5
次の日の昼。俺は丸口に、『屋上に来てください』とラブレターを出された。
「で。今度は何だ? また告白か?」
「はい、もちろんです」
昨日のこともあり無視するのもあれかと、話くらいは聞きに来たが。
「ごめんなさい!」
ばっと頭を下げて謝ったのは、丸口の方だった。
「あたし、先輩の事情を何も知らないで、軽率なことを言いました。あの後、園芸部の部長さんのところに行って全部聞いたんです。安達先輩は、摂食障害の治療のために柔道やめたんだって」
「……金輪先輩、喋ったのか……」
「それで、今度は真面目に提案します」
丸口は顔を上げて、すっと胸に抱えた小さな箱を俺に差し出した。
「お弁当、作って来たんです。食べてくれませんか?」
「……」
「金輪さんから畑の野菜をもらったので、それも使いました。あたしの想い、受け取ってください!」
別に怒りは湧かない。金輪先輩に会う前の荒れた時に比べたら、俺は治療にも寛容になっていた。だが、昼は水を少し飲むのが限界で、未だに食べられない。
「受け取るわけにはいかない。作ってくれたものを無駄にすることに、」
「わかってます! それは仕方がないです。でも味だけでも知って欲しいんです。あたしの唯一の特技が、料理だから!」
丸口は続ける。
「残していいです。一口でもいいです。匂いを嗅ぐだけでもいいです。今日食べられなければ、1週間後に食べてもいいですから」
「冷凍しろと?」
「ばっちこいです! このお弁当の容器は冷凍対応です! 電子レンジでチンもできますよ! 衛生のために容器を煮沸消毒しています! 完全無欠の完璧なお弁当です!」
「……そうか」
思わずクスリと笑みがこぼれる。丸口の必死すぎる姿は滑稽であり、愛嬌があった。
「わかった」
赤と白の女の子の持ち物らしい入れ物は、大きくない。だが、ずしりとした中身の重さを感じた。
屋上の出入り口の横に座り込み、ぱかりと弁当の蓋を開ける。
「……すごいな」
美味しそうという感情ではなかったが、芸術的な意味で感嘆した。
赤い淵に囲まれた箱庭に、鮮やかな世界がある。橙色、緑色、茶色、白色、黄色……色とりどりのおかずが、それぞれが役割を持って「お弁当」を形作っている。誰一人欠けてはいけない。まるで、役者と小道具がしかるべき位置に立っているかのような、劇場だ。
「むふふ。我ながら最高の配色美。盛り付けも得意なんですよ?」
俺が頭を上げると、丸口は「あっ」と顔を歪めた。
「人がそばにいると食べにくいですか……?」
「いや」
箸を持ち、卵焼きの端を小さくちぎった。口に含んで、軽く舌で転がして飲み込む。
「ど、どうですか!?」
「……」
言葉が浮かばない。また吐くんじゃないかという不安が俺の心を支配して、お世辞のひとつすら言えなかった。
食べ物は腹に詰めるもの。空腹の辛さをしのぐもの。最近では、治療のことを考えながら、無機質に飲み込むものだ。
「先輩。その卵焼き、どんな味がしますか?」
「……甘い?」
「それはつまり?」
「つまり?」
「あたしの愛の味ですよ。きゃ❤︎」
「…………」
愛に味があるか、何を言っているんだと思ったが。ふと、金輪先輩の言葉を思い出す。
『料理に込められた物語は、味に強く関わってくるものだ』
「……味か……」
もう一度、卵焼きを口に入れる。今度は、歯で噛み潰しながら、舌の上に広げるようにして。
ふわふわした噛みごたえ。砕けた卵の欠片は甘すぎない。そして気がついた。この甘さは砂糖じゃない。遠くにほんのりと、お菓子にありそうな香りがする。
「これ、はちみつか?」
「おお! よくわかりましたね! 実はこれ、はちみつの卵焼きなのです!」
「……なるほど。優しい味だな」
