第10話 裏切り者の存在
全ての被害が判明したのは、夜明け前のことだった。
死者六名、怪我人数十名。厩舎が壊されたことにより軍馬の大半が脱走した。食料庫や武器庫は無事だったものの、兵舎を含む幾つかの建物が半壊。火災による被害は最低限に留められたものの、丘の上部にあった司令室は投石による攻撃で半壊。また、見張り台も損傷し、大急ぎで再建が進められている。
黎明の空の下、何とか生き残った人々の間に、勝利の高揚感など無く、焦燥感と疲労だけが漂っている。
夜が明けてすぐ、ユッドは、リュカとカリムを連れて、小舟でルーヴァ川を渡っていた。カリムが同行しているのは、単独での外出は危険すぎるから許可できない、と言われたからだった。
どうしても、今のうちに確かておきめたいことがあったのだ。
目指しているのは、昨日、襲撃の直前に川べりから怪しい光を見かけたあたり。今ならまだ、それほど時間は経っていない。何か痕跡が残っているかもしれない、と思ったのだ。
「敵の気配はありません、今のところは」
カリムの漕ぐ船の舳先に、ちょこん、と腰を下ろしたリュカが、周囲を警戒する担当だ。
「あんたの、その感覚って、どの程度の範囲が分かるんだ」
「自分の足元にある水の届く範囲…でしょうか。妖精族は、水を通して感覚を広げることが出来るんです。今は川の上にいますし、この辺り一帯の川沿いの状況は、全て分かりますよ」
「そいつは、随分と便利な能力だな」
太い腕で力強く櫂を漕ぎながら、カリムは、ほとんど息も上がっていない。
「僕はあまり魔力が強くないので、分かる範囲はそれほど広くありません。昨夜だって、もう少しはっきり気配を感じられていれば良かったんですが…。」
「あんたのせいじゃないさ。それに、もし気配が分かってたとしても、まさか投石機を使ってくるなんて誰も想像できなかった。どのみち被害は出てた」
泡立つ流れを越えて、小舟が対岸に到着した。
先に飛び降りたユッドは、他の二人が降りるのを待って船を陸へ引っ張り上げ、流されないようにと舫い綱を近くの岩にしっかり結びつけた。
「これでいい。」
「で? お前さん、一体何を探そうっていうんだ」
と、カリム。
「もちろん、投石機だよ」
「何だと?」
「ほら、見てくれ」
振り返って、ユッドは、川の対岸に見えているリオネス砦の丘の上を指差した。
「この辺りからなら、ちょうど、あそこが狙えるんだ。飛距離的にはギリギリだけど。だからこの辺りに…」
ユッドのほうは、しゃがみこんで草の上に残った痕跡を確かめた。カリムは半信半疑に、辺りを見回している。
「こんな近くから? 確かに距離からしても、この辺りしか無いが…ここじゃ、見張り台からは丸見えだぞ」
「いや。あった、ここだ」
ユッドが指差す場所を、カリムとリュカが覗き込む。
それは、地面にくっきりと残された、四角い土台の跡だった。しかも、よく茂った夏草の一部には、真新しい大きな足跡が幾つも残されていた。
「本当だ…」
「間違いない。ここに投石機を持ってきて、組み立てたんだ。おそらく、月の昇る前に。…昨日の月は、真夜中前に昇ってた。日が暮れてから、十分な時間があったはずだ」
言いながら、彼の表情は曇っていた。
ルーヴァ川の西側には明かりは一切なく、日暮れからしばらくは完全な闇に包まれる。けれど、だとしても、何かが動く気配くらいは分かる。
見張りが誰も事前に気づかなかった理由は、もっと他にもあるかもしれないのだ。
(黒い布でもかぶせて運んできたのか? それに、組み立ても素早かったのかもしれないな。少なくとも、前の日の夕方にオレとリュカが見張り台に登った時には、怪しいものは何もなかった。よほど統制が取れてる――投石機の使い方を知ってる知能だけじゃない。まるで、人間のやり方だ…。)
沈んだ表情を見るまでもなく、カリムも、同じことを考えているようだった。
「竜人族がこんな戦い方をするなんざ、この二十年、無かったことだぞ…。」
呟いて、老兵は額に手を当てた。
「どうやってレグナス砦が落とされたもんかと思っていたが、ようやく合点がいった。こんなやり方をされちゃあ、ひとたまりもないわい。こいつは、ロジェール司令が戻られたら直ぐにも報告せにゃならん。それに、投石機が何処から奪われたのかも調べねば。戻るぞ、ユッド」
