第12話 消えない傷跡

 森は深い霧に包まれ、その奥を見渡すことは出来ない。辛うじて、足元に咲く白い花が見えているくらい。

 佇む馬の背から、男が一人、じっと霧の奥を見つめている。足元の柔らかい草を食べるのに夢中になっている馬をよそに、その視線は、どこか切なげに、食い入るように、時の経つのも忘れて思いに耽っているようだった。

その耳に、不機嫌な声が、どこからともなく響いてくる。

 「――いつまで、そうしているんです」

 はっとして、男は視線を足元に向けた。

 窪んだ草原の奥から影が、ゆっくりと人の形になってゆく。

 「…リュカ」

 「まさか、会いに来た、なんて言わないですよね? 今まで一度だってここには近づかなかった。どういうつもりですか」

 「……。」

ラーメドは、小さくため息をついて馬から飛び降りた。

 色白で整った顔立ちと、鮮やかな緑の瞳。それは、記憶にあるままの、かつてのこの地の主のものと同じだった。

 「お前に…一言、謝りたかった」

 「無意味です」

射るような眼差しとともに、少年はきっぱりと言った。

 「あなたは彼女と交わした”誓約セイン”を破った。妖精族にとって誓約は絶対だ。破った者には、死で贖わせるしかない」

 「…ああ。けど、俺はまだ、死ぬわけにはいかないんだ。俺が居なくなったら、あの砦は…あいつらは」

 「分かってます」

リュカは、ふい、と視線を逸した。

 「命を取られる覚悟もないくせに、口先だけで”謝る”? それに、セフィーラの命まで使ったくせに、状況を何一つ変えられていない。この十年の間、何をしていたんですか」

辺りを包む、かすかな緑色を帯びた濃い霧が僅かに揺れた。それは、住処を守る妖精族特有の結界でもあり、外界から侵入を試みるあらゆる存在を拒む「壁」でもあった。

 「――母は僕の目の前で、苦しみながら水に還った。魔力が尽きるその時まで、あなたが受けるはずだった毒や致命傷を全て引き受け続けて…最後まで、あなたとの約束を信じながら。それなのに、そうして生きながらえたあなたは、一体何をしてきたっていうんですか?」

 「…っ」

男の顔が、まるで泣き出しそうに大きく歪んだ。全ての言葉事実そのもので、研ぎ澄まされた刃のように、心に突き刺さる。

 「分かってる…、許してくれとは言わない。お前の母親を死なせたのは、確かに俺だ。俺が、不甲斐なかったせいだ」

 「……。」

 「けど、まだ約束は終わってないんだ。”この戦いを終わらせて戻ってくる。”――それが、俺の誓約セインだった。たとえセフィーラがもう居なくても、…いや、だからこそ、俺はこの約束だけは必ず、果たしたい。」

 「それを、信じろと?」

 「ああ。俺に出来ることは、それだけだ。全てが終わったら…俺の命くらい、くれてやっても構わない」

 「そんな野蛮なこと、望みませんよ。あなたには何も望んでいない」

ふい、と少年は背を向けた。辺りを包み込む霧が、生き物のように大きくうねり、一段と濃くなった。

 「それでも、あなたは曲がりなりにも僕の”名付け親”。せいぜい、生き延びてください。」

 「リュカ…。」

ふわりと漂う、花の香り。

 背後で、馬がぴくりと反応した。顔を上げ、警戒するように辺りの空気を嗅いでいる。

 「ちっ。敵か? こんな、森の近くまで」

舌打ちして馬にひらりと飛び乗りると、ラーメドは、肩越しにもう一度だけ、霧の奥に目を凝らした。


 ――広大な、古代の森。人の手の入らない、巨大な木々の息づく荘厳な深い森。

 たとえ今は目に見ることが出来なくても、記憶の中に焼き付いたその森の姿は、今でもはっきりと思い出せる。爽やかで微かに甘い白い花の香りは、記憶の奥底をくすぐった。

 森に最後に訪れたのは、十五年以上も前のことだった。「力を貸す代わりに、竜人族の脅威を排除してほしい」。そう持ちかけられた、遠い日の約束。

 その日から、男は”英雄”になった。

 どんな激戦の戦場からも生還し、竜人族の使う猛毒も効かない。いつしか自分は無敵なのだとさえ思い込み、この分ならそう遠くない日に約束は果たせると、楽観的に、そう思っていた。

