船出3ヴァルドゥへようこそ

@Myzca

Welcome to Val d’Rossa

Boy meets Girl

 艦から既に知らせがあったらしく、ヴァルドゥの軍港には見知った顔が相変わらず、共も連れずにひとりで出迎えに来ていた。 

「殿下、お久しぶりです」

 イオと呼べ、と言っていきなり肩を抱かれたため、ゼノスも自分の名前を繰り返す。 ゼノスも背は高い方であったが、王弟の華奢な肩は同じくらいか少々ゼノスよりも高いくらいだ。少し痩せたように見えるが、いかがお過ごしでしたかというゼノスの問いに笑顔になる。

「陸にいる時しか出来ないことをしているよ」

 剣呑な表情になったということから、ゆっくりダラダラと休暇という名の謹慎を楽しんでいるのではないということが分かる。 本当にひとりで来たんだなとやや驚きの表情で言われた通り、ゼノスはハルトすら連れていない一人旅だった。 前回の船旅で見知ったヴァルドゥ旗艦のメンバーが居て心強かったのもあるが、ハルトがヴァルドゥ行きに難色を示したのもある。 ど田舎であると思っているヴァルドゥに行くくらいなら、ゼノスの妹であるマイラのお供をして一足先に王都の別宅で羽を伸ばしながら観光している方が断然良いというのが彼の見解だ。 彼はゼノスにとって半ば家族扱いなのと、ゼノスが主人だからこそ出来る勝手である。 たいてい単独行動のイオを見て、ゼノスの常識もズレつつあるのかも知れない。

 馬車の窓から見るヴァルドゥの街並みは、南の春の陽射しが白い石で覆われた外壁に反射して眩しくみえる。 家々のバルコニーは鉢植えで飾られていて華やかだ。 市街のほぼ中央に見える城は小作りだが重厚な装飾で覆われ、歴史感あふれる佇まいがこの地の繁栄度を窺わせる。 港から上がってひとつめの城門を越えるとそこには城下町が広がる。 港から上がる物資を運ぶ多くの馬車や荷車が行き交い、ヴァルドゥで最も活気のあるエリアである。 港から城門を通って街の中央広場までまっすぐ伸びる大通りは古く、何度も石畳を敷き直した跡が見られた。 馬車がすれ違える程の広めの通りが街の中央広場から放射状に広がり、街の奥にある城の背後の山の手にはカテドラルの高い尖塔が見える。中央広場の正面には巨大なモザイク画でヴァルドゥと海と方位を示す巨大なコンパスが描かれてあり、此処から国全体の方位が見て取れる。 例えば、南を示されている方向を見ると港が見えるし、北の方向には街の向こうに山脈の壁、そして東北方向に城が見える。 

 強い日差しで白く色がとんで見えるがカラフルな旗が翻り、近くで見るとバラ色というより白っぽく見える石造の建物もダーショア、いや、アキタニア国とは随分趣きが違う。 人々の服のデザインも曲線的で装飾も多く、色も華やかである。 通りを行き交う人々は活気があって、目が合うと人懐こい笑顔を向けてくる。  イオに至っては、貴族が馬車から手を振るというよりはご近所の知人に挨拶するという感じで、時に馬車の窓から身体を乗り出し通行人の顔見知りの市民と会話していて、アキタニアとヴァルドゥの人々との距離感の違いを感じさせた。 この近い距離感は小さい都市国家で人々が密接に暮らしているせいであろうか、南の人々の解放的な文化によるものか、それともイオ個人の人柄だろうかとゼノスは色々と考える。 次の城壁を越えると幾らか通りは静かになり、高級な店や邸宅の並ぶ一角を越えると最後の、城の入り口に当たる城門があった。 それを通り抜けて木立を進むと、その奥に石で出来た古代のものであろうアーチがあり、その下が半円のすり鉢状の巨大なエントランスになっていて、そこはまた、城の城壁を利用した半円劇場になっていた。鬱蒼と建物がひしめいている感のあるヴァルドゥ市街に、この様に静かで広々としたスペースが隠れていたことに驚かされる。 ゼノスの荷物は裏から客間に入れる様に御者に指示して、ふたりは馬車を降りエントランスを進む。

「まずは母上に紹介させてくれ」

 母上というのは、先アキタニア王妃、現アキタニア皇太后、イオとジオの母、そして現ヴァルドゥ自治領領主の、ソチルである。 彼女はこの数十年、ラスイスラス海近隣の国々の間ではその美貌から、『ヴァルドゥの真珠🦪』の別名で知られている。

 政略結婚であったと思われがちだが、実はアキタニア王がソチルに一目惚れして、わざわざヴァルドゥまで何度も通った話は有名で、ヴァルドゥ語では『王の様に通う』が、愛を乞うという意味で慣用句化している。 ヴァルドゥを見下しているアキタニア人には受け入れられない、アキタニア語にはない表現であろうが。

 イオはゼノスを連れて、ノックをして彼女の執務室に入る。 ソチルは立ち上がってふたりを迎えた。

「ダーショア侯、お久しぶりです」

「皇太后様。アキタニアを去られて以来でしょうか。お久しぶりです」

 ソチルは相変わらず美しかった。濡れた様に艶やかな黒髪に少し銀色のものが混ざり、それが一層の落ち着きとともに、過ぎ去った年月を窺わせたが、成人した息子を持つ母には見えない若さがある。 艶やかな女性らしさと凛とした威厳はアキタニアにいた頃から変わっていない。

「海路交易の話はジオからも聞いています。商船と航路についてはイオとその周囲が、通商実務、それと関税などについてはマルデイラ伯が適任だと思うわ」

「リリアの実家に挨拶出来るな」

 イオの言葉に、アキタニアにいる女官長を思い出す。 そのまま彼が説明を続けた。

「マルデイラ伯はヴァルドゥの目の前の島の領主で、そこで一切の税関業務を引き受けている」

 成る程。闇以外のヴァルドゥの流通と貿易はマルデイラに握られているということ。ゼノスの顔を読んだように、イオが続ける。

「マルデイラ島は海軍の守護が無いとあっという間に海賊の餌食になる。でも、マルデイラ家の人間は海軍職には就けないし、自前の船も持てない決まりになってる。税金も別枠だ。ちゃんと力と金の分散は出来ているよ」

 ソチルの執務室でマルデイラ伯へのより詳しい内容の紹介状を貰って退室し、イオにゆるゆると城の中を案内されながら、敷地内にある屋敷の客間に向かう。

「ヴァルドゥで他に見たいものってある?」

「観光名所とかでしょうか」

 確か、ヴァルドゥへ向かう艦上で親父こと旗艦長に質問した事がある。 ゼノスが覚えているヴァルドゥの観光名所を挙げようとした時である。 何処からか、バイオリンの音が聞こえてきた。 イオの顔がぱっと明るくなる。 悪戯っぽく人差し指を唇に当てて静かに付いてくる様にゼノスに合図すると、音のする方へ進んでゆく。 いきなりドアを開けたイオの肩越しに見えたのは、驚いてバイオリンを取り落としそうになっている令嬢だった。 丸くなった目があっという間に可愛い怒りをはらむ。 若かりし頃のソチルに良く似ている。

「イオ!? 驚かさないでちょうだい」

 そしてイオの背後に立つ見知らぬ客人を見つけて、慌てて表情を改め淑女の礼をした。

「エイダ、こちらはダーショア侯、ゼノス、これは妹のエイダ」

「初めまして」

「初めまして。バイオリンがお上手ですね」

 妹のマイラと同い年くらいだろうかと考えながら、ゼノスは自身も弾くバイオリンの話題で暫く会話を楽しんでいると、黙って横で楽しそうにニヤニヤしながらふたりを見ているイオの視線に気が付いた。 時々思うが、彼は結構、人が悪い。そう言うと、イオは嬉しそうに肯定して笑っている。 エイダもゼノスの肩を持って、イオに向かって困った顔をして見せる。 エイダも一緒に晩餐を取る約束をして、2人は客間に向かった。 疲れていたし、晩餐までに埃まみれの服を着替えたかった。 城の廊下を歩いていると、ふと未だ再会していない人物を思い出す。

「そういえば、船医は?」

「は? ナギ?」

「彼は今日は艦なんですか?」

「さぁ。彼はもともと、この国にも軍にもヴァルドゥにも属していないからね」

 俺は知らないよと放任主義丸出しの返事をしたイオに、このふたりは一体どうなってるんだろうかと懐疑的、いや、心配になる。

「軍に属さずに船医をしているんですか?」

「押しかけ船医兼死神だからね。適当に何処にでも出没するよ」

 支離滅裂で、矛盾している。理解不可能だから何も聞かなかったことにしようとマイペースなゼノスは話題を変えた。


 ヴァルドゥの東、山を超え、ルドラ海峡を挟んだその向こう側に広がるのがエスティニアである。 その国は歴史的に長い間、大陸遠北部にあるトゥガリアの支配下にあった。 植民地、直轄地、属国、兄弟国、傀儡政権、呼称は変われど、強国トゥガリアが、本国には無い不凍公海のあるエスティニアを手放したことはなかったし、手放すつもりも無いだろう。 そのエスティニアが最近騒がしい。 ルドラの海戦での敗戦で一時的に力を失ったトゥガリアの支配下から這い出すために、ラスイスラス海を荒らす海賊と手っ取り早く結託して、自前の武器や兵力を買う裏金を貯めているらしいのだ。  

 他民族国家ヴァルドゥの中でもそのエスティニア出身者がよく集まるデスティ地区に程近い裏通りを歩いていたナギは背後から近づいてきた見知らぬ男に声をかけられた。

「ラトナイア様が王の代理でエスティニアまで御出でだ。暫く滞在されるご予定だそうだよ。 エスティニアでローナンから噂を聞いて、色々と貴方の事を気に掛けておいでの御様子だそうだ。会いに来いと」

「お前は何方の間者だ? エスティニアか、トゥガリアか?」

「何方でも良いだろう。俺は伝えるべきことは伝えた」

 仕事は終わったとばかりに男は雑踏に紛れて宵の薄暗い雑踏に消える。

 ラトナイア。

 久しぶりに誰かがその名を口にするのを聞いた。その名の持ち主を記憶の中から手繰り寄せる。夏のトゥガリアの日差しのような柔らかな金髪に縁取られた、透き通るような白い肌。面長の顔に理知的な水色の瞳。ラトナイア・トゥガル・ハルヴァ公女、そして現宰相。 まだ若く騎士の誓いをしたばかりの時に、マイレイディ、彼女の白い指先に口づけする栄誉をいただいた誇らしさと晴れがましさを、今は何故か苦い気持ちで思い出す。 それはまるで前世か何か、遠い昔の事のように感じられた。 自分では終わったと思っていた過去の世界はまだこの現在に繋がって続いていたのだ。 過去はひとつだが、居場所を選べば未来は様々だ。 だが選択できるのは唯ひとつ。 帰るか、それとも此処にとどまるか。


ゼノス達の晩餐

 シャワーを浴びてさっぱりしたゼノスが執事に案内され屋敷の食堂に降りて来た。 既にイオとエイダが居て、喋りながらゼノスを待っていた。

「お待たせしてしまいました」

 気にする様子もなく、楽しそうに2人はゼノスを席へと促す。

「今日は典型的なヴァルドゥの食事だから」

「典型的とは?」

「多文化多民族ミックス。アキタニアでは見られないけど、アキタニア人にとって食べやすそうな物を選んでみた」

 どんな物なのだろうかとゼノスは興味深げにテーブルに着く。 センターピースの花で飾られたキャンドルが温かい光を放ち、白い陶器の食器を照らし出している。 間もなく執事が前菜のサラダの皿を運んできた。 

「ざくろのドレッシングで頂くサラダです」

 レモンも入っているのであろう甘酸っぱさとざくろの甘い味が口の中に広がる。 野菜は種類が多くて新鮮だった。 アキタニアでは見た事のないものも混ざっている。 トッピングのクルミとアーモンドが仄かに苦味を加え、ドレッシングの後味がしつこくならない。 興味深げに味わうゼノスに他のふたりが怪訝そうな顔になる。

「食べられそう?」

「いくらでも食べられそうです。 アキタニアでは無い味ですね」

「まだまだこれからアキタニアには無い味が続くよ」

 サラダを終えるとレモン風味の豆のスープが運ばれてきた。 クリーム状にすり潰された豆に玉葱の甘さが加わり、レモンが味を引き締めている。 次はレモンとミントソースの海鮮料理で、料理にミントが使われることにゼノスは驚きを隠せなかった。 マリネされた海鮮料理は冷やしてあり、ひんやりとしたソースの味とよく合う。 アキタニアでは簡単に調理された肉がメインで、魚介類は海岸線以外ではあまり消費されない。 需要が無いため、新鮮な魚介類の流通ルートが殆ど無いのである。 

「こういう料理がアキタニアでも楽しめたらと思います」

 羨ましそうなゼノス。 

「では、観光ついでに港の魚市場をご覧になったら? 私でも見たこともない魚が沢山あって」

 エイダの楽しそうな提案に、ゼノスは心の中でメモを取る。 港の魚市場。

 第二メインはスパイス風味の子羊と鳥の炊き込みご飯のヨーグルトソースがけであった。 南からの移民がもたらした料理らしいが、ヴァルドゥ風にアレンジされていて辛みは殆ど感じられなかった。 米と一緒に炊かれたスモークされた肉とスパイスの香りが食欲をそそる。 熱い肉料理に冷たいヨーグルトと胡瓜、そしてハーブを混ぜたソースをかけるとスパイスの個性的な味が中和されて食べやすく感じられる。 既にゼノスは満腹だった。

「デザートはいちじくとナッツのケーキです。 お召し上がりになられるかしら?」

 素朴なケーキに生クリームが添えられ出てくる。 口に入れると甘いイチジクと微かなシナモンの香りが口の中に広がる。 別腹でも入れるべき味だ。 ゼノスが顔を上げると、前の席のイオと目が合った。

