第9話 夜襲
一晩ぶりの自室のベッドで心地よく眠りに落ちていたユッドは、不快な轟音に渋々と目を覚ました。
固いベッドの上で寝返りを打ち、顔をしかめながら起き上がる。頭上から聞こえてくるは、ぎりぎりという高音と低い唸り声のようなもの。それが、意識を浮上させた原因だった。
(ああ、…またか。くそっ)
ユッドは、ぼさぼさの頭をかき回しながら、向かいの二段ベッドの上段を睨みつけた。
新兵用の兵舎は四人部屋が基本で、部屋の中には、二段になった寝台が、すれ違うのも難しいほどの狭い通路をはさんで向かい合わせに二つ並べられている。
そのうちの片方の上段から、歯軋りといびきが聞こえてくるのだ。長い足が、毛布の下からはみ出して、にょきりと廊下に向かって生えている。
「おい。いい加減にしろ。」
腹立ち紛れにその足をぐいと押し込んでみたが、いびきの主は目覚めるどころか、むにゃむにゃと何か寝言を言うなり、さっきより大きな音でいびきをかきはじめた。
真夜中にいびきの音で起こされるのは一度や二度のことでは無い。この大音量で寝ていられる同室の他の仲間たちのほうがおかしいのだ。
この爆音の中で寝なおすのは、到底、無理だ。
仕方なく、ユッドは枕元にかけておいた上着をひっかけて部屋を出た。
廊下に出ると、交替で見回りや見張りに出る兵士たちのためのランプの明かりが、うっすらと出入り口を照らし出していた。
そうでなくとも、用を足しに出る者もいる。真夜中といえど、兵舎には絶えず人の出入りがあるのが普通で、ユッドが階段を降りて表へ出て行くのを誰かが見つけたとしても、不思議に思われることはない。
(そういや、リュカは…眠れてるのか?)
廊下の端の、普段はあまり使われていない部屋の前で足を止め、中の様子をそっと伺う。
けれど、物音はもちろん、人の気配も無い。
よく眠っているか、さもなければ部屋を留守にしているか。どちらなのかは扉を開けてみないと分からないが、もし前者だった場合は起こしてしまうことになる。
ユッドは、何もせずそのまま素通りすることを選んだ。部屋にいなければ、きっと川のほとりだろう。どうせ散歩に出かけるのだ、ついでに見て来よう。
寝息やいびきの雑音に満たされていた兵舎を出ると、辺りは、以外なほど静まり返っていた。
月の位置からして、今はちょうど真夜中を少し過ぎたあたりだろうか。厩舎さえも静まり返り、人も家畜も深い眠りの中にある。
丘の上の幾つかの建物と見張り台、それから砦の入り口のあたり以外に明かりは無く、それでも、明るい月明かりがうっすらと、通りと建物の輪郭を浮かび上がらせている。
(そういえばロジェール司令、まだ戻ってきてなさそうだったな)
丘の上を見上げながら、彼は、ふとサニエルとすれ違った時のことを思い出していた。「司令を迎えに行く」と言っていた。ということは、東の街道沿いにある軍の駐屯基地あたりに出かけたのだろう。
あとでカリムに聞いた話では、少し前にレグナス砦が陥落したという報せも届いていたらしい。
――そう、救援に向かった先の砦は、既に戦闘不能な状態になっていたのだ、
本来なら緊急事態。一般兵たちにその報せが公表されていなかったのは、混乱を避けるためなのだろう。司令が大急ぎで砦を出たのも、報せの伝達と、援軍か物資の要請のためなのだ。
それをサニエルが迎えに行ったのは、新たにもたらされた、「敵がルーヴァ川を既に越えている」という情報を少しでも早く伝えるためだ。
昼過ぎに砦を出たのだから、急げば、もう街道とこの砦の中間地点あたりで合流しているはずだ。こんな時期に単独で伝令の任務に出されるのは、サニエルの腕が信用されている証拠でもある。ユッドでは、とても任せて貰えそうにない。
(レグナス砦が失われた、か…)
夕方にその話を聞いてからも、ユッドは、いまだ実感の無いままだった。
これで、ルナリアの前線基地は、このリオネス砦ひとつきりになる。しかも敵が、何とかして川のこちら側に渡る手段を見つけてしまったのなら、 これからは背後すら安全ではなくなる。下手をすれば孤立する。
実際はかなり追い込まれた状態なのだ。けれど心のどこかで、根拠など何もないままに、「まだ何とかなる」という気持ちがある。
他の新兵たちはまだ正式には知らされていないだろうが、知らされたところで、危機感を覚える者はそう多くはないはずだ。
