第2話 強請り屋
私立探偵という仕事柄、カバンは使わない訳にも行かない。契約書に代行依頼や権利放棄の書類、完成した調査報告書を持ち歩く必要もある。このデジタル社会に、何ともアナログな事だ。メールでPDFを送って完了、とはなかなか行かないのである。
金の受け渡しをするための道具でもあり、相応の説得力が求められる。中学生が通学に使うようなカバンでは話にならないし、あまりカジュアルなのも顧客に不信感を与える。だからといって、何十年もビジネスマンが使ったかのようなくたびれたカバンも、いささか場違い感がある。
その点、YAMAGOのカバンは当たり外れが少ない。重量的にもデザイン的にもさほど重みを感じないし、それでいて遊び用途には見えない。優秀なデザイナーや皮革職人をあちこち他社から引き抜きまくって、業界では大層な嫌われ者であるらしいが、実際に使い勝手の良さを前にすると、ユーザーはその辺を気にしないのだ。
社長は
この豪野社長が、自分の「人を見る目」に絶対の自信を持っている。逆を言えば部下を信用していない訳だが、とにかく他社から目当ての職人を引き抜くときには自分が直接現場に出張る。これを快く思わない人間は社内外に少なくない。それはすなわち、こちらに情報が入りやすいという事でもある。豪野社長に不満を持っていそうな部署にこまめに種を撒いていれば、それがいずれ芽を出すのだ。
見るからに中肉中背、ヨレヨレのグレーのスーツにしなびた黒のネクタイ。ボサボサ頭と無精ヒゲは多少印象に残るが、ほぼ無個性。三十絡みのどこにでもいそうな、どこにいてもさほど不自然さのない外見は、私立探偵としての五味の武器だ。
五味はいま、工場街で豪野久枝を待っている。とは言っても、誰かに依頼された訳ではない。
屋根も壁面もコンクリートのスレート
愛車の銀色のクラウンは、少し離れた埋め立て地の産業道路に路駐している。こんなところに乗り付けて、フォークリフトにぶつけられるのは趣味ではなかった。
だが偉大なる豪野社長様はそうではないらしい。十分も待たないうちに、黒いミニバンがゆっくりと走ってきた。ナンバープレートを確認して、五味の口元が緩む。間違いない。
おそらくここを真っ直ぐに行った先にある、メッキ工場の職人に用があるのだろう。万札一枚でペラペラ喋ってくれた、よほどストレスが溜まっていたのであろう事務員の顔を思い浮かべながら、五味は徐行するミニバンの前に立ちはだかった。
停止した運転席から顔を出したのは、気の強そうな、髪の長い二十五、六の女。豪野久枝ではない。事前の調査が的外れでなければ、おそらく秘書の
「そこをどいてくれませんか。急いでるので」
そう言う美冬は笑顔だが、目は笑っていない。警戒感バリバリでにらみつけている。ならば、親愛を込めて笑顔を返すのが大人の
「奇遇ですなあ。こっちも遊んでいる時間はないんでね、単刀直入に社長さんとお話ししたいんですが」
「社長はあなたとは話しません」
「確認くらいしてくれたっていいでしょう」
「話しません。どきなさい、警察を呼びますよ」
すると五味は、笑顔で声を張り上げた。
「三ヶ月前に、お宅に引き抜かれた革なめし職人、こないだ自殺しましたよね!」
河地美冬の表情に動揺が浮かぶ。
「お宅、企業情報でやけに職人の離職率の低さを自慢するじゃないですか、アレどういう理由なんです? まさか逃げられないような汚い手を使ってる訳じゃないですよね!」
建ち並ぶ工場の中から人が顔を出している。振り返れば、豪野久枝が行く予定だったメッキ工場からも誰か出て来ているようだ。
と、ミニバン後部の電動スライドドアが開いた。
「お入んなさいな。話くらいなら聞いたげますよ」
「社長!」
河地美冬は驚いて振り返るが、五味にとっては願ったり叶ったりである。
「そいじゃお邪魔しますよ、と」
車内に入ると誰の好みか、キツいラベンダーの香り。その奥で、白のジャケットにピンクのシャツ姿の白髪で高齢な女が、白いスラックスで足を組みながら、こちらをにらみつけている。
「新聞か雑誌の人かしら?」
ドスの効いたダミ声は、説得力や信頼感といった点において彼女に貢献しているのだろう。五味は胸のポケットから、角が少しヨレヨレになった名刺を取り出した。
渡されたそれを手にした豪野久枝の顔が、興味深げに変化する。
「五味総合興信所……まさか私立探偵? いまどき?」
「ええ、何とか生き残ってますよ。どうにかね」
「で、その探偵さんが
「仕事がないのはその通りなんですがね、別に真似事はしてないんですよ。こっちが本職なもんで」
タバコを咥えて胸を張る五味に、豪野久枝は目を鋭く細めた。
「話は手短かにしましょう。要はお金なのかしら」
「三百万で
「確かに、三百万なら私が個人的に動かせる金額です。冬のボーナスは八百万ほどになりますからね、事前に三百万くらいどうという事もない」
「そいつは豪気ですな」
「ただし」
豪野久枝は、鼻先に軽侮を浮かべて笑っている。
「強請る内容に比べて、三百万は高すぎますね」
「へえ、そうですかね。なら適正価格はいかほどでしょうか」
「二、三万がいいところですよ。それならいますぐ払って差し上げますけど」
「つまり今後、職人の引き抜きが難しくなっても問題はないと」
YAMAGOの製品は、腕のいい職人を言葉巧みに引き込み続ける事でクオリティを維持しているが、使い捨てる職人がいなくなれば、あっという間に会社は傾くだろう。それくらいは五味でなくとも見ていればわかる。しかし。
「現時点で、うちの布陣は盤石ですよ。待遇だって、この辺の零細に比べて段違い。放っておいても才能は集まって来るけど、私が動いた方が早い。それだけの事ですからね。あなたが邪魔をしたところで、
豪野久枝はあくまで強気だった。それなら仕方ない。
「そうですか、そりゃ残念だ」
五味は、そう言うと即座にドアを開け、
「社長さん、また面白いネタを仕入れたら
にらみつけている運転席の河地美冬に軽く会釈し、五味はミニバンに背を向けた。豪野久枝は自信家で、しかも短気だ。自分が強請りのターゲットにされたと知って、果たして放置できるかどうか。何か動きを見せるかも知れない。もし動けばチャンスにつながる。それに次の手も考えてあるしな。
とりあえず現時点で人事は尽くした、後は天命を待つだけだ。なんて言い草は、神様にぶん殴られるかも知れないが、構いはしない。
「俺はガキとオカルトが大嫌いなもんでな」
五味は、そうつぶやきながら工場街を後にした。
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