第2話 花咲く草原の出会い

 夕刻が迫る日差しの中、ユッドは必死の形相で、口の端に白く泡を吹いてやみくもに走り続ける馬の背にしがみついていた。

 側には、銀のしぶきを上げて流れるルーヴァ川がある。本当は川沿いに砦のほうを目指したいのに、制御が効かない。足に受けた傷から血が流れ出し、走る速度は徐々に落ちている。

 空を切る甲高い音とともに、絶望的な馬のいななきが響き渡る。

 前足を折って崩れ落ちた馬の背から投げ出され、地面に転がったユッドは、馬の腹に刺さる黒い矢じりを見て何が起きたのかを悟った。抜けないよう先端部分を細工した独特の形をした矢じりは、紛れもなく、研修の時に見せられた竜人族のものだった。

 馬の様子からしても、矢に毒が塗られていることは間違いない。引き抜いたところでもう遅い。毒はすぐに全身に回る。

 「ゴゥウウァ!」

低く、威嚇するような太い声が辺りに響き渡る。

 振り返ると、草むらの向こうに、こちらに向かってくる黒っぽい大きな影が見えた。体を大きく左右に揺らし、とても人間とは思えない輪郭をしている。

 (くそ…、まさか、こんなところに竜人族が…)

 自分用の解毒剤すら持っていないのだ。可愛そうだが、馬のほうはどうすることも出来なかった。

 苦しみもがく馬をその場に残し、ユッドは自分の足で走り始めた。

 ぐずぐずしている暇は無かった。矢の届く範囲にいるのはも自分も同じ。追いつかれたら終わりだ。何とかして、見つかる前に川に――竜人族の嫌う水場に、出なければ。


 斥候からの帰還中、もう少しでルーヴァ川の支流ほとりに出られるという時のことだった。

 突然、馬が怯え出し、錯乱したように勝手に走り出したかと思ったら、こうなっていた。ユッド自身は、それまで何も気づいていなかった、”敵”に遭遇したのだと認識したのだって、つい今しがた、矢じりを目にしてからに過ぎない。

 竜人族は元々が南の暑い地方に住む生き物で、水を嫌う習性がある――と、教えられていた。

 前線基地となっているリオネス砦はルーヴァ川に面し、砦の背後には平原と森が広がっている。泳いで川を越えて来るような個体は滅多におらず、いたとしても、大柄な図体でばちゃばちゃやっていたら目立つに決まっている。誰にも知られずに渡河してくることなどありえず、だから、平原の見回りは、未知の敵がいないこと前提の、新人でも出来る簡単な任務――の、はずだった。

 そう思い込んでいた。いや、思い込もうとしていたのだ。

 だから帰り道は一人でも大丈夫だと、カリムと別れて、一人で砦への道を辿っていた。それがまさか、こんなところで、まだ何の心の準備もしていない状態で、敵の待ち伏せに合うとは。

 (どうして、こんなことに?)

頭の中は混乱で、ぐちゃぐちゃになっていた。

 けれど現実は容赦なく、耳元に、死を意味する弓弦の弾かれる音が響く。

 視界の端に、人間とは異なる異形の存在が迫ってくるのが見えていた。

 二本の足で直立しているものの、その身長は人よりはるかに高く、衣類などは何もつけておらず、顕な肌は光沢のない黒っぽい鱗で一面に覆われている。眼を爛々と光らせ、ぱっくりと裂けた口元から先の割れた長い舌がちろちろと覗いている。

 (これが…竜人…)

生まれて初めて感じる冷たい感覚が、背筋を滑り落ちる。

 絵で見た時には何とも思わなかったのに、目の前にいる、ほとんど同じ姿をしたから感じる威圧感は、「死」を予感させた。

 (戦わないと…)

 勇気を奮い立たせるようにして、ユッドは、おぼつかない動きで腰の武器に手をかけた。

 けれど、一瞬だけ沸いてきた戦おうという気概も、矢を番えようとした竜人の後ろに更にもう一体が隠れているのに気づいた瞬間に、一気に萎えた。


 二体いる。


 ただの巨大なトカゲどころではない。敵は人間のように両手で武器を持ち、何やら仲間と言葉をかわし、非力な人間をあざ笑いながら、まるで嬲るようにこちらを追い詰めてくる。

 勝ち目などない。

 脳は瞬時に、撤退の判断を下した。

 踵を返すと、一目散に走り出す。恐怖よりも先に、混乱が脳内を埋め尽くす。

 (なんで、こんなところに…なんで…こんな…死にたくない!)