「貴方は食べないんですか?」

 げっそりとした顔で皿を見下ろしている彼に代わってエイダが笑いながら答える。

「彼は甘いものが苦手で。 『船での粗食に慣れちゃった』らしいです」

 ヴァルドゥ艦の食事は普通に美味しいものだったがとゼノスは思い出す。 あれはお客用のメニューだったのだろうか。 ゼノスの思案顔にイオが口を開いた。

「ゼノス、艦での食事は随分改善されたんだ。 俺が子供の頃は酷かった」

 思い出したように顰められた彼の顔を見て、エイダが笑いながらイオの声色を真似る。

「水兵の食事の質を上げる為に、司令官自らハンストしたの。 『俺に出せない物は水兵にも出すな』って」

 階級制の厳しいアキタニアではあり得ない話だと思ったゼノスだが、ヴァルドゥ艦とこの司令官なら納得出来る話である。

「不味い食事だと勤労意欲も無くなるからね」

「でも美味い食事のお陰で、水兵志願者が増えたって聞いたわ」

「そう、ヴァルドゥは平和だよね」

 ゆっくりとデザートを味わっていると、食後のコーヒーが運ばれてきた。 此処ではディナーの後でもコーヒーを飲むらしい。 夜眠れないのではないかとゼノスが問う。

「南国だから、晩御飯の後に出歩く宵っ張りが多いんだよ。 今日は未だ半分残ってるってね。 特に夏場は日が長いし」

「そういう方にとって、夜というのは早朝の意味らしくて」

 その後勧められたアルコールを辞退し、ゼノスのヴァルドゥ初日は終わった。 彼の感想はご想像にお任せする。


 ヴァルドゥの春の陽射しがやや暑く感じるこの頃。 久しぶりに館にいるイオに向かってエイダが何やら訴えている所にゼノスは通りかかった。 護身の為に剣術の基礎を教わりたいらしかった。

「イオだけ習って、ズルいわ」

「ダンス、チェンバロ、ハープ、絵画、刺繍、フルート、歌、エイダだけ習って俺やジオは習ってないことの方が多いよ」

 エイダの習い事を指折り数えながらイオが言うと、彼女も負けてはいない。

「それとこれとは違うでしょう」

 彼女が習っているものは嫁入り道具、つまりは淑女の嗜みみたいなものばかりだ。 しつこく食い下がる彼女に向かってイオが真面目な表情を向ける。

「剣は肩と腕と手がごっつく太くなるからやめておけ。お気に入りのドレスが入らなくなるから」

 ストレートに説得力のある説明をし、ちょうどいいとばかりにゼノスを捕まえる。

「それなら代わりに、ゼノスに弓を習ったらいい。 彼は俺の命の恩人レベルだし、狩にでも一緒に行って貰え」

 エイダの顔が一瞬明るくなるが、一応ゼノスは用事で来ていることを思い出して困った顔になる。

「お時間さえ合えば、宜しいですよ。 私も、観光名所を回ろうかと考えていた位には暇ですし」

 適当に投げられた話だが、律儀なゼノスは真面目に取りあう。エイダの顔がまた明るくなった。

「では私がヴァルドゥの観光名所をご案内いたします」

「宜しいのですか?」

 妙齢の令嬢と出かけるなど、家族を同伴するか保護者の許可が必要なところだ。 ゼノスはどうするべきかと、イオの方を振り返った。

「エイダ、母上の許可を貰っておけ。 俺はもうすぐ海に戻るから一緒には行けない」

「魚みたいなことを言うのね」

 寂しそうに少しむくれて見せるエイダとは逆に、イオは清々しく嬉しそうだ。

「新しく改良させた大砲も新型艦の速さも試したいし、ここのところやりたい放題の海賊たちに会えるのを指折り数えて待ってたんだから」

 まるで令嬢が新しく誂えたドレスを友達に見せびらかす機会を待っているかの様な言い方だ。 魚というよりこの獰猛な人魚は海賊を海の底へと攫っていくのであろう。


ゼノスの観光1

 狩りに行くのはイオが空いている日に合わせることにし、エイダはヴァルドゥの観光名所を記した地図を広げた。 流石は海洋都市だけあって、地図の測量技術は極めて正確であることがわかる。 今日はエイダの侍女も連れて山側に行く予定であった。 出発前に彼女がゼノスに説明する。

「ざっくりと、山側、海側、街中の3つに分けると分かりやすいと思いますの。 まず、今日参りますのは、この西の山の上にある展望台。 ここからは街と海が綺麗に見えます。 晴れた日には東の岬とその先の近海の島々も見えます。 塔自体は300年ほど前に見張り台として軍事目的で作られた物ですが、今は市民に解放されていて、早朝にここからの日の出を見るのもヴァルドゥ人には人気です。 他には東の山の中の川沿いの峡谷にある、『女神の帰り道』と呼ばれるトレイルもあります。  山の自然と深い森がヴァルドゥの街中とは全く違って静かですけど、多分アキタニアにも同じ様なところがあるかとも存じます」

「どちらも素敵ですね」

 一生懸命説明するエイダに相槌を打つ。

「日の出は過ぎてしまいましたが、快晴ですし、遠くの海まできれいに見えると思います」

 一行の乗った小型の馬車は市街地を抜け、やや静かな郊外を過ぎ、山上までゆるゆると登ってゆく。 九十九折の山道を曲がる度に左に右にと、交互に眼下に広がる遠くの海原にエイダの声は嬉しそうだ。

「ご覧になって。 イオの艦隊が出て行くのが見えるわ」

 指を差された方角を見ると、 確かに見慣れた艦隊が東の海に向かっているのが見える。 艦隊が朝日に白む水面に尾を引きながら次第に遠く水平線へと小さくなってゆく。 青い海に白い帆が風を孕んで鮮やかな色合いのコントラストをだす。 そして、その存在感。

「エイダ様は船に乗られないんですか」

 艦隊を何やら羨ましそうに見送るエイダに、ゼノスは尋ねた。ヴァルドゥでは船は単なる移動手段に過ぎない。 馬車と大差はないのだ。  ゼノスの問いに、おずおずと恥ずかしそうに、そして申し訳無さそうにエイダが答えた。

「私、酷く船酔いするんですの。 しかもあまり泳ぐのも得意でなくて。 ヴァルドゥ人としては恥ずかしくて、イオには言えないのですけれど」

 兄弟と言っても、似てなくても全然違っていてもいいものだろうとゼノスは思うのだが。 妹のマイラと自分を比べてみても、似ているところは栗色の髪の毛くらいだ。 私も泳ぐのは苦手以前に全然出来ませんと秘密を打ち明けて見せると、彼女の顔に笑みが浮かんだ。


海賊戦1

 新型艦のスピードは予想していたよりもずっと速かった。 波を切るように進む船のために、早めに航行指示を出さなければいけないし、隊列を作る時は注意しないと他の船にぶつかる恐れもある。 舵きりのタイミングや角度を航海士や艦長と調整しながらラスイスラス海を東に進んでゆく途中、今日はあの連中は山の展望台に行くと言っていたっけと思い出し、遥か後方に霞んでゆくヴァルドゥ市街の背後に広がる緑濃い山並みを眺める。 約3ヶ月ぶりの海は懐かしく、イオの機嫌もすこぶる良かった。 記憶の中の冷たかったアキタニアの潮風は、今ここではすっかりなまぬるい春の陽気を含んでいる。  艦はマルデイラ島と検疫中の船の行列をを右手に通り過ぎ、東の岬を廻りこみ、島々の点在するラスイスラス海を順調に進んでゆく。 マルデイラ島を守護している駐在艦隊に向かって挨拶の合図を送ると、直ぐに彼方も合図を返してきた。

『イ・オ、お・か・え・り』

 こちらへ向けて出てきたのには訳があり、今朝この近海で海賊船が出たとの知らせを受けたのだ。 今日この商船ルートを豪商の商船団が通過してマルデイラへと向かう予定を聞いてきたので、それを狙っているであろう海賊は、近辺の島に隠れているのかも知れなかった。 商船ルート上の見渡しの良い海域で、島陰に隠れて待っていること数時間、艦の隠れている島に向かって、緊急信号を発しながら、商船団が警護の船と共に海賊船に追いかけられながら来るのが見えた。 錨を上げて一気に帆を広げ、島陰から出る。 

「朝イチだから、海賊船の倉庫はまだ空の筈だ。 海賊船を足止めして、その間に商船を行かせる。 海賊が抵抗する様なら、あいつらの船を新型大砲の実験台にする」

 一気に水兵から歓声が上がる。 久しぶりに艦に活気が戻り、艦全体が高揚しているのが感じられる。 待っている通信手に指令を出す。

「商船に全速力で直進と合図を。 本艦、3号艦、海賊船の左舷に詰めろ。2号艦は商船の後ろから回って海賊船の右舷に寄せろ。4号艦は海賊船の後ろ、1号艦はマルデイラまで商船に付け。 あっちが撃つ用意を見せたら即、沈める。 砲撃手に通達、準備万端、でも全砲門はまだ閉めておけ」

 返事を聞くまでもなく、着々と戦闘準備が整ってゆく。 海賊が気がついて船を方向転換しようとした時には、既に遅く、怖気付いて威嚇しようと砲門を開けたのが裏目に出た。 全艦、撃て、との声は砲火の音でかき消され、大砲の反動で艦全体が揺れる。 海賊船からの砲撃の衝撃がその後を追いかけるようにやってきた。 撃ち合いは続き、いずれにせよ両側から挟み撃ちで大砲を喰らい、浸水した海賊船がゆっくりと沈みはじめ、自棄になった海賊が接舷して一番甲板の近い此方の艦に乗り移ってくる。 白兵戦だ。ヒャッホー、と艦全体が浮き足立ち、乗員が一斉に其々の武器を抜いて甲板へと走る。 

 戦うのは、嫌いではない。 緊張と高揚で妙に気分が研ぎ澄まされるような感覚に陥り、周りの物が更にくっきりとクリアに、そして立体的に見え出す。 時間が異様に間延びして感じられる、この、非現実感。 前方から海賊が叫び声を上げて剣を振り上げながらこちらにやってくる。 右手の剣で受け流しつつ、左手のダガーを相手の喉に走らせる。足元に倒れ込む男を見ている暇はない。 目を上げて、次の獲物を探す。次だ。そして、次だ。 早くさっさと終わらせるために。 通路の後ろから物音がして、またひとり海賊が出てくるのが見え、相手が気付くより早くダガーを海賊の首元目掛けて投げる。 鋭利に磨かれたダガーは投げられた勢いそのままに深々と海賊の喉元に埋まった。 倒れた後の死体からそれを引き抜き、左手の血に染まったそれを見てふと、剣を習いたいとごねたエイダの顔が脳裏を過ったが、生臭い匂いで我に帰る。 剣に付いた血の匂いもぬめりも痛みも怖さも剣が肉を切る感覚も、エイダには知らないままでいて欲しいと願う。 それはヒロイズムでも何でもない、不要な不快さに対する、単なる嫌悪感だ。


ゼノスとエイダ観光名所2

「今日は本当に良い天気ですね♪」

 和やかな雰囲気で、ゼノスはエイダの繊細な刺繍の手袋に包まれた手を取って展望台の階段を登ってゆく。春霞が出始めた海面は白っぽく、岬から先の水平線がぼやけて見える。

「このような場所はダーショアにはございますか?」

「うちも山に囲まれていますが、このように綺麗な海を望める展望台は無いです」

「よかった。つまらなかったらどうしようかと心配で。私、ちゃんとご案内出来ているかしら」

「ご心配は御無用です。素敵な案内で、私の旅には勿体ないほどです」

 ゼノスが全力でエイダをフォローする。この2人、お互いに生真面目かつマイペースなところが絶妙な取り合わせであった。

「この展望台の下に見える大きな建物は何でしょうか」

「あの白い建物はヴァルドゥの大学です。その右に見えるのは公宮図書館です」

「きれいな建物ですね」

「あれは先代の時代の建築家のデザインで、他にも街中の商業会館や公宮歌劇場も彼のデザインによるものです。宜しかったら、市内の観光の時にご案内いたしますわ」

「成る程、建築家を雇う事で、街に統一感が出るのですね」

「あと、時代により建築様式に流行りやテーマがあるので、街中の建物も時代別にご紹介いたしましょうか」

「ええ。お願いします。アキタニアでは見ない様式が多いですね」

「そうなんですか。彼方ではどう言ったデザインが多いのでしょうか」

 云々。飽きる事なく、気不味い沈黙に陥ることもなく、ふたりの会話が和やかに紡がれてゆく。


海賊戦2

 水兵がボートを下ろして船から海に飛び込んだ海賊をひとりまたひとりと捕まえていく。白兵戦が終わり乗り込んできた海賊が全滅した後、水兵が半ば浸水した海賊船に乗り移り、残った海賊を探す。 既に終盤に差し掛かった戦いは水兵と下士官に任せて、イオと旗艦長は艦の中の被害状況をざっと検分して回った。 砲撃による艦体への損傷、怪我人、そして死人。 所々血溜まりが出来た床が滑りやすくなっていて歩きにくい。 医務室を覗くと、怪我をした水兵の手当をしているナギと目があった。

 無事か、と問う視線に軽く頷いて答え、手短に負傷兵を見舞う。 その後、簡単に各艦の被害状況を確認してから、艦隊は帰還の途についた。 なんと言うことのない、典型的な海での1日である。 港に着くと先ず負傷兵を降ろし、艦を工廠へと送る準備をし、日を改めて士官級の会合をする予定を入れ、その日するべき事が終わったのは辺りがすっかり暗くなった後だった。 軍港のポーチで帰るために預けてあった馬を待っていると、親父が通り掛かった。

「久しぶりの海で疲れたか」

 子供時代によくやった様に、イオの頭をポンポンと軽く叩く。  親父は今でもコレを、2号艦に乗務する自身の成人した息子にもやる。 息子と同じ扱いは嬉しいが、人目のあるところでコレはやめてほしい。でも言ったら余計にやるであろうから、言わない。

