第4話 妖精の住処(2)
”領界”は妖精族の住むいわば「ナワバリ」のようなもので、そこに住む者に招かれない限り中に入ることはできない。無理やり入り込もうとすると、二度と戻ってこられないこともある。――
そういう話を覚えていただけに、花畑を越えて森に入る時には緊張したものだが、実際は拍子抜けするくらい何も無く、特に違和感を覚えることもなかった。
けれどその先に広がる光景は、ユッドがそれまで見てきたあらゆる森とは違うものだった。
そこは、信じられないほど深い、恐ろしく巨大な森の中だった。
すべての木々が齢千年をゆうに越えていそうな太さ。苔むした岩が転がる崖のような斜面に絡まる木々の根はまるで生き物のようで、その間を涼やかな音とともに流れ落ちる幾筋もの小川は、細い白糸を無数に垂らしたかのようだ。
西へと去り行く太陽の日差しは、分厚い緑の天井を越えてくることは出来ず、足元はすでに暗い。それでも不思議と明るく開放的な雰囲気があるのは、木々の多くが真っ直ぐ高く空に向かって枝葉を伸ばし、その合間に白い、昼間の輝きをたたえた名も知らない花々が揺れているからだ。
水の流れと、光と、溢れんばかりの太古の緑――。
これが、妖精族の住む領域だった。
確かに木々の後ろから絶世の美女がふわりと現われてもおかしくないような、この世ならざる場所だった。
けれど不思議と居心地がよく、拒絶されている感じは全然しない。それは、森の住民の心を反映してのことだろうか。
「着きましたよ、あそこです」
先を歩いていたリュカが足を止め、木立の奥を指差した。岩の間に扉が取り付けられているのが見える。
「地下世界への入口?」
「まさか。」
くすっと笑って、少年はドアを引いた。
「入口は少し屈んでくださいね。頭をぶつけないように」
中に広がっていたのは意外にも、ごく普通の”居間”――そう呼ぶのが正しければ――だった。
床に敷かれた簡素な絨毯と、机と椅子。振り返ると台所らしき場所が見え、見上げると、岩をくりぬいて作った高い丸天井の上の方にハンモックや籠が吊るされている。ランプに削りかけの丸木とナイフ。それに繕っている途中の短い外套。ここが妖精族の森の奥でなければ、街道の外れにある小さな村の民家と言われても納得するような素朴な雰囲気だ。
「そこの長椅子に、彼女を寝かせてください」
言いながら、リュカは椅子の上にかけたままになっていた上着を取り上げた。
「散らかっててすいません」
「いや、全然…うちの宿舎よりは片付いてるくらいだよ」
担いできた妖精族の女を寝かせながら、ユッドは、なおも視線を巡らせていた。
「なんか、人間の住処とほとんど一緒だな…本当に、ここに住んでるのか?」
「ええ」
「妖精族ってのは、お花畑とか木の上とかで寝てるもんかとばかり」
ユッドが言うと、リュカは苦笑した。
「晴れた夏の日に外でハンモックを吊るすのはいいですね。でも、今の季節はあまり気持ちよくないです。…よその領界のことは知らないですけど、ここは昔からずっとこうですよ」
「意外だな。オレたちとあんまり変わら――」
「…うう」
振り返ると、ちょうど女が頭を抑えながら起き上がるところだった。
不安げに周囲を見回し、リュカに視線を止めると、困惑したような口調で何か呟いた。ユッドには分からない言葉でリュカが答え、ちらとユッドのほうを見て人間の言葉に切り替えた。
「ここは、サウィルの森。彼はユッド、人間ですが…ここまで、この人が運んでくれたんですよ。」
「……。」
真っ白な長いまつげをしばたかせ、女は、うさんくさそうにじろじろとユッドを見回した。
が、すぐに視線を逸らし、リュカのほうに向き直ると床に膝をついて何か言いながら頭を深々と下げた。
「え? いや、大したことは」
女は構わず床につくほど頭を下げ、ひたすら何か言っている。リュカは困った様子だ。
「…何て、言ってるんだ?」
「お礼を言われてるだけなんですが」
「おい、人間」
