第6話 帰還(1)
身じろぎして、うっすらと瞼を開けたユッドは、そこが見慣れた兵舎の中ではないことに気づいて、困惑ながら起き上がった。
(あれ…? どこだ、ここは…)
岩を削って作られたなめらかな天井と壁とが見えている。
窓から差し込むうっすらとした朝日。整えられた、どこかの民家のような部屋。
寝ぼけ眼に視線を巡らせているうちに、昨日の出来事が蘇って来た。その瞬間、眠気が吹っ飛んだ。
「そ――そうだ! ここは妖精の森…うわっ」
勢いよく起き上がった弾みで落っこちそうになり、彼は慌ててハンモックの網にしがみついた。
自分でも恥ずかしくなるほどの狼狽振りだ。昨日の出来事が夢ではなかったのだと改めて確かめながら、おそるおそる、壁のはしごを伝って床に下りる。
そんな大騒ぎにも、誰も何も反応はしなかった。
家の中は静まりかえり、何者の気配も無い。ただ、昨日は椅子の背にかけてあった繕いかけのマントが消えていて、机の上には鞘に入ったままの小型の剣が一振り、無造作に置かれているところからして、家主はどうやら、ユッドの眠っている間に戻ってきて、またひっそりと出かけてしまったものらしい。
「剣、か…。」
呟いて、ユッドは、何の気なしにそれを取り上げてみた。何の飾り気もない柄と、木の皮をなめして弦を使ってつなぎとめた鞘。その剣は、想像していた重さからすると羽根のように軽く感じられた。
(…何で出来てるんだろう、これ)
ただの鉄でないことは確かだが、材質は見当がつかなかった。それに、妖精族が武器を手にするなどという話は一度も聞いたことが無い。まさか、あの華奢に見える少年が鍛冶仕事をするとも思えず、もしかしたら、妖精族の魔法か何かで作った武器かもしれない、と思った。
家の中に、他には特に眼を引くものは無かった。ユッドは、剣をそっと元の場所に戻してから、外に出た。
朝日とともに、澄んだ朝の森の空気が押し寄せてくる。
頭上からは鳥の声が降り注ぎ、高い梢はまるで精緻な模様のように天を覆う。差し込む光のヴェールのせいで、森の中は、まるで巨大な柱に支えられた宮殿の大広間のようにも見える。
陽だまりに咲く白い花の香り、それに、分厚く一面に敷き詰められた緑の苔の絨毯。
(昨日も思ったけど、凄い森だよなぁ…)
妖精族の住むナワバリといえば、定番は森や泉だが、せいぜいが田舎にある小規模なものだと思っていた。これほど古く広大な森がルナリア王国の中に存在することすら、ユッドは、想像すらしていなかった。
そもそもが、妖精族の”領界”は人の支配領域では無く、地図には描かれることが無いのだ。
(そうだ。…妖精族の住処なら、地名だって無い。昨日、リュカは「サウィルの森」って言ってたけど、そんな名前は、砦で見た地図には載っていなかった…。)
ここは人間の世界には属していない。本来なら自分が踏み込んでよい場所ではないのだと、ユッドは、改めて思った。
とはいえ、今ここにいることは現実だ。
これからどうしたものかと周囲を見回していたとき、ふと彼は、家の前に微かな踏み跡があることに気が付いた。どこかに通じる小道らしい。
何気なくそこを辿り始めてしばらく行くと、やがて、木立の向こうから光が射してくるのが見えた。きらきらと水面が輝いている。岩の合間から流れ出す細い水の流れの先に繋がっているらしい。
(――湖…)
思わず歩調を速めた。
透明な水を湛えた大きな湖は、静かに透き通って空の色を写している。
しばしそれを見つめていると、どこかから、険しい声が飛んできた。
「おい、そこの
振り返ると、昨日の白い女が盛り上がった大樹の根の上に立って、こちらを睨みつけていた。身につけた薄い布きれが、風に舞うように膨らんで、まるで花弁が揺れているかのようだ。
「勝手にウロつくな!」
「え、いや…だって、家に誰もいなかったから…」
「まったく」
フィリメイアは鼻を鳴らし、ぶつぶつ言いながらそっぽを向く。
「遠慮というものを知らない。これだから
昨日は死に掛けて姿が半透明になっていたというのに、今朝は、朝の光の中ではっきりと輪郭が見える。それに随分と威勢がいい。
ユッドは、思わず苦笑した。
「まあ、とりあえず、あんたが元気になって良かったよ。」
「な、…」
女がむっとして何か言おうとしたとき、別の声が、湖のほとりから聞こえてきた。
「ユッド、目が覚めたんですね。」
二人は同時に振り返る。
ちょうど、この森の主の少年が、腰までの短いマントを翻しながら身軽に水の流れを飛び越えてくるところだった。小脇に籠を抱えている。
ユッドは、ほっとした表情になる。
「良かった、探してたんだ。どこへ行ってたんだ?」
「朝食を採りに行ってたんですよ。」
「え、――朝食?」
差し出された籠の中には、真っ赤に熟れた果実が十ばかり入っている。
ユッドはきょとんとしたまま、その果実をしばし見つめていた。まさか、そんな気遣いをしてもらえるとは思ってもいなかった。
「これを…食えってこと? えっと、これ、何?」
「ただの木の実ですよ。リコットの実です。美味しいですよ」
「見たこともない…けど、ありが…とう」
果たして妖精族の食べ物など口に合うのだろうか。それに、まさか食べたら二度と外に出られないなどということは…。