「大丈夫。 もっとエスティニアの近くまで行かないといけないし」

 暗にエスティニアの海賊の件を仄めかす。

「ソチル様は何と仰っておられる?」

 親父がソチルの名を出したのは、この件は唯の海賊ではなく、国と国との問題になる可能性もあるという意味であろう。

「聞いておくよ」

 疲れを感じさせない身軽さで、馬丁に手綱を引かれて来た愛馬のロシに跨るとイオは屋敷に向かった。そう言えば、あのふたりの観光初日はどうだったのだろう。 


 ゼノスの観光3 NiteNite

 ゼノスにとって、一日中ひとりの令嬢と過ごす事は妹を除けば初めてかもしれなかった。大抵は、お茶会か散策か、何かのイベントに一緒にいくだけである。それでも数時間の間、会話や間を持たせるのは難しいものである。妹はひとり賑やかにキャアキャアと話し続けるタイプだから ー寡黙な方には、適当に相槌を打つだけでいいので、それはそれでお薦めだがー 思っていたよりも興味と会話の方向性が似ているエイダは新鮮だった。 今日一日中一緒にいて、全く疲れを感じなかった。 彼女も同じだと良いのだがと願った。 夕食後、まだほの明るい城の裏の庭園を、腹ごなし感覚で散歩しようと外に出る。 陽も傾いてやや冷たくなってきた春風がひんやりと上着の中に入ってくる。 庭園の中央にある植木でできた小さな迷路を避けて木立の中を進むと、その向こうに屋敷の裏庭の四阿が見えた。 夕暮れ時でも、風に揺れて一面に咲くひなげしの赤い花が鮮やかだ。その花畑の隅にある裏門から騎馬が入ってくるのが見えた。裏門の衛兵に馬の手綱を預けると、庭園に向かって歩いてくる。シルエットからイオだと分かった。

「ゼノスか、今日はどうだった?……と、そこで止まれ」

 話そうかと近寄ろうとしたゼノスは歩みを止める。

「今日は着替える時間がなかったから、返り血で汚れているし、多分、臭う」

 そっちに掛けろと言わんばかりに、距離を保ったまま、薄暗がりで花壇の縁に腰掛ける。

「エイダのお守りを丸投げして、悪いと思ってはいるんだが」

 その心配は杞憂ですよ、とゼノスは微笑んだ。

「明日はマルデイラ伯と約束があるので駄目ですが、明後日はまた一緒に市内観光に付き合って頂く予定です。私と一緒に居て、退屈で無ければ良いのですが」

「ありがとう」

 疲れた顔にひどく優しい笑みを浮かべて、イオが立ち上がり、就寝の挨拶をすると扉の向こうに去っていった。


海賊戦からのナギ暴走

 エスティニア近海で海賊が根城にしている島で、海賊船と乱戦状態になったヴァルドゥ艦隊は激しい砲撃戦では片がつかずに白兵戦へともつれ込んだ。 海賊船自体も大きく、やけに装備が整っている。

「コレも最近、エスティニアと癒着してる奴らかな」

「エスティニア製の武器も多いですしね」

「海賊船は沈めるな、盗品は取り返す」

「右舷からこちらに乗り移って来ます」

 エスティニアの海賊の多くは、ラスイスラス海を更に南下した海域にある小さな島々の住民が殆どで、文化的にも習慣的にも大陸とはかなり違ったものがあった。 身が軽く、接近戦で体術を使う者も多い。 銃火器は殆ど使わないが、彼らがよく使う長い矛は躱すのが難しい事で知られる。歴戦の水兵たちにも苦戦の色が見られ、疲れが目立って来る。 砲撃手など、専門職との兼業で戦っている兵も多く、忙しい。

 そんななか、剣を抜いて応戦していた水夫長がナギのいる医務室を覗きに来た。

「イオ、此処か?」

「いや、居ないが」

「彼奴の腹に穴が開いてるのを見たって、親父が探してる」

 思わずナギが立ち上がる。 診ていた水兵の包帯を手早く巻き終えると、机の陰から自身の剣を取り出して水夫長の方を見る。 包帯などよりもずっとしっくりと彼に似合うそれに、水夫長は頷いた。 返事を待たずに部屋を出て、走る。 途中で出会った海賊達は、剣を合わせる間も無く、そして何かを考える間も無く絶命して次々と床に転がっていく。 構えるまでもなく、まるで剣先までが身体の一部であるかの様な一体感で、ナギは狭い通路で軽々と剣を振り邪魔な障害物、つまりは海賊たちが現れる度に片付け、進んで行く。

 甲板にも執務室にも私室にも、イオの姿は無かった。この艦で怪我したら、あいつは一体、何処に行くだろうと考える。 と、私室の一角にある洗面室が目についた。 中から鍵がかかって、水が使えて、怪我人が籠るのに最適な場所だ。 扉の鍵が掛かっているのを確認して、ノブ近くを蹴り破る。 ナギのひと蹴りで簡単に扉は開き、中ではイオが剣をこちらに構えながら、驚きのあまり目を丸くしていた。 全身、海賊の返り血が真っ赤に滴っている。

「切られたのか」

 ナギが彼の手の剣を取り上げる。見ると、シャツの横腹部分が切れて大きな穴が開いていた。 恐れと極度の緊張があると痛みは自覚しにくくなるものだ。 自身の感覚に頼るよりも実際に傷を見た方が早い。

「今、確かめてるところ」

「見せてみろ」

 血を吸った服は肌に張り付き、紐の結び目は血を吸って固く解けず、ボタンは血で固まり、脱ごうにも脱げない。豪を煮やしたナギが、イオのシャツを襟首から裂く。露わになった肩からその下に着けていたコルセットの脇腹にも刃物による穴が大きく開いている。返り血なのか本人の血なのかわからないまま、ナギの手が一瞬で血まみれのコルセットを縫い目から裂くと、それは音を立てて床に落ちた。 状況のスピードに頭がついて行っていないイオが露わになった上半身の前を腕で隠す。

「見せろ」

 腕が邪魔だと言わんばかりに有無を言わさず、ナギがイオの両手首を片手で掴んで持ち上げ、脇腹を確かめる。そこに傷は無かったが、そのまま視線を上げると解け落ちた豊かな巻毛の下に、丸い豊かな胸と、意外な程細い腰が目に入った。 彼の視線を受けて、持ち上げられた両腕の向こう側が一瞬、驚きと戸惑いを浮かべた女の表情になる。 

 いや、女というより、これは無垢な存在だ。 女に生まれた全ての生き物が時間をかけて培う、女の常套手段である計算高さも小細工も手練手管や駆け引きも賢しさも、そこには無い。 市井の女でも商売女でも、ましてや令嬢ですらない。 血塗れではあるが、危険で純粋な無垢。 その羞恥と怯えで大きく見開かれた目が困惑で金色に揺らぐ。 イオの瞳を見ながら思う。 何と魅力的で美しく、高貴かつ歪な存在なのだろう。 その双眸から目が離せなかった。 此奴は簡単に手折って良い花じゃ無いとは、頭では分かっていたが、衝動に逆らえず、ナギはもう片方の手でイオの頭を掬い上げると貪るようにその唇を重ねた。


ゼノス、マルデイラ島へ行く

 マルデイラ伯はリリアによく似た鳶色の瞳の紳士だった。 小作りな顔に社交的な笑みが印象的だ。 年始は王城に行けなかったので失礼したねと暫くアキタニア社交界の話で盛り上がった後に、ゼノスに向かって用意は良いかねと前置きをする。 それから海路と陸路、そしてアキタニアとヴァルドゥの違いを話し始めた。 ゼノスの質問にも事細かに答え、海上交易のイロハから上級向けまでを、手慣れた様子でシステマティックに説明してゆく。 国内ルートとは違い、外国からの取引には検疫のために、2週間も船を沖に留めて待つ必要があり、その間の諸費用が掛かること。 書類の様式から始まって、各手順とその要点。 貨物別の船の選び方。 警護船の雇用と手順。 海賊による損害の見積もりと補填方法などなど。 情報量の多さに圧倒されたゼノスだが、休憩中にアキタニアの王都に居るリリアの話になると、マルデイラ伯は一気に親バカぶりを発揮し出した。 目尻を下げて愛娘の自慢をしながらも彼女の縁談の心配を始める。

「彼女は王やシエナ様からも信頼されていらっしゃるし、王城でも人気のある方なので、ご心配になる必要は無いと思いますが」

「あの子は逆にしっかりしすぎな感じがあるから、王都のおっとりした貴公子方には扱い辛いかと思うと心配で」

 よく娘のことを理解している。 その言葉を変えて、だからこそ信頼されているのです、と断言したゼノスだったが、子供の心配は親の仕事とばかりにマルデイラ伯の、あまり必要のない心配は尽きそうにない。 良い親子である。

 オフィスでの用件が終わって、マルデイラ伯はゼノスを外に連れ出して島の案内を始める。番号がついて並んだ桟橋と、その前に堂々たるヴァルドゥ検疫所の建物、そして反対側に税関の建物が、芸術的なな対比を見せている。 華麗な飾りの建築様式は、一昨日エイダが言っていた建築物とよく似ていた。

「そうです。こちらもヴァルドゥの建築家、トルフの作品です。詳しいですな」

 マルデイラ伯も、ゼノスの付け焼き刃な知識に関心する。

「街の観光はされましたか?」

「明日にでもと予定しております。こちらの名産で土産物のお薦めはありますか」

「確か、ヴァルドゥの金銀細工、織物やリボンはアキタニアのご婦人方に大層人気だよ。南方から入ってくる珍しい香料や香辛料、それらから作った香水、南方から来るドライフルーツ、ワインくらいかな。甘いザクロのワインも人気らしいね。 若い令嬢ならこういうのに詳しいのだけれど」

 どこの世界も同じで、こういう知識は女性に聞くに限る。

「では、明日にでもエイダ様に尋ねてみます」

「エイダ様をご存知か」

「はい、殿下のご紹介で。 妹君ですよね」

「妹って、あれは年子で同い年だけどね」

 それは聞いてませんとゼノスは思ったが、口に出たのは正直な感想だった。

「全然、似てないですよね」

「あそこは兄弟全員、全く似てないね」

 ははは、と笑うマルデイラ伯。


一方、その直後のナギ

 ゴッと鈍い音がして、ナギの目の前が一瞬暗くなり星が散った様に見えた。 ふらついて腹に一撃を感じたところで、ようやくナギはイオから頭突きと蹴りを喰らったと理解した。 辛うじて踏みとどまる。 やはり、令嬢とか他の女性とは全くもって反応が違う。 抑えてみると鼻は折れてはいなかった。 目の前の怒りを孕んだ金色の瞳と目が合う。

「す、すまん」

 狼狽えた声で謝り、身体の向きを変えて裸の上半身を隠したイオから目を逸らす。 彼方は無言のままだ。 逸らした視線が足下に落ち、そこに転がったコルセットを拾い上げながら素早く検分する。 それは女性の体型を男性のものに見せるための補正用で、脇腹部分が異様に分厚くなっていて、穴は分厚く補正された脇腹部分を貫通していた。 よく見る間もなくイオが彼の手からそれを引ったくる。

「す、すまん」

 再び言いかけた途端、ドアの外に向かって人の近づく気配がして、ナギは剣を掴んで部屋の外へと出た。

「クローゼットの中に籠っていろ」

 近づいて来るのは海賊なのであろう。 鋭い声で短く言うと、彼は外から後ろ手にドアを閉めた。


 ネレイデ登場

 夜も更けて、市街路から人通りが減り寂しくなって来るころ、城に隣接する屋敷の門を潜る女の影があった。よく知っているかの様に迷わず屋敷内を足音もなく進んでゆく。 女の細かな所作から、家柄の良い家庭で育ったことは明らかだ。 髪を隠していた黒いスカーフを取ると、イオの部屋の扉を軽くノックし、返事を待たずに中に滑る様にはいっていった。 居間の灯りは付いていたが、主人はいなかった。 彼女は部屋の奥に進むと人の気配のない奥の寝室を確かめ、そのまま灯りの漏れる風呂場の扉をノックして開けた。 部屋の主はそこで鏡に向かって髪を切っている最中だった。 チグハグに切られた巻毛の房が床に散らばっている風呂場の鏡の中越しに目だけを来客に向けて声をかけた。

「ネレイデ、久しぶり」

「若様にはご機嫌麗しく……何をなさってらっしゃるんですか」

「散髪中だよ」

「何方かいないのですか。相変わらず、いつも人払いしていらっしゃる。手伝いましょうか」

 ネレイデと呼ばれた女は、イオより一回り弱くらい歳上であろうか。 色気のある丸い頬と綺麗に編み込まれた髪が印象的な女性である。 寡婦の証である地味な暗い色のドレスを着ているが、それが返って彼女の色気を際立たせていた。 彼女は海軍士官の寡婦で今はヴァルドゥの間者をしている。 ネレイデは彼の手からハサミを取ると、手慣れた様子で巻毛を手際良く切り、その間合いに話し始める。  ヴァルドゥ市民が一般にイオを若様と呼ぶのに倣いながらも付き合いの長さからイオの秘密は既に知っていて、風呂場で下着姿になって髪を切っている彼を見ても、特に驚く様子はなかった。

「エスティニアにトゥガリアからの代理が入国しています。 同時にヴァルドゥにも間者が複数入国しているので、お気をつけて下さいね」

「うん」

「トゥガリアの代理というのは、彼方の宰相でもあるラトナイア公女です。 あと、エスティニアの豪商で海賊と癒着している者が、最近よくスール島行きで船を出させているとか……どうかなさいましたか? 何か心配事でも?」

