第36話 反撃開始

 古暮捜査一課長の姿に、築根麻耶は思わず立ち上がった。


「どうして課長が。まさか」

「盗聴でもしていたと言いたいのか、馬鹿が。我々県警組は、この隣の大部屋に宿泊している。この階の壁は薄いからな、おまえらのデカい声は筒抜けなんだよ」


 五味は可笑しそうに笑みを浮かべた。


「公安委員長も大部屋ですか」

「委員長はボディガードつきで六階だ。それで。話を続けろ。砂鳥宗吾は何と言った」


 だが五味は胸ポケットからタバコを一本取り出し、咥えてライターで火を点けた。そして一息吸い込んで、静かに息を吐き出す。言葉が出て来たのは、それから。


「……おそらくは、そうおそらくは、こんな内容の言葉をかけたんだ。『この件が事故だという証人になってくれれば、自分もおまえが無罪だという証人になってやる。どちらも十年頑張って逃げ切ろうぜ』とか」


「証拠はあるのか」


 古暮の言葉に五味は首を振る。


「ありませんね。こちとら一介の私立探偵だ、証拠に基づいて推論を立てなきゃならん立場じゃない。それはアンタらの仕事だろ。仕事する気があるんなら、だが」

「随分と都合のいい話だ。だが証拠はなくても根拠はあるだろう。それは何だ」


「コンプレックス」


 課長の眉が寄る。


「コンプレックス、だと」


 五味はまた一口タバコを吸い、煙を吐き出した。


「何があったかは知らない。だが『完璧魔人』の砂鳥宗吾は、ただ一人、河地善春にだけはコンプレックスを抱いていた。さもなきゃ、ここまで河地善春にこだわる理由はないはずだ。砂鳥宗吾は、いずれ兄の宗一郎を排除するつもりだった。しかし、それを殺害という形にしたのは、そしてそのタイミングを決定したのは、河地善春の父親の死が切っ掛けなんじゃないのか。もしかしたら、本当にその現場を目撃した可能性もある」


 古暮課長の目は針のように鋭くにらみつけている。五味を貫かんばかりに。


「まさか河地善春より心理的優位に立ちたいがために、その目の前で殺人を犯したとでも言う気か」


「何を大事に思うか、何のためなら人生を賭けられるのか、それは人によりけりだ。砂鳥宗吾にとっては、兄貴の命より河地善春の上に立つ方が重かったんでしょうよ。だから罪名は業務上過失致死傷罪でなきゃならなかった。時効までの時間を同じに揃えるために。いや、『揃えてやる』ために。それより長くても短くても意味がない。だが、さっきの騒ぎを見てわかったろう。アイツは裁判を受けるつもりなんざ毛頭なかったんだ」


 そこに原樹が、ついつい口を挟んでしまった。


「でも河地善春は自殺した、いやしてないのか。砂鳥宗吾はどう思ってるんだ」

「原樹巡査」


 古暮のナイフのような目が原樹をにらんでいる。


「は、はいっ」


 一瞬で顔から血の気を失った原樹に、課長は静かにたずねた。


「君は随分と詳しいようだな。説明してもらおうか」

「ご、五味……」


 涙目で助けを求める原樹に、五味は苦笑を向けた。


「とりあえず二泊三日、陸に帰り着くまで次の展開はなしだ。ゆっくり説明すりゃいい」




 パーティは二十二時に終了し、飲み疲れ、喋り疲れた招待客は、誰もが船室で眠りについた深夜。エメラルドサンシャイン号の後部デッキに、太った河地善春は立っていた。そこに近付く足音。


「あ、砂鳥」

「やあ河地くん。いや、いまは新居山にいやまくんでいいかな」


 新居山と呼ばれた偽物の河地善春は、オドオドとした顔で上目遣いに砂鳥宗吾を見た。


「あの、許してくれる、のか」


 宗吾は一瞬、不快げに眉を寄せたが、すぐに仕方ないという風にため息をつく。


「本来なら裏切り行為は絶対に許容できないのだけれど、金を積まれた君の気持ちは理解できる。まだやってもらいたい事も残っているしね」

「わ、わかってるよ。俺、ちゃんと証言するよ」


「ああ、もうそれはいいんだ」

「……え?」


 砂鳥宗吾の背後に、デッキを叩く固い音。ステッキをついて歩いてくる背の高い老人。シルクハットに厚手の外套、白手袋の姿。その背後には、さらに二人、影のように付き従う者が。


「何だよ、何だよこいつら」


 怯える新居山に、宗吾は静かに微笑んだ。


「君には河地善春のまま、行方不明になってもらいたくてね」


 老人の背後にいた二人が、ずい、と前に出る。だが、そのとき。


 闇を音もなく走り抜けた影が、宗吾を突き飛ばし、新居山をかばうように立ちはだかった。羽織を海風にひらめかせるその姿、親方である。


「へん、足袋は足音がしないからね、こういうときゃ便利だろ」


 すると宗吾の後ろにいた背の高い老人が、一歩前に出た。


「おや、あなたは」

「久しぶりだね、提督。あんときの恨みは忘れてないよ」


 立ち上がった宗吾は提督に確認する。


「お知り合いですか」

「ええ。いますぐ死なれても別に困らない知り合いです」


「では」

「そうですね、一人が二人になったところで」


「二人になったら何をどうする」


 女の声に振り返れば、船の右舷通路の手前に二つの人影。築根麻耶と、もう一人は大葉野六郎だ。


「砂鳥、おまえ、本当に」


 悲しげな大葉野の声に、しかし宗吾は動揺しない。


「大葉野、君が何を誤解しているのか知らないが」


 そう言いつつ左舷通路を横目で確認する。だがそちらも塞がれていた。巨漢が二人。その後ろを笹桑ゆかりがウロチョロしている。

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