第9話 爆ぜる
「失礼します。準備が整いました」
ヴィヴィアンさんが娘の推理眼に圧倒されたその直後、アビーさんが美術室に入ってきた。娘が待っていました、と言わんばかりに顔を上げた。
「北の廊下へ。ご案内します」
そういうわけで一同、絵が燃えたという北の廊下へと向かった。道中、天井や壁に走っていた数々のパイプを見て私は思った。人の体みたいね。パイプは血管なんだわ、と。
北の廊下にはどうやら、本来なら美術室に飾るべき「本物の」美術品を置いてあるらしく、小さなテーブルの上に乗せられた舶来品の壺や、きめ細やかな作り込みのタペストリー、慎ましく彩られた花瓶なんかが置かれていた。それはそう、「お屋敷」と聞いて私なんかが想像するような……「品のいい」ものたちだった。さすがに似つかわしくないからだろう。ここへは血管も及んでいなかった。
「こちらです」
アビーさんが、壁の一か所を示す。
『天獄変』。なるほど、天国の牢。
神聖な雰囲気の画調。裸や布一枚だけの天使たちが美しく四面を囲っている。しかしその中央。おぞましい姿をした悪魔が四匹。焚火をして……いたらしい。焦げている。火はどうやら本当に、悪魔の焚火から発生したようだ。
「油彩画ですね」
娘がじっと絵を見つめる。
「
アビーさんが目線を泳がせヴィヴィアンさんに向ける。彼も首を傾げる。
「さ、さぁ。僕も美術品のことまでは知識が及んでおらず……」
「そうですか」
娘はちょっとがっかりしたような顔になると、穴が開きそうなくらいじっくり『天獄変』を眺めはじめた。私も一緒になって絵を見る。どうも火は絵の表面を舐めたらしく、焦げの下の層にまだ絵の具が見えた。誰かが火をつけた? と考えを巡らせたが、私が答えに辿り着く前に娘は納得したようにため息をつくと顔を引いてしまった。なので私の観察もそこまでとなった。
娘がつい、と頭上を見つめる。そこには大きな、穴。ちょっと嫌な予感がした。
「この穴は?」
娘の問いにヴィヴィアンさんが答える。
「通気パイプの穴ですね。この部屋はパイプを敢えて出さず、最低限の機能だけを保つようにしています」
ああ、やっぱりここにも血管が! 通気パイプの穴は斜めに切り込まれていて、ちょうど『天獄変』に風を吹きつけるような形になっていた。これじゃ
「さて、それでは」
娘が再びアビーさんに目線を投げる。
「破壊された水ソファについて、教えていただけますか」
アビーさんが驚いたような顔をヴィヴィアンさんに向ける。ヴィヴィアンさんもヴィヴィアンさんで困ったような顔をした。
「いや、僕からは話してないです……その、彼女自身の推理で」
「……さすが探偵さんですね」
アビーさんが小さく笑った。
「残骸がゴミ捨て場に。今お持ちいたします。そこの休憩室でお待ちください」
と、彼女は私たちの背後にあった扉を示した。開けてみると、出窓に囲われた明るくて品のいい空間が待っていた。何だ、この屋敷にもこんなところがあるじゃない。
気まずそうにしているヴィヴィアンさんと、何か気に入らないことでもあったのだろうか、それとも単に眠くでもなってきたのだろうか、むっすりとしたエノーラ嬢と一緒にこの上品な休憩室で一休みしたのだけれど、二人のあまりよろしくない雰囲気がどうでもよくなるくらいぽかぽかと温かい、いい部屋だった。しばらくして、アビーさんがドアを開けた。
「お待たせしました。少々見苦しいものですが……」
そう、彼女は背後に控えさせていた台車を示す。そこには破裂した革袋と、焦げた木製の脚とが置いてあった。娘がつぶやく。
「やっぱり、焦げていたんですね」
やっぱり? じゃあ想定通りだったって言うこと?
「今度こそ、分かったの?」
私が期待に上ずった声を出すと、娘は仕方ないな、という風に笑って、ああ、そう、かつての夫のような笑顔を浮かべて、それから告げた。私によく似た声で。
「だって……簡単だよ」
*
その日の晩。
娘と私とエノーラ嬢は、機械屋敷の客室でそれぞれ一晩を過ごした。娘と私は同室、エノーラ嬢はその隣。二階にあるひと区画が丸々客人用の空間になっており、ふかふかのベッド、小さな作業机、バスルームが娘とエノーラ嬢に貸し出された。入浴後、バスローブにくるまってご機嫌の娘に訊いてみた。
「決め手は何?」
娘は「分かった」宣言の後も、なかなか真相を口にしなかった。「簡単だよ」と言った直後も、同席した他の三人に意味ありげな笑顔を見せるだけで、決して自身の推理を披露しようとはしなかった。夕食の席で、スキナーさんから「捜査の進展はどうですか」と訊かれた時でさえ「明日には解決するでしょう。ですが今夜はまだですね」とはぐらかしにならないようなはぐらかし方をしていた。
そんな娘の口を割るのは私の役目のような気がしたので、私は猫の姿になり、娘にすり寄りながら質問をした。娘は私の背中を撫でながら答えた。
「ジェナさんのベッド」
それから娘は留まることなくしゃべり始めた。
「地下室」「庭でのこと」「『釘を打つホロヴィッツ』」「燃えた絵」「爆ぜた椅子」
「待って待って。全然分からないわ」
私がすねると娘は満足げに微笑んだ。
「明日、全部話すね」
それから娘は一言、「おやすみ」とつぶやいて明かりを落としてしまった。仕方ないので私は娘の足下に丸くなって眠った。翌朝、娘は早かった。
*
「朝ですが、亡霊の話をしましょうか」
私は飛び起きた。いつの間にか私の傍で眠っていた娘が起きて、身支度までした上で、窓を開けて朝の爽やかな空気を浴びている! そしてそう、さらに!
寝ぼけた耳に入ってきた娘の声の調子で分かった。娘はそう、推理を口にしていたのだ! 夫を思い出すような、滔々とした口調。娘が自分の考えを話す時の癖だ!
ほとんどバネ仕掛けみたいな勢いで起床した私は大慌てで娘の足下に駆けよった。しかし娘は、こちらを見ることなく話を始めた。
「亡霊なんかいなかった……全部理屈がつきます」
それから娘は、そう、まるで朝日の精霊に話しかけるかのように、東の空に昇り始めた太陽に語りだした。
私はワクワクしながら先を聞いた。
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