 いつもより静かなイオの様子に、ネレイデがイオの顔を覗き込む。 言いにくそうに沈黙した後、個人的な事だが、と前置きしてイオがポツポツと話し始める。

「キスされたってことは女扱いされたって事だろうか」

 ネレイデは驚いた様子も見せなかった。目元が優しく綻び、静かな口調で聞き返す。

「若様はその方の事はどう思っていらっしゃるの? どう感じられました?」

「分からない。怒っているのかも知れない」

「御自分に?相手に?状況に?」

「全部だな。でも怒ってるって言うのも違う。どうしたら良いんだろ、って感じで」

 短くなった髪をかきあげ、途方に暮れた子供の様な表情を見せる。

「あいつの前だと自分がひどく弱い気がする。いや、実際弱いんだけど」

 ネレイデが微笑んで、乱れたイオの巻毛を手櫛で撫でて整える。

「どうなさりたいですか?」

 コレは初めての質問だ。今までの人生でしたくてしている事はなかった。次々と、しなくてはいけない事をこなしているだけで。 言い淀むイオに、まるで歳の離れた姉か母親の様な表情を浮かべて、ふふっと笑いながらネレイデは言った。

「これから人生で沢山、ご自分で決めなければいけない事が出てきますが、周りの他人から見てベストな決定が、貴方様にとってのベストだとは限らない、とだけ申し上げておきましょうか」

 それは難題だ。 


ゼノスの観光 市内編

「では、今日はトルフの建築物を回って、それからヴァルドゥで一番古いカテドラルへ参りましょう」

 エイダが印のついた市街地図を見せる。ゼノスは旗艦長とマルデイラ伯の説明を思い出しながら地図の印のついた場所を見た。

「公宮広場、別名中央広場は城の前なので、多分ご覧になったかも知れませんね」

「通りすがりに馬車から見ただけです。 見事なモザイク画のある広場ですよね?」

 現地に立って見ると、モザイク画は思った以上に大きく、様々な色のタイルを使うことによって絵をより立体的に見せている。 視覚のトリックを使ったデザインにより、絵をどこから見てもそちらに向かってまるで飛び出して来るかのように見える。

「正面に市庁舎のバルコニーがあって、その正面にヴァルドゥ建国の祖と称えられるオソ王の像があります。像の下、広場の中央に近い所にバラの花のデザインの日時計があります。

 ここでは毎日正午に衛兵の交代式があるのですが、今日は時間的に難しいかも知れません」

「結構です」

「広場の周りの建物の一階は回廊になっていて、回廊の中の通路もモザイク画になっています。こちらのモチーフは、この近辺の海で見られる生き物です」

 回廊の中を歩きながら、エイダが床のモザイク画の説明をする。

「イルカ、タコ、貝、サメなどです。 装飾で覆われた回廊もトルフが得意とした建築デザインです。回廊の柱やアーチに彫られた紋様は、ヴァルドゥの古代の自然神を讃えるために彼がデザインしたものです。カテドラルはアキタニアに併合されてから、彼方の神を祀る様に使われていますが、基本的な建物は古代に作られた時の物の横に、トルフが足した建物のままです」

 つまり、カテドラルは元々、ヴァルドゥの自然神の為の神殿だった訳だ。 ふたりはエイダの侍女を連れて、広場のアーチに施された彫刻を見上げた。 抽象的な紋様だが、幾つかのパターンがある。エイダが手近にある代表的なものについて説明した。

「この三角形が並んだ物は海の波を表しています。あちらの弧を描いたものは風、その中の小さな丸は星々です。大きな円は太陽で、中に影がある円は月です」

 海洋民族の崇拝する、生き生きとした自然神が所狭しと彫られ、美しい紋様を創り出している。

「反対側の、何も彫られていないところは、彫るのを忘れられたのでしょうか?」

「そちらは、凪、風が無いことから、『死』と『死の神』を表しています」

 いきなり出された船医の呼び名、それは彼の本名ではなかったのだろうかと疑問に思い、ゼノスは、彼が死神と呼ばれていたことを思い出した。


ナギ囲まれる

 出港前の慌ただしい時間帯にも関わらず、旗艦長始め主だった面々が医務室のナギに詰め寄っていた。

「おい、ナギ、あいつに何した?」

 あいつというのは、昨日一日中、鉄面皮という無表情を保ったまま海賊船を無慈悲に撃沈しまくり、普段の倍の数の海賊を相手に黙々と仕事をこなしたイオのことだ。いきなり短くなった髪のせいで、逆に後頭部から肩周りの線の細さが露わになり、実は可愛く見えるとナギは思う。 本人は逆の意図でやったのであろうが。 何だか笑える。

 ドアの内外に溢れかえる海軍猛者諸君の凄みを効かせた視線が痛いが、でも誰も武器は持ってはいない。 親父達の剣幕に、ナギも真面目に応えざるを得なかった。

「つい、タガが外れて」

 後ろの一群が目を剥いて一斉に凄みを増す。 親父が溜息を吐いた。

「ナギ、何で旗艦が身持ちの硬い妻子持ち揃いで新米が配属されないか知ってっか」

 そんな決まりは今まで知らなかったがと言いかけたが、何故か納得出来る。

「お前がおっそろしく強くて、イオが気に入ってるから此処では誰も何も言わんが、あいつはコマゴマと女としての訓練受けてないだけ、そこら辺の令嬢より遥かに箱入りで深窓育ちなのは、分かってるよな?」

 それはつい最近気がついた。

「ヴァルドゥのためにソチル様はあの子を俺達に預けられた時から、海ではあの子は男扱いだ」

「それができないなら、この艦、いやこの艦隊全員に殺されるよー」

 のほほんと繋げた水夫長の言葉に、親父は胸の中でひとり呟く。

 ナギも因果な奴、あんな魔性のオトメにわざわざくっついて回って、遂に取込まれたか。

 お気の毒、とばかりに、奴の頭をポンポンと叩いておく。頑張って生き残れよ。

「何だ、あれ?」

 怪訝な顔で、ナギ。

「お疲れ様っていう意味かな。よく息子にやってるの見るけど」

 去り際の航海士が言っているのが聞こえるが、そう言う意味ではない。

『王の様に通え』ナギ!

 女扱いするならば、愛は乞わねばならんのだよ、ナギ! 王の様に通え!

「本当のところ、お前から既に殺気は感じられんが、どうなんだ」

 最後に医務室に残った親父が真面目な顔になってナギにきく。 尋ねられた彼は年齢相応のまだ若い男の顔をした。 考えあぐねるように視線を回して言葉を探す。

「はっきり言って、殺す意欲と毒気はあいつと最初に会ったときに何処かへいった」

「もう死神じゃねぇな」

 ナギは無言のまま、肯定とも否定とも取れるような表情で目を細め。 では、一体何故ここに留まりつづけるのだろうかと自問する。


ゼノスの観光 市内編

 ヴァルドゥの公宮広場から放射状に延びる大通りの中でも一際大きなものが、バラを意味するロッサ通りである。ロッサ通り沿いにはゆったりと歩道が設けられ、その端に一列にバラが植えられていて、一年中色とりどりのバラが咲き乱れ華やかだ。  通りの帰着点はもちろん港であるが、この通りの両側に植物園を擁する公宮公園と公宮劇場がある。どちらも見事なトルフのデザインであった。

「こちらの公宮劇場は、広い前庭と階段を使って、海に浮かぶ古代の船を模していると言われています」

「劇場自体が船の形なんですか」

「ええ、古代の船はやや反った箱型をしていたらしくて」

「この階段が海でしょうか」

「そうです。この、階段の部分に使われている黒い石は夜に松明に反射して光り、キラキラして見えるので、夜の海石、または星空石とも呼ばれています」

 黒い石で磨かれた、緩い階段のある広場の真ん中に、変わった箱型の劇場が建っている。上部のバルコニーは昼間はカフェとして開放しているらしく、パラソルが並んでいる。劇場の入り口は閉まっていた。今日日中の出し物がないためであろう。 夜の公演どきに見てみたいと思ったが、今週、何か出し物はあるのだろうか。

「そういえば、城の正面にも半円劇場がありましたね」

「城のあの部分も古代の遺跡を残したままなのです。あそこも確か、同じ石で出来ているはずです」

 許可を取らねばなるまいが、もっと簡単に夜間に光る石畳を見られるのではないだろうか。ゼノスは冬にヴァルドゥ艦から見た、黒々と混ざり合うアキタニアの夜の海と空を思い出していた。


仕立て屋のマダム・ジュノ

 ロッサ通りの劇場からほど近い一角に、仕立て屋のマダム・ジュノの店がある。 一見して小さい店舗ながらもデザインの良さと機能性、取り扱う布地の質の高さと豊富な種類、抜群に腕の良い針子たちと顧客の秘密を厳守するポリシー等から、ヴァルドゥの貴族やラスイスラス海一帯の豪商からの注文が絶えない繁盛店である。 此処では、お披露目の時まで秘密にしておきたいドレスのデザインや顧客の身体について、そして仮縫い中の私的なお喋りの内容まで、全て機密扱いされる。 顧客は建物中にある個室に別々の入り口から通される為、他の買い物客と顔すら合わせる心配が無いのだ。 

 その一部屋のドアが開き、マダム自らが部屋に入ってきた。 可愛い外見だがチャキチャキと動く姿勢の良いこのマダムは、実は旗艦長こと親父の妻でもある。 通された部屋の中で彼女を待っていた客を嬉しそうに迎える。

「若様! ここに来なくても呼んで下されば、お邸まで参りましたものを」

「ジュノ、ここは帰り道の途中にあるんだよ」

 客のイオが小柄なマダムをひしと抱きしめて挨拶すると、聞くまでもなく名仕立て屋の彼女はこの顧客の来店理由に気が付いた。

「コルセットが合わないのではないですか?」

「さすがだね。 駄目になったのもあるから、幾つか新しく注文しようと思って」

 この顧客のこの注文は、ヴァルドゥ中がほぼ周知の事実だが、一応最高機密扱いである。 よってマダム自らが注文を受け採寸する。 彼が上着、ベスト、そしてコルセットを外して彼女に渡すと下着であるシャツ一枚で採寸出来る姿になり、メジャーを使いながら採寸を始めたマダムが彼女の作品について尋ねる。

「この前の物はどうしました? あれはまだ新しかった筈ですが」

「海賊と戦って脇に矛で穴を空けられたよ。 甘かった。 剣で受けた後そのまま突いてくるとは予想できなくて」

 マダムの眉間に皺が寄る。 若様を少しでも危険な目に晒した彼女の亭主がその場にいたならきっと怒鳴られていただろう。 

「ウエスト横の分厚くなっている部分だったから助かった」

 けれどもし男だったら、死んでいた。 後半は口には出さないが、自身に対する悔しさと腹立たしさは消しようもない。 今度は絶対、躱してやる。もっとさっさと片付けてやる。 目付きが厳しくなった客の採寸をしながら、一方のマダムは全く別の話題に変える。

「胸を潰したままだと形が悪くなるので、夜は外して下さいね」

 いい形をしているのに勿体無いとブツブツと続けながら採寸表に書き込んでいく。 マダムに採寸されながらイオが部屋の壁一面に広がった鏡を見ると、コルセットも上着もないためかひどく脆弱に見える自身の姿がそこにあった。 というより、彼の眼が毎日、海軍の猛者諸君を見慣れている為に、それが比較対象の基準になってしまっているから嫌でも華奢に見えるのだ。 何か言いたげな瞳で鏡に映る自分の姿を見ているイオを見上げながら、付き合いの長いマダムが彼の襟元を正す。

「若様はどんどん美しくおなりなんですから、そんな眼で鏡をご覧になってはいけません。 鏡の女神に怒られますよ」

 これは彼女の口癖だ。 そして、鏡の中に姿勢を正す自分を見る。


ナギ謝罪

 相変わらず、朝からナギに対する海軍猛者諸君の視線が熱く痛い。ジリジリと真夏の日差しの様に焼いてくる。 今日は艦隊は港で補給と修理をしながら待機中で、士官達が会合から帰ってくるのを待ちながら雑用をこなしているので、一日中医務室に篭っているわけにもいかない。 しかし、最近市内を歩いているとトゥガリアの間者らしき者達が何故か頻繁に接触してくるので、小煩くてかなわない。 

 一方の会合では、艦長達とイオが海賊について話していた。

「ところで、エスティニアの豪商が、最近スール島へ通っているらしい」

「癒着先の海賊がいるかも知れないですね」

「近くの島で機会を待ちましょうか」

「エスティニアの海賊が狙うのなら、ヴァルドゥ関連の商船だ。だったら商船の通過予定表を見て……」

 いろいろ作戦を練りながら必要な武器や装備を計上し、エスティニア近海まで遠征に行く計画を進めて行く。

「ソチル様は何と仰っておいでですか」

「法とエスティニアとの協定に適っていたら、任せるそうだ」

 やりましょう、と一堂お互いの顔を見回して合意し、細かい作戦をたてて会議を終わる。

 その後、イオが旗艦に戻って艦内の私室に入るなり、そこで待っていたらしいナギが挨拶も前置きも無しで、いきなり謝罪の言葉を口にした。 何か謝るべきことをしたという自覚が本当にあるのだろうかは、その顔を見る限りでは疑問だが。

「悪かった」

「……」

 雰囲気が気まずくなる前に、イオがコクコクと頷いて謝罪を受け入れる。 もともと、怒りや不機嫌を持続するのは難しい性格だ。 彼が何か返す言葉を探そうとしていると、続けて何か言おうとしてカウチに腰掛けたまま、向かいの床に置かれた故郷の楽器に視線を落としたままのナギがぽつぽつと話し始めた。

「一つ言っておきたい。 初めて会った時から俺にとってお前は女だ。 だから会ったあの時にお前を殺さなかった。 男だったら斬っていた。 ただ、親父達の手前、この前のあれは悪かったと思っている」

 ナギの言葉に、頭の中が混乱して心の中が動揺して、奈落の中に落ちてゆくような不安定さをイオは目眩と共に感じていた。 今、なんと言われたのか直ぐには理解出来なかった。 集中して彼に言われた言葉をそのまま思い出そうとしたが、それも出来なかった。 適当な返事や相槌も思いつかない。 この話題を掘り下げて、更に何か聞きたくない事を言われるのも避けたかった。 そう言う時は、あまり良い方法では無いという自覚はあるが、その妙な気分に蓋をして考えるのを後回しにする。 

