第26話 雨中の対峙

 約二時間後、一同を詰め込んだ五味のクラウンと笹桑のミニは、多目的ホール近くの交差点横にあるコンビニの駐車場に駐まっていた。日が昇ってあまり時間が経っていない。河地善春が出勤するとしても、まだ時間はあるだろう。もちろん木曜日が休みのシフトであるとか、今日は夜勤シフトであるとか、イレギュラーを考え出したらキリがないのだが。


 クラウンの窓は全開にしているのに、それでももるカレーの匂い。ジローならコンビニのカレーライス程度、食べ終わるまでに三十秒とかからない。また膝を抱えて虚空を見つめるその手から、五味はため息をつきながら空になった容器をふんだくると、店のゴミ箱に放り込むため車外に出た。その前を通り過ぎて行く、メガネの太った男。


「おいおい早番かよ」


 舌打ちをしてクラウンに戻り、美冬を連れ出すと太った男の後を追った。向こうは特に警戒感も見せず、工場群の方へと歩いて行く。そしていくつかの工場の前を通り過ぎ、砂鳥食品加工の玄関に差し掛かった。五味はそこで声をかける。


「善春さん」


 しかし男は足を止めない。


「河地善春さん」


 今度は身を堅くして立ち止まり、男はゆっくりと振り返った。その目に表情はない。奇妙なくらい落ち着いている。


「誰ですか」


 五味は胸ポケットから端がヨレヨレになった名刺を取り出し、男に渡した。


「こういうもんです」

「……興信所?」


 その訝しげな表情は、わざとらしいと思えなくもない。五味は背後にいた美冬を手で示す。


「こちらの方に、あなたを捜すよう依頼されまして。誰だかわかりますよね」


 男はしばらく困惑した顔で美冬を見つめていたが、ハッと何かを思い出した。


「もしかして、美冬か?」


 振り返れば、美冬は明らかに当惑している。なるほど、少なくとも面影があるのは間違いないのだろう。


「善春兄さん、なの」

「あ、ああ。どうしたんだ、いったい」


「どうした? 連絡も寄越さずに、どうしたってどういう意味」

「ああ、いやスマン。こちらにもイロイロ事情があってね。今度、時間を作るよ。ゆっくり話そう」


 この会話に割って入る五味。


「そうですよね、居場所はわかったんですから詳しい話はまた後日にでも。お兄さんはこれから仕事なんでしょうか」

「ええ、まあ」


「ではまた後日、その名刺の電話かメールアドレスにご連絡ください。今日はこれで失礼します。ありがとうございました」


 取って付けたような愛想笑いを浮かべると五味は背を向け、美冬の肩をポンと叩いて去って行く。美冬は数秒遅れてその後を追い、小走りで五味の隣に並んだ。


「違うと思います」


 美冬は小声で言う。


「あの人が兄だとは思えません」

「だろうな」


 五味が一瞬振り返れば、「河地善春」は砂鳥食品加工の建物の中に入って行く。


「さすがに『完璧魔人』の仇名は伊達じゃない。話としちゃ良くできてる。だが、あまりにもでき過ぎだ」


 五味は足を早めた。急げばまだ間に合うかも知れない。その頬に冷たい水滴が触れる。雨が降り始めたのだ。




 背の高い上品そうなスーツ姿の老人が、黒い傘を差して道端に立っている。その前に停まる黒塗りのベンツ。内側から押し開かれた後部のドアに老人は微笑み会釈する。車内に入ると畳んだ傘を両脚の間に置き、ふう、と大きなため息をついた。


「嫌ですねえ、雨は」

「先生、何かあったのですか」


 隣に座る砂鳥宗吾がたずねる。しかし不安げな様子は見えない。現在、彼の周辺事情は想定内に収まっている。不確定要素は最小限、心配事などないに等しい。そんな宗吾に「提督」はこう言う。