いずれにせよ、それも明日の朝には、リオネス砦に救援に向かった兵士長と熟練の兵たちが戻ってくる。ロジェール司令もだ。司令は戦いの経験豊富で、古参兵からの信頼も厚い優秀な指揮官だ。
不在にしていた上層部が揃えば、きっと、何か有効な手段も思いつく。これからどうすればいいかの指針も出される、はずだ。
自分を安心させようと、ユッドは、そう思うことにした。
考えながら歩いているうちに、砦の西側の川べりに出ていた。
ちょうど、川の流れが丘に当たって大きく蛇行する辺りだ。剥き出しの岩に当たった流れが音を立てながら銀の飛沫を上げ、月明かりがそれを照らしている。
先客がいることに気づいたのは、水の流れに近づいた時だった。
流れの中に、やけに細長い岩がある。あんなものはあっただろうか、とよ、よくよく目を凝らしてから、その正体に気づいたユッドは、思わず声を上げた。
「…リュカ?!」
名を呼ばれた少年が、ぱっと振り返る。動き始めると、今まで影のように気配の無かった輪郭が夜の中でも判別がつくようになった。暗い色の髪と、それに合わせた暗い色の、ぴったりとした衣装のせいで、背景の夜に紛れていたのだ。
ぽかんと口を開いたまま、ユッドは、少年が平然と川の流れの上を歩いてくるのを見つめていた。
足元を洗う激しい流れにも関わらず、体はかすかに上下しているくらいで、水の流れの抵抗を受けている気配は無い。
「どうしたんですか、こんな夜遅く」
「いや、同室の奴のいびきがうるさくて、目が覚めちまったから。…あんたは、どうして? あ、やっぱ部屋が微妙すぎたのか。ごめん」
「そういうわけではないんです」
リュカは慌てて首を振ると、川向うの平原に視線を向けた。
「妙に胸騒ぎがして。…微かな気配なんですが、敵が近くにいると思ったんです」
「敵、って竜人族が?」
「はい。でも、はっきりしないんです。まだ遠いかもしれないし、近くを通り過ぎただけかもしれない」
ユッドは思わず、流れの向こう側に眼を凝らした。
竜人族は水を嫌うから、川を泳いで渡ってくるようなことはない。しかも川幅は十分に広いし、レイノリア山脈からの雪解け水がひっきりなしに流れ込む今の季節は水量も多いから、人間だって簡単には渡れない。船を使うなら目立つはずで、砦の、川に面した側には柵すらない。
「気のせいだろ。見張りがいるし、今夜はこんなに明るい月夜だ。攻めてきたら、すぐに判る」
「そうですよね…」
「にしても凄いな。あんた、どうやって浮いてるんだ? それも魔法なのか。」
ユッドは、流れのほとりに立つ少年の足元に視線をやった。
「はい、妖精族は一般的に水を操る能力を持っています。水と同化する力で、足元だけ一体化させると、こういうことも出来ます」
「へぇー」
「僕は、…魔力があまり強くないほうなので、あまり大技は得意ではないのですが…このくらいなら」
月の光を浴びて水の上に立つ幻のような姿は、昼間、砦を案内して回って居た時とは違い、人間とはかけ離れた存在のように見える。
(やっぱ、根本的に人間じゃないんだなー)
妙にほっとしたような、どこか残念なような気分だったが、納得できる事実でもあった。
そうなのだ。彼はこれでも、あの広大な妖精族の縄張り――森を支配する「領界主」という存在で、ユッドに対してはひどく高圧的なフィリメイアですら自ら
「…なんか、悪かったな。ちゃんとして持て成しも出来なくて」
「いえ、そんな事ないですよ。人間の住処を見て回れたのは面白かったです」
リュカは、心からそう思っていると示すように微笑んだ。
「特にあの、夕食のスープにあった、イモ? とかいう実は、とても面白かったです。地面から採れる実があるとは知りませんでした」
「ああ、言ってたな」
ユッドも思わず苦笑する。
「あと、やたらパンにこだわってたな。何の変哲もない味なのに。」
「そんな事ないですよ、すごく美味しかった。森では食べられない味です」
「木に成るものなのか、とか質問して来るから焦ったぜ。まあ、確かにあれは、人間特有の料理だよな」
「麦っていう草の実がないと作れないんですよね。いつか機会があったら、その草の生えているところも見てみたいです」
「ああ。…いつか、な」
そういえば、彼はこれからどうするのだろう――と、ふと、ユッドは思った。
明日は森へ帰るはずだ。その後は?