 暫くの気まずい沈黙。 そして静寂の後、そういえば、と沈黙を破ったのはイオの方だった。これはお前の勝手だけど、と更に前置きする。

「帰る約束した人がいるなら、居場所があって忘れられないうちに帰った方が良いよ」

「何でだ」

「何となく、そう思って」

 いきなり何の話だ、とナギは話の出所を疑問に思う。 最近、接触してきた複数の間者からラトナイアの話を聞かされたばかりだというのに。 どこから思いついた話なのか訊ねるまでもなく、イオが続ける。

「……と言いたいところだけど、トゥガリアとエスティニア間がが活発だって、うちの間者から聞いて。 ヴァルドゥにも間者が入ってきている。 また戦になったとして、お前、ヴァルドゥに居たら殺されるだろう。 例え敵味方になっても、お前には生き延びてほしいから」

 此処にいなくても、例えもう会うことが無くても、この世の何処かで生きていてほしい。


ゼノスの観光

 一行はロッサ通りの反対側にある公宮公園へと進む。 ゼノスはエイダの足の心配をした。令嬢とは本来、あまり歩かないものだろう。

「大丈夫です。私、歩くのは好きなので」

 隣の侍女も無言で頷いている事から、気を遣って言っているわけではなく本当なのだろうと、ゆるゆると歩く速度を落とす。 天気は良く、外を散歩するには良い日である。公園はきれいに整備されており、中央の噴水の周りには薔薇の花壇とベンチが並び、外側の遊歩道沿いには大きな木が植えられ、涼しげな日陰を作っている。公園の奥にはガラス張りの温室が見えた。アキタニアの王城にある、ソチルが作らせた温室によく似ている。 そう言うと、エイダはふふふと可笑しそうに笑った。

「昔、お兄様達が小さかった頃、アキタニアに行きたくなくて、屋敷から家出して隠れていたのが此処なのです。あのふたりったら」

 今でもそうです、と思ったゼノスだが、一応、大人なので口には出さなかった。 小さな王子ふたりが家出とは、その時のヴァルドゥ中の混乱ぶりを想像し、つられて笑い出しそうになるのを堪える。

「おふたりとも、故郷を離れてお辛かったでしょうね」

「私はヴァルドゥから出たことがないので、羨ましいですけれど」

 色とりどりのバラの花を見ながらその香りを楽しむエイダを見ながらゼノスは彼女を近くのベンチへ誘った。 休憩には良いタイミングである。

「ボナディ (こんにちは) ドゥエラディータ ポルファルヴォ(アイスクリームを2つ、お願いします)」

 ゼノスが水夫から習った片言のヴァルドゥ語を駆使して、公園内のカフェでアイスクリームを買ってみる。 簡単な買い物などは、片言でも店員も心得たもので意外と通じるものだ。 種類が色々あるが、そこまでヴァルドゥ語の語彙力はない。 仕方がないので、欲しいものを指さして注文する。 幸い、春先なのでまだそんなにアイスクリームの種類は多くなかった。 待っている間に後ろを振り返ると、ベンチで嬉しそうな顔で待っている彼女と目が合った。 彼女の白いパラソルが周りの緑に映え、彼女自身がバラの花束のようだ。

「ヴァルドゥ語が話せるとは存じませんでした」

 話すほどではないです、と謙遜する。

「私のアキタニア語は変ではございませんか? 教師から習った以外に使うことが殆どなくて。 私にとっては外国語です」

「全く気が付きませんでした。 私もそのくらいヴァルドゥ語が出来たら良いのですが」

 家庭教師だけだという彼女の語学力に感嘆の言葉を述べると、エイダはそんなことはございません、と言った後で嬉しそうな笑顔になった。

「申し遅れましたわ。 此処のアイスクリームはヴァルドゥで一番と有名ですの」

 ゼノスは、イチゴのアイスクリームを受け取りながら微笑む彼女に見惚れている自分に気が付いた。 どうやら、観光どころじゃないです。


エイダの視点から その1

 初めの方は、来客の相手は慣れないこともあり緊張して案内業務に徹していたエイダだが、数日ゼノスと外出して少々の慣れを感じていた。 あの兄と友人をやっていられる人ならば、細かい事は気にしない性格であろうと判断して、実は心配性な自分の小さな勇気を鼓舞する。 生来、自分はやや内向的だと自認しているので、例えばリリアのような社交術を求められてもどうしようも無い。 よくジオが言ってくれたことを思い出す。 

『そのままのエイダで大丈夫だから、やってごらん』

 ふと目を上げると、公園のベンチでアイスクリームを食べるゼノスと目が合った。

「ヴァルドゥのアイスクリームはお口に合いますでしょうか?」

「さっぱりしていて美味しいですね。 食べ過ぎに注意する必要があります」

 彼にはもっとこってりしている方が、食べ慣れていていいのかもしれない、と一瞬浮かんだ否定的な考えに心の中で愕然とする。 考え過ぎない事だ。多分、彼の言葉に裏の意味は無い筈だと考える。 ゼノスが機嫌良く微笑みを浮かべて公園内の景色を見ているのをみて、彼に気がつかれない様に、ちらりとゼノスを観察する。 アキタニアの紳士は、ヴァルドゥの紳士と違って随分と洗練されて見え、と同時に今日の自分の格好が野暮ったいうえに恐ろしく田舎臭く見えてきた。 このドレスを選ぶために昨晩と今朝も朝早くから侍女とクローゼット中の新しい春物をひっくりかえしたのだけれど、無駄な努力だったのであろうか。 今まで余り気にしたこともなかったが、今時のアキタニアの令嬢達の間では、どんなモードが流行っているのかが気になってくる。 再び自己嫌悪が襲ってきて、エイダはまるで呪文の様にジオの言葉を心の中で自分に唱えた。 普段はそうでも無いのに、何故、今こんなに考え過ぎて不安になるのだろう。


 夜遅くにふと人の気配がして、イオが私室の扉の方角を振り返ると、いつからそこに居たのかナギが遠出用の服装で立っていた。 剣も鞄も、既に用意済みだ。

「行くのか?」

 今からとか何処にとか余分な事は一切聞かない。 ただ、此処からいなくなるだけ。

 無言で頷いたナギだったが、義理堅く一言だけ挨拶代わりに報告する。

「親父には断りを入れておいた」

 そのまま床の荷物を取って去ろうとするナギに歩み寄りながら、自身の胸元に掛かっていたペンダントを外して、ナギの首にストンと掛ける。 鎖に下がった小さな黄金のコンパス🧭の針が衝撃で回る。

「お前が迷わず行くべき道を辿れるように」

 一瞬合った眼が穏やかに微笑みを浮かべる。 淡い青灰色の瞳を、多分忘れないだろう。 そして一転して力強い声で、短く、名残を惜しむ気持ちを断ち切る。

「行け」

 ナギはふわりと微笑むといつもどおり、まるで夜行性の獣の様にするりと夜の闇に消えていった。


ゼノスの観光 カテドラルから港へ

 カテドラルは古代の神殿とトルフの作品の見事な融合だった。 シンプルでダイナミックなデザインの神殿は、古代にこの地に住んでいた人々の、神々への畏怖と信仰のエネルギーを感じさせた。その力強い美しさを損なわない様に、トルフのカテドラルは同様の単調なパターンをを繰り返すことで、陽の光によるグラデーションを壁に映し、それが荘厳さを出していた。多文化国家であるヴァルドゥに相応しい建築物である。

「まだ時間がありますから、このまま港まで下りましょうか?」

 エイダに言われて、一行は港へとロッサ通りを下った。 漁港の前に魚市場と、その東のマルデイラ島が見えるエリアに、検疫待ちで船が延泊中に物資や食料を調達できる船用のドライブスルーがある。カゴに物資を入れて、長い渡し板の上を滑らせて受け渡しするんですの、と彼女が説明した通りの光景である。検疫中は船の乗員は陸に上がれない為、食べ物などの買い物はこのドライブスルーまたは付近の水上マーケットを利用するらしい。必要は発明の何とやらで、いろいろと便利なシステムが発達している。

「そういえば、女性から見てどう言った土産物が有名なのでしょうか」

「細工物、ワイン、ドライフルーツ、ナッツを使った焼き菓子、いろいろございますけど、受け取られる方の好みもございますし」

「妹になのですが」

「妹君がいらっしゃいますの?」

「ええ、この旅の後の春の社交シーズンにでも、王都に連れて行く約束をしていて」

 エイダの表情が思案げになる。

「私も行ったら、妹君とお友達になれるかしら」

「ええ、妹も喜ぶでしょう」

 エイダと妹のマイラが一緒のところを想像してみる。 何だか不思議な取り合わせであるが、お互いマイペースで年齢も同じくらいだし、合うのかもしれない。 エイダは母であるソチル皇太后に旅行の許可を得る前なので、あまり気安い約束はしない方が良いであろう。

「妹君用でしたら、アズーロ通りにある香水店、同じ区画にあるアクセサリー店のリボンやバッグ、手袋、あと、トルフのデザインを使ったアクセサリーなどでしょうか」

 エイダが折り畳まれた地図を広げてゼノスに示す。アズーロ通りはちょうどそこから城に戻る途中にあった。 帰り道にそれらの店に立ち寄ることにして、一行は待たせてあった馬車に乗り込んだ。


親父との対話

 死神がヴァルドゥから居なくなって数日経つ。 変わったことと言えば、マルデイラ島駐在艦に居た船医が旗艦に移って来たくらいだ。 イオに至ってはそんな奴が居たことすら無かったくらい、変化が無い。 親父こと旗艦長は、小さい頃のイオの泣き虫だった姿を思い出す。 あれから数年、こいつは異様に感情を隠すのが上手くなった。 貴族としての訓練の賜物でもあるが、こいつの場合は艦隊を率いる上でのサバイバルスキルでもある。

 いつもながらの海賊戦の後の帰還中の艦内で、様子でも見てみるかと足を艦橋近くのイオの部屋へと向ける。 開いたままのドアから中を覗くと、彼は白兵戦後に手についた返り血を洗い落としているところだった。 改まった顔の親父の方を見て笑顔で椅子を勧める。

「今ちょっと話せるか」

 さり気無く業務報告でもするかのように切り出した。 育てたのも同然の長年の付き合いだが、旗艦長に息子はいても娘はいない。 会話がどう流れてゆくのか全く予想も出来なかった。

「ナギが居なくなって 普通の顔をしているがどうよ?」

「どうって普通、どうもないよ」

 とりつくしまもない。 会話の糸口を探して色々考えている親父に、思案顔になったイオが聞き返した。

「親父、俺ってもう男には見えないかな? もう無理があるかな」

 八つ当たりのようなものであるが、親父の内心で、タガが外れて何かしたナギに対する怒りが爆発する。 そして色々と言葉を探した挙句、ストレートな表現を選ぶことにした。 言い難いことこの上ないが、そろそろかと思っていた話題だ。 言い難さからか、言葉遣いを改める。

「貴公子として通せるって事なら、ここ数年が目処かと。 貴方は背が高いから一見は誤魔化していられるけど髭はないし、体型と体格が同年代の野郎どもとは違ってきている。 成長途中の子供と言って通用するのも、もうすぐ終わるでしょうな」

 第三者にハッキリ言われると現実を認めざるを得なくなる。

「そうだよね」

 あっさりとした返事の後に、親父がどきりとするような言葉が並ぶ。

「そろそろ引退して隠遁するというのはどうかな? 誰か代役を立てて」

 やはり此奴なりに色々考えてはいたんだな思うと親父は悲しくなった。 一番波風立てない方向へと持っていきたいイオの気持ちは分かるがしかし、ヴァルドゥにはまだまだ彼が必要だし、彼はそのまま静かに隠遁生活を送るタイプでも無い。

「艦隊の皆が納得しないでしょうな。 貴方の留守に私が指揮していても、彼らの士気が違います。 貴方が小さな子供だった時から一人前であろうとした事は皆見てきています。 

 海軍の予算をもぎ取ってくるのも、新型艦の研究を進めるのも、水兵の生活水準を上げたのも、ルドラ戦の提督も貴方です。 貴方が引退したなら多分ヴァルドゥ海軍に大量の退職者が出るでしょうよ」

 合わせたかのようにふたりで盛大な溜息を吐く。 親父がイオの方を振り返った。

「ご家族、ソチル様とジオ陛下は如何お考えですか?」

「ふたりと話をしなくてはいけないね」

 悪い癖だと分かっているが、また逃げる事を考えていた自分を戒める。 一体何が自分にとっての、そして周りにとっての最善策なのだろうか。 それすら分からない。


エイダの視点から その2

「アキタニアではどの様な花が見られますか?」

 またくよくよ考え過ぎる前に会話をしようと、エイダは公園の花を見ているゼノスに尋ねる。

「私の所はまだ雪が積もっていますが、もうそろそろ春が来る頃でしょうか。春になると林檎の花がきれいです。 こちらのアーモンドの花にも似ていますね。 エイダ様はどんな花がお好きですか?」

 好きな花を尋ねられて、エイダの心臓は跳ね上がった。 多分、好きな色を訊かれても、好きなアイスクリームフレーバーを訊かれても、同じ様な反応であっただろう。 私はどんな花が好きだっただろうかと思い出そうとした。

「私ですか? 私は……」

 花には意味がある。そしてこれは彼は私に私の好きな花を贈りたいと言う意味だろうかと考えて、その浅はかな考えを打ち消した。 彼は兄の友人で、これはロマンチックなデートでは無いし、アキタニアの令嬢達に比べたら自身は取るに足りないものであろう。

