第37話 生家にて

 まぁ、みっともない。

「ちょっと、肩紐を直しなさい」

 寝起きの娘に、私は注意する。昨日いつの間に帰ってきたのだろう。私が眠りこけてから……だとしたら相当遅い。

 寝起きの、ネグリジェの肩をだらしなく露出した娘を注意する。娘は眠そうな目を擦ると気だるそうに紐を直した。まぁ、まぁ、何てはしたない。きっと昨日、随分遅くまでグレアムくんと……。

「おはよう、お母さん」

「お早くないわよ。何時だと思ってるの」

 私は尻尾をくねらせて時計を示す。

「普段ならとっくに起きている時間ですよ」

 娘は欠伸をする。だらしないったらありゃしない。

「いい? よくお聞きなさい」

 私は娘に真面目に告げた。

「この町は危険だわ。早く仕事を済ませなさい」

「……危険って?」

「その辺の落書きに錬金術式が書かれているような町だわ」

 娘の顔色が変わった。私の言いたいことが分かったらしい。

を用意なさいな」

 娘はメモ帳を手に取ると開いたページに大きく「1」と書いた。



「俺の生まれた家を案内しますよ」

 故郷だからだろうか、どことなくはしゃいだ様子のグレアムくんを、娘は幸せそうに見ていた。私はと言えば、カバンに化けて娘の肩からぶら下がって、若者同士のお熱い雰囲気に場違い感を覚えながら町の景色を眺めていた。目をやるのは路地裏の壁や子供が遊んでいそうな小さな広場。やはりそこかしこに術式や陣形が書かれている。大きく凹んだ壁や地面。木彫りの鳥や石でできた蜥蜴。きっと子供たちが壁や地面から棒やブロックを錬成して、あるいは捕まえた鳥や蜥蜴を違う素材に変えて遊んだのに違いない。

 しかしグレアムくんの生家はそんな町から少し離れたところ、小さな丘の上にあった。立派な楡の木が目印になっているかわいらしいレンガ造りの家で、長くて低い塀が丘の峰に沿って麓まで続いている。あの塀は何かの境界線だったのかしら。この地域ならあり得るわ、なんて思いながら私は周囲を見渡していた。

 グレアムくんはいっそうはしゃいだ様子で家に近づくと「ここです」と娘に告げた。娘はやっぱり幸せそうに微笑んでいた。

「おや、グレアム」

 家の中から老婆が姿を現した。彼女は目を大きく剥くと抱擁を求めるように両手を広げた。グレアムくんはその中に入っていくと老婆の耳と自身の耳をくっつけた。親愛の挨拶だ。

「オリガおばさん」

 グレアムくんが老婆の顔を見る。

「元気そうで」

「元気なんかじゃないよ」

 オリガ、と呼ばれたお婆さんは顔を曇らせる。

「キンバリーとかいう女が奴隷解放だなんて言うから上がったりさ、こちとら」

「ああ、もしかして住み込みの掃除婦の仕事……」

 グレアムくんが言い淀むとオリガお婆さんはため息をついた。

「失ったよ。代わりに国からお金がもらえるけどね。でもあんなちょっとのお金じゃ生活できやしない。今は町の洗濯屋でこき使われてるよ」

「今度俺からお金を送るよ」

 グレアムくんが申し訳なさそうな顔をする。

「少しだけど、生活の足しになれば……」

 するとオリガお婆さんは笑った。

「あんたから金をせびるほど落ちぶれちゃいないよ。なめなさんな」

 ところでこちらの別嬪さんは? とオリガお婆さんが娘を示したので、グレアムくんは嬉しそうに告げた。

「俺のレディだ」

「まぁ、まぁ」

 オリガお婆さんは嬉しそうに両手を広げる。

「グレアムにこんなかわいらしい女の子が! あんた出世したねぇ」

 と、オリガお婆さんは娘に抱きつき耳をくっつける。親愛の挨拶。

「町を案内しているのかい?」

 グレアムくんが頷いた。

「うん。俺の故郷だし」

「ゆっくりしていきなよ」

 オリガお婆さんは娘の目を見た。

「綺麗な目だね。東クランフ人独特の目だ」

 娘が膝を折った。

「父が東クランフの人間でして」

「そうかい、そうかい」オリガお婆さんは嬉しそうだった。

「まぁ、立ち話も何だから中に入りなよ」

 そう言われて、レンガ造りの家を示すオリガお婆さん。

 私たちは彼女に連れられて、家の中に入った。何だか薄暗い家だったけれど、お茶のいい香りがする家だった。



 大きな壁時計が低い音を立てて鳴ると、金属音がして針が動いた。針の先についた丸い円盤には娘の名前と私の名前とがあった。魔蓄時計だ。一定の敷地内に入った人物の詳細を示すものだろう。

「ああ、技術革命以来この辺でよく作られるようになった時計だよ」

 オリガお婆さんが娘の目を追ってつぶやく。

「この辺の人は用心深いからね」

 雑多な室内だった。黒く焦げたフライパンがのった練炭焜炉こんろ。ストーブの上には薬缶。写真立てが所狭しと並べられた箪笥に、傾いた本棚。

 それからびっくりするほど小さなテーブルに着いた私たちは、グレアムくんの紹介にあずかった。私がカバンの姿から猫の姿に変わると、オリガお婆さんはびっくりしたような顔になった。東クランフには魔法の歴史がないから驚くのも無理はないだろう。

