黒髪の妖精と銀色の約束、そして赤い血の物語

獅子堂まあと

第1話 リオネス砦

 短い春が終わり、季節は夏へと移り変わろうとしている。

 気持ちのよい風、よく晴れた空。野に草花が萌出づるこの季節とは裏腹に、このリオネス砦には、重く張り詰めた緊張が漂っている。

 何しろ、最前線の基地なのだ。

 目の前には長年に渡る戦いで荒廃した平原が広がり、視界の端には焼け跡の廃墟と化した集落が見えている。およそ十年前の”大侵攻”で根こそぎ滅ぼされ、虐殺が行われた痕跡だ。

 砦の目の前を流れるルーヴァ川より西、見張りの兵たちの見つめる方角には、人間が住んでいる集落は一つもない。

 あるとすれば、はるかな荒野を越えた西の果て、このトリギアス大陸の最西端に位置する、海沿いの国々くらいのはずだ。

 かつては、――ほんの数十年前までは、荒野を越えてそれらの国々へと通じる街道も、ここにあったのだ。この砦も元々は、その街道を行き交う旅人の安全を守るために作られたものだった。

 しかし今や、その街道を辿る者は無く草に埋もれ、砦は、防衛線上の重要拠点へと意味を変えた。

 敵が川のこちら側へ渡って来ることのないよう、昼夜を問わず見張り続け、もしも敵影を見つけたならば戦闘態勢に入る。今のところ、川向うへの遠征は、ことごとく失敗に終わっていた。敵は常に動き回っており、こちらは、無人の荒野に新たな前線を築けるほどの人数も物資も持っていない。

 この十年、”最前線”は目の前を流れる銀色に泡立つルーヴァ川の流れのまま、戦局は停滞していた。




 ユッドは、新兵だった。

 今年ようやく士官学校を卒業したばかりで、王都から配属されて、まだ一ヶ月も経っていない。身につけている青と灰の二色に塗り分けられた士官学校卒の証の上着は、丈夫で着勝手が良いのもあるが、かすかな矜持の証でもある。

 一応は士官候補生となっているが、それも名ばかり。実家は末席の貴族に過ぎず、家名や財力の後ろ盾は皆無。実技や座学の成績も平凡で、落第もせずに士官候補に残れたのは、ひとえに「人手不足」という切実な理由からだった。

 この国では、――いや、この大陸の中央部では、もう何十年も、”竜人族”と呼ばれる異種族との戦いの真っ只中にある。

 小競り合いというにはあまりにも犠牲の多い、しかし戦争と呼べるほど組織だった敵対はしていない微妙な状態が、もう、二十年に渡って続いている。国が新兵の募集と教育に熱心なのも、「需要」があるからなのだ。


 竜人族、とは、本来は大陸のはるか南に暮らす、異形の少数民族の呼び名だった。

 人間とすら分類されていない、直立歩行をする蜥蜴のような姿をした存在だ。大きな群れは成さず、家族単位で狩猟で生きる種族。大柄で力は強いものの、知能も文化も低いとされ、かつては、とるに足りない存在としてほとんど興味を払われることも無かったという。

 それが、無視できない存在として人々の口に上るようになったのは、およそ二十年前のこと。

 本来は人間とほとんど接触をもたず、南の土地にひっそりと暮らしていたはずの彼らが、どういうわけか、突如として人間の住む領域への進攻を開始したのだった。

 最初は、ほんのさざなみのようなものに過ぎなかった。

 途切れがちに聞こえてくる噂話と、幾つかの町が陥落したらしいという不確かな報せが、噂話のように届いた。

 けれど気がついた時には、禍いは野火の如くに南から北へ、ルナリアに隣接する国々へと、瞬く間に諸国へと燃え広がっていたのだった。

 ルナリアが警戒態勢に入り、西へと続く街道が封鎖されたのは、ユッドがまだ物心つく前のことで、他の若い兵士たちも、侵攻が始まる以前のことは覚えていない。

 首都の実家にいた頃は、ほぼ毎月のように前線の砦から届く訃報が広場に掲示されるのを見ていた。

 新兵が実地研修と称して最初に送り込まれる場所が、その前線だということも、知っていた。当然、両親は息子が軍人を目指すことを反対した。

 けれど彼は、家族の反対を押し切って、頑なに軍人を目指そうとした。前線に送られると知っても、憂鬱な実家から遠く離れられると思えば嬉しかった。


 そうして、今、ここにいる。



 鈍い鐘の音が、丘に響き渡る。

 見張りの交代時間を告げる音だ。交代要員として見張り台に上がってきたのは同じくらいに砦に配属された新兵で、一言、二言交わして引継ぎを終えると、ユッドは、その足で兵舎のほうに向かって歩き出す。

 その時、彼を呼び止めたのは、同じように丘から下る道に向かっていた年配の男だった。

 「おう、ユッド。当番は終わりか?」

 「そうですけど」

気さくに答えるのは、相手が上官ではなく、顔見知りの男だからだ。

 「これから用事はあるのか」

そう訊ねてくる相手は、ユッドにとってこの砦での数少ない親しい相手、カリムという名の古参兵だった。

 禿げ上がった頭はすでに真っ白で、好々爺のような顔をしているが、竜人族が攻めてくる以前からこの砦に努めている古参中の古参で、経験は誰よりも豊富だ。一線を退いたとはいえ訓練は欠かさず、日焼けした腕には今も、太い筋肉が盛り上がっている。

