強請り屋 二重描線のスケッチ
柚緒駆
第1話 てるてる坊主
日だまりの中、飼っていた文鳥が死んだ。それは日常の終了を告げる鐘。僕は気付いた。あれからもう、十年が経つのだと。だが十年は長かった。いまの僕は十年前の僕ではない。それどころか。
振り向けば、少し傾いた本棚。分厚い画集の並ぶ上の隙間に、無造作に放り込まれたスケッチブック。手に取って開くまでもない。何も描かれてはいないのだから。
絵を描かなくなって何年になるだろう。自分が絵から離れるなんて、十年前には想像すらできなかった。人間は変わる。変わってしまう。あの頃見えていた世界はもう見えない。いまとなっては、どうでもいい気がするけれど。
「悪いな宗吾。どうやら役に立てそうにない」
あの子たちには何と言おう。成り行きで関わりあった子供たち。せめて別の保護者を見つけてあげるのが、人間らしい行動だろうか。
人間らしい、か。
「人殺しの言葉じゃないな」
何だか自分が無性に可笑しくなって、僕はしばらく笑っていた。
今日は市が指定した「防災の日」。各町村では午前中にサイレンが鳴り響き、防災訓練が行われる。訓練と言っても、ただ指定避難場所に集まるだけなのだが。
以前、震災が起こった直後には炊き出しの実演があったりもしたものの、少なくともこの近辺に限れば、ここ数年自然災害は起こっていない。地震すらないのである。住民の危機意識も薄れようというものだ。参加者は年々減少の一途を辿っていた。
訓練に参加している家庭は、毎年町内会が配っている「防災タオル」を玄関先にぶらさげておく決まりになっている。もう少し都会ならセキュリティリスクを考えて問題視されそうなやり方であるが、この町内では空き巣被害すら滅多にない。ほとんど気にする者はいなかった。
もちろん、まったく何の対策もしていない訳ではない。訓練中は町内会が雇ったシルバーボランティアがパトロールし、不審者がいないか見張るという建前になっている。また、訓練に参加していない、つまりタオルのぶら下がっていない家庭に一声かけるのも、ボランティアの重要な仕事であった。
同じような形の一軒家がズラズラ並ぶ一角の、角から三軒目。町内会から受け取った住宅地図には「
らしいらしいばかりで確定的な情報は何もない。しかし、これが田舎町の社会では危険視される。もしかしたら、とんでもなく悪いヤツの家かも知れないと。だが、それでも。八津恵は自らの仕事を果たそうとした。世納の家にはタオルがぶら下がっていない。ならば一声かけねばならん。八津恵はインターホンのボタンを押した。家の中でチャイム音が響いているのが微かに聞こえる。
「世納さん? 町内会のもんじゃけど、おるんかね」
返事はない。もし誰かが家の中で動き回れば何らかの気配があるものだが、それもない。どうせ開かないだろうとドアを引いてみたら、鍵はかかっていなかった。
「世納さん……?」
人の気配がない。もしかして訓練に出かけたか。防災タオルを出すのを忘れていただけなのではないか。ついでに鍵をかけるのも忘れたのかも知れない。まあ人間は失敗するものだから、この程度の事はよくあるに違いない。などと八津恵が考えていたとき。
「どうかしましたか?」
「ひえっ」
突然、背後からかかった声に驚き振り返れば、スーパーの買い物袋を手にした十歳くらいの男の子が、七、八歳の女の子と手を繋いで立っていた。女の子は目を閉じている。見えないのだろうか。
「こ、このうちの子かい?」
「はい、そうです」
男の子はハキハキ答える。何も後ろ暗い事などないと言わんばかりに。
八津恵は首をかしげた。
「お父さんは訓練に出とるのかいね。おらんみたいじゃけど」
すると男の子は、不審な様子を顔に浮かべた。
「晋平さんが訓練に出るなんて、そんなはずない」
そして少し強引に女の子の手を引くと、家の中に入って行った。
「晋平さん、晋平さんいるの? 晋平さ……」
突如、家の中に響き渡る悲鳴。
「うああああっ!」
八津恵は慌てて家の中に上がり、二人を捜した。捜すと言っても一階の部屋は台所を含め四つしかない。へたり込む男の子と立ち尽くす女の子はすぐに見つかる。その向こうには、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます