第6話 河地美冬の依頼

 テーブルにコーヒーを置き、親方はニッコリ笑った。


「ごゆっくり」


 それを、シッシッと手を振って追い払ってから、五味はソファに深く座り直した。


「アレは気にしなくていいから。で、何があった」


 目の前のソファに座っているのは豪野久枝の秘書、河地美冬。昨夜の様子と随分違う。普通に考えて何かがあったのだ。しかし美冬は視線を横に向け、言い淀んでいる。そこにはジローが虚空を見つめて膝を抱えていた。


「あー、コレも気にしなくていいから」


 せっかくのチャンスが向こうから飛び込んできたというのに、まったく間が悪い。この貧乏神どもが! まあ俺はガキとオカルトが大嫌いなのだが。などと五味が胸の内で文句を垂れていると、美冬は覚悟を決めたように顔を上げた。


「人を捜して欲しいんです」

「……あ?」


 予想外の展開に五味が追いつけずにいると、美冬はさらに言葉を重ねた。


「探偵なんですから、人捜しは得意なはずですよね」

「そらまあ、捜せなくはないが」


「報酬は豪野社長の情報。これで引き受けてもらえませんか」


 しばらくの間、にらむように美冬を見つめていた五味だったが、ワイシャツの胸ポケットからタバコを一本取り出して見せた。


「吸っていいか」

「どうぞ」


 タバコを咥え、ライターで火を点けて深く吸い込む。そして。


「人捜しは引き受けよう。報酬もそれでいい。ただし契約書は作れないが、納得はしてくれるかな」


 美冬はうなずいた。


「ええ、それで結構」

「で、誰を捜せばいい」


 美冬は五味の目を正面から見据えてハッキリ答えた。


「兄さんです。十年前に失踪した」




 河地夏生なつおは小さな学習塾を経営していた。教え方が上手かったらしく、評判を聞きつけて結構な遠方からも塾生が集まったそうだ。それでいて子供には甘い父であり、善春にも美冬にもうるさく勉強を強いる事はなかった。なのに二人とも成績は優秀で、特に美冬は学業について教師から注文をつけられた事が一度もない。これは親の背を見て育ったからなのかも知れない。


 もっとも、夏生も完璧な家庭人ではなかったようで、母は美冬が五歳、善春が十歳のときに家族を置いて出て行ったきり行方不明である。しかし、それ以降も夏生は二人にとって良い父であり続けた。いや、あり続けようとしたはずなのだ。


 最初の異変はおそらく十六年前、美冬が九歳のとき。もはや何が原因だったのかは覚えていないが、反抗期に入っていた美冬が父に口答えをした際、温厚な夏生が突然怒鳴り声を上げた。


「いい加減にしろ!」


 そして呆気に取られる善春と美冬を置いて書斎に閉じこもり、朝まで顔を見せなかった。二人は初めての事にショックを受けはしたものの、いかな夏生とて人間である、虫の居所が悪い事もあるのだろうとこの日は納得した。


 翌朝いつものように起きてきた夏生はいつも通りの優しい父だったし、善春も美冬も、いままで通りの平凡で幸せな日々が続くのを疑わなかった。けれどこのとき、すでに誰にも止めようのない変化が始まっていたのだ。


 それからの夏生は基本的には優しい父だったが、少しずつ頑固になって行った。月に一度は火山が噴火するかの如く怒鳴り散らすようにもなった。


「老化現象じゃないかなあ」


 善春がそうつぶやいたとき、美冬は苦笑したのを覚えている。


「でもお父さん、まだ五十前だよ。更年期障害の方があると思う」

「そうかなあ」


「しばらくしたら、また良くなるよ」


 そんな会話も思い出の中。だが状況は二人の願う方向には進まなかった。夏生の噴火するペースはどんどん短くなって行く。やがて美冬が私立中学を受験するかどうかという話が出た頃、激昂した夏生が美冬を殴ったのだ。


「そんな事は許さん! 誰のおかげで飯が食えていると思っている! 親の言葉が聞けないのか! おまえたちは私の言う通りにしていればいいんだ! 文句があるなら出て行け!」