 ヒュウッ、と耳もとで風が唸り、思考が途切れた。矢がすぐ側を通り過ぎたのだ。

 後ろから竜人特有の吼えるような怒声と重たい足音が響いてくる。見た目はトカゲのようでも、走ると人の速度とそう変わらないのだ。しかも毒矢の使い手でもある。馬無しに逃げ切るのが難しいのは判っていたが、むざむざ命を諦める気にはならなかった。

 逃げているうちに、ユッドは、川の流れから遠ざかりつつあることに気づいていた。向かっていく先には、黒々とした木立が見え初めている。

 森だ。

 走り出す方向を間違えたのではない。相手は最初から、彼を川とは逆方向に追い込むように仕組んでいた。これが狩りなら、狩られる獲物はこちらだ。

 こんなところで――

 「あっ」

矢が肩先を掠める。腕に痛みが走ったのと、視界が滑ったのがほぼ同時。地面に出来た段差は、草で見えなくなっていた。そこに足をとられたのだ。

 「うわ、あああっ」

 ユッドはバランスを崩し、斜面を勢いよく転がり落ちた。いや、――多分、転がり落ちたのだろう。

 瞬時にして、頭の中は真っ白になっていた。もう、これで終わりなのだとすら思った。

 頭上に、竜人族らしき黒い影が揺れている。だが、追いかけてはこない。どうせ助からない高さだと思ったのか、取るに足りない相手を追いかけて、坂の下まで行くのが面倒だったのか。




 ようやく理性が戻って来たとき、ユッドは、大の字になって草の上に転がっていた。

 口の中で血の味がする。

 まだ生きていることを確認するため、何度も大きく呼吸して、それからようやくゆっくりと体を起こす。

 その瞬間、脳を突くような痛みが走った。

 「――痛ッ」

思わず声を上げて肩を押さえた。

 その手に、べったりとした血の感触があった。切り裂かれた上着の下で、傷が熱を帯びているのが判る。そして血は、押さえた指先から溢れるようにして流れ出してくる。

 (毒…か)

竜人族の使う黒い矢には、彼らの体液が塗られていると聞いている。他の生物にとっては猛毒で、それにやられたら、発熱して血が止まらなくなる、という。速やかに解毒しなければ、出血多量か熱で命を落とすことになる。

 だが、解毒剤は長引く戦乱で常に不足していて、リオネス砦でも、備蓄があることは稀だった。もし備蓄があったとしても、ここから徒歩では砦まで辿り着く前に力尽きるに決まっている。

 (……くそ)

それでも、ここで寝転んだまま死を待つよりは、生き残れる可能性に賭けたかった。

 少しでも出血を抑えようと傷口を強く縛り、ユッドはよろめきながら立ち上がった。

 ふわりと漂う、場違いな花の香り。転がり落ちた弾みで押しつぶしてしまった白い花の花弁が、辺りに散らばっている。


 さっきの竜人たちの姿は、もう見えなくなっていた。トドメを刺すほどの価値もない、と看做されたのかもしれない。それが悔しくもあり、救いでもあった。

 腰の剣がまだ折れていないことを確かめると、彼は、歩き出す方角を見定めた。

 (せめて…敵を見つけたと報告しないと。このままじゃ、無駄死にだ…)

 まさか竜人側の斥候が川を越えてきているなんて、誰が予想しただろう。

 カリムは何も言っていなかった。ということは、気づいていないに違いない。竜人族が川のこちら側まで侵入してきていることを、早く知らせなければ――これこそ、一刻も早く報告しなければならない事態なのに。それなのに。

