第2話
その事件が起こったのは、ある晴れた日の昼休憩。
「ない、ない! 俺の財布がない!」
僕がクラス全員分の課題を職員室に運んでから教室へ戻ってくると、鞄をひっくり返して中身を机にぶちまけながら山崎が騒いでいた。どうやら財布を無くしたらしい。
どうせノートにでも挟まってるんだろう。
僕も初めは楽観視していたが、どうやら事態はもっと深刻なようだった。
「さっきここに置いたんだ! 絶対ここに置いたのに!」
彼は自分の机の上を指差しながら叫ぶ。
勘違いの可能性もあるが、彼の言い分が正しいとすれば、先程自分で机の上に置いたはずの財布がなくなったということになる。てことは。
「それって、誰かに盗まれたってこと?」
藤木さんの通る声は全員に届いた。
波が引くように、一帯が静まり返る。
「……誰だよ」
山崎は集まっていたクラスメイトに目を滑らせた。見定めるような視線に、その場の誰もが彼から目を逸らす。
「おい、誰が――」
「これじゃない?」
泥沼のように重苦しい空気を破ったのは、クラスメイトの
「あ、それ俺の財布……どこにあった?」
「ここに落ちてたよ」
彼女は教室の床を指差して「気を付けてね」と財布を山崎に手渡す。
ばつの悪そうな表情で「……ああ」と言いながら彼は財布を受け取った。すぐに中身を確認するが、特に何も盗まれてはいないようだ。
その様子を見たクラスメイトたちは「なんだ」とつまらなさそうに、しかしどこか安心したように散っていく。
ただ山崎だけは、自分の財布を見つめて立ち尽くしていた。
***
「おまえさ」
HRを終えた担任が教室を出て行った直後、山崎は立ち上がって麻倉の席に歩み寄った。その目は爛々とさせている。
「おまえさ、俺の財布盗もうとしたんじゃねえか?」
彼の不意な言葉に、教室から音が消えた。
僕も含めてまだ多くのクラスメイトが教室に残っていた。その全員が何も言えないまま二人の様子を窺う。
「……盗んでないよ」
「盗もうとした、だ。俺はあん時、自分の席で鞄から財布を出した。それがあんな場所の床に落ちるわけねえ」
「知らないよそんなの」
「一回盗んで、でも隠す前に俺が気付いたから自分が見つけたフリして返したんじゃねえか?」
山崎は彼女の机の天板に両手をついて前のめりの姿勢で問い詰める。
逃がさないぞと言わんばかりに険しい目つきで睨みつけ、彼女はそれを真っ直ぐに見つめ返していた。
「盗んだ証拠がないでしょ」
「盗んでない証拠がないだろ」
彼女の平静な口調を彼の怒気を孕んだ声が覆う。
彼の迫力に圧され、その場の全員が動けずにいた。僕だけは動かなければいけなかったのに。
「私が盗んだと思ってるんだ?」
彼女は訊いた。
今思えば、それが彼女の決断の瞬間だったのかもしれない。
「ああ思ってる」
「そう」
違う。
山崎の財布が盗まれたのか落とされたのかは知らないが、彼女が絶対に犯人ではないことを僕だけは知っていた。
言わなきゃ。
張り詰めた空気の中で僕は勇気を絞り出す。そして、口を開きかけたところで。
彼女が一瞬、こちらを見た。
ピタリと合った視線に僕の言葉は止められる。彼女はそれからまた違う方向をちらりと見てから、立ち上がった。
「なら、今度は盗まれないように気をつけてね」
そう言って教室を出て行く。「おい待てよ!」と山崎が怒鳴るが、麻倉が止まることはなかった。
盗まれた証拠が無いからか、咄嗟に動けなかっただけか、山崎は麻倉を追いかけるまではせず「くそっ」と吐き捨てて自分の席に戻る。
教室がゆっくりと音を取り戻した。止まっていた時間が再生されるようにクラスメイトは徐々に動き出す。
何も言えなかった僕は、彼女の出て行った扉をしばらく見つめていた。
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