「ああ」
「それと、あんた――リュカ、だったか? 良ければ、あんたにも居て欲しいんだ」
カリムは、側に立つ少年のほうをまっすぐに見つめた。
「僕ですか?」
「報告のため、というだけじゃあない。あんたには昨夜、砦の連中が随分と世話になったそうだからなあ。」
そう言って、老人は、ばつが悪そうに頭をかいた。
「その、何だ。初対面の時は警戒して、キツく当たってすまんかったな。まさか、妖精が人間のために戦ってくれることなんか、あり得んと思っとった。それに――あんたに解毒してもらって、命を救われた者もおるんだ。是非、正式に礼を言いたい」
「そんなこと、気にしなくても構わないんですよ。大したことはしていません」
「いや、ちゃんと代表者から礼を言わせてくれ。でないと、ケジメというものがつかん」
「ケジメ?」
「要するに、ようやくお前のことを信用してくれる気になったってことだ」
草の茂みから立ち上がると、ユッドは、少年の肩にぽんと手を置いた。
「面倒だと思うけど、もう少しだけ付き合ってくれ。偉い人に話しとけば、次から自由に砦に出入り出来るようにしてもらえるかも。」
「それは、…いいんですか?」
「たまにはパン食べに来いよ」
ユッドは、いたずらっぽく笑って囁いた。リュカは苦笑している。
「食べ物に釣られるみたいなことは…。でも、ありがとうございます」
「さて、戻るとしよう」
カリムは先に、元来た道を戻りはじめている。
後に続きながら、ユッドは、もう一度だけ周囲を眺め回した。
何もない、ただの平原だ。身を隠せるような場所は、何処にもない。
街道も通じていない。川の向こう側と、こちら側を繋ぐ端はなく、渡るには小舟を使うしかない。
(投石機が使えるくらいの知能があるなら、船だって漕げる。…そうだ、きっとそういうことなんだ。)
敵は、水を渡る方法を手に入れた。
投石機も舟も、今は人間から手に入れるしかないかもしれないが、いつかは自分たちで作り出せるようになるのかもしれない。そうなったらもう、天然の防壁も意味を成さなくなる。人間側の優位は、一つずつ奪い去られてゆく。
もはや、防戦だけで留められる時期ではない。
(これから一体、どう警戒すればいい? ――リオネス砦以外に、生き残っている前線基地はもう無い。この先は…街道沿いの関所だ。そこまで戦線が後退したら、街道が機能しなくなる)
思考は止めどなく湧いてくる。けれど彼は、それを口には出さず、頭の中に押し留めておいた。
言葉にすれば、不安が形になる。無理だ、と言ってしまいそうになる。
けれど、ここで逃げ出すわけにはいかないのだ。逃げたとしても、敵が迫ってくるなら意味はないのだから。
砦に戻ると、船着き場にいた兵士がすぐに声をかけてきた。
「カリムさん、レグナス砦に援軍に行ってた隊が、ちょうど戻ってきましたよ」
「何だと?」
老兵の顔がぱっと明るくなり、小舟が岸に着くや否や、年齢のわりに俊敏な動きで、桟橋に飛び移る。
「皆、無事なのか」
「はい。兵士長もご一緒でした」
「すぐに行く」
カリムは、後ろの二人を促して、小走りに砦の入り口のほうに向かって歩き出した。人が集まって騒いでいる雰囲気からして、その辺りに目的の人物がいると踏んだらしい。
「大騒ぎですね」
何が起きているのかよく分かっていないらしい少年は、首を傾げている。
「すぐ隣の砦の救援に行ってた連中が戻ってきたんだ。この時間ってことは多分、昨夜の救援信号の煙を見て、夜のうちに出発して大急ぎで戻ってきたんだろうな。」
言いながら、ユッドの声にも少し、安堵の響きが含まれている。
「救援に行っていたのは、ラーメドさんの率いてるこの砦の主力部隊だったんだ。これでもう、大丈夫だ。」
「……。」
リュカはなぜか浮かない顔で、何か言いたげに隣のユッドのほうを見上げた。けれど何も言い出せず、仕方なくといった雰囲気で、少し離れた後ろを付いて歩いていた。
やがて厩のあたりで、カリムが背の高い黒髪の男と話し合っているのが見えてきた。