「其々の季節の花が好きです。 季節的には春の花が一番です」

 しまった、これでは淑女マナーの教師から及第点すら貰えないくらい酷い答えだわ。 ええと、この場合どんな花が好きと答えるのが良いのかしらと答えを探しながらエイダはベンチの横の花壇に視線を移した。 頭の中は花の名前の嵐、でも取り繕った余裕の微笑みを浮かべて春バラの薫りを楽しんでいるフリをする。 ゼノスが微笑みながら此方を見ていて、花の名前は出て来ないけれど、彼の笑顔と共にあったバラの香りをそっと胸の奥深くにしまい込んだ。


ナギとラトナイアの無表情対決

 ナギがヴァルドゥを去って数週間後。 場所はヴァルドゥから東へ、海を超えたエスティニア。トゥガリアの国王代理でこの地を訪れている宰相、ラトナイアは来客を告げる侍女へと手短に伝えた。

「会うわ。 トゥガリア近衛騎士団長、そして私の親戚よ。 彼にも部屋を用意して頂戴」

 部屋に通される来客を迎えるために立ち上がる。 トゥガリアの衣装の流れるように直線的なラインと細かな襞がまるで流れる水のように彼女の足元に広がる。 その理知的な美貌も相まって、親しみやすさは微塵も感じさせない。 その外見からは年齢すらも推し量れなかった。

 入ってきた客は臆する事なく部屋の中に進むと、ラトナイアに挨拶した。 ナギである。着替えたのか、トゥガリアの服がよく似合っている。

「宰相閣下にはご機嫌も麗しく。お久しぶりです、大叔母上」

「パシャ、その呼び方は止めて欲しいけど、よく来てくれたわ。 待っていたの」

 大叔母との呼びかけに、眉間に微かに皺を寄せて不快感を表し、ラトナイアはナギを家族しか使わない愛称で呼んで嗜めると椅子に座って両手を組む。

 2人は、容姿も立居振る舞いもかなり似ていた。 どちらも大柄で堂々としており、あまり感情を表情に出さず、そして人の目を引く何かがある。

「貴方、休暇を取って何故かヴァルドゥで船医をしているって聞いたのだけれど」

 ちらりとナギの方を見ながら唐突に、ラトナイアが疑わしそうな顔で話しだす。 ああ、と気が付いたようにナギが説明した。

「私の従騎士はもとは騎士団の医師だったので。 私が彼に習ったことの方が多い」

「貴方は家族の復讐しに行ったと思っていたけど」

「そのつもりだ」

 つもりだった、と自嘲する。 しかし、ラトナイアが彼の返事を気にする様子はなかった。

「そう。ヒユロサキの貴方の家は貴方のすぐ上のお兄様が継いだわ。近衛騎士団の士気は相変わらず貴方がいなくなってから総崩れで、貴方には早く戻って来て貰いたいのだけど」

 答えられる言葉は無かった。 それ以前に、一体、俺はトゥガリアに帰るのだろうかと考える。 


ゼノスの観光  ミラベイ洞窟  

 南とはいえ、まだ朝の空気は冷たい。 ゼノス達一行は、今日は西の海岸沿いにある、ミラベイ洞窟内に広がる海を見る予定だ。 東側と比べ、西の海岸線はアキタニアとヴァルドゥを隔てている山脈がそのまま断崖になって海に落ち込み、荒々しい景観を創り上げている。 その絶壁の中に、海流の侵食により出来た大きな洞窟がある。 満ち潮の時間帯には入ることが出来ないが、今は見学するのにちょうど良い頃らしい。  海側からも行くことが出来るが、今日は船酔いするエイダのために、陸から入れるコースを選んだ。  町外れの西区にある入り口に馬車を待たせて、そこから整備されたトンネル内を暫く歩いてゆく。 整備されているとはいえ、薄暗い洞窟内の岩場の中で、しかも階段が多い通路である。 エイダは片手をゼノスに預け、もう一方の手で心持ちドレスの裾を引きながらそれでも楽しそうに歩いている。 

「私、少しゆっくり過ぎるかしら。もう少し早く歩いても構わないですけれど」

 今日は此処しか見る予定は入れていないので、ゼノスとしてはもっとゆっくり歩いても構わなかった。エイダは午後から忙しいのだろうかと思ったが、彼女を一日中付き合わせるようで悪く、口には出さなかった。 自身の思いがけない独占欲に、内心驚いていた。

「足場が悪いので、無理なさらないで下さい」

 進むに連れて岩の階段は徐々に段差が激しくなり、通路は入ってくる海水で濡れて滑りやすそうだ。 エイダの指先を取るゼノスの手に思わず力が入った。

 そのまま、更にゆっくりと進んでゆくと、目の前に岩の中に自然の力によって作られた広間のような空間が開けた。 その下の、洞窟の中は内海になるため波も穏やかだ。 波が規則的に近くの岩場に当たり、見ていると気持ちが落ち着いてくる。天井にあたる岩の隙間から差す太陽の光が水面に、そしてそれが岩肌にゆらゆらと反射して、洞窟内の海面と岩肌が幻想的な浅い緑色にみえる。

「この色、私は密かにイオの瞳色って呼んでいます」

 確かにこんな色だった。エイダの言葉に、年末にダーショアの旅籠で初めて近くでイオに会った時のことを思い出す。  彼処での出会いが無ければ、彼は今日此処に居るはずもない。 隣で洞窟の説明を続けるエイダを見ながら、ゼノスはいろいろと重なる良い偶然に心の中で感謝した。


海賊戦@エスティニア

 数日かけてエスティニア近海のスール島近くまでやってきたヴァルドゥの艦隊は、囮の巨大商船を使って海賊を誘き寄せる作戦を展開していた。 近くの島々の港で羽振りよく買い物を繰り返して、金の唸る豪商ぶりを演出してまわっている。 親父の熟練の演技指導で、士官や水兵はいかにもな豪商やその秘書の役を楽しんでいる。 

「もっと商人に成り切ってやれ」

「アイサー、じゃ無かった、やってるつもりです」

「『商人』の役だ、悪徳商人じゃあない」

 厳しい演技指導に、周囲の水兵からどっと笑いが起こる。

 何日も近場で大きな買い物をして、船の情報が海賊に届くのを待つ。 海賊の動きは予想より遥かに早かった。 囮の巨大商船がゆらりゆらりとスール島近くの海原を進む内に、出てきた海賊船団にあっという間に囲まれる。 殆どは小型船だが、一隻は大きい。 巨大商船のマストで見張りをしていた水兵が甲板に向かって、海賊船の出てきた方向を知らせ、それを信号手が島陰に隠れている一部の艦隊へ伝える。 そして商船はいきなり帆を上げ、急接近したヴァルドゥ艦隊と共に砲撃しながら海賊船団を取り囲む。 囮の商船の甲板も水兵だらけだ。 海賊が出るだけ出た後の根城へは、もう一群の艦隊が急襲する。 海賊船団が囲まれたのと根城が急襲されたのは、ほぼ同時だった。 お互いに助けの呼びようもない。 根城では慌てて逃げようとした残りの海賊とエスティニア商人らしき人たちが最後の悪あがきの最中であった。 火を付けて証拠を消される前に必要なものを回収せねばならない。

「証拠品も押収しろ」

「盗品を見つけろ」

「出来るだけ生捕りにしろ」

 艦長達が檄を飛ばし、兵士たちがなだれ込む。 隙をつかれた残留組の海賊は戦い、悪事の最中に見つかった商人やエスティニアの役人は捕らえられて泣き叫ぶ声が煩く響き渡る。

 戦いの後はいつも通りに怪我人や艦の破損状態を確認しながら、全ての艦がスール島に集まった。 一堂が見守る中、海賊船を前に全体の艦隊指揮をしていたイオが親父と眴して表情を変えぬまま、さらりと命令する。

「全員海賊船のマストに吊るせ。メインマストで足りなかったらフォアとミズンも使え」

 エスティニア商人や役人達は震え上がった。 吊るすとは、海賊の処刑方法である絞首刑の事だ。 自分は海賊に誘拐された被害者だと叫び出す者もいる。

「エスティニア人の人質? 捜索願は出ていないし、自前の船でスール島まで来ている者もいる。 海賊は裁判無しで絞首刑が普通だし、海賊船はエスティニア側へ曳航する」

「取りこぼしもいるでしょうな」

 3号艦艦長も、付け足す。

「更に近海を捜索しないと」

 そして悲鳴を上げ続けるエスティニアの商人に向かって諭すように続けた。

「トゥガリアが来ている前では、エスティニア王もお前達を庇い立て出来まいよ。 いずれにせよ同じ運命だ」


ゼノスの観光 エイダの事業

 ミラベイ洞窟の帰り道、馬車は西区の海岸通りを通過した。 治安の良くない区域らしく、窓の外には救済院や慈善院の看板が並ぶ。 エイダの視線が窓の外の通りを確かめ、ひどく真面目な顔でゼノスを振り返った。

「申し訳ございませんが、立ち寄りたいところがございますの。少々お待たせしても宜しいでしょうか?」

 ゼノスは頷いたが、行き先の見当もつかなかった。馬車は慣れた様子で寂れた道を進んでゆく。やがて如何にも町外れといった感じの地に入った。 旅芸人のテント小屋が並ぶエリアである。 特定の居住地を持たない彼らはこういった地に一時的に滞在する。しかし、中には民族的に繋がりのある土地を持たず、生涯、そしていく世代にも渡って移動し続ける人々もいる。 エイダが向かうのは、その中の族長のテントだった。 ふたりが馬車を降りる前に、御者が2人の貴重品を預かり、馬車の中の引き出しに入れ鍵をかける。 持ったまま出ると、子供達がすり取るのだ。 文化的に個人所有財産の意識が無い為、彼らにとってお金や物がある人から無い人へと移動するのは自然の摂理で、悪気は無い。

「お気をつけて行っていらっしゃいませ」

「直ぐに戻ります」

 既に顔見知りらしく、子供達がエイダの近くに寄って来るが、族長が出てきて一喝する。 

 エイダが空き地で遊ぶ子供達を見ながら説明する。

「ここの方の多くは、芸を見せることで生計を立てていますし、定住する文化を持ちません。ですから一般市民と生活面で相容れない事が多く、差別されてこの様な町外れにしか来れず、治安も悪くなって来るという悪循環が生まれます。 そして中には定住したいけれどどうしていいかわからない方もいらっしゃいます。そういう方に半分、定住生活を試してみる場を提供して、もう一方でヴァルドゥ市民が此処で彼らの芸術を楽しめる場を設けるプロジェクトなのです。彼らの生活と治安の悪さの悪いサイクルを断ち切るのが目的です」

 焚き火の周りで楽器や歌に合わせて楽しそうに踊るグループがいる。アキタニアでは聴かれない情熱的かつもの哀しげなメロディだ。 女が長いスカートを閃かせながらステップを踏み、周りでリズムを取っている人たちから合いの手が入り、それに応える様に舞手が新たなステップを踏む。 その場に生まれる陶酔と興奮、そしてそれらを煽り続けるリズム。 空気が振動している様だ。 慣れたもので、近くにいた子供も舞手に加わってステップを踏んで見せる。既に一人前の貫禄である。

 しばしの間、ゼノスは踊りに見とれていた。 聞いたことのないリズムと人々の熱気に酔いそうだった。 頬に当たる焚き火の熱が頭をぼーっとさせる。 

 エイダは族長やリーダー達に挨拶をしながら一言二言言葉を交わし、馬車の方へと戻った。 「お待たせしました。お客様の観光には相応しくないかとも考えたのですが、立ち寄るついでがあれば出来るだけ顔を出しておきたくて」

 慈善事業は貴族の、特に女性の仕事だが、多くは暇潰しで本人は殆ど何もせずに代理人を立てて終わりである。 感心しているゼノスに、エイダが謙遜の笑みを浮かべた。

「イオやジオみたいに大きなことは出来ませんが、小さなことをコツコツするのは私の性に合っている様です」

 わかります同感です、と心の中で頷くゼノス。 自身の好奇心は自分で出来る範疇から出ることは無いが、エイダの行動は何と自然にその心地良い安心な殻から出て、人を助ける為に役立てるのかと感心と尊敬の眼差しを向ける。


海賊曳航@エスティニア

 ヴァルドゥの艦隊はラスイスラス海の公海を通る商船ルートを非常にゆっくりとした速度で見せしめの海賊船を曳航しながらエスティニアへ向かっていた。 春先の暖かい風に死体に集るハエと汚物と血の匂いの三重奏が重なり、風下の海賊船を遠目に見ても凄まじい有様である。 これでエスティニアの海賊も癒着していた商人も暫くの間、大人しくなるだろう。 取りこぼしを探索するまでもなく、スール島での一件が早くもエスティニアに伝わっていると見えて、待っていたかの様にエスティニアの巡視艦が近づいて来る。 簡単に状況を説明し、既に用のない海賊船と証拠品を引き渡す。 

 その後、ヴァルドゥ艦隊はスール島付近に戻り、その近海で逃げた海賊を捜索していたところ、エスティニア王の使者を乗せた船が近付いて来るのがみえた。 王の使者は、近くのエスティニアの港へアキタニア王弟殿下とそのヴァルドゥ艦を招待する旨を伝える。 エスティニアに害をもたらしていた海賊討伐の件で、ちょうど港に出向いている王が直接御礼とアキタニア王への親書を手渡ししたいとのことである。

「罠ですな」

「トゥガリアの使者の差し金かも」

 エスティニアにとって海賊討伐は有り難い訳はない。 トゥガリアにとっては都合が良いであろうが。 ヴァルドゥ士官の中で思惑が交錯したが、指定されたエスティニアの港はスール島からも近く、理由をつけて断るのも不自然だった。 軍の艦隊が表向きにしろ敵意のない他国へ向かうのは失礼なため、ヴァルドゥ艦隊は旗艦のみエスティニアの港へと向かい、残りの艦隊はスール島で待つ事になった。

 指定されたエスティニアの港街は、この国の都、デステに程近く歴史の佇まいを残した美しい街であった。 ヴァルドゥに似ているが、山がなく横に広がる景色がここは大陸の一部であると言わんばかりである。 

