町の外れにいる爺さんです。クリスホイドの歴史に誰より詳しい。彼に訊いてみるのがいいでしょう。幸いにも……」
グレアムくんの指差した辺りを見る。赤い点は……ない。
「ひとまず彼には敵意がないようです。町を挟んで向こう側になるので、必然町を抜けることになりますが、行ってみてもいいかもしれません。それに、ほら……」
と、グレアムくんは地図上に書かれたバツを示した。ヴァニアミンおじさんの家の近く。山の麓、旧耳の壁の近く。これは、もしかして……。
「不明戦車のある場所です」
*
グレアムくんに先導してもらって野を駆けた。やがて市街地に入ると、物陰に警戒しながら歩み続けた。私はカバンの姿のまま、娘の肩にぶら下がって適宜地図を見た。どの場所にいても赤い点が近寄ってくる……こちらの位置が漠然とだがバレている!
「あの魔蓄時計だわ!」
私は記憶を掘り返す。
「あの時計、一定の敷地内に入った存在を探知する魔蓄時計だった。あれを持って歩けばどっちの方向に私たちがいるかくらいは分かるわ」
「街の中に長くとどまるのはあまり得策じゃないですね」
グレアムくんが辺りを見渡し、地図を見る。
「ちょっと迂回路ですが、ヴァニアミン爺さんの家に向かうには南の門から出て野原の中に身を隠しながら行くのがいいでしょう。ついて来てください。絶対離れないで」
グレアムくんが娘の手を握る。それからそっと、歩き出す……時折娘を抱き寄せながら。
果たして南門から外に出ようとした。しかしそこには既に赤い点があった。グレアムくんが道端にあった樽の影に隠れながら様子を窺った。
「カテジナさんに……パヴラさん。女性ばかり?」
私は地図に向かって呪文を唱えた。途端に私たちのいる地点の近く、南門の前に、青い点が二つ。それから、さっきの敵意を持つ存在がゆっくりこっちに近づいてきていた。赤い点が青い点に変わっている。
「女性ばかりが狙ってきているわ」
「撃てない」
グレアムくんの表情が暗くなる。
「女性に暴力を振るうのは騎士団として……いや、あなたを守るためなら俺は……」
南門の近くにいた女性たちがこちらに勘づいた。どうも彼女たちも魔蓄時計を持っているらしい。
「こっちに来て」
グレアムくんが地図を見る。
「スタニスラフおじさんの店には……敵意を持つ人がいない」
「誰よその人。安全なんでしょうね」
「雑貨屋の親父です。仕入れをする門が店の裏にあります。町の外に出られる」
彼は娘を連れて静かに歩き出した。
それから、雑貨屋の裏手。私たちは地図を見て、店の中に敵意を持った人がいないことを確かめる。グレアムくんがそっと戸を開け、中に向かって呼びかける。
「おじさん」
しばらく間があってから、店の表の方から髭の男性が姿を現した。
「おお、グレア……」
しかしグレアムくんが指を唇にあて沈黙を促す。スタニスラフおじさんはこっそり近寄ってきた。
「どうしたってんだい」
「町の女性に追われてるんです」
するとスタニスラフおじさんは笑った。
「何だい、全員抱いてやろうって? 婆さんしかいねぇぞこの町は」
しかしグレアムくんは真面目な顔をして続けた。
「こちらのレディを町の外に連れていきたい」
娘の顔を見ると、おじさんはニヤッと笑った。
「かわい子ちゃんと逃避行かい」
「そんなところです」
「仕入れ門使いな」
おじさんが鍵を渡してくれる。
「ここに来る女はいい具合に相手にしておくよ」
「恩に着ます」
グレアムくんは娘の手を引いて歩き出した。それから、私に向けてか、独り言か、つぶやく。
「男性は安全なのか?」
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