第3話 妖精の住処(1)
森を取り巻く草原は、良い香りのする白い花に覆われている。
とても綺麗な花だ。出来るだけ踏みつけないように歩きたいのに巧く行かない。そんなユッドの隣を、リュカは、涼しい微笑みを浮かべて花畑の中を、まるでそよ風のように歩いていく。草を踏みつけることも、花を散らすこともない。
「気にしなくても大丈夫ですよ、この花は母が品種改良したもので、とても丈夫なんです。踏まれても、次の日には起き上がりますから。」
「妖精族ってのは、ずいぶん身軽なんだな。よく、そんな風に歩けるもんだ」
「それは、褒められているんでしょうか。こういう時は…『お褒めに預かり光栄です』とか、ですか?」
「あー、まあ。それでも間違ってはないけどさ…」
さっきから、妙に会話が噛み合っていない。それは、言葉の意味が通じていないというよりは、世間知らずというべきズレのせいだ。
(そりゃ、そうだよな。人間世界のことなんて知らないだろうし…)
それでも、人間の言葉がきちんと通じているだけ珍しいと思った。
妖精族は、人間とは寿命も価値観も全く違う。自分の縄張りから出て来ることも、人間に興味を持つこともほとんど無く、興味を持ったとして、暇つぶしや玩具くらいの感覚で接してくることが多いと言われている。人間の言葉を知っていて、普通に会話が成立するだけでも貴重な存在なのだ。
「なあ、そういえば、あんたはどうしてオレを助けてくれたんだ」
「どうして、とは?」
少年は、不思議そうな顔で振り返る。
「いや…。わざわざ人間に姿を晒して助けてくれるような妖精族なんて、そうそう居ないだろ?」
「自分の家の前で死なれたら、嫌ではないですか?」
「それは…まあ。だけど、それだけで?」
「他の理由…というと、そうですね。…ユッドを見つけたのは、ドラ…あ、人間の言葉だと、
淡い緑の瞳が、微かに強い輝きを帯びる。
「僕たち
「……。」
ユッドは、途中で別れたカリムのことを考えていた。確か、もう少しこの辺りを見回りしてから砦に戻る、と言っていたはずだ。
カリムは、この戦争の初期から砦に詰めている熟練の兵だ。自分などよりはるかに経験と機知に富んではいる。少なくとも、敵と遭遇したくらいで動揺はしないだろう。
とはいえ、既に全盛期を過ぎた老齢の身、しかもたった一人だ。もしも途中で竜人族に待ち伏せされていたら、果たして無事で逃げ切れるかどうか。
「カリムの爺さん…無事だといいけど」
ぽつり、と漏らした言葉に、リュカが反応する。
「仲間がいたんですか?」
「うん。先輩みたいなもんかな。途中までは一緒だったんだ。別れたあとで、オレのほうは敵に襲われて…。」
「それなら、きっと大丈夫ですよ。近くに、他の人間の気配はありませんでしたから。敵の数も、僕が倒した、あれだけです」
足元の草を掻き分けると、白い蝶々が舞い上がり、ひらひらとどこかへ消えてゆく。
長閑な風景だ。ついさっき死に掛けたことがまるで嘘のように。
「そうだ――そういえば、ユッドは、高台の…とりで? から、来たんですよね。
リュカが時折口にする妖精族の単語は、風が草葉を揺らした時のような、微かな葉擦れの音のように聞こえる。
「そうだよ。リオネス砦。オレもカリムの爺さんも、そこから見回りに出てきた」
「何人くらいいるんですか、そこに」
「今は四十人くらい、かな。少ないだろ? 哨戒と斥候で手一杯。増援を希望してるんだけど、なかなか人が増えないんだ。もう少し先には同じくらいの規模のレグナス砦があるんだけど、数日前に救援要請が来てさ。今、どうなってるのかは分からないんだ。あとは――もう少し東の方に、いくつか拠点がある。」
言いながら、ユッドの声は自然と落ち込んでいった。
「…それで、全部だ。全然足りないんだよ。戦況は悪いまま、ずっと防戦一方だし。」
「それなのに、全力で戦わないんですか」