戦況は厳しさを増している。このままでは、このリオネス砦の周囲は今まで以上の激戦区になる。そうなったら、近隣の村の村人は――自分たちは。
”いつか”を約束できるのは、明日が見えている時だけだ。
少なくとも、今は違う。
ふいに直面した事実に、それまで無視しようとしていた不安が急速に押し寄せてくる。ユッドは慌てて、自分を誤魔化すように口を開いた。
「そうだな、いつか、この近くの村に畑があるから、ええと――いつか…」
けれど、その言葉はおしまいまで言うことが出来なかった。
言い終わらないうちに、ふいに、重たい、空気の震えるような振動が響いてきたのだ。
「…何だ?!」
ずずん、ともう一度。足元から突き上げてくるような振動と、甲高い音。そして悲鳴。
全てが、僅かの時間に起きた。
何か大きなものが放物線を描き、空中を横切って丘の斜面へと消えてゆく。空気が揺れ、悲鳴が上がる。
「投石…?」
昼間見た、新しい兵器のことをとっさに思い出していた。
だが、投石機は砦の中、丘の麓に組み立てられていた。丘の上を攻撃している物体は、川の向こう側から来ている。
「まさか。」
ユッドはとっさに振り返り、背後の流れの対岸を、さっきリュカが見つめていた西の荒野のほうを見やった。
目を凝らすと、その奥に明かりのようなものが微かにチラついている。
(あそこに何か居る…)
だが、考えている時間はほとんど無かった。
丘の上の、まだ無事な見張り台から、けたたましい警戒音が響き渡ったのだ。
「敵襲! 敵襲! 全員防衛体制!」
しかも響き渡る伝令の声は、川向こうから攻撃してくる投石機ではなく、別の脅威のほうを告げた。
「砦入り口に竜人族の小隊! 五体ほどが門に体当りしてる! 急ぎ迎撃に向かえ!」
「な、このタイミングで…?!」
「ユッド、間違いありません。入り口のほうから竜人族の気配です」
隣を見ると、リュカのほうは剣を手に、既に臨戦態勢に入っている。
「注意を逸らされている間に、接近されたようです。徒歩にしては早すぎる。おそらく、川を下ってきたんだと思います」
「川を下る、って…そんな、船でもあるまいし…って、やべ! オレ、武器なんて持ってきてない! 戻らないと」
慌てて駆け出すユッドの後ろから、リュカもついてくる。
けれど、砦の入り口に近い兵舎の前まで戻ってみるとそこは、叩き起こされて次々に駆け出してくる新兵たちでごったがえしていた。しかも、何とかして門を守ろうとする熟練の兵士たちが駆けずり回り、とても自分の部屋に取って返すどころではない。
敵が門に体あたりする、激しい音が響いている。
元々、敵が直接攻め込んでくる想定ではなく、それほど頑丈には作られていなかった門は、竜人族の怪力の前に成すすべもなく打ち破られた。閂が折られ、蝶番ごと吹き飛ばされる。
「門が破られた! なだれ込んでくるぞ」
「防御柵を! 槍を使え、訓練通りに――」
だが、力任せに押し入ってきた竜人の巨体を見るや、それが初見の新兵たちは、まるで蛇に睨まれた蛙のように固まったまま、動けなくなってしまった。
昨日のユッドと同じだ。
戦うどころか、逃げることすら出来ない。思考が停止して、頭の中が恐怖で一杯になってしまうのだ。
「何をしている! 動かなければ死ぬぞ!」
熟練兵たちの声が飛び、ユッドは、はっとした。
「そうだ、武器庫だ!」
兵舎に戻らなくても、予備の武器なら、丘の中腹の武器庫にもあったはずだ。
踵を返し、彼は、人の流れに逆流するようにして武器庫を目指した。ちょうど投石機が組み立てられて置かれているあたりだ。
だが、入り口に近い場所にあった剣を適当に掴んで駆け出したちょうどその時、目の前の暗い夜空から、頭上を飛び越えて背後へと炎の塊が投げ込まれた。
「――あっ…火炎弾…?!」
為すすべもなかった。
油樽と松明が着弾し、樽が壊れた衝撃で飛び散った油が燃え上がる。
武器庫の入り口は一瞬にして炎に包まれ、近づくことも出来なくなってしまった。
「嘘、…だろ」
「敵が来ます!」
呆然としかかっていたユッドは、リュカの呼ぶ声で我に返り、慌てて注意を背後に向けた。
丘に続く坂道を、手に大きな戦斧を握った大柄な竜人が一体、突進してくる。
足止めしようと立ち向かう人間には目もくれず、一直線に丘の頂上を目指そうとしているのだ。
(こいつ…。この上に何があるのか、知っている…?)
