第35話 後部デッキ

 三十分ほど後、五味たちはまた大部屋へと戻っていた。まるでお通夜のような空気。それを最初に破ったのは、やはり笹桑ゆかりである。


「て言うか、結局どうなってるんすか」


 これに応えたのは築根麻耶。


「何がだ」

「いや、あの河地善春って人、裁判の証人にしたいから捜してたんじゃないんすか」


「その裁判を起こすはずだったのは、義理の姉の砂鳥久里子だ。しかし、もう彼女は裁判を起こせないだろう」

「どうしてっすか」


「県の公安委員長と県警捜査一課長の目の前で、証人に嘘をつかせて義理の弟を陥れようとした事実は動かし難いからな」


 これに岩咲勝也が加わる。


「もしかしたら、最初は本当に裁判の証人として捜してたのかも知れねえな。だが、状況ってのは動くもんだ。その動きに合わせたんじゃねえか」

「そんな都合良く行くもんなんすかねえ」


 笹桑は不満げだが、岩咲は諦めたようにため息をつく。


「普通なら、そんな上手く行くはずがねえよ。つまり砂鳥宗吾は普通じゃねえって事だ」

「もう、岩咲さんらしくないっすねえ。ここは俺に任せとけ、くらい言ってくださいよ」


「言える訳ねえだろ。古暮課長が目ぇ光らせてんだぞ、どうしようもあるか」

「変なとこがお役人なんすよねえ」


 笹桑はチラリと五味を見た。誰も触れられない空気。部屋に戻ってからずっと畳の上に大の字で寝転がったままだ。


「五味さ……」


 声をかけようとするが、服の袖を後ろから引っ張られた。振り返れば親方が難しい顔で首を振る。


「やめときな」


 小声でそう言われて、笹桑がため息をついたとき。


「何て言った」


 五味がつぶやく。


「え、何にも言ってないっすよ」


 思わず返事をした笹桑だが、五味は天井を見つめたまま。


「何て言った……砂鳥宗吾は何て言ったんだ」

「あの、五味さん?」


 首をかしげる笹桑の声を無視して、五味は突然身を起こす。


「砂鳥宗吾が宗一郎を海に突き落としたとする。それを河地善春が目撃した。砂鳥宗吾は河地善春に何か言うはずだ。何て言った。何て言えば辻褄が合う」


 原樹敦夫がのぞき込み、五味の目の前で手を振った。


「おーい、大丈夫か」


 しかし五味はまったく反応せず、ブツブツとつぶやき続けた。


「河地善春には保護責任者遺棄致死罪に問われる可能性があった。時効は十年。砂鳥宗吾は自分に業務上過失致死傷罪に問われる可能性があると思っていた。時効は十年。ただの偶然か? もし偶然じゃなかったら。もし仮に意図的に数字を合わせたのだとしたら、砂鳥宗吾は河地善春に何て言う?」


 そのまましばし沈黙を続けたかと思うと、部屋の一番奥の隅っこで膝を抱えていた少年に目を向け名を呼んだ。


「ジロー」


 そしてこう続ける。


「さっきの砂鳥宗吾を出せ」


 築根が思わず膝立ちになった。


「おい、いいのか。この部屋は盗聴なり監視なりされてるんじゃ」


 しかし、五味はジローだけを見つめている。ジローは数秒動かなかったが、不意に立ち上がり、静かな笑みを浮かべた。その手には、見えないスタンドマイクを握って。


「皆様、本日は急な予定の変更にもかかわらず、これほどの」

「もっと後だ。河地善春が出てきてからでいい」


 ジローはまた数秒固まると、手の位置だけを変えてこう話し出す。


「やあ、河地くんじゃないか。随分久しぶりだね……おや、河地くんじゃなかったのかな。大葉野くん。君は最近、河地くんと会ったはずだよね。どうだろう、彼は河地善春くんかな」


 五味はじっと見つめている。ただひたすらに見つめている。


「君がそう言うのなら、間違いないのだろう。さあ、それでは河地くん、君の証言を聞きたい」


 他の面々は、いったい何が起こるのかと固唾を飲んで見守っていた。


「で、あれば。もし君の言うように、僕が本当に兄を殺したのであれば、目撃者である君に対して何も言わないなどという事があるだろうか……僕が君に殺人を見られていたなら、僕は必ず君に言葉をかけたはずだ。河地くん、答えてくれないか。僕は何と言ったのだろう」


「ストップ」


 五味の声に、ジローは静かな笑みを浮かべたまま凍り付いたように動かなくなる。五味は一度大きな息をついて周囲を見回すと、自分のカバンに手を伸ばし、中からノートPCを取り出した。


「……後部デッキだ」


 そう言いながらノートPCを立ち上げ、すぐにブラウザを開く。しかし他の面々には意味がわからない。


「何が後部デッキなんだ」


 築根の問いに、五味はネットからエメラルドサンシャイン号の見取り図を探し出し、画面いっぱいに表示させて皆に見せた。


「砂鳥宗吾が兄の宗一郎を海に突き落としたのは、おそらくは後部デッキからだ」


 岩咲が目を丸くする。


「何でそんな事がわかる」

「この船で外に出られるのは八階の展望デッキだけ。だが真ん中より前はプールがありデッキチェアやベンチが並んでいる」


「だから?」


 理解に苦しむ原樹にうなずき、話を続ける五味。


「もし犯行が真ん中より前なら、河地善春が事件を目撃していたとしても身を隠す場所はいくらでもあったはずだ。後部デッキにつながる側面の通路も同じ。出入り口もあれば柱もある。しかし後部デッキはイベントを行う広場になっている。遮る物は何もない。しかもこの船の最後尾は階段状になっていない。垂直に切り立ってるんだ。落とすならここしかない」


「待て五味。その可能性が高いのは理解できる。だが、いまそれがわかったところで」


 築根の言葉を五味は遮った。


「河地善春は共犯者だ」


 これには築根も声を失う。築根だけではない。部屋の中は、ピンと張り詰めた静寂に支配された。それを破る五味の声。


「砂鳥宗吾はこう言った。『殺人を見られていたなら、必ず言葉をかけたはずだ』と。何故だ。どうして相手が隠れていたとは思わないのか。思うはずはない、最初から河地善春が見ている事を知っていて、その目の前で宗一郎を突き落としたからだ。そのとき河地善春は、砂鳥宗吾と一緒に後部デッキにいた。おそらくは殺人が行われるのを承知で、その場にいたんだ。さもなきゃ殺人現場から逃げ出していただろう。そして砂鳥宗吾は河地善春に声をかけた」


 岩咲が焦れたようにつぶやいた。


「何を言った」

「それは私も聞きたいね」


 その声に一同の目はドアへと向かう。いつの間にか半開きになったそこには、古暮捜査一課長の横顔があった。そして静かにドアを押し開け、軽く二回ノックをする。

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