「何か。そうですね、何かはあります。常にあります。この世に完璧など有り得ませんから」


 宗吾の眉がピクリと震えたように見えたものの、提督は気にすることなく話を続けた。


「例の探偵の動き、そちらにも引っかかっていますね」

「はい、ついさっき『河地善春』から連絡がありました」


「実に困った事です。いかに蟷螂とうろうの斧とは言え、こうも視界に入ると目障りで仕方ありません」

「では『処分』していただけるのでしょうか」


 提督は我が意を得たりとばかりに微笑む。


「あなたがそれをお望みとあらば」

「たとえ血塗られた城でも、私にとっては生きた証です。全力で守らねばなりません」


「ならば私も微力ながらお手伝い致しましょう。ところで守ると言えば」


 宗吾は提督の言わんとしている事を、先読みしてうなずく。


「はい」

「あなたのお義姉さん、顧問弁護士のところに入り浸りのようですね」


「そう聞いています。刑事告訴するつもりなのでしょう」

「こちらは処分しなくても良いと?」


 やや意地悪な言い回し。しかし宗吾は平然と、再びうなずく。


「直接的に利害が絡む相手ですから、彼女が死ねば私が容疑者の筆頭となります」

「すなわち死なない限り、あなたは安全圏にいられるという事。この先、彼女がどう動くのかも想定済みなのでしょう。良く練られた計画ですね。圧倒される思いです」


「何か問題が?」

「いいえ。あなたはあなたの計画を万全に遂行してください。それが私にとっても利益となるのですから。ああそうそう、新しい社外取締役の件ですが……」


 そう言いかけて、提督は眉を寄せた。


「車を停めてください」


 しかし砂鳥ホールディングス社屋までもう二百メートルもない。


「どうしました、先生」

「いいから停めなさい!」


 路肩に停車する黒いベンツ。提督はドアを静かに開けると、傘を開き歩道に降りた。前方を見れば、路肩に停まる銀色のクラウン。その後部トランクに腰をかけている、ヨレヨレのスーツの男。雨の中、火の消えたタバコを咥えて。提督はゆっくり、相手の反応を確かめるように一歩ずつ近付いて行った。


「やあ、五味くん」

「おや、奇遇ですね、『提督』」


 提督の足は止まった。すなわち、肯定したのだ。


「砂鳥氏に何か用でもあるのですか」


 提督の言葉に、五味は小さく微笑んだ。


「ええ、ちょっと小遣いでもせびろうかと思いましてね」

「本領発揮といったところですか。しかし、相手が悪い」


「そうですかねえ。俺にはそこまで相性の悪い相手とは思えないんですが」

「ほう、これはたいした自信家ですね。君はもう少し利口かと思っていましたよ」


「へっ、思ってたんなら『あんな事』はしないでしょう」

「さて、何の事やら」


「そうやってとぼけていてくれると、こっちとしちゃ有り難い。アンタに目立たれると邪魔なもんで」


 提督の余裕に満ちた表情は変わらない。だが空気は凍り付いた。


「一つ聞いていいですか、五味くん」

「何ですかね」


「君は『完全犯罪』についてどう思いますか」


 五味の眉がピクリと動く。


「そんなものはオカルトだ」


「ああ、良い回答ですね。私もほぼ同意見です。完全犯罪とは、完璧な犯罪計画が生み出す『成功の産物』ではありません。もしも完全犯罪がなし得たとするなら、それは警察の不完全で不十分な捜査が生み出した、ただの『失敗の産物』でしかないのです。すべてが計算され尽くした完全犯罪など、神でも悪魔でもない人間には不可能。考えるだけ無意味と言えます」


 五味の眉間に不審のシワが寄る。


「何が言いたい」


「完全犯罪はガラスの壁です。小さな傷が付けば、簡単に崩れ去ります。しかし元から不完全な岩の壁なら、傷が付こうと崩れはしません。残念ですが、非力な君ではこの壁は崩せませんよ」


 そして提督は背を向け、砂鳥宗吾の待つベンツへと戻った。後部座席に座り、不愉快げに「出してください」と言うと、黒塗りの車は五味とクラウン、その向こうに停まるミニの横を通り過ぎ、砂鳥ホールディングス本社ビルの地下駐車場へと入って行く。周囲を影に覆われた瞬間、提督の口元に浮かぶ笑み。


「一つアイデアがあるのですが」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る