第4話 十年

 部屋の鍵を開ける前にポストを確認する。ピザ屋の広告しか入っていない。もしかして少し手が震えているのだろうか、いつもより差し込みにくい鍵を、やや強引に押し込んでドアを開けた。最初に電話機を見つめる。だが、ランプは点滅していない。留守電は入っていなかった。


 玄関先で大きなため息をついた河地美冬は、疲れた様子でドアを閉め、部屋に上がってから手の中のクシャクシャの名刺に気がついた。何で持ってきたんだろう。まあいいや。小さくつぶやいて、部屋の隅のゴミ箱に放り投げる。だが、丸まった名刺は大きく外れ、タンスに当たった。十年前からそこにあるタンスに。その隣には小さな仏壇。中では父親の写真が笑っている。


 本当に十年経ったのだ。十年。美冬は改めて時の流れを実感した。


 十年前、高校一年生だった美冬は父親を失い、兄が失踪した。しかし彼女は親戚に頭を下げ、この部屋での一人暮らしを認めてもらった。そのために父親の生命保険金をすべて差し出し、家賃も生活費もアルバイトで稼ぎ自活すると約束して。


 高校は退学し、高卒認定を取り、秘書検定と英語検定を取り、豪野社長に拾ってもらった。とは言っても、最初の二年は給料日前日には一円も残らないほどの薄給で、何とか仕事が認められて人並みの生活ができるようになったのは、三年目からだった。


 だが、そんな苦労もすべてこの日のため。十年が過ぎたら戻ってくる、兄のその言葉を信じたから。いや、いまでも美冬は強く信じている。兄は必ず、この部屋に戻ってくるに違いない。だから、この部屋で暮らしているのだ。だから、電話番号も変えずに残してあるのだ。連絡が来るならこの部屋しか有り得ない。絶対に。


 なのに。


 まだ手紙も電話も来ていない。何故だろう。この部屋の事を忘れた? そんな馬鹿な。なら、十年の間に兄の身に何かあったのか。何が。兄の身に起こり得る何かと言えば。


――誰だ、おまえたちは誰だ。わ、私を殺しに来たのか。助けて、助けて


 まさか、あんな事がまた起きるのだろうか。いや、早まってはいけない。まだ十年経って初日だ。明日か明後日にでもなれば、連絡が来る可能性はまだある。美冬は自分の体を抱きしめた。十年待ったのだ、あと数日くらい何だというのか。すべて上手く行く。きっと上手く行く。そう己を励ます美冬の目に、畳の上でクシャクシャに丸まった五味の名刺が映った。




 日曜の朝、六時。まったく世間は休みだってのに、何の因果でこんな健康的な時間に起きなきゃいかんのかね。五味は欠伸あくびを噛み殺しながらワイシャツに着替え、ズボンを履いて事務所兼自宅のキッチンに立った。今日は出かける予定はない。ネクタイはいいだろう。


 ヤカンをガスコンロに乗せ、その火でタバコを点ける。そして大きなラーメン用の丼にパック飯の中身を落とし、上にレトルトのカレーをかけ、電子レンジで五分間。今朝は食欲がない。インスタントコーヒーだけでいいな。五味は自分の問いにうなずいて寝室に向かった。


「おいジロー、起きろ。立って歩け。朝飯だ」


 暗い寝室の中で動く気配。摺り足で出てきたのは、スタジャンにジーンズ姿の十六、七歳に見える少年。黒く濡れたような髪に透き通る肌、人形のような顔立ちで、その目は澄み切っていた。少年ジローは五味と目を合わせないまま、小さなコーヒーテーブルを挟んで並ぶソファの端に座ると、両ひざを抱える。


 ヤカンの笛が鳴った。五味は火を消してマグカップに目分量で適当にインスタントコーヒーをぶち込み、湯を流し込む。それを一口飲んだとき、レンジのチャイムが鳴った。五味は温まった――全体が温まっているかなど確認もしない――カレーライスの丼にスプーンを放り込み、ジローの前のコーヒーテーブルに置く。