 「ないです。兵舎に戻ろうかと」

そう答えると、カリムは、まるで孫に接するかのように、くしゃりと顔に皺を寄せて笑った。

 「なら、ちょいと付き合え。これから巡廻に出るところでな。ついでに、このあたりの道順を教えてやろう。」

 「巡廻?」

 「はっはっ、そんな顔するな。なあに、ちょっとした散歩みたいなもんだ。見回るのは、川のこっち側だけだ」

笑いながら、カリムが歩き出す。

 「竜人族が攻めてくる前は、ここの砦は近隣の街道の防衛が主な任務だった。野党やら、野犬やらと戦うためにな。砦と近隣の町の間の巡廻は、その頃の名残だ。竜人よりは盗賊の方が怖くないだろう?」

 「そりゃそうですよ、少なくとも人間なんだから。」

即座にそう答えたが、ユッドとて、竜人族を実際に見たことはない。

 竜人族は体液に毒を持つ種族で、死ぬとすぐにその毒が漏れ出して、自らの肉体まで腐らせてしまうのだ。そのため、剥製にしても保存が効かない。

 ために、前線から遠い都では、絵姿だけが出回っていて、「おとぎ話」の存在と変わらない。「竜人」の名が、古代に存在したという竜と呼ばれる生き物と、人間との中間のようだからだという見た目に由来することくらいは知っていたが、軍学校の教材用に使われていたその絵に描かれた姿は、二足歩行をする大きなトカゲとしか言いようがなく、不気味ではあったが実際の恐ろしさなどさっぱり伝わっては来なかった。 

 「地図は覚えているだろうな? 主要な道と、川と砦の方角も」

 「もちろん。」

ユッドは、いつでも確認できるように食堂の壁に貼り出されていた大判の、簡略化された地図と、そこに書き込まれた何本もの定期巡廻ルートの線のことを思い出していた。

 「だけど、そういえば、地図の端に塗りつぶされてる場所がありました。あそこは? 近づくな、としか書かれてませんでしたが」

何気なく聞いたつもりだったなのに、カリムの表情が僅かにこわばった。

 「――そこは、妖精族の縄張りだ」

 「え? 妖精?」

意外すぎる単語に、彼は、思わず聞き返していた。

 ”妖精族”――それも竜人族と同じく、実際には見たことのない、絵でしか知らない種族だ。

 人間と敵対はしない。が、味方をすることも無い。不老長命で美しく、気位の高い存在。

 そもそも滅多に人前に姿を現すこともなく、姿を目にすることがあるとすれば、気まぐれに縄張りから出てくるすか、暇つぶしに人間を惑わす時くらい。それこそ「おとぎ話」の中だけの存在だった。

 「妖精なんて本当にいるんだ。初めて知りましたよ」

 「ここらは都のあたりに比べれば田舎だからな。未開の森も少しは残っておる。いいか、妖精の女は男をたぶらかすもんだぞ。戻って来られなくなるかもしれん。興味本位で近づくなよ。いいな」

歩きながら、カリムは、珍しく厳しい顔でそう言った。

 「はあ…。」

 「はあ、じゃない。はい、だ。」

妖精の話は、それで終了だった。

 「まあ、普段の巡回ではそこまで遠出はせん。砦の周囲をぐるっと回って、川に沿って上流と下流を見て回る。もう少し上流のほうにルーヴァ川の支流が合流してくる場所があって、その支流の先にいくつか村がある…」

カリムは何事も無かったかのように話題を変え、巡回の道順やこまごまとした注意点の話を始めた。

 それで、ユッドもまた、妖精の森のことなど忘れてしまっていた。

 ようやく、見張り以外の仕事が出来る。それも、砦の外に出られる。


 ただ、一つだけ気がかりなことはあった。それは、ほんの数日前に、すぐ隣にあるレグナス砦から救援要請の狼煙が上がったことだった。

 リオネス砦は大騒ぎになり、すぐさま救援のための部隊が整えられた。何しろ、砦はそう簡単に落ちるような作りにはなっていない。竜人族に攻め込まれたにしても、前兆は何もなく、いつ、どうやって川を越えたのかが分からない。

 それでも状況は確かめねばならず、兵士長のラーメドと、第一線で活躍している熟練兵たちは、ほとんどが出払ってしまった。何が起きたのかも分からぬまま、ユッドたち新兵はこの砦の厳重警戒を申し付けられていた。

 もしもレグナス砦に何かあったのだとすれば、ルナリア王国にとっても、後背地にとっても、この基地は現存する唯一の「最前線」となってしまう。

 それで皆、いつもより緊張して、不安な中で過ごしているのだった。


 ユッドの表情に気づいたカリムは、少し表情を和らげ、優しい言葉をかけた。

 「まあ、そんな顔をするな。レグナス砦はきっと大丈夫だ。ラーメドも向かったんだからな。何が起きたにせよ、今はわしらに出来ることをやるしかない」

 「…はい」

生返事をしながら、彼は、目の前にある、たっぷりとした水量をたたえる銀色の泡立つ流れに視線をやった。はるか北のレイノリア山脈より流れ落ちる、ルーヴァ川だ。

 水を嫌う竜人族は、大きな川を越えるのに難儀するという。そのため、砦の前を流れる川は天然の防壁の意味も持つ。

 今まで、敵がこの川を越えてきたことはほとんど無い。水量が減ることはないし、知能の低い竜人に船を作ったり橋をかけることなど出来るとも思えない。


 きっと大丈夫。

 きっと…


 胸に湧き出す予感と不安を抑え込むようにして、ユッドは馬に乗った。

 たかが巡回。それもカリムと一緒に砦の近くを見て回るだけなのだ。その程度で恐れを成していたら、この先、兵士として務まらないではないか。

 よく晴れた空と、初夏の風。砦を後に馬を走らせながら、ユッドは、少しでも明るい気持ちになろうとしていた。




 ――けれど僅か半日後、漠然と抱いていた不安の実像が、思いもよらなかった形で目の前に突きつけられることになる。

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