少し迷ったが、リュカの屈託ない笑顔を見ると断れなかった。それに、そういえば昨日は、昼食をとって依頼、何も食べていない。
見知らぬ赤い実を一つ摘み上げて、おそるおそる口に運ぶ。皮は少し固かったが、噛み破ると、ぷちっと音がして口の中いっぱいに甘酸っぱい果汁が広がった。
「!」
食べたことも無い味だ。だが、意外にもとても美味しい。いちど食べ始めると手が止まらない。空腹を思い出したとたん、胃袋は猛然と食べ物を求め始めた。一つ、また一つと手が進むうち、かごの中身はあっという間に空になってしまう。
「美味かった! けど、あんたらの分は? もう食ったのか」
「我らは、お前たちのようにガツガツ食べる必要はない」
フン、とフィリメイアがまた鼻を鳴らした。
「ああ――ええと。妖精族は、水があれば生きていけるので、人間ほど食べ物には困りません」
すかさず、リュカが補足する。
「ただ、僕は食べるのは好きですよ。森の実りは美味しいし、年によって出来も違いますから」
「ふーん。メシは、食べても、食べなくてもいいのか。便利なもんだな」
ユッドは、二人を見比べた。
同じ妖精族だというのに、ずいぶんと違うのだ。想像通り、おとぎ話のとおりの典型的な”妖精”と、人間と見まごうような変わり者の”妖精”。
(面白いもんだなあ。)
だが、ゆっくり話を聞いている暇はない。このままでは、脱走兵扱いになってしまう。
「じゃあ、オレはそろそろ帰るよ。皆、心配してるだろうし。宿と飯、ありがとうな」
「真っ直ぐに帰るつもりですか?」
空になった籠を受け取りながら、リュカが訊ねる。
「ああ。そのつもりだ」
「じゃあ、少しだけ待っていてください。準備してきます。――送っていきますよ。まだ近くに敵がいるかもしれないですし」
「え、いや…それは嬉しいんだけど」
言いかけた時にはもう、リュカは家の方に向かって歩き出している。側から、フィリメイアの射るような視線を感じた。
「あーっと、あんたは…?」
「ここで留守番を仰せつかっている。くれぐれも、失礼な態度を取らぬようにな」
真っ白な肌の女は、そう言って、フンと鼻を鳴らしながら腕を組んだ。射るような視線に高圧的な態度は、昨夜からちっとも変わっていない。確かに整った姿ではあるのだが、血の気がない白い肌や、人間的な肉感のないほっそりした体つきのせいか、ユッドには、どうにも魅力的とは感じられなかった。
(美人、って意味なら、リュカのほうが顔立ちは綺麗だな…あれで女の子だったら、惑わされる人間は多そうだ)
彼は、少年が去っていった方角にちらと視線をやった。
雨に濡れた森の木々のような暗い色の髪と、人間のように色つやのある肌。それに、柔らかい口調と雰囲気。人間と友好的に接触するためにその姿をとっているのだとしたら、戦略としては大成功だろう。
「お待たせしました。」
まもなく、リュカが戻って来た。腰には、テーブルの上に置かれていた剣を提げている。
「行きましょうか」
「ああ、それはいいんだけど…」
ユッドは、憮然とした表情のフィリメイアのほうをちらりと見やり、それから、リュカのほうに視線を戻す。
「砦まで送ってくれるつもりなのかもしれないけど、ここを留守にして大丈夫なのか?」
「留守番はフィリメイアに頼みました。何かあれば連絡はくれる手はずなので、大丈夫」
軽い足取りで木々の根の間に歩を進めながら、リュカが言う。
「まあ、それならいいんだけど…。妖精族って、領界から離れないもんだって聞いてたから」
「それは個人差ですね。若い妖精族が自分の領界を持ちたいと思ったら、新しい住処を見つけるために旅をすることになります。花々が綿毛を飛ばすのと同じですよ」
「ふうん。そういうもんなのか…」
けれど、歩きながらユッドは、少し心配になってきた。
ここから徒歩で砦に向かうとなると、たっぷり半日はかかる距離だ。いくら身軽なリュカでも、一日で戻って来られるとは思えない
そう思いながらちらりとフィリメイアのほうを見たが、ため息まじりに小さく首を振るだけで、特に反対もしていない。おそらく最初から、人間の棲み方で一泊することくらいは織り込み済みでの留守番なのだろう。
(まあ、リュカなら大丈夫だよな、きっと。人間にしか見えないし…何も言わなきゃ、たぶんバレない…はず)
少し後ろめたいような気がしながらも、ユッドは、何も言わずに少年を連れていくことを決めた。
無断外泊の理由を咎められたとしても、理由を話せば罰までは受けないはずだ。
砦に戻ったら真っ先に、敵が川を越えて、こちら側に侵入してきていると報告しなければ。
そのことに思い当たった時、ユッドの表情は固く引き締められた。そう、生還して、この情報を仲間たちに伝えて初めて、生き延びた価値がある。
「敵が近くに潜んでるって、皆に早く伝えたいんだ。出来るだけ急ぎたい」
「判りました。森の外へは、こちらが近道です」
少年は向きを変え、どう見ても道など無い木々の合間をひょい、と身軽に飛び越えた。ユッドも慌てて後を追う。
広大な緑の森と、その周囲を囲む花園。そして外に広がる危険な、どこに敵のいるか分からない草原。
けれど、帰還までの長い道のりの不安も、いまは感じられなかった。
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