第7話 最初の手がかり
「私は、逃げたのかも知れない」
五味総合興信所、事務所奥のソファで河地美冬は声を震わせた。
「心のどこかで、兄の決心をラッキーだと思っていたのかも知れない。でも、そのときにはもう本当に、それ以外ないとしか思えなかった。他の選択肢なんて見えなかった」
美冬はテーブルの冷めたコーヒーを手にし、一口飲む。
「その十年間が終わったのが昨日。父が死んでから、ちょうど十年目。でも兄からの連絡は来ませんでした」
「いや、それは気が早いってもんじゃ……」
そう言いかけた親方だが、五味ににらみつけられて口をつぐんだ。美冬は微笑みうなずく。
「私も、もう少し待とうかとは思ったんです。でも、今日になってあの人たちが来て」
「あの人たち?」
五味の眉が疑問を投げかけた。ようやく本題に入ったか、と。
「兄の同級生だって言ってました。三人組で、私が河地善春の妹だと知って、えらく驚いていて。兄を捜していると言うのに、何故あのアパートを知っていたのか、何故兄を捜しているのか、それには答えられないと」
「なるほどね」
五味は天井に向かってタバコの煙を吐いた。
「それでアンタはこう思ったんだ。この十年の間に何かが起こった。そのために誰かが兄貴を捜してる。それが連絡の来ない理由じゃないだろうか」
「違うでしょうか」
「違うかどうかは調べてみなきゃわからんね。万事お任せくださいって言いたいところだが、探偵は神様じゃない。できない事も、わからない事もある」
これを聞いて少しほっとしたかのような顔を見せた美冬に、五味は首をかしげる。
「どうかしたか」
「さっきまで、ちょっと心配してたんです。もし『何でもできるから全部任せとけ』とか言われたらどうしようかって」
五味はそんな事かという顔でタバコを咥えた。
「俺は強請りはやるが詐欺はやらねえからな。それより、その三人組の手がかりは何かないのか。兄貴の同級生って以外は」
すると美冬は、手にしていたポーチから名刺を一枚取り出した。
「何かわかったら連絡してくれと、これを」
五味の受け取った紙片にはこう書かれていた。
――弁護士 大葉野六郎
「おい親方」
五味は、キッチンで手持ち無沙汰らしい顔をしていた老人に視線を向ける。
「アンタ、弁護士に詳しかったよな」
親方は嬉しそうに小走りで寄ってきた。
「嫌な言い方しないどくれよ。そりゃまあ、世話になってる弁護士は何人かいるけどさ」
「大葉野六郎って知ってるか」
「大葉野?
美冬は少し考えた。
「……兄と同級生なら、いま二十九か三十歳。見た目はもう少し上にも見えましたけど」
「あら若いね。アタシが世話んなるのは、たいてい爺さんだからさ」
自分の事を棚に上げてこの言いよう。五味はウンザリした顔を見せた。
「んじゃいいや」
「待ちなって、話は最後まで聞くもんだ。アタシは直接は知らないけど、この弁護士と知り合いかも知れないヤツなら心当たりがあるよ」
「マジか」
「マジマジ。県の弁護士会の副会長だから。顔は広いよ」
「当たってくれるか」
「そりゃもちろん構わないけど……」
親方はニンマリ笑った。五味は苦笑を返すしかない。
「ああ、わかってる。そっちの方は何とかするから。頼むよ」
「あいよ、任せときな」
親方はポンと着物の胸を叩くと、いそいそと玄関に向かった。その様子を横目で見ながら五味は言う。
「とりあえず今後の事を打ち合わせとこう」
小太りの女は楽しそうに笑っている。五十歳くらいか。霊源寺の腕をポンポン叩いて、もう十五分ほど喋り通しだ。河地善春の妹が住んでいるアパートから、車で五分とかからない場所。霊源寺の実家の寺、幸平寺の檀家である。私と山猪は車の中で待っていたのだが、少々退屈になって来た。
「なあ、砂鳥の話どう思う」
運転席から振り返った私の顔も見ず、山猪は後部座席でずっとスマホをにらみ、SNSをチェックしている。
「業務上過失致死傷罪、か。時効は本当に十年なのか」
「それは間違いない。とは言えなあ、罪名は被告や弁護士が決められるものじゃないし、検察が傷害致死だと判断すれば、時効は一気に二十年になるんだ」
「そうならないために目撃証言が必要になるんだろ」
「河地善春が本当にその現場を目撃していたら、そして裁判所が証言を証拠として採用してくれたら、確かに砂鳥には有利になる。でもなあ」
山猪は、ようやく困ったような顔を上げる。
「何だ、言いたい事があるんならハッキリ言えよ」
私は昨夜以来、胸の奥につかえていたモノを言葉にした。
