第26話

 駆けるように歩いて、唄乃の隣へ行く。

 黙って二人で寮へ向かう。

 沈黙は気にならないけれど、耳に残っている彼女のピアノが私をお喋りにさせる。


「熱情、いいよね。私も弾いてみたい」

「音瀬じゃ、無理」


 切れ味の良い刃物みたいにすっぱりと唄乃が言う。


「ほんと、はっきり言うよね。慣れたけど」

「最近、噛みついてこないけど、こういうときは、無理じゃない弾ける、くらい言ったら?」


 自信が足りない私には難しい言葉が聞こえてきて立ち止まりそうになるけれど、重くなった足を無理矢理動かして唄乃の隣を歩く。


 無理じゃない。


 と言うだけならいくらでも言えるし、少し前の私だったら言い返していたと思う。でも、唄乃に言葉だけ返しても意味がない。本当に弾けるところを見せなければ、彼女には響かない。


「言いたいけど、今の私じゃ自分が思うように弾けそうにないし。まずは自分の曲かな」

「じゃあ、音瀬の十八番楽しみにしとく」

「プレッシャーになるんだけど」

「プレッシャーかけてる」

「ほんと、いい性格してるよね」

「私のこと褒めてもなにもでないから」


 冗談だとは思うけれど、冗談とは思えない真面目な声が聞こえてくる。


「褒めてない。それより、唄乃の熱情って先生が選んだの?」

「……なにが言いたいの?」


 唄乃が急に立ち止まり、三歩先へ行った私は足を止める。彼女に視線を合わせると、まっすぐに見つめ返された。


「言いたいことがあるわけじゃない」

「私に合わないって思ってる?」

「そういうわけじゃない」


 唄乃から視線を外す。

 まっすぐ私を見てくる彼女の視線はピリピリしていて、迂闊なことを言えない雰囲気を漂わせている。


 余計なことを聞いてしまった気がする。

 私は小さく息を吐く。


 唄乃のピアノにうっすらと見える感情。

 彼女の奥でくすぶって表に出て来ない感情に火がともることがあるのか。


 それが気になっている。


 私は、唄乃が弾く情熱に欠ける熱情が炎のように燃えたとき、どういう曲になるのか知りたい。無機質な白い世界が色づく瞬間を見たいと思っている。ミスパーフェクトという言葉も、自動ちゃんという言葉も消し去る演奏を聴きたい。


 本人には絶対に言いたくはないけれど。


「唄乃ってさ、練習室に住んでる勢いで練習してるけど、休まないの?」


 淀みかけた空気を吹き飛ばすべく問いかける。


「音瀬だって同じくらい練習してる」

「してるけど、休んでもいる」

「ご飯食べてるし、寝てるんだからいいでしょ」

「それは人間として活動するために必要なことで、休んでるとは言わないと思うけど」

「人間としてピアノ弾けたらそれでいい」


 悪魔に魂を売ると言わないだけ良いのかもしれないが、休まずに練習室にこもっている唄乃を見ているとさすがに心配になる。


「少し休んだら」


 ご飯を食べて眠れば人間として健康に生きていけるわけではない。動かした分、休まなければ体を壊す。


「予選近いし」

「そうだけど。夏休み、どこか行かないの?」


 私の声に反応するように唄乃が歩き出して、半歩後ろをついていく。彼女は返事をするつもりがないのか、私を見ようともしないで黙々と先を行く。


「唄乃」


 催促するように呼ぶと、「そんな暇ない」と返ってくる。


「私さ、先生に学生は夏休みを楽しむことも大事だって言われたんだよね」


 今の私は、自信もない、夏休みを楽しむこともできない私だ。

 先生に言われたことが一つもできないまま、ひたすら練習をしている。せめてどちらか一つはどうにかしたいと思う。


「音瀬の先生って感じ」


 唄乃の声が少し前から聞こえてくる。


「なにかしたいし、付き合ってよ。一時間とか二時間でいいからさ」


 自信は今すぐどうにかできるものではないけれど、夏休みを楽しむことならすぐにできる。


「人を巻き込まないで。私は楽しんでる暇があったら練習したいから」

「少しは息抜きしたら。夏休みに一つくらい思い出作ってもいいんじゃない? 楽しく過ごした思い出が情緒を豊かにするっていうかさ」

「音瀬、適当に言ってるでしょ」

「適当じゃないよ。オーバーに言ってるだけ」

「とりあえず参考までに聞くけど、思い出に残ることって?」


 唄乃が興味の欠片もなさそうな声で言う。


 こういうときくらい興味津々という声を出してほしいけれど、ピアノ以外に興味を示す唄乃というのも気持ちが悪い。学校でも休み時間をすべてピアノに捧げている唄乃だ。夏休みだからと言って他のことに興味を持ったりするわけがない。


 それでも私は唄乃にいくつか提案する。


「みんなでプールに行ったり、お祭りに行ったり、映画観たりするとか」

「一時間とか二時間で?」

「できないこともないでしょ。できれば三時間くらいはほしいかもだけど」

「ありきたりすぎて却下する」


 聞こえてくる声がどことなく冷たい。

 頭を割ったら鍵盤が溢れ出てきそうな唄乃は、高校生らしい夏休みの過ごし方が気に入らないらしい。いいね、なんて賛同の声が飛んできても怖いけれど、もう少し興味を持ってほしいと思う。


「そのありきたりなこと、まったくしてそうにない人に言われたくない」

「却下されたくないなら、せめてやりたくなるようなこと言って」

「言ったらどうなるわけ?」

「どうなるかは聞いてから考える」


 興味がまったくなさそう声だけれど、唄乃が口にした言葉は彼女が言いそうにないことで、思わず足を止める。


「一応、聞いてくれるんだ?」

「一回だけ」


 唄乃が足を止めて、私を見た。


 困る。


 話はしたけれど、なにか計画があるわけではない。そもそも唄乃と行きたい場所があるわけではないし、唄乃としたいことがあるわけでもない。


 困った。


 チャンスは一回だけしかない。

 私は夏休みを楽しまなければならないし、唄乃だって夏休みを楽しんだほうがいいはずだ。楽しく過ごした思い出が本当に情緒を豊かにするのかわからないけれど、思い出がないよりはあったほうがいい。


 私はこめかみをぐにぐにと押す。


 一分、二分。

 いや、十五秒かもしれないし、三十秒かもしれない。


 長いような短いような時間考えて、答えが出ない。

 唄乃が歩き出そうとして、私は彼女の腕を掴む。


「……肝試しとか」


 寮の敷地内でやれば練習時間をそれほど削らずにすむから、悪くないアイデアだと思う。


「肝試しって、子どもじゃないんだし。馬鹿馬鹿しい」

「いいじゃん、寮でやれば三十分もあれば終わるし。奥枝先輩と三輪先輩も誘ってやろうよ」

「そんなの奥枝先輩も三輪先輩もやらないでしょ」

「やってくれるでしょ、たぶん」

「やらないでしょ」


 唄乃が私の手から逃げ出し、呆れたように言って歩き出す。

 私は大きく一歩踏み出して、彼女の隣を歩く。


「じゃあ、聞いてみようよ」

「聞いてどうするつもり?」

「先輩たちが二人ともやるって言ったら、唄乃も肝試しする」

「勝手に決めないで」

「先輩たち、やらないと思ってるんでしょ。だったら約束してくれてもいいんじゃない?」

「わかった。その代わり、やらないって言ったら夏休み、私の練習邪魔しないで」


 唄乃が素っ気なく言って歩くスピードを上げる。先へ行こうとする彼女を捕まえるように私もスピードを上げると、ずれていた足音が重なった。

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