聞いて、聴いて、聞く
第25話
お気に入りの練習室というわけではないけれど、夏休みに使う練習室はなんとなく決まっている。
たとえば奥枝先輩は、練習棟の二階、一番手前の部屋をいつも使っている。先輩は朝食の途中に練習室へ向かったまま戻ってこなかったから、今もこの練習棟の二階でピアノを弾いているはずだ。
そして、一階、真ん中の部屋。
私が唄乃と連弾をした部屋は、唄乃がいつも使っていて、今日も彼女のピアノが漏れ聞こえている。
扉の前、耳を傾けると、唄乃がコンクールの本選で弾くと言っていたベートーヴェンの『ピアノ・ソナタ 第二十三番 Op.57』の第一楽章が聞こえてくる。激しい感情を感じさせるこの曲は、ベートーヴェン自身がつけたわけではないが『熱情』という名前で知られている。世界を正確にひたすら白く塗り、感情を感じさせる隙間さえ埋めようとするピアノを弾く唄乃とは、結びつかない言葉だ。
私は細く息を吐く。
廊下はほんの少し息苦しい。
練習室から聞こえてくる唄乃のピアノは、私の目の前を白く塗りつぶし、廊下を無機質な世界に変えようとしている。
私が弾いたら。
この曲を私が弾いたら、もっと。
そんなことを考えて髪をくしゃくしゃとかき上げる。
私も唄乃もベートーヴェンのピアノ・ソナタを弾くけれど、私が今、考えなければいけないのは『熱情』の第一楽章ではなく『ピアノ・ソナタ 第十八番 Op.31-3』の第一楽章だ。
それに本選に弾くベートーヴェンだけではなく、予選で弾くバッハとショパンも練習しなければいけない。
そう思いながらも、漏れ聞こえてくるピアノに耳が向く。
私も弾いてみたいと思う。
でも、コンクールで弾く自信はない。
それは技術的なものに加えて、もう一つ問題があるからだ。
誰もが知っているような有名な曲。
熱情のように、つけられた名前で呼ばれている曲というのはそういう類いのもので、有名だからこそ粗が目立ち、コンクールで弾くと必然的に評価が厳しくなる。
扉の小窓から中を見る。
唄乃がピアノに向かっている。
私には気がつかない。
練習室から廊下に零れでた唄乃の音は、相変わらずだ。
恐ろしく正確で上手い。
この学校で唄乃より技術がある人は限られている。
唄乃が弾きたいと言ったのか、先生が選んだのかは知らないけれど、彼女ならおそらく、熱情を弾くことで上がるハードルを越えることができる。感情に欠ける熱情であっても、唄乃の技術があれば悪い結果にはならないはずだ。
でも、練習室から漏れ聞こえてくるピアノを聴いていると、胸の奥がもやもやする。彼女のピアノを白以外の色に染めたいと思わずにはいられない。
「駄目だ。練習しよ」
はあ、とため息を一つついてから、二つ隣の練習室に入る。
ピアノの蓋を開け、椅子に座る。
楽譜を譜面台に置き、鍵盤に指を置く。
意識がなくても指が勝手に動くほど弾いてきたショパンのエチュード Op.10-8。
ゆっくりと指に呼吸を伝え、弾くべき曲を弾くはずが、唄乃と連弾したOp.10-1が練習室に鳴り響く。でも、すぐに指が止まる。
あのとき二人で弾いたところに加えてほんの少し。
練習をしていたわけではないから、中途半端なところまでしかOp.10-1を弾くことができないし、唄乃が弾くようには弾けなかった。
息を吸って、吐く。
唄乃と連弾をした私と今の私はあまり変わっていない。
このままでは駄目だと思う。
私は今よりも自信を持って弾けるようになりたい。
たとえば、唄乃の前でも。
連弾では見せることができなかった“気持ちが大事”だというところを彼女に見せたいと思う。
――今はまだできないけれど。
「魔法かなにかで急に上手くなれば……。って、それじゃ駄目か」
魔法で急に上手くなるようなことがあっても、嬉しいのは最初だけですぐに不安になる。努力を積み重ねずに手に入れた不確かな力は自分のものではない。きっと、いつなくなってしまうのか不安で夜も眠れなくなって、不確かな力を自分のものにするために練習することになるはずだ。
結局、神頼みや魔法頼みは役に立たない。今に上乗せできるように、少しでも前へ進めるように、ピアノに向かうしかない。
私にできることは一生懸命、できる範囲以上のことをやり続けることくらいだ。
目をぎゅっと閉じて、ゆっくりと開く。
鍵盤に指を置き、ショパンのエチュード Op.10-8を紡ぎ出す。
練習室をピアノが満たし、生まれた音が静かに踊る。
予選が近い。
時間はいくらあっても足りない。
ピアノを弾いていると一時間や二時間なんてあっという間で、驚くくらい早く時間が過ぎていく。胃が食べ物を催促し始めて時計を見ると、十二時を過ぎていた。私はバッハとショパンを一回ずつ弾いて練習室を出て、二つ隣の部屋を見る。
扉の小窓の向こう、唄乃が見える。
私は壁に寄りかかって、唄乃のピアノを聴く。
聞こえてくるのは唄乃らしい熱情で、やっぱり胸の奥がもやもやする。落ち着かなくてスマホの時計を見ると、唄乃を待たずに食堂へ行ったほうがいいような時間になっている。
食堂で食事ができる時間は決まっている。
あまり遅くなると、お昼ご飯が食べられない。
私は壁から背中を離して、唄乃がこもっている練習室の扉をノックするか迷う。
彼女は私がここに立っていることを知らないし、待っているとも思わない。そして、唄乃はお昼を食べ損ねても気にしないはずだ。
約束してるわけじゃないし。
小さく息を吐いてから、食堂へ向かう。
一歩、また一歩と歩いて、五歩目で足を止める。振り返ると練習室から唄乃が出てきて、私は少し大きな声をかける。
「一生出てこないのかと思った」
「そんなわけないでしょ。私だってお腹は空くし」
唄乃は感情が見えない声でそう言うと、立ち止まったままの私を追い抜いた。
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