【映画エッセイ】名もなき音楽は誰がために 2022.6.28
(鑑賞作品『(Instrumental)』監督 宮坂一輝 主演 秋田ようこ)
サイズの合わないサンダルをつっかけて外へ出た。それは数年前の夏の夜だった。
真昼の暑さを引きずったまま洗濯物を抱え歩いた。数軒あるコンビニを通り過ぎると灯のついた住宅は疎らになった。暗い道をしばらく歩くと、静まり返った住宅街の中に、灯りを残した場所が見える。近づくにつれ虫がその灯り目指して飛び込んでいるのが見えた。
コインランドリーの中は蒸していて、洗濯物を乾燥機に入れているだけでじっとりと肌が湿っていく。コインランドリーの中に人はいない。ただ、いくつかの乾燥機がごうん、ごうんと、回っていた。
真夜中のコインランドリーで、自分以外の誰かが洗濯物を乾かしている。誰かの生きている証たちが、寝静まった住民の代わりに音楽を奏でているようだった。
溜まっていく洗濯物は、私たちの汚れを引き受けている。
単なる皮膚だとか皮脂だとか埃だとかそういう物理的なもの以外の全てを引き受けているような気がする。積み重なった洗濯物を見るたび、早く綺麗にしてしまいたいと思う反面、心は重く億劫になっていく。洗濯機が洗ってくれる、乾燥機が乾かしてくれる。それを知っているはずなのにだ。
私にはこれしかない、そう思っている気持ちが大きければ大きいほど、打ちのめされた時の衝撃は大きいものだ。自信や誇りは簡単に波に飲まれて沈んでしまう。その波に必死にしがみつく人もいるだろう。抗って進んでいく人もいるだろう。あなたはそのどちらでしょうかと、静かに問われている気になった。
何者にもなれないのか、ならないのか、どちらなんだと。
自分の道を選び進むことは自分以外の誰にも出来ない。そして、大切な人が選んだ道を変えることは私たちには出来ない。進んでいくあの人を止めることも出来ない。ある場所で歩くことを辞めてしまってその姿が見つけられなくなっても、最後にあの人がいたであろう場所で繰り返し、ただ呆然と立ち尽くすことになる。
あの時何かを伝えていれば、走っていく後ろ姿を無理矢理にでも引き止めて追いかけて抱き寄せていれば、何かが変わっていたかもしれない。あなただけが私を選んでくれたらいい。そう伝えてさえいれば何かが違ったのかもしれない。そんな風に考えを巡らせても自分の無力さに打ちのめされるだけだ。
彼女は何度も髪に手を伸ばし、頬に落ちる髪の毛を結ぼうとしてはやめる。幼い頃よりも短くなった髪の毛ですら彼女は持て余してしまう。二度と繰り返さないようにと強大な渦に飛び込もうとしても、ただ守られていた子供で無くなり、大人になってしまった彼女には失うものが大きすぎるのだ。
無力さを日々感じながら生きていく中で、私たちは何を選べばいいのだろう。何を信じればいいのだろう。
選ばなかった道の先も、選べなかった道の先も、選んだ道の先も、その話の結末は誰も知らない。
スクリーンの中で私たちは旅をする。現実と過去が曖昧になる。あなたもあなたが大切にしていた人をきっと思い出す。ある人は懐かしみ、ある人は目をつむりたくなるかもしれない。自分自身もスクリーンの中で生きていることを知る。
この映画を見届けた、私たち一人一人の頭の中では、果たしてどんな音楽が聴こえていただろうか。誰を思い浮かべ、誰を愛しく思ったのだろうか。名もなき音楽が、私たちだけの音楽がきっとそれぞれにあるはずなのだ。メロディが鳴っていなくてもそれが鼓動の音であっても、私たちの頭の中には名もなき音楽があるはずなのだ。
その音楽を知りたい。教えて欲しい。もっとあなたの話を聞かせてほしい。もっとあなたが知りたい。あなたと私のこの先の道が途絶えようと、繋がろうと、この先が交わらなくとも。
名もなき音楽は誰がために。
もし言葉に出来ず話せないのなら、伝えられないと思うならば、右のイヤフォンを貸して頂戴。あなたの中で響く名もなき音楽を私にも聞かせて欲しい。同じ音楽が聴こえなくてもいいから。私にはきっと、あなたが奏でる音楽をきっと美しいと思うのだ。
そう誰かを想って願う先に、僅かな光がある。
今はまだ見えない光もいつか必ず見えるはずだと信じてみたい。広い世界の片隅で出会えたことが、必然だったと思えるように。
誰もが経験した日々の端々が、この映画には詰まっていると思う。
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