傍らには、まだ馬具をつけたままの馬が立っており、後ろでは、帰還した部隊の兵たちが、何やら新兵たちに次々と指示を出しているところだった。どうやら、夜半に受けた襲撃の話を聞いて、守りを固めようとしているらしい。それに、見たことのない顔も何人か混じっている。おそらくはレグナス砦の生存者だろう。漏れ聞こえてくる声からして、砦の外には、連れ帰った怪我人や馬と馬車、無事だった物資などが集められているようだった。
「けが人が出た程度なら、その場で治療するはずなのに。生存者も物資も全部引き連れて、ってことは、向こうの砦はよっぽど酷くやられたんだろうな…」
ユッドが呟く。
既に陥落の話は聞いていたものの、影響の大きさは、今になってようやく実感出来た。
連れ戻ってきた人々の中には、民間人もいる。おそらく、砦の近隣の町や村でも被害が出たのだ。防衛線である砦が陥落したのなら、その周辺の集落はこの先、竜人族の襲撃から身を守る術がなくなってしまう。
これは、ただ前線基地の一つが失われたというだけの話ではない。
防衛できる範囲が、半分に減ってしまったということでもある。
「――で、だ。川向うの投石機の痕跡は、既に見つけた。連中がどうにかして兵器を手に入れたことは確実で…おっ」
カリムは、誰かと熱心に話し合っている。
ユッドが近づいていくと、老兵は振り返って、彼を手まねきした。
「いいところに来たな。ユッド! こっちだ、こっち」
側で話していた背の高い男、――まだ武装したままの、がっちりした体格の兵士が、ゆっくりとこちらを振り返る。
「ああ、ラーメド。こいつが、今話してた新兵のユッド・クレストフォーレスだ。それと――」
男の視線はユッドを通り越し、その後ろからやって来る、小柄な黒髪の少年のほうに向けられた。
少年のほうも、はっとしたように足を止め、顔を上げて、じっとその視線を見つめ返した。双方の顔に、ありありとした驚きの色が浮かぶのが判った。
「…まさか」
たっぷり十秒は、沈黙があっただろうか。
「…リュカ、なのか?」
「!」
男が名を口にした瞬間、少年は身を翻し、逃げるように、元来た道を駆け出した。
「あ、リュカ! おい、どうしたんだよ」
慌てて、ユッドは二人を見比べた。
「あの、どうして、あいつの名前を…?」
カリムも驚いた様子だった。
「あれが、さっき話していた妖精族なんだが。初対面じゃなかったのか?」
「…ああ。…まさか、とは思ったが。」
男は、何か思案するように視線を落とし、口を閉ざした。
それから、ゆっくりとした動作で手袋を外し、ぽいと馬の蔵の上に投げた。
「あいつの母親に昔、世話になったことがある」
小さなため息まじりの、低い声。
「それだけだ。知り合いというわけでもない」
「そう、…か? なら、いいんだが。」
カリムは、普段とは違う男の様子にそれ以上尋ねることも出来ず、言葉に窮している。
「それより、状況を詳しく教えてくれ。ユッド」
「あ、はいっ」
ユッドは反射的に踵をあわせ、背筋をぴんと伸ばした。士官学校で教わった、上官に対する礼儀作法の一環だ。
だが、男は苦笑して、軽く首を振った。
「いかにも、王都の士官学校から来たって態度だな。だが俺は、そういう格式張ったのは嫌いなんだ。まぁ楽にやってくれ。」
「はあ…」
「で? お前の見立てはどうなんだ」
手甲を外しながら、男は率直に話しかけてくる。
「投石機を使う竜人族。砦の襲撃。どう分析した」
「はい。人間に匹敵する統率と組織力。少なくとも、この砦が襲われたのは偶然ではありません。レグナス砦救援のために手薄になった時を狙い、夜襲をかけてきたことからして、どこからか監視していたか、内部事情に精通していたのだと。それと――丘の上に司令室があることを最初から判っている素振りがありました。火炎弾で武器庫を狙って来たところからしても、少なくとも、外から観察するだけでは済まなかったと思います」
「ほう」
日に焼けた顔に、微かな笑みが浮かんだ。黒々とした無精髭の下で、口元が緩む。
「ということは、変装した竜人が中に入り込んだ、とでも?」
「いえ。オレは、別の可能性を考えていました」
姿勢を崩し、ユッドはカリムのほうに向き直った。
「カリム、あの投石機、いつ、誰が持ち込んだかわかります?」
「投石機?」
ラーメドは怪訝そうに眉を寄せる。
「何のことだ」
