第5話 親方の無心
「十年前の住所は砂鳥が知ってるんだよな。だったら、そこから始めるしかないだろ」
砂鳥ホテルのロイヤルスイートルーム、私の言葉に霊源寺は少し眉を寄せる。
「そこにいまでも住んでりゃいいけどよ、引っ越しでもしてたらどうする。近所に聞き込みするのか」
「いや、そこにはもう住んでいない」
クッキーを頬張りながら山猪が言い切った。霊源寺はさらに眉を寄せる。
「何でそんな事わかるんだよ。行ってみなきゃ……」
「あの砂鳥が、こんな基本的な事を確認していない訳がない。もう、そこには住んでいないから行方不明なんだ」
確かにもっともな理屈だと思った。やはり何だかんだと言いながら、山猪は我ら三人のリーダーなのだ。私が感心していると、霊源寺がこう言う。
「高校はどうだ。進学先とか就職先とか、記録に残ってるかも知れないぞ」
「いや、それは無理だ」
私は即座に否定してしまった。弁護士という職業柄、この手の話にはつい厳しくなってしまう。しかし霊源寺はピンと来ていないようだ。
「何で無理なんだよ」
「ただでさえ個人情報の取扱いにうるさいこのご時世に、しかも、とうの昔の十二年前に卒業した連中が押しかけて、卒業生の情報を教えろと言ったところで、良くて門前払い、悪けりゃ警察を呼ばれるぞ」
「弁護士でも無理か?」
「裁判所の命令でもあれば別だけどな」
霊源寺は腕を組んで考え込んでしまった。それを見て山猪が言う。
「とにかくスタート地点は十年前の住所だ。これは動かしようがない。あとはそこからどう広げるかだな」
「ただ、どうやって広げる。霊源寺じゃないけど、一軒ずつ聞き込みして回るってのも現実的とは言えないだろ」
私がそう答えると、山猪はニヤリと笑い、霊源寺に視線を向けた。
「それなんだがな。なあ霊源寺、おまえんちの寺の檀家って、どの辺りまで広がってるんだ」
霊源寺は一瞬、呆気に取られたかと思うと、不意に真面目な顔になる。
「それは個人情報だから」
「おまえが言うな」
私と山猪が同時にツッコんだのは、言うまでもない。
日本経済界という大きなキャンバスでは、砂鳥ホールディングスは小さな点に過ぎなかったが、地元では「立派な会社」と言えた。傘下にはホテルや中規模のクルーズ船といった観光業を主体に、ファミリーレストランやドラッグストア、食品工場なども展開する。
祖父が一代で財をなし、父がそれを受け継ぎ、宗吾は三代目である。「長者三代」「売り家と唐様で書く三代目」などと言われる。しかし、宗吾の代になってからグループの業績は右肩上がり、兄弟の中で宗吾を後継者に選んだ父の目は確かだったと言えるだろう。
だが成功者は妬まれるのが常。役員として経営に加わる血縁や、はるかに年上の傘下企業の経営責任者たちは、常に反旗を翻すチャンスを狙っているはずだ。三十歳の若き総帥の周囲には、いつも緊張があった。だからこそ。
弱みは見せられない。僅かな
そのとき内線が鳴った。秘書からだ。
「どうした」
「ご友人のお三方がチェックアウトされました」
「何か伝言は」
「特にございません」
「わかった。ありがとう」
やれやれ、やっと動いてくれたか。まあ、それほど難しい仕事ではないはずだ。じきに河地善春の居場所を見つけて連絡をして来るだろう。宗吾はため息をつくとスマートフォンを取り出し、電話帳からある番号を呼び出した。しばし眺めてからタップする。
「……僕だ。例の三人が近いうちにそちらに行くはずだからね、よろしく頼む」
昼、繁華街の裏路地に面した雑居ビルの四階にある、五味総合興信所のインターホンが鳴った。ジローのカレーライスをテーブルに置いたばかりの五味は眉を寄せる。来客の予定などないからだ。とは言え、日曜は定休日ではない。依頼の客が来ないとは限らない。期待を込めて壁のモニター画面をのぞき込んだ五味は、がっくり肩を落とした。
ムッとした顔で玄関に向かい、チェーンをかけたままドアを開ける。隙間の向こうに立っているのは、七十代くらいだろうか、小柄だが知的な雰囲気を醸し出す和服の男性。
「何だよ親方。情報でもあんのか」
「おお、五味ちゃん。いてくれてよかった」
親方と呼ばれた相手は、上品そうな笑顔を浮かべてドアに手をかける。しかし五味はその手をジロリとにらんだ。
「入れなんて言ってねえだろ」
「やだよこの人は。せっかく会いに来たのにドアを開けないつもりかい」
「当たり前だろうが。情報がないんなら帰れ」
「そんな、つれない事を言いなさんな。情報はないけど頼みがあるんだよ」
正直、頼まれたいとは毛の先程も思えない相手だが、頼みというからには何か聞くべきメリットがあるやも知れない。五味はチェーンを外し、ドアを開いた。親方は、まるで自分の家のようにスタスタと奥まで入って来る。
「何だいジローちゃん、またカレーライス食わされたのかい」
「カレーしか食わねえんだから仕方ないだろうが。それより頼みって何だ」
すると親方は照れ臭そうに笑い、着物の袖で頬を隠した。
「いやあ、こんな事を頼めるのは五味ちゃんしかいなくってさ」
「いいから早く言えよ」
「ちょっと買いたい本があってね」
「……金貸せってか?」
「そう」
「アホか! ふざけんなよ。他人に貸す金なんぞ、ある訳ないだろ。そもそもアンタに貸したところで返ってくんのか」
「大丈夫大丈夫、ちょっと『仕事』すりゃすぐ返せるから」
そう言って親方は、右手の人差し指をクイッと曲げて見せた。
「あのな」
五味は、これ見よがしにため息をつく。
「俺も他人に説教できる立場じゃねえが、もういい加減スリなんてやめたらどうだ」
「馬鹿言ってんじゃないよ。アタシゃまだまだ現役なんだ、隠居なんてまっぴらさね」
「何が隠居だ、いいように言ってんじゃねえ。盗人猛々しいわ」
「わかってないねえ。スリはね、芸術なんだよ。人間の心理と行動の分析の上に成り立つ技巧の極致なんだよ」
「うるせえよ。買いたい本代も稼げねえヤツが何言ってやがんだ」
「だってその本、ちょっと高くてさあ」
ほとほと呆れ果てた顔の五味だったが、少し興味が出たのか、こうたずねた。
「ちなみに、いくらの本買う気なんだよ」
「七万と千五百円」
「たっか! はあ? 何だそれ。本か? 百科事典でも全巻揃えるつもりかよ」
「やだねえ、百科事典全巻はもうちょっと高いんだよ」
「そういう問題じゃねえ。何の本買うつもりなんだ」
「医学書だよ。専門書って高くってね」
ああ、そうだった。五味は思い出した。この親方は旧帝大の医学部を卒業している。医者の免許持ちのスリという変わり種なのだ。
「そんなもん読むくらいなら、素直に医者やれよ」
「そうは行かないよ。水の合う合わないは誰にだってあるもんさ」
「だったら、もう医学書なんぞ読まなくていいじゃねえか」
「それが知的好奇心てヤツは、どうにも抑えられないんだよ。ねえ、お金貸しておくれよ。どうしても無理ってんなら、半額の三万五千七百五十円でいいからさ」
「細けえよ。て言うか、何で俺が半額で勘弁してもらうみたいになってんだ、ふざけんな」
五味がウンザリした顔を見せたとき。インターホンが再び鳴った。
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