「単純に考えて、黙ってるのが一番有利なんじゃないのか。いまの時点で警察も気付いていないような事件なんだぞ、わざわざ証人を捜すなんて藪蛇もいいところだ」
「確かにな。手元にある情報だけを元に考えればそうなる」
「……ん? どういう事だ」
のぞき込む私の顔を見もせずに、山猪は再びスマホに視線を落とした。
「何か隠してるんだろう。おそらく砂鳥は、すべての情報を俺たちに見せてない。でも、それはそれでいいんじゃないか。全部見せられたら俺たちの方が困る情報だってあるかも知れないしな。どのみち裁判で大方は明らかになるんだ、いまどうこう言っても意味なんてないぞ」
山猪の意見はもっともだと思うが、それにしたって、と私が言いかけたとき。
「お、帰ってきたな」
山猪がまた顔を上げた。外に目をやれば、霊源寺がこちらに歩いてくる。顔は平然と、しかし特に収穫はなさそうに見えた。そのまま静かにドアを開け、助手席に乗り込む。途端、口元がニヤッと笑った。
「当たりだ。手がかりがあったぞ」
路駐していたアルファロメオが走り去るのを窓から確認して、五味は新しいタバコに火を点けた。そして部屋の隅の事務机にあるデスクトップPCの起動ボタンを押すと、視線をソファに向ける。そこにあるのは、じっと膝を抱え、虚空を見つめる少年の姿。
「ジロー」
五味は言う。
「さっきの女、河地美冬を出せ」
するとジローは数秒そのままでいたが、突然立ち上がり、小走りに玄関に向かったかと思うとドアの前で反転し、緊張の面持ちでゆっくりと、用心深げに戻って来た。その様子は五味の記憶にある、さっき事務所に入って来たときの河地美冬の姿そのもの。
不審げに事務所内を見回す様子、さっき親方がいた――しかしいまは誰もいない――場所をにらみつける視線、左手は何かを持っているように見えるが、確かポーチを持っていたはずだ。やがて何かを言われたかのようにうなずくと、ソファの真ん中に座る。
一挙一動、寸分の狂いもない。河地美冬が取った行動を、そのままトレースしている。もちろん、そのままと言っても肉体的寸法が違うのだから、動きを撮影して映像を重ね合わせれば多少の誤差は生まれるだろう。だが言い換えれば、そのレベルで一致しているのだ。これがジローの特技であり、五味がジローを飼う理由と言えた。五味はこの能力を「人間コピー機」と呼んでいる。
やがてジローが喋り出そうとしたとき、五味は「ストップ」と停止させた。まるで投稿サイトの動画のようにピタリと停止するのを見て、五味はPCを振り返り、キーボードで四桁のPINを打ち込む。PCが立ち上がるとブラウザを開き、「大葉野六郎 弁護士」と打ち込んで検索した。
個人のSNSページと弁護士事務所のサイトがヒットする。
いまの世の中、弁護士もピンキリであり、中には五味の同類もいる。もしそうなると面倒かとも思ったのだが、これは安心していいだろう。五味は満足げにうなずくと、大きく息を吐き出した。白い煙が漂う。
ネットで探れる事は一通り調べておく。上手く行けば、親方がもっと深掘りした情報を持って来るかも知れない。探偵なんて寿司屋と同じだ。ネタがなければ手も足も出ない。
検索結果にザックリと目を通した五味は、PCはそのままにソファに移動した。向かいの席には動きを止めたジローがいる。タバコを大きく吸い込むと、灰皿で乱暴にもみ消した。
「よし、続けろ」
ジローが再び動き出す。さっき見た美冬の動作、さっき聞いた美冬の言葉。伏せる目の角度から声のトーンまで完璧にコピーしたそれを、五味は刺すような目で見つめる。どこかに嘘はないか。矛盾はないか。依頼人だからといって信用などしない。もし何かを隠しているのなら、その事実をネタに河地美冬を強請る事も考えよう。真実? 解決? そんなモノには最初から興味などない。大事なのは最終的に金が手に入るかどうか、ただそれだけだ。
日曜、夕暮れ、遠くにカラスが鳴いている。閑静な住宅街にある日本家屋の縁側で、背の高い白髪の老人が座って空を見上げていた。もう十分に生きた、もう何も望むものなどない、そんな静かな主張をしているかに思える長い沈黙。膝には白い猫を抱き、足下には小さな柴犬がじっと見上げている。
老人の右側には小さな湯飲みが、そして左側には、この場に不似合いな小型のノートPCが置かれていた。それが軽やかなチャイム音を鳴らす。メールが着信したのだろう。その画面に目をやると、老人はクスッと微笑んだ。
「五味民雄……ああ、アレですか。嫌な名前ですね」
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