「全力で戦って勝てるかどうか、あと、得になるかだ。このルナリアの周囲には、他にも国がある。全力で戦ってなんとか勝てたとしても、他の国に対抗する力を無くしたら、今度はあっという間に他の国に攻め込まれるだろうな。だから、最前線の砦を持つ国はどこも、隣の顔色を伺いながら戦力を小出しにして様子見するしか無いんだ。最初に落とされるのが自分の国の砦じゃありませんように、って願いながらな」
「……。」
歩きながら、少年は黙ったままだ。その表情からは、何を考えているのかは読み取れない。けれど、ユッドの話したことの意味が、分かっていないわけではなさそうだった。
ややあって彼は、静かに口を開いた。
「ずっと不思議だった謎の一つが、ようやく解けました」
「謎?」
「はい。――ユッドたちがどう認識しているかはわかりませんが、ここ何年か観察してきた結果からすると、
ユッドは思わず、少し先をゆく少年の横顔を見つめた。まだ年端もいかない年頃のように見えながら、その言葉は正鵠を得ている。
「竜人族は、闘争心が強いために大きな群れを作ることはない種族だと聞いています。個々の力は強くても、数に頼って群れで戦う人間を追い込む方法は取れない。人間の側が最初から群れになって戦っていれば、ここまで追い込まれる前に戦況を変えられていたのでは?」
「…それは」
「敵の行動範囲は、年々広がっているはずですよね。あなた方の”とりで”も、今ではルーヴァ川より東にしか存在していない。そして今では、敵がルーヴァ川を越えてくるまでになった。このままでは、いずれ、人間たちの町はもっと東まで滅ぼされてしまうのでは?」
それは、前線の砦に来てから何度も、カリムや他の熟練の兵たちから聞いた愚痴の内容そのものだった。
”このままでは、前線が持たない。ルーヴァ川を越えられてから増援を求めてももう遅い”と――。
「…分かってはいるんだ」
絞り出すように言って、ユッドは俯いた。
「分かってる、なのに動けない。情けないことに、オレたち人間は未だに、竜人族より同じ人間のほうが怖いんだよ。竜人族なんて寿命はせいぜい三十年で、知能もそんな高くないはずだって、都の学者たちはそう言ってる。オレも、前線に出てくるまでは、そう思っていた」
「確かに――奴らがどうして急に大きな群れを作って、しかも人間のように武器まで持って攻めてくるようになったのかは、分かりませんね」
「妖精族のあんたでも、分からないもんなのか?」
「残念ながら。
涼しげな音を立てて流れる細い小川をふわりと飛び越えるリュカに続いて、ユッドも、不格好に水の流れをまたぐ。
と、――ふいに、さっきまでとは風景が変わった。風の匂いも違う、
(妖精族のナワバリの外に出た、…ってことか)
一度出入りすると、花畑のあたりだけ空気が違っいたことがはっきりと判る。。
ここにはもう、夢心地のする香りも、美しい白い花も生えていない。周囲にあるのは、ありふれた雑草やひょろりとした木々だけ。人の住む世界だ。だとすれば、最初に辿っていたルーヴァ川の側の巡回路までは、もう少しのはず。
「ここまでくれば、もう大丈夫だ。
ほっとして振り返った時、彼は、同行の少年が少し後ろで足を止めていることに気がついた。警戒した表情で、どこかをじっと見つめている。
「…どうした?」
「近くに同族の気配がします。怪我をしているようで…」
彼は警戒したように周囲を見回した。
「…こっちですね」
言うなり、リュカは何の前触れもなく軽々と走り出した。相変わらず、草の上を滑っているのかと思うような身軽さだ。
「ちょっ…待てよ!」
慌てて、ユッドも追いかける。
幸い、少年はそれほど遠くには行っていなかった。
草をかきわけるようにして追いついてみると、リュカは、草の中に横たわる白っぽい、何か輪郭のぼやけたものを覗き込むようにして屈み込んでいた。
近づいたユッドは、眉を寄せながらそれを見下ろした。
(何だ、これ…?)