女は、いきなりぎろっとユッドをにらみつけた。妖精族の言葉ではない。ユッドにも判る、人間の言葉だ。
「さっきから無礼極まりない。何だ、その口の利き方は?! この方は、ここの”ファリア=エンダ”様だぞ!」
「へ? ファリア…何?」
「
「え、…え?」
「えっと、説明します。」
慌てて、リュカが割って入る。
「僕らは、自分たちの支配する領域のことを
「そうだ。そして、力ある主ほど大きな
「なるほど…? ということはつまり、あんたは、ここの”王様”なわけか。それも、これだけ巨大な森を維持できる、妖精族の中でも、わりと偉い王様?」
「いえ、それほどでは…。この森は母が育てたものですし、僕は、受け継いだばかりなので…。」
リュカは、何故か歯切れ悪く言ってから、急いで話題を変えた。
「それより、話を聞かせて欲しいんです。あなたの身に起きたこと、何故、ここにいるのかということ。名前は?」
リュカに言われて、女は、慌てて居住まいを正した。
「…私の名は、フィリメイアという。どうぞ、よしなに」
立ち上がると、女は――身長は、リュカやユッドよりずっと高い――容赦なくユッドを見下ろしてきた。真っ白な髪は足首に届くほど長く、身につけている薄い衣の下からは象牙のようななめらかな白い肌が覗く。黙って立っていれば美女なのだろうが、高圧的な雰囲気と明らかな敵意のせいで、あまり好意的な印象は抱けない。
(学校で聞いた話のまんまだ…見た目も、態度も。多分、こっちが本来の妖精族の反応、なんだろうな。)
髪も服も真っ白で古風な美女。それに、気位が高く気まぐれで、人間とは相容れない。
まさに「おとぎ話」そのものの妖精を前にして、ユッドは、妙に感動した。
(…てことは、やっぱ、リュカは例外なのか)
最初に出会った少年――そもそも妖精族に「男性」というのが存在することすら意識していなかったのだが――のほうは、見た目も、態度も、フィリメイアとは正反対なのだ。
けれど話からすれば、この少年のほうが妖精族としては「位が高い」らしい。
実際、フィリメイアは、リュカの問いかけには、やけに従順だった。
「私の本来の住処は、ローウェ・オアシスだ。ほんの小さな湧き水と、その周囲の緑だけ…ささやかながら、そこが私の
「”奴ら”?」
「
「そんな、有り得ないだろ」
ユッドは、思わず声を上げた。
「妖精族のナワバリってのは、他の種族を拒む絶対の領域じゃないのか? 魔法で結界だって作り出せる。だから人間も、竜人も手出しはしない。そう聞いてる――」
「それは、人間の思い込みですよ」
リュカは、少し悲しげな顔をして視線を窓のほうに向ける。
「僕たちは、清らかな水とともにしか生きられません。水源が汚されたり、水を断たれたりすれば、領域の守りは簡単に失われます。過去、人が川の流れをせき止めたり、町を作って地下水を汚したりしたことで幾つもの領界が失われてきました」
「そうだ。小さな
フィリメイアと名乗った女は、きっとした視線をユッドに向けた。
「人間どもときたら、家畜を連れてぞろぞろやってきては水場を汚して去って行く。キャラバン、とかいうやつだ。連中が通り過ぎたあとはいつも掃除が大変で…だがもあの日は違っていた。押し寄せてきたのは、礼儀を知らんトカゲどもだった。」
「気が付かなかったんですか」
と、リュカ。
「ああ…
女は腹立たしげに足を組んだ。
ユッドは女の高さが変わっていないこと、――つまり足を組んだまま元の位置に浮かんでいることに気づいたが、思わず上げそうになった驚きの声を我慢して飲み込んだ。今は、話の腰を折っていい場面ではない。
「それで、私は逃げた…他のオアシスを点々としながら。そこも、全て仲間が消えていた。それで、気がつけば荒野を越えて、ここまで来ていた」
浮かんだまま、女は大きな溜息をついた。
「…新しい住処を見つけるにしても、どっちへ向かえばいいのかも分からない」
「それまで、ここに住んでもいいですよ」
リュカは、同情するような表情で女を見上げた。