 オリガお婆さんは娘にお茶とケーキを勧めてきた。小さなカップに小さなケーキ皿。フォークまでお人形さんの道具みたいに小さい。この地域独特の品なのだろうか。

 グレアムくんの紹介に、オリガお婆さんは大きく頷く。

「そうかい、ランドンで探偵業を」

 それじゃあ賢いお嬢さんなんだろうねぇ。

 オリガお婆さんのそんなつぶやきにグレアムくんは大きく頷いた。

「何でも分かるんだ。オリガおばさんのこともきっと色々見抜けるよ」

「へぇ、それじゃあひとつ」

 オリガお婆さんは挑発的な目になると娘を見つめた。

「私について分かること、何か言ってごらんよ」

 すると娘はにこやかに応えた。

「グレアムくんとは血縁関係にありませんね」

「おや! どうしてそう思うんだい?」

「おば様は『真実を見る目』を持っています。右目がエメラルド色、左目がルビー色。少しくすんでいらっしゃるのは、失礼ですがお歳を召されているからですね。一見しただけでは分かりにくいですが、右と左とで明らかに虹彩の色が違います」

 するとオリガお婆さんは声を上げて笑った。

「『真実を見る目』かい。久しぶりだよそれを言われたのは。そうだね。東クランフ人独特の目だ」

「『真実を見る目』は東クランフにルーツを持つ人間なら必ず持っています。遺伝的にも強い。ですがグレアムくんは『真実を見る目』じゃない。血縁関係にあるなら彼も『真実を見る目』に持っていないとおかしい」

「なぁるほどねぇ」

 オリガお婆さんは感心したような顔になった。

「それから?」

 娘は微笑んで続けた。

「ご結婚はされていませんね」

「おやどうして」

「指に指輪の跡がございません」

「離婚して、あるいは死に別れて外したのかもしれないよ」

「箪笥の上の写真がそれを否定します」

 娘がびっくりするほどたくさんの写真立てが飾られた箪笥を眺めた。

「どの写真にも若い男性が写っています。いずれも成人年齢に達していないような、いわゆる少年の顔立ちです。結婚はできない年頃でしょう。そんな彼の写真をあれほど大量に飾っていらっしゃるということはかなり思い入れのある男性であることが推察できます。おそらく若い頃に親交のあった少年でしょう。その子と結ばれた後、何らかの理由で離ればなれになった。婚約指輪がないのは彼がまだ少年で結婚できる年齢になかったからです」

「へえ」オリガお婆さんが気まずそうな顔をした。

「でもあの子は親戚の子かもしれないよ」

「繰り返しになりますが『真実を見る目』です。写真立ての彼も『真実を見る目』を持っていない。そしてあの顔立ちは大陸中東部の人間に見られる彫の深い顔です。テュルク帝国の人間である可能性があります」

 そして……と、娘は続けた。

「文通をしていらっしゃいましたね」

 オリガお婆さんの顔が凍った。

「箪笥の、左から二番目の抽斗。あれは底の部分に細工がされている抽斗ですね」

 娘は淡々と続けた。

「抽斗の把手の形が特徴的です。ネジで止める型じゃありません。抽斗下部に掘り込みのあるタイプ。そして左から二番目の抽斗だけ、取っ手の部分の摩耗具合が違います。どの抽斗も同じ用途で使っているならあの抽斗だけ手すりの擦れ方が違うということは起こらないはず」

「しょ、食器を……」

「おば様は先程台所の棚から食器を取り出しました」

 私がおば様に文通の趣味があったと思ったのは……と、娘は続けた。

「指にペンダコの跡がございます。かなり小さいものなので若い頃のものでしょう」

「これは、そ、その、掃除で箒を使っていたから……」

「おば様は左利きでいらっしゃいますね」

 ティーカップを持つオリガお婆さんの左手を見て娘が告げる。

「左手で箒を扱う方なら逆の手にタコができないとおかしい。それに如何に昔の仕事でも、掃除婦の仕事で継続的についたタコならそれほど小さくはならないでしょう。左手のそのタコの跡と、すり減り方が違う抽斗。おそらくあそこに昔の文通相手との手紙が隠されていますね」

 オリガお婆さんの顔が見る見る曇っていった。その険しい表情に、私は危険を察知したのだが、しかし時すでに遅かった。

 オリガお婆さんはすっと立ち上がると、玄関の方に行って鍵を閉めた。乾いた音の直後、オリガお婆さんはこちらを振り返った。

「グレアム」

 震えた声だった。

「悪いがその子は駄目だ」

 グレアムくんが表情を硬くした。腰に据えた銃に手を添わせる。

 しかし、オリガお婆さんはいつの間にか手にしていた小さなフォークを逆手に持つと、静かに告げた。残酷な声だった。

「お嬢さん、申し訳ないけどここで死んでもらうよ」

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