 そして河地美冬は一つ大きなため息をついた。


「そのときの父は、もう何と言えばいいのか、それこそ悪霊でも取り憑いたかのようで」


 悪霊という言葉に五味の眉が不快げな変化を見せる。しかし口は挟まない。とにかく最後まで話してもらわなければ全体が見えないからだ。


「それからは、もう坂道を転げ落ちるかのように」


 美冬は唇を噛みしめる。頬を涙が伝った。そこに。


「アルツハイマーじゃないのかねえ」


 背後から聞こえた声に、美冬は思わず振り返る。スリの親方がキッチンの冷蔵庫にもたれかかっていた。


「聞く限り、アルツハイマーの症状っぽいけど」


 五味は苛立たしげな視線を向けたが、美冬は大きくうなずく。


「ええ、そうでした。父は若年性のアルツハイマー病にかかっていたんです」




 夏生を医者に診せるのは苦労した。子供二人の言う事になど聞く耳を持たないし、可能なら祖父母にでも頼みたいところだったのだが、実家とは完全に縁を切っているため、親しい親戚に訳を話し、半ば強引に病院へと連れて行って診察を受けたのだ。それまでに二年を要した。


 診断結果は若年性アルツハイマー型認知症。病状はかなり進行しているとの医師の説明。


 医師は入院を勧めたが、そのときすでに学習塾は立ち行かなくなり廃業していた。善春のバイト代と借金で何とか生活していた状態で、とても入院などさせる余裕はない。二人は父の自宅療養を選択した。二人で協力すれば、と甘い予測を立てたのだ。


 だが、それは地獄だった。ほんの少し隙を見せれば、夏生は半裸や全裸で徘徊し、何度も警察沙汰となる。食事をしたことを忘れ、餓死させるつもりかと二人を責める。自分の金が盗まれていると夜中にわめき散らしたかと思うと、タンスに糞便を隠す。親戚の顔を忘れ、隣人の顔を忘れ、やがて。


「誰だ、おまえたちは誰だ。わ、私を殺しに来たのか。助けて、助けて」


 自分の子供の顔を忘れ、恐怖に泣き喚いた。


 そんな生活が一年続き、二年続き、三年経ったとき。善春は美冬にこう言った。


「父さんを殺そうと思う」

「……え?」


 介護に疲れ切っていた事もあり、美冬には兄の言葉がしばらく理解できなかった。秋の夜。美冬の部屋の窓の外からは虫の声が聞こえる。善春は微笑んでいた。


「父さんは壊れてしまった。もう、幸せを感じる事もできない。ただただ怖くて苦しいだけの毎日が、これからずっと続くんだ。僕は、父さんを殺してあげようと思う」


 その真剣な目に、美冬はようやく兄の強い意志を悟った。


「何言ってるの。そんなのダメに決まってるじゃない」

「もう決めたんだ」


「馬鹿言わないで。お兄ちゃんだけのお父さんじゃないんだよ、私のお父さんなんだよ」

「済まないとは思ってる」


「やめてよ! お兄ちゃんが人殺しになるなんてやだ!」


「父さんの障害年金でアパートを借りてある。伯父さんに紹介してもらった。古いけど何とか住めるはずだ。この家も売る事にした。税金が高いからね。父さんの生命保険を一つだけ継続してる。それなりの金額は入るだろう」


 兄の言っている意味が理解できない。理解したくない。美冬の頭は爆発しそうだった。


「美冬はそのアパートで、十年待っていてくれないか。十年経てば、何とかなるはずだから」

「何とかって、いったい何が何とかなるの」


「保護責任者遺棄致死罪の時効は十年。十年逃げ切れば」


 弱々しく微笑む兄のこの言葉で、美冬はようやく理解した。ああ、もう何を言っても無駄だ。兄の覚悟は揺るがない。それだけ長く考え、調べ、準備してきたのだ。これは決定事項。受け入れざるを得ない現実。そのときの美冬にはそう思えた。


 台所からガチャンと何かが割れる音。おそらく夏生だろう。善春は立ち上がり、ドアに向かった。


「大丈夫。全部大丈夫だから」


 そして数日後、夏生は死んだ。道路に飛び出し、車にはねられて。

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