「元の住処とは勝手が違うと思いますが、この森なら広さは十分ありますし。」
「お心遣いは感謝する、しかし――」
胡散臭そうな目で、ちらりとユッドのほうを見る。
「あー、えっと…。オレは別に、ここに住んでるわけじゃないから。」
彼は、慌てて言った。
「あんたを運ぶのを手伝っただけだ。オレも、明日には帰らないと」
「ふむ…」
何か言いたげな顔でユッドをじろじろ眺め回したあと、彼女は、納得がいかないという表情で、小さく呟いた。
「
リュカは、何も言わずに曖昧な微笑みを二人に向けた。
やがて彼は、話を打ち切るように、静かに言った。
「フィリメイア、この先に森の水源があります。体力を回復してきては?」
「水源?!」
女は眼を輝かせた。
「ありがたい。行って来ます!」
言うが早いか、飛ぶように、いや、文字通り”飛”んで、小さな窓を擦り抜けるようにして外に飛び出していった。
ユッドがぽかんとしているのを見て、リュカはくすくす笑う。
「そ、そんなに笑うなよ。その…。妖精族なんて、間近に見るのは初めてなんだしさ…」
「
彼は、フィリメイアの擦り抜けていった窓の外に視線保やった。
外はもうすっかり夜になっている。木々の生い茂る森の中には夜行性の動物たちの声が響き、涼しい春の夜風が流れこんでくる。それに混じって、かすかに、あの白い花の香りがした。
「なあ、さっきの話だけど。――本当に、ここに住んでるのは本当にあんただけなのか? こんな広い森なのに」
「ええ。領界に領界主しかいない、というのは珍しく無いですよ。妖精族には、寿命があってないようなものなので。長生きする者もいれば、短命の者もいる。それに人間ほど頻繁には増えませんから」
「ああ、そっか。そういや、そうだったな。ということは、あんたも、人間よりはずっと年上なのか」
ユッドは頭をかく。
「いやー、悪い。つい見た目通りなつもりで話してた。そうだよな、千年も生きるような種族じゃ、親戚とかいう感覚もないだろうしな」
「……。」
僅かな沈黙。それから、リュカは、それとなく話題を変えた。
「…フィリメイアの言ったことが、気にかかりますね。彼女の住処はどの辺りだったんでしょうか。オアシス、と言ってましたが…、この近くの地名ではないですよね?」
「ああ、オアシスってのは砂漠の奥地だな。ちょっと待ってろよ。えーっと…」
言いながら、ユッドは肩に提げていた革鞄の中を探った。この辺りの地形の簡易地図なら、ちょうど、斥候に出る時に受け取っている。
丸めて防水紙に包んでいた包みを探り当てると、彼はそれを、部屋の真ん中の丸テーブルの上に広げた。
「これは…話に聞く、地図、とかいうものですか」
リュカは、興味深そうに図を眺めている。
「そうだよ、妖精族はこういうのは使わないんだっけ? 見方を説明するとだ、この細長いのがルーヴァ川。この×印が俺の来た砦。で、こっちが街道。あと近くの村、今いるこの森は…、これだな。」
指で、次々と図の上をなぞっていく。
「で、オアシスってのは、――この、地図のはしっこの、荒野のあたりだ。ほら。海の国、って書いてあるだろ。その手前の」
「…人間の文字は、読めないんです」
「あ、そうか。えーっと…海の国っていうのは、海沿いにある国の集まりのことだ。荒野の西側の海沿いにある国はしょっちゅう名前や王様が変わるんで、まとめてそう呼んでるんだ。荒野は、オレたちの国と海の間にあって…南のほうから、竜人族が北上してくる通り道にあるんだ」
地図にない場所は、指で机の上をなぞるようにして説明する。
話しながら、ユッドは、いつしかここが妖精の森の中だということを忘れそうになっている自分に気がついていた。思いのほか居心地のいい、この家のせいもあるかもしれない。
「ということは、フィリメイアが遭遇したのは、南から新たに北上してきた竜人族、ということかもしれませんね。敵の数が増えているのかも。…ユッド、そういう話を聞いたことは?」
