レターセットをしばらく買ってない 2022.2.22
実家での移動手段は自転車だった。何処にゆくのも自転車が相棒だ。お気に入りの場所は川べりで、楽しい時も、悲しい時も、十分ほどかけ川べりまで自転車を漕いだ。
友人と遊び、大事な話をし、秘密を話し、インスタントカメラで写真をよく撮った。ひとりで考え事をするのにもとっておきの場所だった。
黄砂がたくさん飛んでいた日。川べりには短い階段があって、下まで降りると、手が届く距離に水面があった。その階段には黄砂が溜まっていて、普段触れている砂とは違い、サラサラとした触り心地できらきらと光っていた。それを神秘的に感じた。
その砂を袋に入れて持ち帰って、金平糖の空き瓶に容器に移し替えていた。それもとても懐かしい思い出だ。
ある日、小さな小瓶に手紙を入れて流した。多分小学校の図書館で借りた本にでもそういった描写があったのだろう。一度は同じようなことをした人は多いと思う。
今思えば、その手紙には住所も書いてあり、なかなか個人情報的に怪しい気もするが、そういうものにある意味寛大な頃でした。
川に手紙を流し、しばらく経った頃、知らない住所から手紙が届いた。郵便受けに郵便物が届くのが好きだった私は、学校から帰るとまず、郵便受けを確認してから家の中に入っていたのだ。その手紙の字はわたしより幼い子供の字だった。
その手紙を見た瞬間、とても感動したことを覚えている。
確かその子はそんなに遠くない場所に住んでいたと思う。それでも私にとっては、はるか遠くの異国の地からの手紙に思えたのだった。
手紙には同じ川で友達と遊んでいるときに手紙を拾ったことや、学校で流行ってることや、好きなことなど、たわいもないけれど素敵な日々が書いてあった。
キャラクターや、ハートのシールが貼ってあり微笑ましい気持ちだった。
そのあとは、何度かやりとりをした気もするし、一度も会わなかった気もするし、直接会った気もする。結局どんなふうに終わったのかはもう覚えていない。
今みたいに携帯を持っていなかったし、お互い子供だった。多分互いに子供ながら現実に忙しく慌ただしく、次第に手紙の存在が薄れていったのだと思う。
ただその時間は何とも言えない大切な時間だった。たとえ今同じことをしても、同じようなことは起きないと思うし、何より今でもそのやりとりの欠片でも覚えている、ということが大切な時間の証拠だと思う。
簡単に連絡が取れてしまう今の時代。
安心であるけれど、何かを待つことに対して、我慢もなければ、返事があることが、当たり前になってしまっているなと思う。そのことによって、必要のない、○○のはずなのに、○○すべきでしょ、という問題が生じるんだなと思うのだ。
「何かを待つこと」
その楽しみを感じられるのが手紙のいいところだと思う。はやる気持ちもあって、不安な気持ちもあって、複雑な感情だけれど、とても貴重な感情なのだ。
文通が大好きだったわたしだが、かなりのレターセットを昔に処分した。手紙を書くことが減り、直筆の暖かさを感じることも少なくなった。
ただ、文房具店では今も多数のレターセットが販売されている。学生らしい女の子が、レターセットを真剣に選んでいるところを見たこともある。
ほんの短い文章でもいい。紙を選んで、封筒を選んで、書くペンや、シール、切手を選んで、相手のことを考える時間を、感じられる。手紙を投函するときのポストの音。郵便受けに除くあの瞬間。とても貴重な心の時間だ。
あの女の子は今、何処に住んで何をして、どんな人と一緒に生活しているのだろう。
今度文房具屋でレターセットをみてみよう。
春が来る前に、誰かに春を届けられるような、そんなレターセットが見つかるといいと、私は思っている。
※2021.1.8 アメブロ投稿のエッセイを大幅に加筆修正しております。
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