ユッドは、思わずぞっとした。
丘の頂上には、司令はいないが、司令室がある。作戦会議に使う地図や資料、これまでの記録を記した日報や、軍事費も保管されている。
だとしたら敵は、ただ野蛮なだけの辺境人でも、知能の低い力任せの猛獣の群れでもない。
戦略を立てて効率的に敵を排除するだけの知能と、命令に従う兵士という統制をもった、紛れもない「軍隊」だ。
その時、目の前を、黒い影が素早く過ぎった。
「リュカ!」
小柄な少年は、ひらりと宙を舞い、大柄な竜人の首筋めがけて攻撃を繰り出した。
美しい、黒銀に輝く剣が弧を描く。ほんの一瞬のことだ。
反撃のそぶりをする隙すら与えられずに、竜人の巨体は、首筋からどす黒い血を吹き上げながらゆっくりとその場に落ちていく。
(凄い…相変わらず)
月の輝きの中に、着地した少年は、顔色一つ変えず剣についた露を払った。呼吸一つ乱していない白い端正な顔立ちは、まるで幻想の世界から浮かび上がったかのようで、こんな時だというのに、思わず見惚れてしまう。
「…ユッド? 大丈夫ですか」
名を呼ばれ、はっとする。
そうだった。今は、ぼんやりしている暇などない。
ユッドの耳に、四方から響いてくる悲鳴や馬のいななきが届き始めている。
状況は明白だ。門を破られ、しかも川向うには敵の別働隊までいる。砦は陥落寸前だ。
投石機による撹乱と、その隙を突いた正面突破。そして中枢狙いの攻撃。
(…司令室の位置も、武器庫の場所も正確に知っていた? それだけじゃない…もしかしたら、いまが”英雄ラーメド”が不在のことすら…?)
だとすれば、レグナス砦が陥落したという話と無関係なはずがない。
敵はこちらの体制が整う前に、残る邪魔者、このリオネス砦も、一気に攻め落とすつもりなのだ。
砦のあちこちで、同じようにして投げ込まれる火炎弾の火の手が上がっている。
「新兵は消火に回れ! 無理に応戦する必要はない。急げ! 桶を!」
(幸い、統制は効いてる。入り込んだ敵さえ倒せば――まだ守れる!)
武器庫のほうにも、水桶を手にした仲間たちが駆け上がってくる。幸い、数日前に雨が降っている。この季節はさほど乾燥していないし、今夜は風もほとんどない。敵が邪魔さえしなければ、類焼する前に消し止められるはずだ。
ユッドは素早く頭を切り替え、自分の頬をピシャリと叩いた。
「リュカ! あとで何でもする。だから今だけ力を貸してくれ。まずは入り込んだ敵を倒す」
「構いませんよ。目の前で人が死ぬのを見ていたくはないですから」
さらりと言って、少年は、鮮やかな緑の瞳でざっと風景を見回した。
「敵は残り二体ですね。この砦の皆さんが応戦しています」
「そこに援軍に行こう。まず近いほうから」
「はい。」
気配で位置がわかるらしく、リュカは先陣を切って駆け出していく。ユッドも後を追った。
建物の間の狭い通路には、敵の侵入を拒むための、尖らせた棒を固定した防御柵が設置され、樽や土嚢を積み上げて固定されている。小柄なリュカは身軽にその飛び越え、ユッドは、脇の隙間を通り抜ける。大柄な竜人なら、柵を壊さない限りは先に進めない。
やがて、通りの柵の前で、一体の竜人が槍を構えてた熟練の兵たちと交戦している場面が見えてきた。
それほど広くもない空間で、竜人は前後を塞がれたまま、闇雲に腕を振り回している。力いっぱい殴られた建物の壁が崩れ落ち、瓦礫が降り注ぐ。それを避けながら、槍を構えた兵士たちは、前後から隙きを突いて攻撃を繰り出している。
硬いうろこに覆われた体は、そう簡単には攻撃が通らない。狙える場所は、関節の裏側など柔らかい部分だけだ。
そして体液には、毒が含まれている。体内に入らなくても、浴びるだけで火傷のような火膨れが出来る。慣れない兵たちが槍を使っているのは、返り血を浴びないためなのだ。
どう手を貸すべきか。ユッドが考えるより早く、リュカが小さな声で囁いた。
「行きます」
振り返った時にはもう、少年は、身軽に壁を伝い、建物の屋根の上に駆け上っている。ほとんど飛んでいるのかと見まごう身軽さだ。
竜人が、何かに気づいたように視線を頭上に向けようとした。
その瞬間、月明かりを背に、黒銀に輝く剣が真っ直ぐに、敵の脳天に深々と突き刺さった。
「ガッ」
小さな声を上げ、竜人の手から武器が落ちた。
