第37話 ほんの小さな謎

 左舷通路の闇にそそり立つ二つの人影。向かって右の巨漢、岩咲が獰猛に笑う。


「原樹、相手はマジモンの殺し屋だ。気ぃ抜くんじゃねえぞ」

「うっす」


 左の原樹はネクタイも外して戦闘態勢だ。


 二人の巨漢に、提督に付き従う二人の人影は、迎え撃たんと身構える。


 一触即発、いまにも火花が舞い散りそうなほどボルテージが上がる空気の中、足音も立てずに歩く人影が、真正面から県警捜査一課の刑事たちを引き連れて現われた。


「砂鳥宗吾さん、あなたにうかがいたい事があります。県警までご足労願えませんでしょうか」


 古暮捜査一課長の言葉に、宗吾は相変わらず静かな笑みを浮かべている。


「あなたをお招きしたのは、横暴な警察官を制していただくためなのですが」

「部下の非礼はお詫びします。ですが、警察官としての職務はすべてに優先しますので」


 宗吾は小さくため息をついた。


「まあ、構いませんよ。明後日帰港した後、出頭しましょう」

「その前に、いくつか確認しておきたい事があるのですが。よろしいですか」


「何でしょう、手短かにお願いできますか。僕も眠いので」


 古暮は一つうなずく。


「まず第一に、何故ここに河地善春氏を呼び出したのですか」

「呼び出されたのは僕の方ですよ。だから不安になり、こうやって知人にボディガードを依頼したんです」


 これに新居山が激しく首を振る。


「う、嘘だ! 俺を殺すつもりだったんだ!」


 しかし宗吾は泰然自若。


「彼のパーティでの醜態をご覧になったでしょう。ああいう人物なのですよ」

「そうですか。では第二に」


 古暮課長も静かに提督を見つめた。


「こちらの紳士とは、どのような関係なのでしょうか」

「申しましたでしょう、ただの知人です」


 宗吾の顔が、ほんの僅か不機嫌になったように見えた。対する古暮の表情は変わらない。変わらないはずなのだが、明らかに空気が変わった。


「ほう。この老人には殺人や放火、窃盗、道路交通法違反等々の嫌疑がかかっているのですが、本当に知人なのですね」


 これに宗吾は微笑みを返す。


「ええ、知人です。先程パーティで知り合ったばかりの、ね。嫌疑とおっしゃいましたが、証拠はあるのですか」

「いいえ、現時点では物証など何も見つかってはおりません」


「見つかるはずはありませんよ、彼らは無辜むこの善良なる市民なのですから」


 自信に満ちた宗吾の言葉に、古暮はしばしの沈黙を余儀なくされた。


「なぁるほどねえ」


 新居山と親方の位置から十メートルほど離れた鉄柵にもたれながら、ライターでタバコに火を点ける男。五味である。タバコを咥えながら星空を見上げ、大きなため息をついた。


「まったく厄介な話だ。『完璧魔人』は伊達じゃあねえなあ。誰が、どの方向から突っついてもビクともしやがらねえ。恐れ入ったよ」


 そして、ゆっくりと砂鳥宗吾に向かって近寄って行く。


「俺が出てきても全然驚かねえんだな。陸に帰るまで次の展開はない、俺がそう言ったから今夜のうちに片を付けようと思ったんじゃねえのか」

「いきなりですね。あなた、どなたですか」


 平然とたずねる宗吾を前に、五味はヘラヘラと笑いながら親方をかばうように立った。


「まさか、これも想定の内なのか。何重の想定してんだよ、プランBどころじゃねえだろ」


 苦笑しながら、宗吾は首をかしげる。


「わかりませんね。何の話をしたいのでしょう」


 しかし五味はかみ合わない会話を続けた。


「いや、正直に言えば、もう謎は解けてる。アンタと話さなきゃならない事は、ほとんど残ってないんだ」

「謎? 僕に謎などあるのですか」


(食いついた)


 五味の口元から、小さく歯がのぞく。


「ああ、一つだけ残ってる。たった一つ、ほんの小さな謎がな」

「おや、それは興味がありますね。いったい何です」


 大きなため息と共に、白いタバコの煙が夜に拡散した。


「そいつは聞かねえ方がいいんじゃないか」

「これはまた。そこまで言っておいて、説明できないという事でしょうか」


「アンタが警察に捕まった後でなら教えてやってもいい」

「それは言えないのと同義です。僕には後ろ暗いところなど一切ありません。マグレ当たりを狙ったのでしょうが、残念ながら通じませんよ」


 宗吾は再び笑みを浮かべる。勝利を確信しているかのように。


 五味はまた、ため息をついた。ならば仕方ない、という風に。


「何で霊源寺始を選んだ」

「選んだ? あなたも僕が霊源寺始氏を殺したと疑っている訳ですか。まったく」


「その話じゃねえよ」


 この返答に、宗吾は初めて僅かな動揺を見せた。


「その話ではない? だったら、いったい何の」


 五味は一瞬、大葉野六郎に目をやった。悪いな、と言いたげに。


「霊源寺始と性的な関係になったのは何故だ、って聞いてんだがね」


 後部デッキは沈黙に包まれた。聞こえるのは船首が水を切る音と風の音。その中で五味の声だけが、命あるかの如く蠢く。


「温もりが欲しかったか。優しさが欲しかったか。理解者が欲しかったか」

「何を、いったい何を言ってるんだ」


 初めて感情らしい感情が宗吾の声に垣間見えた。五味はこれを好機とたたみかける。


「霊源寺始を選んでなきゃ、あの三人に河地善春を捜す話を持ちかけたとき、裏を探られる事もなかった。余計な事に感付いた霊源寺に、無茶な要求をされる事もなかった。いずれ殺す事は規定路線だったにせよ、少なくともこのタイミングで殺す必要はなかった。連続殺人はどうしたって目立つからな」


 動揺しているのは宗吾だけではない。古暮課長も築根麻耶も岩咲勝也も原樹敦夫もも親方も笹桑ゆかりも、みんな揃って目を丸くしている。ただ一人、大葉野だけが泣きそうな顔をしていた。


「五味、それは本当なのか」


 古暮課長の問いに五味はうなずく。


「今回の計画は、砂鳥宗吾が高校時代から温めてたモノだ。だから高校時代のよく知る連中を手駒として使うはずだった。なのに、計画実行の前にその手駒とデキちまった。逢い引きをするために自分のホテルまで使ってな」


「じゃ、女性との密会って」


 築根の言葉に五味は「ああ」とだけ答えた。


「おそらくはもっと早い段階で清算できる算段だったんだろう。先に殺しておくはずだったのかも知れない。だが、実際には上手く行かなかった。河地善春が自殺したのもいきなりだったからな。いざ計画が始まれば心配通り、手駒であるはずの霊源寺が逆らう。これは『完璧魔人』としちゃ看過できない悪手だ。計画完遂のためには、何が何でも最初に切らなきゃならなかった」


「ふざけるな」


 宗吾の静かな声。しかし少し震えた声。


「どこにそんな証拠がある」

「証拠なんざないね。それを探すのは警察の仕事だ、俺の知ったこっちゃない。だがいて挙げれば、いまのその顔が証拠かな」


 悪魔的な笑みを浮かべる五味の言葉を受け、宗吾は思わず自分の顔に触れた。激しい怒りに固くこわばった顔に。

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