人の形はしているが半透明で、靄をまとっているようにも見える。リュカが顔を上に向けさせたので、それが、真っ白な髪と肌を持つ女なのだと気が付いた。
半透明になっていることを除けば、「おとぎ話」のイメージそのままの妖精の姿をしている。
「……。」
少年は、何か草葉の擦れるような音を口にした。おそらくは、それが妖精族本来の言葉だ。
「……?」
呼びかけられて、女が薄っすら眼を開けた。
眸の色は薄い紫。口元からは、銀色の輝く水滴のようなものが、きらきらと零れ落ちている。
血だ。
ぎょっとして、ユッドは思わずまじまじとそれを凝視した。妖精族の血は銀色をしている、と聞いたことがあるが、まさかと思っていたその話は本当だったらしい。
(本当に…人間とは違う生き物なのか)
零れ落ちる銀色の血と、血の気のない真っ白な肌を見つめながら、ユッドは思った。あの、人間と全く異なる姿をした竜人でさえ、血の色は赤いというのに。
彼が見つめている間にも、リュカと女の間で、短いやりとりが交わされていた。何か納得した素振りで、女は静かに眼を閉じた。リュカが頷いて銀色の血を流す傷口に手を翳す。
手が白く輝き、傷口が塞がっていくのが見えた。
(治癒の力…さっき、オレの傷を塞いでくれたのも、これなのか?)
妖精族の持つ不思議な力を目の当たりにして、ユッドはしばし、我を忘れて立ち尽くしていた。
だが、静寂はそう長くは続かなかった。
「!」
リュカが小さな声を上げて振り返る。
「ユッド、屈んで!」
「え?」
と同時に、ビュッ、と耳元で空を切る音。
訳も分からず振り返った彼は、同時に、低い唸り声と、地を踏み荒らすような重い足音を耳にした。
こちらに向かって突進してくる恐ろしげな巨体は、彼を追ってきたのとは別の個体のようだ。しかも、二体。
ほんの少し前に死にかけた恐怖が、蘇ってくる。反射的に彼は、辺りを見回し、逃げ場を探した。
「やばい…どうすれば…どっちに行けば」
「この人を連れて、森へ向かってください!」
言いながら、少年は腰に下げていた剣を抜き放った。剣の切っ先は真っ黒で、見慣れない輝きを宿している。
「って、おい! あんたも逃げないと――」
「間に合いません。応戦します」
その時にはもう、少年は、風のように駆け出している。
(あんな細い腕で戦うのか? しかも一人で…どう考えたって、無理だ!)
向かってくる竜人たちはそれぞれに、人間の頭ほどもある石を結わえた鈍器と、弓矢を手にしている。どちらも人間の大人をゆうに上回る体格で、近距離戦用と遠距離用の二種の武器を備えている。
対する小柄な少年のほうは、たった一人、しかも身長に合わせて短めの剣しか持っていない。
せめて、自分も加わることができれば、二対二の同数にはなるのだ。
けれどユッドのほうは、敵が迫ってくるのを見ただけでもう、膝が震えて前に出ることも出来なかった。剣にかけた手は痙攣して、武器を抜くことはおろか、逃げることさえ出来ずに硬直している。
(何でこんな…こんな…、オレは…)
”英雄にはなれない。”
そんなこと、兄に言われるまでもなくとっくに判っていたけれど、まさか、これほどまでに動けないとは。
「早く、その人を!」
リュカが再び、背中ごしに叫んだ。
そうだ。
こんなところで固まっている場合ではない。せめて、負傷者を連れて逃げないと。
気力を奮い立たせると、ユッドは、足元の白い女の体を担ぎ上げた。そして、驚いた。
人間ならば大人の女性の体格なのに、ほとんど重みを感じられないほどに軽いのだ。それに、――まだ生きているはずなのに、ぬくもりが全く感じられない。
細く長い真っ白な髪が、ふわりと地面まで垂れる。
女を背負って走り出しながら、ユッドは、背後の様子を伺った。リュカは竜人と対峙したまま、じりじりと間合いを計っている。
「おい、無茶するな! あんたも、早く逃げ――」
だが、その言葉が相手には届くよりも早く、大柄なほうの竜人が武器を振り上げていた。
その瞬間、彼にとって信じられないことが起きた。
攻撃から逃れるようにして、リュカが大きく上空へ向かって跳躍した。そして迷いない動作で武器を構えると、竜人の頭上から、首筋めがけて黒い鋭利な剣を叩き降ろし、そのまま首筋を叩き斬ったのだった。
思わず見惚れてしまうほど、迷いのない一撃だった。
しかも、それほどの勢いとも思えなかったにも関わらず、攻撃は、硬い鱗の間を縫うようにして皮膚を切り裂いていた。
鮮血がほとばしり、竜人がぐらりと前のめりになる。少年はその背を蹴って勢いを乗せ、驚いて矢を向けるのが遅れたもう一体の首も横なぎにする。
時間にすれば、ほんの数瞬。
再び少年が跳躍したとき、二体の竜人たちは何が起きたのかも分からず、目を見開いたまま、どう、と地面を揺らして崩れ落ちていた。どす黒い、赤い血が地面に広がってゆく。
(何が…起きたんだ…?!)