「な?!」
前後を取り囲んでいた兵士たちは、完全に虚を突かれた様子であっけにとられている。
巨体がぐらつき、地響きを立てて地面に倒れ込む。下敷きになるまいと、兵士たちは慌てて槍を手放して飛びすさった。
「失礼しました」
ぺこり、とお辞儀をひとつ。それから、少年は、平然とした顔で絶命した敵の脳天から武器を引き抜いて血を払った。
「ユッド、あと一体です」
「あ、ああ。行こうか」
痛いほどの視線と、何か聞きたそうな雰囲気を背後に感じながらも、ユッドは、リュカの後を追いかけることに専念した。今は、説明に時間をとられている余裕はない。
広場を通り過ぎると、人の気配が一気に無くなった。
積み上げられた木箱に燃え移った火が、まだ、近くで小さく燃えている。辺りは水浸しで、誰かが投げ捨てたらしい水桶が転がっている。踏み荒らされた地面に残る大きな足跡と、尾を引きずった跡からして、どうやらここは一度、戦場になったらしい。
広場の隅に寝そべっている兵士の姿に気づいて、ユッドは、足を止めた。
「どうした? 怪我でもしたのか」
近づいて声をかけ、助け起こそうと顔を覗き込んだ彼は、思わず息を呑んだ。
――死んでいる。
あらぬ確度に曲がった首。投げ出された四肢。そして、夜空を見上げている光を失った両目。
それは、彼が生まれて初めて見る、「戦死者」というものだった。
「そん、な…」
思わず地面に膝をついてしまった。
当たり前だ。これだけの惨状だ。夜半の奇襲、しかも砦の中まで攻め込まれて、全員が無事で居られるわけなどない。
胸にこみ上げる不快感をぐっと飲み下し、ユッドは、唇を引き結んだ。
「…ユッド」
「知り合いじゃ、ない。だけど顔は見たことがある。…新兵仲間だ」
目尻を拭って、立ち上がる。
「…あと一体なんだよな? どっちだ」
「それが…気配が遠ざかっていきます」
「遠ざかってる?」
「この方向です。おそらく砦の外へ向かおうとしているのかと」
リュカの指差した方角は、確かに、破られた門へと続く道だ。
「まさか、逃げるつもりか? 戦略的撤退、とでも? ――奴らに、そんな判断する頭があるっていうのか」
「急ぎましょう。まだ追いつけるかも」
二人で門の前まで駆け戻ってみると、ちょうど、追撃を振り払いながら、破られた門の向こうの闇の中へ消えてゆこうとする、妙に小柄な竜人の姿が見えた。首の周りに布を巻いているように見える。
(もしかして、あいつがこの奇襲の指揮官、とか? まさか…な)
「追いますか?」
リュカが尋ねる。
「いや。罠かもしれない。それに今は、砦の被害を確認するほうが先決だ。怪我人がいたら助けないと」
「判りました」
剣を腰の鞘に収め、少年は素直に頷いた。
「手伝いますよ。解毒くらいなら出来ます」
「ああ。助かる」
いつしか、川向うからの投石機の攻撃も止んでいた。砦を落とすことが不可能だと思ったのか、弾が尽きたのか。
放たれた火は、ほとんど消し止められている。
「周囲の哨戒を!他に敵が近くに潜んでいないかを警戒しろ。夜が明けるまでは警戒態勢を解くな」
「怪我人は医療室へ。死者は広場の角へ集めろ。各班、人員の点呼と状況の纏めを!」
あちこちで、指示と状況報告の声が飛んでいる。ユッドは、忙しく走り回る兵士たちの間にカリムの姿を見つけて、少しほっとした。
犠牲は出たものの、少なくとも「壊滅」という状況は免れた。
ただし、考えなければならないことは沢山ある。
今回の襲撃は、どう考えても奇妙だった。
これまでの竜人族のやり方とは違いすぎる。――いや、そもそも”今までの”やり方に対する認識自体が、もしかしたら間違っていたのかもしれない。
(奴らは、ただの…未開人じゃなかった)
その事実を、ユッドは、苦い思いとともに噛み締めていた。
夜空に立ち上る、救援信号の煙。
けれど、それを見られる範囲にあるもう一つの前線基地、レグナス砦は、既に無い。せいぜいが、近隣の村に警戒を告げることくらいしか出来ない。
誰もが不安のままに夜を過ごし、夜明けの時を待っている。
均衡した緊張で済んでいた日々は、終わりを告げたのだった。
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