「イオ、エゼを呼んで代役を立てるか?」

 親父が珍しく真面目な顔をして訊いてくる。 エゼことエゼキェルは小さい頃からのイオの代役、身代わりである。 

「いや、見ろ、王の隣にローナンが居る。 首実験するつもりだ」

 望遠鏡で港を見ているイオが、王の隣に見知った歌手を見つける。 アキタニア王城で面識のあるローナンに、王弟の本人確認をさせるつもりなのだ。 石畳に敷かれたカーペットの上に派手なエスティニアの衣装を着て天幕の前に立つエスティニア王とローナンは、まるで飾り立てた歌劇の主役のように見えた。 その脇に仰々しく衛兵が並んでいる。 

「マストに狙撃兵を待機させておけ」

「全て配置済みです」

 帽子を被り直して襟元を正すと、イオは旗艦から小型の船に乗り移り、港へと移動した。 艦が大きいのと港が小さく水深が浅いので、直接接舷出来ないのだ。 もし、トゥガリアの直接支配が強まれば、トゥガリアがここを開拓整備して、巨大な軍港を整備するだろうな等と彼は呑気に考えながら下船し、敷かれたカーペットの上を進む。 場違いに聞こえるファンファーレに続いてエスティニアの楽隊が音楽を奏で、ローナンが笑みを浮かべながら近寄って来た。

「王弟殿下、お久しぶりです」

「今日は貴方の美しい歌声を聴かせては貰えないのかな」

「光栄でございます。また、アキタニアへ呼んで頂けますか」

「勿論だとも。 アキタニアもヴァルドゥも、いつでも芸術家を歓迎するよ」

 手を取ったまま離さないローナンの手をゆっくりと押し戻し、正面のエスティニア王と向き合い、優雅に礼をして王の言葉を待つ。 お辞儀の最中に、エスティニア王の背後の天幕の中で、見知った顔がこちらを見ながら前の女性に耳打ちしているのが見えた。 彼女が着ているのはエスティニアの衣装ではない、ということはトゥガリア人か。 既知の間柄らしい。 見知った顔を敵陣で見て、動揺も痛みも驚きも感じなかった自身が意外だが、まぁ、そういうものかもしれない。

 天幕の中にはラトナイアが座り、その後ろにナギが控えて立っていた。 エスティニア王と挨拶しているイオの姿を見て、ラトナイアが小さく驚きの声を上げる。

「あれがヴァルドゥの悪魔? 随分と可愛いのね。 噂で聞いていたのと随分違うわ」

 そうだろう、とナギはラトナイアに同意する。 トゥガリアでのヴァルドゥの悪魔の人物像は、歴戦の覇者である偉丈夫な初老の海軍提督である。 どちらかと言うと、アキタニアのカレン公の方が噂のイメージ的には近い。 

「最近代替わりしたのかしら?」

「いや、ルドラの海戦の立役者も、目の前の奴だ」

 ラトナイアの反応を試す様に視線を前へと流す。 相変わらず、彼女の表情を読むことは難しい。 しかしその沈黙から、彼女の頭の中で何かヴァルドゥに対する考えが変化しつつあることが感じられた。


 ヴァルドゥ旗艦の親父と水夫長は、甲板から其々の望遠鏡で港でのやり取りを見ていた。

 親父が静かに、凄みの効いた声で命令する。 他の乗務員も慣れた物だ。

「下の奴らに用意させとけよ」

「既に万端で、出番を待ってます」

 望遠鏡に目を当てたまま、水夫長が相変わらず間の抜けた口調で言う。

「相変わらずうちのボスは銃口が狙ってる中でも平気な顔して出ていきますね」

「立場上やるしかないだろ」

 諦めた様な口調で、親父が返しながら思う。違う、彼はどちらかというと、こういう意味での死を恐れていない。寧ろ、待っている感がある。 最たるものがあの死神だ。 居なくなって良かった、良かった、とのイオの父親目線での考えは、水夫長の声で何処かに行った。

「おい、後ろの天幕にナギがいる」

 居なくなったんじゃなかったのかと苦々しく思いながら、親父は望遠鏡を覗き直す。

「あの服はトゥガリアのだ。 ということは奴の前にいる女が宰相か」

 旗艦長は、イオが初めてナギを艦に連れて来た時のことを思い出しながら、吉凶入り混じった感覚を持て余していた。 確かこういうのを言い表す言葉があったよな、と考えていた矢先に、隣の水夫長が何かぶつぶつと呟いているのが聞こえた。

 それだ。ナギ、お前はヴァルドゥとイオにとって、鬼と出るか、蛇と出るか。


ゼノスの観光 ショッピング編

 今日はゼノスはひとりでヴァルドゥ市街へと買い物に来ている。 エイダは今日は公務で忙しく、都合がつかない事をひどく残念がっていた。 彼女がくれた地図を見ながら、借りた馬でひとりで気ままに出歩くのは、気を使わなくて良い反面、少々緊張する。 既にヴァルドゥの城下町はかなり安全な地域であることは体感していたが、ここはアキタニア人にすればほぼ外国で、言葉も文化も違うのだ。 一人歩き自体が冒険である。

 遠出しているイオに借りた彼の馬は、馬上で寝ても黙って屋敷に帰り着くよと言われた通り市街路を行くのに慣れているようで、最低限の方向さえ指示を出せば手綱を引き続ける必要もない。 主人をサポートできる、出来た馬である。 屋敷の裏門を出て通りを右に出て屋敷の区画を過ぎるとそれは、大通りであるヴェル通りへと面している。

「ボナディ(こんにちは)」

「ボナディ」

 道行く人たちが気軽に挨拶をしてくる。 珍しいアキタニアからの客人はあちこちで注目の的であった。 たまに胡乱な目付きをした人が近寄って来たが、馬具に付いている羽根の意匠の紋を見て、何か思う所があるらしく去っていった。 徐々にゼノスも慣れて来て、簡単な会話を楽しみながら、通りの両側にある店をみてまわれるようになった。 高級そうな店の店員は流暢に商売用のアキタニア語を話し、品物を見せるために熱心にゼノスを店内に招き入れようととする。 皮革小物やポーチなどの雑貨店、レースや布地、ボタンなどを扱いながらオーダーを受ける仕立て屋、帽子店など、店舗は小さいながらも質の良いものが揃っている。 近隣の国からの輸入品も多く、アキタニアでは見ることのない珍しい物も多かった。 アキタニアでの普段の買い物は、ほぼハルトか執事任せであるが、ここでは見るものが珍しく、見て回るのが楽しかった。 地味な好奇心のある男である。

 ヴェル通りを数区画南へ降り、ブラン街路を更に東側へ入ると、その奥にアズーロ通りがある。 アズーロ地区とも呼ばれるそこはヴァルドゥで最も洒落た地区で、そこは建物全てがきれいな装飾的な紋様で飾られ、統一された高級感を醸し出している。 石畳もこの地区は滑らかに磨かれた星夜石で敷かれており、これなら令嬢が馬車を降りて歩いてもシルク生地の靴が汚れる心配は無い。

 ゼノスはエイダに教えて貰った香水店を見つけて扉を開けた。 小さいながらもアズーロ地区随一の目抜き通りにある店は、繁盛しているらしく隅々まできれいに磨かれて手入れが行き届いている。 天井には青空を飛ぶ鳥たちが描かれ、壁側に並んだ棚に香水瓶が並び、店内には至る所に観葉植物の鉢が飾られ、まるで郊外の野原にいるかの様な陰を店内に落としている。

「いらっしゃいませ」

 慣れたアキタニア語の口調で店員が声を掛けてくる。 流石にこの地区の店員のアキタニア語は流暢で、身なりも振る舞いも洗練されていた。

「ボナディ」

 ゼノスの如何にもアキタニア人な佇まいと口から出たヴァルドゥ語に、店員はにっこりと親しみのある笑みを浮かべた。

「何方か素敵な方に贈り物でもお探しでしょうか?」

 真っ先に、受け取られる方の好みもございますし、と言ったエイダの顔を思い出すゼノスであった。


睨み合い

 エスティニア王は口元では微笑みを浮かべながらも、目が別の感情を物語っていた。

「海賊船のマストの飾りは気に入って頂けたかな」

 気に入る訳がない。 吊られた中にはエスティニアの役人と商人も多数混ざっていたのだ。

「殿下には感謝申し上げますが、少々やり過ぎでしょうか。 少なからずエスティニアの民の中には不快に思っている者もおりますゆえ。 無実の罪に問われたエスティニア商人の仇を討ちたい者が居ないとも限りませんので」

 エスティニア王がチラチラと周囲の兵士の方を見て暗に促す。

「そちらの船の上の狙撃兵など物の数ではありません」

 強気で勝ち誇った様に言うエスティニア王の言葉が終わる前に、無言でイオが軽く左手を上げる。 すると同時に背後の旗艦が港側に見せている左舷の全砲門が一斉に開き、瞬時に黒い砲口がずらりと顔を出す。 時間差は、ほぼ無い。 全砲口が港の一点を狙っている。 

 視線を王に向け、沈黙したまま、イオがどうすると言わんばかりに僅かに首を傾げて見せて、牽制する。 悪戯っぽい表情はそのまま、瞳の奥に微かに獰猛な光が宿り、エスティニア王を見据える。 エスティニア王の脳裏をさまざまな情報が駆け巡った。 ヴァルドゥの風神は、情け容赦も躊躇することも無い。 見ろ、ルドラの海戦の残骸や、あの海賊船を。

「あんなに離れていたら当たるわけがないわ」

 余裕を見せようとした天幕の中のラトナイアが、港の向こうに浮かぶヴァルドゥ艦を指しながらナギを振り返る。

「いや、ヴァルドゥの大砲と砲撃手ならやる。このくらいの距離ならピンポイントで外さない。夜だろうと嵐だろうと関係ない。 此処も即死だな」

 絶句するラトナイアが、ヴァルドゥ艦と王弟を見比べて考えを口にした。 ナギに意見を求める。

「では、例えばあの子を此処で殺したら?」

「こっちが瞬時に皆殺しになるな。 外交問題をすっ飛ばして」

 イオがいかに艦隊の乗組員に好かれているかを思い出す。あれはあいつの家族だ。

 現状を即座に理解したエスティニア国王は急に押し黙って親書読み上げだした。そしてそれを元通りに巻き上げ、ふさ飾りのついた紐で手際良く閉じるとイライラした様子を隠しもせずに、それを箱ごとイオに向かって差し出した。 再度お辞儀をしてそれを受け取ったイオが左手下げると同時に艦の砲門は閉じ、すぐに元通りの、ひどく平和な港の景色に戻る。 

「王よ、わざわざ御礼をありがとうございます。 親書は確かにお預かり致しました。 アキタニア王にもよく伝えましょう」

 王弟がまるで何もなかったかの様に爽やかな笑顔で出立の辞を述べてお辞儀をし、楽団がまた音楽を奏でる中、カーペットの上を桟橋に向かって歩き出す。

 天幕の中から、目の前で国王とやりあい、今去ってゆくイオを見て、奇妙な感じをナギは味わっていた。 手が届く距離だが、異様に遠く感じられた。 同時に、手がイオの体温を思い出す。 既に殺す気も無くなったのに、未だにある妙な執着心を不思議に思う。 視線を落とすとラトナイアの美しく手入れされ、上品に肘掛けの上に置かれた手が目に入る。 その指先が温かかったか冷たかったかすら、思い出せなかったし、触れてみたいとも思わなかった。  逆に誰かの、剣で出来たタコとマメのあるひんやりと冷たい手を思い出す。 そして、思った以上に甘く柔らかな唇も。 


ゼノスの観光

 ゼノス一行は、今日は東の岬の反対側にある『海神の回廊』へと来ていた。 古代に作られたとも、自然が作り上げたとも言われる絶壁沿いにある道である。 登ったり降ったりを繰り返しながら岬の反対側へ回り込むと、ちょうど崖の上に出る所から渦潮が見られるのだ。

 馬車には狭い道なので、麓から馬で上がってきた2人はその崖の上まで来た。 ゼノスがその崖上に小さな古代の神殿が残っているのを見つける。

「これは死の神、凪の神殿です。 夕暮れの凪の時間帯に渦が起こることから、古代から渦潮はこちらの世界からの冥界への入り口と畏れられてきました」

 エイダが説明する。 今日のエイダは海の様な濃い青の乗馬服で纏めていた。背中に降りた緩く束ねられた髪が今までと違い、新鮮であった。 ゼノスはあまり見つめすぎないように注意をしているが、気がつくと彼女に見惚れている自分に気付く。 

「死の神と申しましたが、凪の神は再生のシンボルでもあります。 古代の人は、生まれるから死ぬ、死ぬから生まれるという輪廻を信じ、満ち潮と引き潮の間に起こる渦潮を再生の象徴としたのです」

 神殿の周りに花が植えられているのが見えることから、今でも信仰を集めている事が分かる。ゼノスは目の前の崖の下を覗き込んだ。 まだ渦潮の時間には早かったが、波濤が絶壁に当たって泡を作りながら砕けているのが見られる。 アキタニアには無い風景に、古代の人たちの原始的な畏怖と畏敬の念が感じられ、ゼノスは自然の作り出す力強い景色に圧倒されていた。


 ラトナイアが目の前の、エスティニア王とアキタニア王弟のやりとりを見ながら感慨深げに呟く。

「いずれにせよトゥガリアとしては、エスティニアの海賊が一掃されて嬉しい限りだわ。ヴァルドゥに助けられたなんて癪だけど」

「ヴァルドゥを手強いと思うなら和平を結んで国交を開くってのはどうだ?」

 思いもよらないラトナイアの言葉に、ナギが自分でも意外な提案をする。

「ラスイスラス海が欲しくても、今のヴァルドゥには到底勝てない。 アキタニアもヴァルドゥの背後に控えている今、手を結ぶ事を考えてはどうだ? 欲を出さずとも、不凍海はエスティニアで足りるだろう?」 マイレイディ、と最後に。 もう呼ぶことはないだろう。

