第5話 サウィルの森の奥
森の主である少年が向かった先は、木立ちに囲まれた湖のほとりだった。
月の輝きを乗せた風が、森を静かに駆け抜けていく。
木立の間から差し込む夜空の光は、鏡のように静まり返った夜の湖面に反射する。静まり返った水面を乱すものは何もなく、光は、澄んだ水の奥底まで届く。そのほとりに佇む森の主の姿は、木立の落とす影の一部のようだ。
ひとつ息をつくと、彼はその場にしゃがみ込み、腰から外した鞘から剣を引き抜いて水に浸した。黒い刃の上には、昼間の戦いでこびりついた、血と肉の不快なぬめりが残されている。それを洗い流し、汚れを浄化しようとしているのだ。
しばし手を動かしていた彼は、ふと、気配を感じて木立の間へと視線を向けた。
「気になる?」
木立の間に隠れるようにして立っていた白い影が、びくっ、と反応した。領界の主ならば、自分の領域の中にいる者の居場所も気配も手にとるようにわかる。隠れる意味など無い。
フィリメイアはおずおずと姿を現すと、言い訳のような言葉を呟いた。
「お邪魔するつもりは、無かったのですが…。」
「もう終わったから、大丈夫」
刃を光にかざして確かめると、リュカは、剣を元通りに鞘に収めた。慣れた所作だ。フィリメイアの好奇の視線が向けられている。
「それは、…人間の使う、ブキ、とかいうものですよね? 材料は妖精族の領界で採れる黒銀のようですが…まさか、ご自分で作られたのですか?」
「うん。森に近づく
「ですが、何も、わざわざ
フィリメイアが眉を寄せるのを見て、彼は、微かに唇を結んだ。無意識にか、僅かに言葉が固くなる。
「我々の領分ではない。人間の真似事などして、しかも領界主でありながら、己の領界まで危険に晒すなど、不相応だと、そう言いたいんだよね」
「あ、いえ、そこまでは――ただ…」
慌てて首を振りながら、それでもフィリメイアは、へりくだった口調のままで、おずおずと口にした。
「貴殿はまだ、魔力が完全に開放されきっていない状態とお見受けする。…差し出がましいようですが、…まだ、”羽化”を迎えておられないのでは?」
「……。」
僅かな沈黙と、静かに揺らぐ鏡のような湖面。
それは、肯定という答えそのものだった。
「…だからこそ、人間の真似事でも、彼らの力を借りるのでも、必要なことなら何でもする。敵はルーヴァ川を越えた。もう、時間が無い。」
「何故、そう焦られる必要が? この森の結界は、今までに私が見て来たいかなる領界のものよりも強い。それに貴殿は、幼体とはいえ、今の魔力でも相応にお強い。恐れることなど無いはずでしょう」
リュカは静かに首を振り、すぐ側に広がる湖面へと視線を向けた。
「このままでは、駄目なんだ」
少しの間。
ゆっくりと、――口を開く。
「千年を生きた妖精は、高みへと引き上げられた魔力によって予見の力を得る。先代の領界主だった母が、そうだった。――彼女はこの森と、妖精族の未来を見た。妖精族は近い未来に衰退し、場合によっては滅びてしまう、という未来を。それにはおそらく、
「! それは…」
「滅びは、いずれ全ての種族に訪れる。運命ならと受け入れるのか、どんな手段を使ってでも足掻くのか。母が選んだのは後者でした。そして、人間の力を借りるために…僕を作った」
少年は、静かに胸に手を当てた。
「人間に似た容姿を与えられ、母の識る限りの人間についての知識と、人間の言葉を教えられた。そして彼女は、『この森に助けを求める者は、何者であれ拒絶しないこと』という掟を課した。母は人間を助けて…命を落としたが…、僕は彼女の思いを継ぎたい。滅びの未来をただ待つのではなく、希望を願いたい」
「――…。」
フィリメイアは、月の輝きを写す水面に反射した光が照らし出す少年の顔を見つめている。緑色の瞳が、微かに揺らめいた。
静かにひとつ息をつき、彼女は、困ったように微笑んだ。