「お前たちがレグナス砦の救援に出かけた次の日に、いつもの武器商人が納品に来てな。その時に投石機を売り込みに来て、試しに使ってみてくれとか言って、強引に置いて帰ったんだ。それが今、丘の麓にある」
「で、その数日後に、敵も投石機を使って攻撃してきた、と? はっ、妙な符合とかいう段階ですら無い。明白だな」
逞しい腕を組み、男は凄みのある声で笑った。ただし、表情は笑っていない。
「――話が繋がったぞ。レグナス砦のほうでも、襲撃の直前に武器商人が訪れていた。で、余ったからどうぞ、とか言って余分な油を置いていったそうなんだが、そこへ火矢を打ち込まれたんだと。…向こうでも、砦の構造をよく分かってるような攻め方がされていた。」
カリムは、小さく息を呑んだ。
「まさか」
「そのまさか、だ。人間側に内通者がいた。昔から、竜人族がどうやって武器を入手してるのかは謎だった。連中が初めて人間と同じ武器を手にするようになったのは、十五年前の”大侵攻”だ。あの時は体に不釣り合いな、どこかで拾ったような人間用の武器を手にしていた。だが、今はどうだ? 体に合わせた大きさの斧に弓。冶金術なんざ見様見真似でどうにかなるもんじゃねぇ。人間の武器商人から入手してたって、おかしくない」
「……。」
「その出入りの武器商人、商人ギルドに照会しろ。何か不審な点が無いか、経営者の動向もな。俺の勘じゃあ、既に尻尾を切って逃げてるだろう。」
カリムもユッドも、唖然として言葉が出てこなかった。
ユッド自身、まだ、そこまで深く考えられていたわけではなかった。ただ漠然と、竜人族にも人間同様の知性があるのかもしれないと思いはじめていたとこだった。
だが、もし知性があるというのなら、確かに、異種族ではあっても、商売や取引の対象になり得る。
「もしそういう話なら、武器商人の接客をした、わし自身が、内通者に情報を漏らしてしまったことになる」
カリムは、苦々しい顔で呟いた。
「今は司令が不在で、投石機のような大きなものを買い入れる許可は取れない、とまで教えてしまった。なんてこった…。」
「爺さんのせいじゃねぇよ、そんなもん、俺でも同じことを言うさ。人間が竜人族と内通してるなんて、普通は思わねぇ。――ただ、そうとなりゃこっからが難しいな。誰が敵で、誰が味方か区別がつかねぇんだから」
男は、やれやれというように首を振り、腰の剣を外して、側の木箱の上に腰を下ろした。
「どうする、ラーメド」
「どうするも何も、前線でやることは変わらんよ。人間はどうにもならねぇんだ、竜人を倒すしかねぇ。昨日倒したのが四体だと言ったな? で、レグナス砦で倒されたのが十二、ここに戻る途中で倒したのが二だ。連中は、それほど大人数では行動しない。せいぜい二十体まで。とすると、残りは何体だ」
「オレとリュカが遭遇して、倒したのが二体います」
と、ユッド。
「たぶん…残りは、いても数体かと。」
「なら、今んとこ近くに潜んでる連中はほぼ全部やったと考えていい。次の二十と出くわすまでの時間で、守りを固めるしかないな。ロジェール司令は既に追加の兵と物資の調達に出てる。そいつが届けば、少しは補強されるだろうが…」
「当面の問題は、それが届くまでの食料と宿舎だ。」
カリムが言う。
「お前がレグナス砦から回収してきた生き残りの連中と怪我人を養うだけの、追加の食料をどうにかせんとな。おまけに、宿舎はこのとおり、昨夜の襲撃であちこち破壊されている。」
「なに、宿はテントでも張ればいいさ。向こうの砦は、主要な設備は焼き払われちまったが、幸い物資はほとんど無傷でな」
「それでも、向こう一ヶ月保てばいいほうだろう」
「一ヶ月もありゃあ十分だ。逆に、それ以上の猶予は、敵側が与えちゃくれないだろうよ。連中はどうしても、この邪魔な基地を叩きたいらしい。ここが陥ちれば、次の前線は大街道だ。後がない。上層部の重い尻だって、いい加減、浮かせてもらわなくちゃ困るんだ」
流石に、十五年も敵と戦い続けてきた歴戦の兵ともなれば、決断は速い。それに、最悪の状況を想定しながら、既に覚悟は決めている。
(やっぱり、この人は…凄いな)
”英雄”の肩書は伊達ではない。
息を呑み、じっと横顔を見つめているユッドの目の輝きに気づいて、男は、にやりと笑った。
「時にユッド。お前、竜人と戦ってどうだった?」
「え?」