 ナギの思いもよらない提案にラトナイアが振り返り、更に驚く様な案を出す。

「和平といったら、では、アキタニアかヴァルドゥに適齢期の方はいるかしら。目の前のあの子にトゥガリアから嫁でもどう?」

「やめておけ」

 悪い冗談だな。あれは俺の獲物だ。 ラトナイアに意味が通じているとは思わないが、一応釘をさしておく。


 海神の回廊から屋敷に戻り、晩餐までの空いた時間に庭を散策していた2人は、春の長くなって来た陽射しを避ける為に四阿に座った。 座るなり、エイダが嬉しそうに報告する。

「アキタニアに行ってもいいって昨日、母から許しを得たところです」

 ゼノスにとってはいきなり心臓に悪い報告である。 アキタニアの春の社交シーズンに行くと言うことは、生涯の伴侶を探しに行くの同義だ。 行き先は、悪い虫がウヨウヨ居そうな王都である。 アキタニア国内の、名家の独身男性諸君の顔がいろいろと浮かんでくる。 害虫諸君には、彼女に近寄って欲しく無い。 ゼノスは側から見えない程度に大きく息をして心の準備をした。 今だ、今言うしか無い。

「エイダ様、王都でも私と会って頂けますか?」

 エイダは一瞬、きょとんとした顔をした。そして意味が分かった途端に真っ赤になった頬を隠すために俯いたが、あまり意味は無かった。 ハンカチを握る指先に力が入っている。

 間が空いたため、ゼノスが気を利かせて何か別の話題に移ろうとした時である。 彼女は恥ずかしそうに真っ赤なままの顔を毅然と上げた。

「私、貴方様に会えるかと、王都へ行くつもりでした」

 今度はゼノスが赤くなる番であった。 

 ゼノスは続く会話の糸口を探した。 エイダに向かって手を差し出す。 何か分からないままも応えてエイダが手を出すと、その指先を取って手の甲に口づけした。 ふたりの目が合い、ひっそりとよく似た微笑みが生まれる。

 ゼノスは胸の内ポケットから小さな包みを取り出し、そのままエイダの手の平にそれを載せる。 アズーロ通りの香水店のリボンが付いているそれをエイダが開けると、中にあったのは春バラの香水であった。 バラの花の香りが公園でのゼノスの微笑みを思い出させる。 そしてバラの花言葉を思い出して、再びエイダが赤くなった。


 久しぶりにヴァルドゥへと戻ったイオは、友と妹の仲が進展しているようで嬉しそうであった。 初めてアキタニアに行く妹は準備に余念が無く、そしていつもの不安顔よりも嬉しそうな表情が目立つ。 船が苦手な彼女は山脈に通る、昔アキタニアの王がソチルに会う為に通った道を逆に進む旅程をとるらしい。 少々船より時間は掛かるが、治安も悪くなく途中小さな街も点在するルートだ。 アキタニア国内ではジオが手配した安全なルートを使う予定である。 このまま急いで準備を進めて、出発は1週間後にと言うことになった。 エイダのドレスなどはモードの最先端の王都で注文した方が、ヴァルドゥの田舎者と不要に嗤われることもないであろうという配慮から、荷物はそんなに多くは無かった。 ゼノスもエイダと一緒に陸路を行きたいと思ったが、未婚の令嬢とのふたり旅というのは、彼女の評判に関わるので躊躇われた。

「俺も陸路で行こうかな」

 何の気無しに王弟が助け舟とも取れる発言をしたのをゼノスは聞き逃さなかった。 相変わらず食いつきのいい男である。

「そうでしょう、妹君がおひとりで山超えなんて、兄としては見過ごせませんよね」

 紳士にあるまじき行為ですと目が訴えている。 その思惑はしっかりと感知しているが、此処はゼノスに貸しを作っておこうと、わざとらしさを隠しつつイオが続ける。

「俺、陸路って一回行ってみたいと思っていたし。 ゼノスも一緒にどう?」

 助け舟が艦隊でやって来る幻覚が見える。 ここは助けられておこう。

「私も及ばずながらご一緒させて頂きます」

 エイダの顔が、まるで花が咲くように綻ぶ。

 それからは忙しかった。船関係の仕事を片付けながら、ダーショアのハルトと執事と妹のマイラに早馬で手紙を出して、彼女が無事に王都に来る手筈を整えた。 マイラはかねてから王都行きを楽しみにしていたので、殆ど全ての準備は出来ているはずであった。ソチルは任務の合間に時間を作ってはエイダの荷造りの指示をし、イオは親父に王都までの航海を任せ、後は出発の日を待つばかりである。


 ヴァルドゥの春は短い。 冷たい風の吹く冬が終わると、陽射しを争うようにあっという間に花という花が押し寄せるように咲き競い、そしてすぐ初夏の乾いた風が吹き始める。 王都への出発を控えたイオは現在は休暇中で、普段と違って朝日が登った後に起きだす生活をしている。 一応海軍士官育ちなので普段なら許されない事だが、貴族としてみれば昼前に起きている事自体が珍しいものだ。 イオ付きの侍女は慣れたもので、呼ばれない限り彼の棟には来ないし、頼まれた事以外はしない。 その上、主人は殆ど留守なので、屋敷の中でもそれは一番楽な仕事だと思われていた。 つまり、屋敷の中でもここはかなり放ったらかしな一角である。 

 カーテンの隙間から入る陽の光に我慢しきれなくなったイオが起き上がり、簡単に身支度を整えて寝室を出る。 今日はどうやってゼノスとエイダを揶揄ってやろうかと考えながら続きの居間に入ると、ふわりと緑の草の香りを乗せた風を感じた。 見ると窓が開いていて、その下のカウチで寝ているナギが目に入った。 ひどく久しぶりな気がして、まじまじと寝顔を見る。 いつ来たのだろうか。 何だか嬉しくなってくる。

 直ぐに気配を察したナギが目を覚まし、半目を開けてこちらを確認する。 それから伸びをして肘掛けに上げていた脚を下ろし、カウチに座り直す。 胸元から例のペンダントを取って返そうとするのをイオが押し留めた。

「おはよう」

 何もなかったかの様にイオが挨拶し、ナギの隣に座る。

「おはよう」

「今日は船に戻るの?」

「いや、暫く忙しいな」

 短い彼の断りの返事に、ひどく残念で寂しい気がした。 トゥガリアはどうなったのか、なぜ忙しいのか聞いてもいいかどうか躊躇していると、珍しくナギの方から話し始めた。

「トゥガリアは使者を立ててアキタニア並びヴァルドゥと国交を結ぶつもりだ」

 使者と言いながら自身の胸を指して見せる。 視線の先の机に載せられた鞄には巻かれた親書の箱が入っているのが見える。 予想外の展開だ。

「お前の母上と兄王に親書を預かってきた。 アキタニアに行かねばならない」

 嬉しすぎて、イオは隣で相変わらず無表情を保つナギの肩にもたれ掛かった。 もう会えないかと思った、と言うより、あのエスティニアの港以来、もう会わないかと思った。

「もう会う事はないかと思ったけど」

 赤毛の頭越しに腕を回すナギに向かって、聞こえるか聞こえないか位の声で呟く。

「そう思った事は無いな」

 伸びかけの巻毛に指を走らせて軽くくちづけして見下ろすと、見上げるイオの瞳が金色のオパールのように煌めいている。 未だ全然分かっていない顔だ。 最初に出会った時に感じた欲望と奇妙な連帯感を思い出す。 計算してやってるわけでは無いと分かっているが、無防備に俺の理性で火遊びするこれは随分と厄介だと言わんばかりの、ナギの諦めたような、ため息。


 おまけの蒸し風呂体験

 ヴァルドゥでの滞在中に大きな観光名所を網羅したゼノスだったが、執事が教えてくれた古代式蒸し風呂だけは躊躇していた。 どういう手順で使うのかも不明だし、現地で尋ねるにしても堪能ではないヴァルドゥ語でのコミュニケーションには不安がある。 風呂という手前、エイダに頼む訳にもいかず、アキタニアの貴族として公衆の面前で肌を出す状況は避けておきたいという自覚もある。 残りの滞在日数も僅かになりもう機会は無いと諦めて忘れかけていた頃、不意にその機会はやってきた。

「ところで、ヴァルドゥの古代から伝わる蒸し風呂って、行った?」

 お茶の最中にゼノスの観光体験の話を聞いていたイオが思い出したように聞いてくる。 それはどういう物なのか、どうやって使うのか、色々聞いてはみたいがそこで食いついて良いものか紳士なゼノスは悩み、一番無難かつ簡単な答えを返す。

「いえ、無いです」

「屋敷にあるのを使ってみる? 街中のは混んでいるしほぼ裸になるしでアキタニア的にはきついだろうけど、此処なら服着たままでも使えるから」

 難題が無くなり、俄然、興味が出てきたゼノス。 不安はあるがずいぶんとハードルは下がったので、領主の屋敷の中にあるもので体験してみることにした。

 「蒸し風呂は本来なら男女別の、言わば社交場みたいなもので、蒸し暑い中で温まりながら飲んだり食べたりお喋りしたりしながらダラーッとする所だ。 暑くなったらぬるま湯の風呂で泳いで冷ましたり水のシャワー浴びたりして、また蒸し風呂に戻って来る。 伝統的なものではマッサージや垢擦りをしてもらうんだ」

「リラックス出来そうですね」

「他にする事がないなら、今日これから挑戦してみる?」

 いきなり決定すると、お茶を楽しんでいる間に蒸し風呂の準備を整え、イオとゼノスは屋敷の地下へと降りて行く。 そこには既に客用の別棟から呼ばれたナギが待っていた。 

「多分、紳士のゼノスの事だから、俺とふたりっきりっていうのは難しいだろうって思って。 エイダも家族以外には抵抗あるみたいだし」

「ナギさんは蒸し風呂の経験はあるんですか」

「トゥガリア式ならな。 此処では初めてだ」

 外国人ふたりに丈の長い麻のローブを渡し、隣の部屋で着替えて中に入るように指示すると、イオは彼も別の部屋でさっさと着替える。 男性用よりは幾分厚めとはいえコルセットも無しでローブ一枚になると、自分の身体の曲線に目がいった。 ふだん男性体型に補正している分違和感があるが、彼は自分の身体は嫌いではない。 健康だし、父親に似て背が高いのも気に入っている。 そして令嬢や淑女としての社会的なしがらみが無い事は有難い反面、男になれない、ならない事も自覚していた。 その点では、自分としての在り方を気付かせてくれた、いつか会った女海賊に感謝している。 そのままの自分を受け入れる事だ。

 鏡に映る自分に向かって仁王立ちになってみると、いつかナギが何とか言っていたことを思い出して心がざわついたが、まぁ、今は思い出さないでおこうと部屋を出る。

 蒸し風呂は広いタイル張りの円形の部屋で、天井は高く天窓から光と適度な外気が入ってくる。 壁や床に空いた穴から蒸気が上り部屋中が薄らと白く霞んで見える。 古代式では床にタオルやクッションでも敷いて座ったのだろうが、床文化では無い人達のために、壁沿いに段差をつけて座れるようにしてあった。 先ず初めに簡単な注意事項を聞く。

「最初は『大丈夫』とか言っていられるが、水分を取ることと、のぼせる前に身体を冷ますか風呂から出るかだ」

 各自適当に座って、3人はとりとめもなく色々な話をした。 ゼノスのヴァルドゥ観光、ヴァルドゥの古代遺跡と文化、トゥガリア式そして周辺国の蒸し風呂の違い、ラスイスラス海の貿易航路、ヴァルドゥの夏場のビーチなどなど。 座ったり床に寝そべるとタイル越しに熱が伝わって来てポカポカしてくる。 温まった部屋でダラダラと過ごしていると妙に楽しい。 そうこうしているうちに話題がアキタニアでの春の社交界の話になった。 

「貴方はどうするおつもりですか?」

 いきなり自分のことを棚に上げたゼノスがイオに話を振る。 この場合どうするというのは社交的に問題になるであろう、彼の性別の事ととったイオがあっさりと答えた。

「問題はアキタニアだけだね。 俺のことは、ヴァルドゥでは暗黙の了解だから」

「暗黙の了解?」

「公然の秘密ってやつか。 海軍内では大抵皆知っているし、大体、ヴァルドゥで海軍関係者が身内に居ない家はほぼ無いだろう」

 いやどうしたものかな、とまるで他人事のように呟くと、濡れたローブのせいでどう見ても女にしか見えなくなった彼は立ちあがった。 ゼノスは目のやり場に困り、視線を落とす。

「俺は先に出るから、ふたりは同時に出ろよ」

 短く言い残し、風呂部屋から出て隣の部屋にあるプールに飛び込むと潜ったまま水を蹴る。 プールの底をなぞりながら反対側まで、火照った身体と何故かざわつく心を冷ますためにゆっくりと泳ぐ。 海と違い、プールは四角く平たくて退屈だ。 冷静になるにはひと泳ぎが一番だ。 

「追いかけて行くかと思いましたが」

 イオが風呂部屋を出て行く後ろ姿を見送った後、ゼノスが残ったもうひとりに話しかける。

「今回はやめておく。 彼奴の頭突きは痛いからな」

「既に食らったんですか」

 珍しく可笑しそうな笑顔になるゼノスが続ける。

「貴方がずっと熱い眼で見ているから、彼も慌てていましたよね」

 黙ったまま、そこが可愛いところなんだと言わんばかりに笑顔で頷くナギ。 このふたりの間が進展しているのかどうかは別として、何だか幸せな気分になった半ばのぼせ気味のゼノスである。


 そして今のところ、物語は風を受けた船のように順調に進み、

 珍しいアキタニアからの客人は、大収穫でアキタニアに帰る。

 アキタニアで紡がれる続きはさておき、ひとまず、幕。

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