 縛った上から滲み出した赤い血が、ぽたり、ぽたりと滴り落ちて、足元に咲く名も知らない白い花の花弁を汚していく。一歩ごとに体の感覚が失われ、意識が遠ざかる。

 「うあっ」

ついに足が絡まり、情けない声とともに崩れ落ちてしまった。息が苦しい。動いたせいで、毒が回ってきたのだ。

 肩に巻いた布は、すでに血で真っ赤に染まっている。


 花畑の中で立ち上がろうと足掻きながら、ユッドは、無意識のうちに地面ごと花を握り締めていた。

 白い花弁が舞い散る。

 それとともに香りが視界一杯に広がる。


 一瞬、脳裏を掠めたのは、実家のたたずまいと両親と、渋い顔をした兄の横顔だった。

 高等学校を首席で卒業し、早々に役人として就職した優秀で何事もそつなくこなす長男。頭の出来では絶対に敵わない。だから同じ道を選ぶことは出来なかった。

 ”男なら剣を手に、戦場で名を挙げてみたい”

そんな苦し紛れの、どこかで聞いたような台詞で啖呵を切って家を出た。

 けれど、そんなユッドの苦し紛れの言い訳の真意さえ、兄にはとっくに見抜かれていた。

 「どうせ、すぐに辞めることになる。お前は決して英雄にはなれない人間なのだから」

哀れみの眼差しで、そう告げられた。

 幼い頃から兄の言うことはいつも当たっていた。今回も、それが正しい意見だと頭ではわかっていたのに、半ば意地で逆らった。

 (こんなことになるなら…、兄貴の言うこと聞いとけば良かったな)

知らず知らず、涙が滲んでいた。

 熱いものが込み上げて、視界が白くぼやけた。

 ここまでなのか――。




 諦めかけたその時、聞き慣れない誰かの声が、遠のきそうになる意識を呼び戻した。

 「まだ、生きていますか?」

閉じかけた眼をもう一度開いたとき、ユッドは最初、自分が見ているものが何なのかよく判らなかった。

 目の前に、さっきまでいなかったはずの人間がいる。

 それは男のようでもあり、女のようでもあった。仄白く整った顔立ちに、雨に濡れた木の幹のように暗い色の細い髪。雨に濡れた森のように、鮮やかな色をした緑の眸。人の形をしている。少なくとも、竜人族ではない。

 どこからともなく現われた小柄なその人物は、ユッドの側にしゃがみこんで、毒矢にやられたほうの腕を取り上げようとしていた。

 「じっとしていて。すぐに楽になります」

言いながら、傷口にしばっていた布を解いて指先で傷に触れた。

 手元が隠れていて何をしているのかは見えないが、清涼な感覚が、熱をもっていた傷口を包み込んでいくのが判った。それと同時に、肺を圧迫していた息苦しさが消えていく。

 「毒は取り除きましたから、もう大丈夫。大きく息を吸って」

そう言われて吸い込んだ音は、ユッド自身が驚くほど大きかった。

 体が欲するまま、彼は、何度も花の香りごと空気を吸い込んだ。助けてくれた人物は、静かな笑顔でそれを見つめている。


 ようやく、少し気持ちが落ち着いてきた。

 ぴったりとした黒っぽい服の輪郭からするに、目の前にいるのは、どうやら少年のようだった。護身用なのか、小さな黒い剣を腰に提げている。それ以外、馬も持ち物も見当たらない。

 不思議に思いながら、ユッドは口を開いた。

 「助かったよ。オレはルナリア軍の兵士――今のところただの一兵卒の、ユッド・クレストフォーレス。解毒剤をくれたのか? …あんた、何処から来た?」

 「僕は、リュカといいます。すぐそこに住んでるんですよ。苦しくないですか? 他に痛いところは?」

 「大丈夫、…だと思う。」

 やがて空気が肺に満ち足りると、ユッドにもようやく、冷静に周囲を見回す余裕が出来た。

 彼がいるのは、見たこともない白い花の咲く草原だった。その背後には、微かに緑がかった靄に包まれた、濃い色の深い森が広がっている。

 はっとして、ユッドは、見回りに出る前に話していたことを思い出した。

 (ここは…もしかして、カリムの言っていた妖精族の森?)

