第39話 二重描線のスケッチ

「そんな、馬鹿な」


 砂鳥宗吾は後部デッキの床に両手をつきながら、震える声を絞り出す。


「僕にはすべてが見えていた。あいつの見ている世界だって、全部見えていたんだ。何を考えどう動くか、何一つ、間違いなく。あいつは僕の手の中にあった。なのに。そんな、そんな馬鹿な事があるか!」


「他人のすべてが見えるなんてのは、典型的なオカルト思考だ。幼稚な幻想だ。ただの思い込みに過ぎない。そんなら、河地善春の父親の死はどうなんだ。あれも計算の内か。どう利用しようと考えてた」


 鼻先で笑う五味に、宗吾は力ない声でつぶやいた。


「どうにもできない。できるはずがない。あれは、本当にただの交通事故だったんだ」


 そして震える顔を上げた。


「君にも、あいつの見ていた世界が見えるのか」

「他人の見てる世界なんぞに興味はないね」


 もう五味は宗吾を見ない。白髪の老人も同じく。


「いやはや、まいりましたね」


 偽物の提督は寂しげにため息をついた。


「あなたの考えでは、その河地善春は、つまり本物の提督は、己の怒りの感情を晴らすために、『格の違い』を見せるために今回の事件を起こしたのですよね。しかしそれは本当に人の命を奪うほどの価値があることなのですか。それとも、まだ他にもこだわる理由があったのでしょうか」


 これに五味はしばらく考えて、こう応える。


「自負じゃねえのか」

「自負?」


 目を丸くする老人に、五味は苦笑してみせた。


「ああ、自分は『本物』だっていうな」


 と言ってもそれほど自信はないのだろう、いささか弱気な顔で五味は言う。


「本当のところはわからねえよ。想像はついても理解なんぞできない。こんなくだらんヤツのために計画を立てて、十年も時間をかけて、何人も殺して。それで実際やってる事は、ただ見せしめのために相手の愚かさを掲げて振り回してるだけだ。マトモじゃない、狂ってるにも程がある」


 五味は自分が口にした言葉の内容に嫌気が差したかのか、小さく咳をした。


「だが河地善春は、ただ無闇に単純に、子供みたいに意地になってる訳じゃないはずだ。標的を定めた動機は怒りでも、それを動かしたのは別の目的意識だろう」


 偽の提督がじっと見つめる前で、五味は一口タバコをふかし、言葉を続ける。


「もしこだわってる部分があるとするなら、の話だがな。まあ、ある種のトロフィー・ハンティング、あるいは通過儀礼的なモノ、たとえば『提督』を継承するための小手調べ、練習、訓練、予行演習、いや違うな……河地善春の好きな絵で言えばスケッチってとこじゃないのか。全体像を描くためのスケッチ」


 この言葉に、老人は満足げにうなずいた。


「そうですね。ただ単純なスケッチではなく、砂鳥宗吾氏の描いた線の上から別の線で描いた、砂鳥氏の漠然と夢見た世界を蹂躙しながら自らの進むべき世界を描く二重描線のスケッチでしょうか。感服しました。完敗です。まさかあなたが、ここまでたどり着くとは思ってもみませんでした」


 それは心底嬉しそうな顔。一方の五味は眉を寄せて困惑の様子を見せていたが。


「あなたの言う通り、私は『彼』の祖父の代から仕える影武者。もう引退するつもりだったのですがね。最後にあなたのような面白い相手と渡り合えたのは幸運でした。お礼を言わせてもらいますよ」


 偽物の提督の周囲を刑事たちが取り囲む。付き従っていた二人の影も抵抗を見せない。


 古暮課長が慎重に近付いた。


「おまえには殺人の嫌疑がかかっている。現時点をもって身柄を拘束する。抵抗は罪を重ねるだけだ、やめておけ」


 岩咲と原樹が偽の提督の両腕をつかもうとした、そのとき。


 老人の口元に浮かぶ笑み。


――最後にあなたのような面白い相手と渡り合えたのは幸運でした


「そいつから離れろ!」


 五味が叫ぶと同時に、老人は持っていたステッキを放した。


 そのヘッドの部分が床にぶつかった瞬間、遠隔発火装置が作動する。


 紅蓮の柱が天を衝き、燃え上がる老人の肉体。


 そして船内からは非常ベルの音。


 古暮はその場で海上保安庁に救護要請の通報をした。後にわかった事だが、このとき船内では数箇所で同時に火災が発生していたという。




 月曜の朝。黒焦げとなったエメラルドサンシャイン号の空撮映像は、テレビで繰り返し流された。火元にいた高齢者が数人死亡したものの、通報が早かったためか、火災の規模に比較して死傷者は少なかったと言えるだろう。


 ほとんど家具らしい家具もない部屋で、テレビの映像に背を向け、河地善春はスケッチブックを開いていた。風景を、見本の写真がある訳でもない、窓の外に見えるでもない、どこにもない見た事もない風景を、ただひたすらに鉛筆でスケッチする。


 そこにドアがノックされる音。


「はい」


 善春の返事を待って開かれたドアの向こうには、若い男女が待っていた。


「お時間です」

「そう」


 閉じたスケッチブックを床に置き、その上に鉛筆を乗せると、善春は立ち上がってドアに向かった。


「絵がお好きなのですか」


 若い女がためらいがちにたずねる。善春は優しく微笑むと、首を振った。


「たぶん、そうでもない」

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