 けれど、誰も予想さえしていなかった竜人族の”大侵攻”は、そんな希望を跡形もなく打ち砕いた。


 誘い込まれた罠の戦場。圧倒的な敵の数を前にして、次々と倒れていく仲間たち。

 誰かを救うことはおろか、自分自身を守ることさえ満足に出来なかった。何度も致命傷を追ううちに、加護の力は弱まっていった――そして、ようやく戦場を脱した時には、妖精族の加護の力は、消え失せていた。

 治らない傷から流れ落ちる血を見た時、そして、ずっと側に感じていた気配が消え失せているのに気づいた時、ようやく何が起きたのかを悟った。

 そして、その日から男は、本当の意味で「自分自身の力で」、”英雄”となったのだ。


 森を背に馬を走らせながら、ラーメドは、心の中で呟いた。悔悟も、思慕も、今となっては確かに「無意味」だ。けれどまだ、未来はある。

 (妖精族にとって、”名付け”は一生の縁を意味する――憎まれてもいい。それでもお前との縁は、こうして、出会わせてくれた)

忘れようとしても忘れることの出来ない、鮮やかな色の眼差し。睨みつけてきたその瞳の中にいささかの好意も感じ取れなくても、ただ、嬉しかった。

 (生きてくれ、リュカ。セフィーラの分まで。…俺が、必ずこの戦いを終わらせる。それまで…)

馬が甲高くいななき、ふいに歩を乱した。

 熟練した兵士の目は、茂みの中に身を潜める竜人の姿をすぐに見つける。見回りの、巡回路の近くだ。

 「いた」

馬の面宛ての角度を変えると、彼は馬に拍車を当てた。不安に嘶きながらも、馬はとにかく、命じられるままにと真っ直ぐに走り出す。

 ラーメドが迷いなく隠れている場所めがけて突っ込んでくるのに気づいて、隠れていた竜人は、慌てて逃げようとしている。だが、走る速度は馬ほどではない。

 すれ違いざま、男は馬上から槍を繰り出し、馬の走る勢いのままに敵の背中の真ん中を貫いた。

 「ギャアッ!」

悲鳴とともに飛び散る、どす黒い血液。槍は柄まで貫通して、反対側に突き抜ける。

 (一体だけ…? ユッドの話じゃ、二体ずつの組み合わせだったらしいが)

馬をめぐらせ、ラーメドは、用心深く周囲の様子を伺った。だが、他の気配はない。

 (人数が足りなくなったか? にしても…)

倒した敵のもとに戻った彼は、側に落ちている、人間の使うものより大ぶりで強い弦を持つ弓を取り上げた。

 遠距離攻撃用の武器だ。

 茂みに隠れていたということは、ここを通りかかる巡回の兵を襲うつもりだったのだろう。警戒していなければひとたまりもない。

 (こんなもの、人間にはとても扱えない。専用の工房でも構えて作らせてるか…一体どこの武器商人の仕業だ? こんな連中に、一体どれほどの武器を流したんだ)

怒りや苛立ちとともに、微かな虚しさも覚えた。

 異種族との戦いとはいえ、この十年、いつだって立ちはだかるのは人間同士の問題だった。

 隣国との間に警戒が高まればそちらに余分に兵を取られ、こちらの戦線は常に後回しにされる。疑心暗鬼にかられて全軍を動かせないのは、この辺りの小国全てが等しく抱える問題なのだ。

 (このままでは、戦いは永遠に終わらない。俺は…どうすれば…)

この地に赴任して、二十年近くが経とうとしている。それは、これまでの人生の半分以上にも匹敵する。

 ほうぼうで”英雄”と持ち上げられていても、実際のところ、彼は所詮、田舎出身の無学な一兵卒でしかなかった。中央に効かせられる顔も、発言権も、交渉に持ち込むコネも無い。竜人との戦場でなら戦うことは出来る。けれど、議会に乗り込んで人間の論戦で振るえる武器は持っていない。


 彼もまた、無力感を感じ、苦悩する、一人の人間に過ぎないのだった。

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