「いや、無いよ。というか、ルーヴァ川から西へは斥候を送れないんだ。危険すぎて。…けどさ、もしそうだとして、どうして途中で妖精族を襲ったりするんだ? あいつら、いつの間に妖精族まで敵に回す気になったんだ」
「――わかりません。今までに起きたことのない事象が起きているようです。妖精族の領界を奪う方法は無くはないですが、力技では結界は破れ無い。人間が知恵を使ったならいざしらず、一体、どうやったのか…」
少年の声は、重く、沈み込むようだ。
「今の竜人族に、そんなことが可能なら…もしも、他の領界も同じように攻撃されていたら…」
「まさか。もしそうだとしたら、あんただってとっくに知ってるんじゃ?」
「…妖精族は、あまり仲間同士で連絡を取り合ったり、協力したりしません。遠くで何か起きていても、自分の”領界”に関係なければ、気づきようが無いんです」
「……。」
しばしの沈黙。
ユッドは慌てて、出来る限りに明るい声で話題を変えた。
「ああ、でも、ほら。あんた強いじゃないか。今日、一人で二匹も竜人族を倒しただろ? しかも一人でさ。あんなの出来る奴は、人間にもそうそういないぞ。妖精族ってのも強いもんだな」
「いえ、…それは…」
「あれも、妖精族の魔法とかなのか?」
ユッドに無邪気な笑顔を向けられて、少年は何故か、僅かに表情を曇らせた。腰の剣に、それとなく指を滑らせる。
「僕は、…変わり者なだけです。それに、その――あまり魔力が強く無いんです。だから少しでも補佐するものが欲しくて、人間の真似をすれば少しはまともに戦えるかも、と思っただけで…。」
「そうなのか? まあ、でも、全然戦えないよりはマシだろ? オレなんて、怖くてまともに立ち向かうことも出来なかった。」
「初めての時は、誰でもそうですよ。慣れればきっと」
「そうだといいんだけどな」
「心配しても、今は仕方ないです。――さて、そろそろフィリメイアの様子を見てきます。休むときは、そこの長椅子か、上のハンモックを使ってください。」
ふいに話題を断ち切るようにして、そう言い残すと、リュカは、返事も待たずに入口から外に出て行ってしまった。
扉の外には、夜の静けさに包まれた森が広がっている。
一切の明かりのない暗がりだ。空が木々の枝葉に覆われて、星あかりさえ届かない。そんな暗がりの中でも明かり一つ持たず平気で出ていくところを見ると、妖精族はどうやら夜目の効く種族らしい。
一人残されたユッドは、地図をくるくると丸めたあと、長椅子とハンモックとを見比べた。多分、自分が使わなかったほうが、この家の主の今夜の寝床になるのだ。
――そう考えたあと、せっかくだから、と天井近くに揺れているハンモックのほうを試してみることにした。
もう、外は真っ暗だ。
それなのに、灯りもない家の中は足元が見えるほどの明るさで、ユッドの目でもどこに何があるのか見分けがつく。それがどうしてなのかに気づいたのは、ハンモック目指して壁のハシゴを登り始めた時だった。
部屋の四隅に目立たないよう、明るい輝きを放つ石が埋め込まれて、その光が壁に反射して家の中を明るくしているのだ。
(へえ…。本当に人間の家みたいなつくりなんだな、ここ)
そのお陰なのか、異界に迷い込んだ不安はない。
木の弦で編んだハンモックに滑り込むと、どっと疲れが押し寄せてくる。官給の派手な色をした上着を脱いで枕代わりに畳みながら、彼は思わず溜息をついていた。
(はあ、今日は色々ありすぎた…)
竜人に毒矢で殺されかけ、妖精に命を救われただけでも、一生分の経験を一日でたしたような気分だ。それどころか妖精と竜人の戦いを目撃し、領界に招かれ、妖精族の家に泊めてもらうことになるとは。
(明日、砦に帰ったらカリムの爺さんに自慢できるな。明日には…帰…れる…)
瞼が落ち、思考が途切れる。
深い眠りに落ちてゆくユッドの側を、銀色の輝きをまとう蝶が一匹、壁をすりぬけて、ふわりとどこかへ消えていった。
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