「どうやら私は、とんでもない
「そうだね。今までの妖精族なら、きっとそうだ」
言いながら、リュカは視線を木々の向こうへとやった。
「出来るか、出来ないかではないんです。僕は単純に、この森が好きだから、失いたくないだけ。…母が水に還ったこの場所を、彼女との約束を守りたい。…それだけだ」
妖精族は、死ねば水へと還る。水の流れこそが彼らの墓標だ。
人間のように死体を残さないという点では、竜人族と同じだ。ただ、己の毒によって肉体が自壊する竜人族のように、不快な腐臭を残してゆくことはない。
ふっ、と笑って、リュカは振り返った。
「それも、人間のような感傷だと思う?」
「あ、いえ…」
フィリメイアは、はっとして首をすくめた。まるで感情を見透かされたような気がしたのだ。
月明かりに顔を向ける暗い色の髪の少年の横顔は、幻想的でありながら、不思議と、人間味を帯びていた。その表情に、僅かな哀愁のようなものが宿る。
「妖精族らしくない、とは自分でも思う。今の僕は半端者で、いつか一人前になれるのかさえ分からない。領界を持つといっても、ただ受け継いだだけだ。自分自身で成したことなど、何もない」
「それでも貴殿は、確かに
きっぱりと、フィリメイアは言った。
「受け継いだだけ、と簡単に言われるが、それがどれほど大変なことか。たとえ力を受け継いだとしても、先代の実子でも、
そして、片手を胸に当てながら深々と頭を下げた。長い、白い髪が足元に落ちる。
「リュカ殿。
「ありがとう」
柔らかな微笑みを浮かべていたのもほんの僅かの間のこと。笑みが消えた時、少年は、怜悧な眼差しに変わっていた。
「だけど、彼らとのやりとりまで任せるつもれはない。君には、もう少し他に聞きたいことがあった。
「それは、確かに…。」
「領界が失われた時、何か感じなかった?」
「うーむ」
フィリメイアは、唸って空中で頭を捻った。
「それが…よく判らなくて。急に結界が薄れ始めたんです。異変に気が付いたときにはもう、手遅れでした。そもそも、
「水脈は? 魔力の源である”水源”に何かされたのでは?」
「そうかもしれません。水脈が、あっという間に弱っていったのは判りました。だけど、オアシスの水源は、中心のオアシスの真下…つまり地面のずっと下のほうで、砂の下なんです。どうやって手出しをしたのか…わからない」
「そうか…。」
リュカは口元に手をやり、考え込む。
「…きっと何か仕掛けがあるはずだ。もしも敵が、僕らに対抗できる手段を手に入れたのなら、他の領界も、もはや安全では無いと思う」
彼の言葉にフィリメイアは息を呑み、困惑した表情になった。
「でも、それは…」
「そう。母が予見した『滅び』…は、もしかしたら、もうとっくに始まっているのかもしれない。」
緑の瞳は、湖の上に広がる遠い夜空をじっと見上げている。
人間や竜人が「攻め」を得意とする種族なら、妖精族は、「守り」に徹する種族なのだ。高い魔力を持ってはいても、それを戦いに使う術はほとんど持たない。もしも竜人族にが戦いを挑まれたとしても、結界を強化し、自分たちの領界に閉じこもるしかない。
その領界が、もはや安全ではないのだとしたら…
少年は、腰に下げた剣の鞘に指を滑らせた。
「――調べないと。竜人族が、どうやって領界の結界を破った方法。それに…なぜ急に勢力を広げ始めたのかも」
月の光が揺れる。
「手段を選んでいる場合ではなさそうだな」
強い意志を宿したつぶやきが零れ落ち、その響きに呼応するかのように、静かな湖面に小さな水紋が広がった。
森の木々が微かにそよぐ。
月の光が黒い森を照らし出す。
大陸の三種族の未来をかけた選択は、その時、既に始まっていた。
けれど彼らは誰一人、まだ、そのことを意識していなかったのだった。
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