くるりと宙で一回転して、音も無く地面に降った少年は、息一つ乱さないまま、大急ぎでユッドのほうに追いついてくる。あまりにも現実離れしていて理解が追いつかない。ただ、動かない竜人族の骸が、これが夢ではないのだとはっきりと示している。
振り返ってこちらに向かって足早に近づいてきたリュカは、微かに息が上がっていた。
「大丈夫…か?」
ユッドは、上ずった声で尋ねる。
「このくらいなら」
そう言いながら、リュカは、手で軽く、頬に飛んだ返り血を拭った。ずいぶんと慣れた雰囲気だ。考えたくないことだが、どうやら戦うのは初めてではないらしい。
(けど、妖精族が竜人族と戦う――? いや待て、そもそも剣を持って戦う妖精なんて聞いたこともないぞ。しかも強い…人間だって、一人二体を相手なんて…。)
戸惑っているユッドをよそに、リュカのほうは、ユッドが肩に担いだ女を見上げていた。
「ここ数日うろついていた竜人族の狙いは、この人だったのかもしれません。ずいぶん弱っているけど、まだ間に合うと思います。森に連れていけば回復すると思います」
少年は、ユッドを見上げると、申し訳無さそうに言った。
「僕では、担げそうにありません…その、運ぶのを手伝ってもらうことは出来ますか?」
「それは構わないけど…いいのか? オレ、人間だけど」
一瞬の間。
「あ、いや、領界に人間を入れたりして他の妖精族に怒られたりしないのか? ってこと」
「ああ。その心配はないですよ。ここに住んでいるのは、僕一人なので」
リュカは、微かに悲しげな笑みを浮かべた。
「母はもう随分前に、人間を庇って命を失いましたから」
「え? あ…」
「近道しましょう、こっちです」
感情もなく、あまりにさらりと告げられたせいで、それが重要なことだと気がついたのは少し後のことだった。
聞き返す間もなく、リュカは、身軽に草むらを飛び越えていく。
空に視線をやったユッドは、西へ傾きつつある太陽を見やった。さきほどのリュカの口ぶりからして他にも竜人は潜んで居そうだし、馴れない道を夜間に一人で動く気にはなれない。今は、ついていくしかないのだろう。
(無断外泊扱いにならなきゃいいんだけどな。カリムにも心配かけることになるし…明日は、急いで帰らないと)
そもそも明日、無事にここを生きて出られるのだろうかと、少し考えてみる。
定番のおとぎ話では、妖精族の美女が美貌と甘い言葉で若い男をたぶらかし、住処に連れ込んで二度と人間世界に戻さない、という筋書きになっている。けれど今回の相手は、美女ではなく少年だ。しかも目の前で竜人族を倒してみせるような、妖精らしらぬ好戦的な一面も持つ、どちらかといえば人間に近い存在。
(ま、疑う理由なんて無いよな。そもそも、命の恩人なんだし。)
目の前をゆく少年の背中を見やりながら、ユッドは一人、納得した。
暮れてゆく空の下、彼は、深い森の奥へと向かって歩きだしていた。
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