頭の中に、覚えてきた地図を思い描く。

 巡回用の道を外れ、川の反対側に向かって逃げてきたのだから、きっとそうだ。あの森が、地図で緑色に塗られ、「近づくな」と書かれていた場所に違いない。


 ユッドは、慌てて草を払いながら立ち上がった。

 「まずいぞ。ここにいちゃまずい」

 「どうしたんですか?」

 「あの森には妖精が住んでるから近づくなって言われてたんだ。だから――」

 「ああ」

少年は、こともなげに言う。

 「別に、構わないですよ」

 「”かまわない”?」

 「追われていたんでしょう? 悪意もない怪我人を、追い出したりしませんから」

 「そりゃ、人間ならそうかもしれないけどさ。妖精族は、住処に人間が入り込むのを嫌うって聞いてる。腹を立てると魔法で木かなんかに変えられるって話もあるし」

王都の辺りには大きな森や山はなく、妖精族を見たことのある者などほとんどいなかったが、話だけは誰でも知っている。

 人間とも竜人とも異なる種族である妖精族は、澄んだ水の近くでないと生きられない。そのために、主に水源となる場所に”領界”と呼ばれる結界を作って棲み、水を汚す他種族を遠ざける。

 ユッドの慌てぶりを見て、少年は、困ったように微笑んだ。

 「確かに、勝手に出入りされるのは困りますけど、人間を木に変える魔法は知らないです」

 「……?」

一瞬、言っていることが分からなかった。

 はっとして、ユッドは自分の腕を見下ろした。

 「そういえば…」

傷の痛みが、完全に消えている。

 切り裂かれた上着の隙間から見える皮膚は、きれいに塞がって、毒矢にやられた傷口が無くなっている。さっき触れた時に、解毒しただけでなく、傷まで癒していたのだ。

 こんなことができるのは、人間ではない存在だけだ。

 「まさか、あんたが…?」

 「ええ。見た目は同胞たちと少しばかり違いますが、僕はこれでも、れっきとした妖精族フィモータルなんですよ。あの森は、僕の住処です」

細い、暗い森の奥と同じ色をした髪が揺れた。


 そう、確かに、目の前にいる少年は、ユッドの知っている「妖精」とは、全く違っていた。

 まず妖精族は、ほとんどが女の種族だと言われていた。描かれる姿もいつも、髪も服も真っ白な”美女”。そして人間とは異なる価値観を持ち、言葉さえ通じず、相容れない存在――の、はずだった。

 全てが、持っている知識とはまるきり正反対なのだ。

 目を引くほど端正な顔立ちである以外、見た目は、人間とほとんど変わらない。どこか存在感が希薄で雰囲気が独特なのと、言葉使いに古臭いようなぎこちなさがあることを除けば、違和感のようなものは無かった。

 「えっ…と?」

ユッドは、頭をかいた。

 「あんた、男…だよな? 男の妖精なんて、いるんだな」

 「はい。数は少ないですが」

少年は苦笑する。

 「珍しいですよね、やっぱり」

 「ああ、そんな話、全然聞いたことがない。妖精っててっきり、女だけで繁殖してる種族なのかと…。」

 「実際、妖精族は女性だけでも子供が作れますよ。なので、男は特に必要ないんです。成人すると追い出されることが多いですし」

さらりとそんなことを言ってから、リュカと名乗った妖精族の少年は、明るい森の色をした眼差しをユッドに向けた。

 「ユッドは、この辺りは初めてなんですか?」

うろたえているユッドを面白そうに見上げながら、少年は、まるで誰かに習ったかのような、訛りのない教科書どおりの発音で話しかけてくる。

 「ああ、初めての斥候任務の途中だった。最近ルナリアの都から赴任してきて、今は砦に…川のほとりにあるリオネス砦に配属されてる。そこへ戻る途中で襲われたんだ」

 「それじゃあ、案内しますよ。領界の縁を通っていけば、竜人族ドラグニスとは遭遇せずに川に出られます」

 「ドラ…? ああ、竜人族のことか。いや、けど、そこまでしてもらわなくても」

 「折角助けたのに、すぐに死なれても困りますよ。」

少年は朗らかに笑い、先に立って歩き出した。まるで半分宙に浮いているかのような足取りで、殆ど花畑を乱さずに先をゆく。


 人間そのものの見た目と、人間離れした雰囲気と能力。

 そのちぐはぐな取り合わせが、今いる、妖精の領界と人間の領域の境目を曖昧にさせる。

 (何だか、夢を見てるみたいな気分だな…)

何度も頬をつねりながら、ユッドは、花畑に漂う香りを人間らしく乱雑にかき回しながら大股に歩いていった。

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