次ににんじんを口にした。煮物のようだ。表面に歯を立てると、断面からじわっと汁が出てきた。カツオか昆布か。出汁ににんじんの甘みが含まれて、滑らかな口当たりになっている。噛めば噛むほど滲み出る和風の味わいを、少しづつ飲み下していく。
「……これはなんだ?」
ご飯の端にちょこんと乗っている茶色の物体。味噌のようにも見えるが。
「それですか? ふき味噌です」
「ふき味噌?」
「ふきのとうって、花が咲いたら苦味が強くて天ぷらとかにできないんですよね。でもそれを刻んで、灰汁をとって砂糖と味噌を混ぜると、春らしいおかずになるんですよ」
ふきのとうは山菜の一種だ。金輪先輩は「株分けを試したい」と言って育てていたが。
ふき味噌を鼻に近づけてみる……なるほど、シュンギクに似た、ツンと強い春の草の香りがする。少し舐めてみると、爽やかな苦味が口の中に広がった。食べたことがないからと少し警戒していたが、えぐみは全くなく、喉に突っかからない。白飯に合いそうだ。
白米を数粒ずつ口に入れながらふき味噌を舐めていると、「キーンコーンカーンコーン」と、空にチャイムが響いた。昼休みが終わってしまったようだ。ふと一望した弁当箱の中身は、全然減っていない。
「昼飯だけで日が暮れそうだな」
「別にいいじゃないですか、お弁当くらいゆっくり食べても。授業サボって、あたしとランデブーですよ」
「……」
「あたし、実はぼっち飯派なんですよね。急かされたり見られたりするの好きじゃなくて。ご飯くらい、自分のペースで食べたいじゃないですか」
……何となくわかる。食べる姿を見られるのが怖いという気持ち。過食をする時の自分もそうだし、水しか飲まない自分もそうだ。
その点、「残してもいい」「ゆっくり食べていい」と言ってくれた丸口の言葉は、ありがたかった。
自分の意見を確かめるように、コクリと唾液を飲み込む。まだこみ上げてくるものはない。なら食べられるだけ食べようと、お弁当に意識を戻すことにした。
あと口にしていないのは……キャベツと玉ねぎの炒め物。肉が入っている。
体重制限をしていた時の名残で、油の強いものは無意識に避ける癖がついている。確認するように箸で摘まんだ肉に、ふと一つ、違和感を覚えた。
「この肉、脂身がないのか?」
「はい。包丁でとってしまえばいいかなと」
「……手間かかっただろ」
「先輩のためならなんのその!」
肉の端をかじってみる。ニンニクと醤油の調和した味。ぎとぎとしていないから、思ったよりは食べやすい。野菜も味が絡んでいるが、シャッキっとした歯ごたえも残っている。
……畑で作業していたことを振り返る。
金輪先輩に指示され、玉ねぎにとう立ちがないか、キャベツに虫がいないかを確認した。
育てた甘み。「食べ物の物語を知る」というのは、きっとこういうことなのだろう。
不思議な感覚だった。
ここが学校の屋上だとか、授業をサボった罪悪感とか、隣にいる丸口の正体とか。悩み、考えることが無意味に思えた。時の止まった世界で、拒絶されることも拒絶することもない、平穏な空気に包まれて。そばにあるものだけを感じている。
一つ、また一つと口に運んでいき、味わい。最後に辿り着いたのは、イチゴの色をした寒天だった。「それイチゴを濾しているんです。砂糖使ってないんですよ」という丸口のコメントも助けになって、食す抵抗はほとんどない。ガラスのように透き通った紅色。口に含むと、果物の甘い香りと、じわりと舌に響く酸っぱさになった。
「……ふう」
学校のチャイムが鳴る。5限目の授業が終わった。
「美味しかったですか?」
「ああ。美味しかった」
「えへ。嬉しいです」
俺はそっと目を瞑る。食事を達成できた喜びを噛み締めたわけじゃない。今の安らかな気持ちに身を委ね、このまま眠りたくなったのだ。
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