「ほれ食え」


 その瞬間ジローは丼に飛びつき、むさぼるようにカレーライスを口にかき込んだ。何日かぶりで餌にありついた野良犬もかくやという有様。しかしそれを見慣れているのか、五味はソファの真ん中に腰を下ろすと、のんびりコーヒーを飲む。


 一分と経っていないだろう、再び目をやったとき、ジローはもう食事を終えてまた両膝を抱えていた。その宙を彷徨さまよう水晶のような瞳には誰も映らない。五味は面倒臭げに舌打ちをすると、丼を流し台へと持って行った。


 五味がこんな時間に起きる理由は、主にジローに食事を摂らせるためである。もし五味が何も用意しなかったら、あるいは用意しても何も言わなかったら、ジローは三日でも四日でも、いや餓死をするそのときまで、ただ膝を抱えたまま空腹と共に時を過ごすだろう。殺すつもりがないのなら、定期的に食事を摂らせなければならないのだ。


 短くなったタバコをテーブルの灰皿でもみ消し、コーヒーを飲む。そしてまたライターでタバコに火を点け、深く煙を吸い込む。


 何も思いつかない。


 まあ、これ自体は別段珍しくもないのだが、とりあえずいまは豪野久枝というターゲットが明確にある状態だ。善は急げ。善でなくとも急げ。時間を浪費しても意味がない。相手に余裕を与えるのは、こちらが不利になるだけなのだから。


 五味はもう一度タバコを深く吸い込む。だが、やはり何も思いつかなかった。




 ユルユルの浴衣姿で寝室から飛び出して来たのは山猪。せっかくのロイヤルスイートが台無しだな。


「いま何時だ!」


 この大声で驚いた霊源寺が、飲んでいたコーヒーをこぼしそうになる。私はテーブルに置かれた自分のスマホに目をやった。


「八時半だな。日曜日の午前八時半。おまえ、スマホ持ってないのか」

「スマホがないんだ!」


 頭を抱えてオロオロしている山猪に、軽く咳き込んだ霊源寺が迷惑そうにこう言う。


「どうせ服のポケットだろ」

「服が見当たらない!」


「クローゼットの中は」

「クローゼットってどこだ!」


「……あのなあ」


 霊源寺がやれやれといった風に立ち上がり、山猪の寝室に入って行く。そして三十秒としないうちに。


「あーっ、あった!」


 私は苦笑を浮かべてレモンティーを飲んだ。これでもミス研時代の山猪はエースだったのだが、ときどき信じられないほど単純なポカをやっていた。こういうところは変わらないものだな、と思いながら。


 呆れた様子で出てきた霊源寺に「お疲れ」と声をかけると、相手も苦笑を浮かべている。


「ここに泊まる事、カミさんに言ってなかったんだと」

「いま起きるまで忘れてたって?」


「いろんな意味で変わんねえヤツだよ、まったく」


 誰も同じ感想を持つものだと私が感心していると、照れ臭そうな山猪が寝室からスマホを片手に現われた。


「いやあ、すまんな。まいった」

「カミさん、怒ってなかったのか」


 声をかけた私に小さくうなずき、山猪は空いている椅子に座る。


「いや、何か昨夜ゆうべ、砂鳥から連絡があったらしい」


 これには霊源寺も目を丸くした。


「そこまで気ぃ回したのか。あいつ凄えな」

「さすがは『完璧魔人』、俺らとはレベルが違うよな」


 感動している山猪を、私と霊源寺は冷めた目で見つめる。「俺ら」ではなく「俺」だろうと。しかし、当の山猪はそれに気付きもしない。


「で、河地善春だけど」


 テーブルの籠に盛られたクッキーを一つ取り、袋を破って咥える。


「どこから始める?」


 山猪の、この切り替えの速さだけは間違いなくエースだ。私と霊源寺は呆れながらも話に乗った。

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