わたしはたまに哲学する 2022.1.30
眠りに落ちる前、よく考え事が頭の中をよぎる。昨晩は寝しなに「わたしがやってきた場所」を考えた。
人間としての物理的なものでなく、私という個人は何処からだろうと考えた。
自我が芽生えるのは一歳くらいだと聞く。寝返りをしたり、ハイハイしたり。言葉ではないが、表情や泣き声、そう言った諸々で感情を表現している。
そういう意味では、一歳くらいで私がやってきたのだろうか。
例えば、体の何処かが不自由になっても、私が私でなくなることはない。だとすれば、物理的で、目に見えるものが変化しても、私は私。
自分の性格は私が自分で決めたものではない。いつの間にか私になっている。自分で選択したことが集合して私になるのだけれど、何を選ぶかは今までの外的要因がとても重要だと思う。
その選択をする、ということも何かひとつでも欠ければ大きく違っていたはず。
生まれた場所が違っていれば、関わる人も変わって、言葉すら違うかもしれない。私の目に触れたものが、今まで見たことと全く違ったら。
今の私が経験したことを過去の私が経験しておらず、全く違うことをしていたら。それは私であって、私ではない。1ミリでも今と何かが違っていたら、違う私になっている。
私とは一体何処からきて、何処へいくのだろうか。何処へいくともわからないのであれば、心配も不安も全て仮定ものなのだ。
一人一人が尊いという所以は、人間の頭だけでは解明できない、未知で偉大なものなのかもしれない。
機会を作って、私というものはなにか、少しずつ振り返って考えてみようと思う。そうするうちに、私がやってきた場所が少しずつ見えてくるかもしれない。
※2021 1.21 アメーバブログに掲載したエッセイに加筆修正しています。
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