「遭遇したんだろうが。斬りかかるくらいは、出来たのか?」
「え…えっと」
思いもよらなかった質問だった。
ばつが悪そうに口ごもるのを見て、英雄と呼ばれる男はにやにやと悪戯っぽい笑みを浮かべている。
「その、一度目は逃げるので精一杯で…二度目は何もする暇がなくて。三度目は…そういえば、三度目も何も出来てなかったです…」
「ははは、そうか。まぁ、最初は皆、そんなもんだ。」
「すいません…」
「いいや、臆病なのは悪いことじゃない。どう戦えばいいのかの想像もつかないのに闇雲に立ち向かっても、無駄死にするだけだからな。おう、カリム、各方面との連絡と物資の調達はそっちに任せる。俺は、新兵共の訓練を受け持つ。まずはこいつらを、まともに戦えるようにしなきゃならん」
「判った。任せよう。」
カリムは頷くと、ぶつぶつ呟きながら踵を返した。
「やれやれ、あと一ヶ月か。…新兵どもの訓練が間に合うといいがな」
何が起きているのか、まだ完全には理解出来ていない。
だが、事態が急激に動き始めたことだけは判っていた。今までに無い規模での、竜人族との戦いが始まろうとしている。その実感が湧かないまま、ユッドは、どこか他人事のようにこれからのことを漠然と考えていた。
カリムが去っていったのを見計らってから、男は、ユッドのほうに向き直った。
「ところで、ユッド。一つ聞きたいことがある」
自分も、これで解放されるのだと思いこんでいたユッドは、慌てて居住まいを正した。
「何でしょうか」
「――お前と一緒にいたあの妖精族、他の仲間と一緒にいたりしたか? その、…あいつの母親は、まだ生きているのか?」
はっとして、ユッドは思い出した。
カリムもラーメドも、リュカの母のことを知っていた。
リュカと同じように、母親のほうも人間には好意的で、カリム曰く「ちょっかいを出して」来ることがあった、と。それに、リュカは何故か、ラーメドの名に反応していた。
「いえ…。詳しい話は聞いていませんが、『人間を庇って命を落とした』とだけ」
「……そうか。」
重苦しい沈黙が、足元にわだかまっている。
(その人とは、一体どういう関係だったんだろう…)
ただの知人か、特別な友人か――どの程度、知っていたのか。聞きたかったけれど、あまりに悲痛な表情に、聞くことが出来なかった。
「あいつは他に、何か言っていたか」
「いえ、特には…。あの、リュカをここへ連れて来たのは拙かったでしょうか。」
「いいや。カリムからも話を聞いたが、あいつは自分の意思でここへ来たんだろう? なら、それについて俺が、とやかく言う権利はない。しかもそのお陰で、昨日の襲撃の被害が最小限に食い止められたんだとすればな。ただ…あまり人間に関わらせたくはない…」
黒い瞳に、微かに憂いのような表情が過る。
「関わるなら、適度に距離を置け。近づきすぎれば、お互いにとって不幸な結末になることがある。」
「え…?」
「いいな」
それだけ言って、男は静かに立ち上がり、立て掛けていた剣をぶら下げて歩き出した。
振り返ると、シャツ一枚の背中に、切るのを忘れたようなざんばらの黒髪が、ゆるくまとめられたまま流れ落ちていた。
(なんか、…想像してたのと、ずいぶん違う人なんだな)
今までは、遠目に見ているだけだった。
”英雄”としての前評判、それに、砦の古参兵たちからの篤い信頼という印象から、もっと生真面目で高潔な人物を想像していた。
だが、間近に見て、実際に言葉を交わした印象は、「気さくで庶民的」、そして、王都で喧伝される華々しい戦火とは裏腹に、現実的で素朴な――というよりも、どこか素直すぎて不器用な人のような気がしたのだ。
(それに、とても寂しそうに見えた)
リュカの母親がもう死んでいる、と聞いた時の、ひどく悲しそうな顔。
「近づきすぎれば、お互いにとって不幸な結末になることがある。」という、まるで自分自身がそうだったかのような言葉。
その言葉の意味は、意味は分からない。けれど、本心からではないという気がしていた。
もしもそれが本当だったなら、リュカが自分たちを助けてくれたことさえ、好ましくないことになってしまうのだから。
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