第23話

 カレーを食べて、食堂を出て。

 私は部屋へ戻るべく、唄乃と一緒に廊下を歩く。


「あのさ、唄乃。相手が先輩だからってわけじゃないけど、もう少し言葉を選べないの?」


 食堂での会話は酷かった。

 あれはないと思う。

 唄乃の言葉は飾らない言葉と言うよりも、ラッピングペーパーで飾る前の言葉を乱暴に掴んで投げつけるようなものだった。


「言葉を選んだところで内容は同じなんだし、わかりやすいほうがいいでしょ」

「そうだけど。程度ってものがあるじゃん」


 唄乃は学校ではほとんど話さないし、わざわざ唄乃に話しかけるような人もいない。だから、私はずっと彼女を無口なのだと思っていたけれど、無口なわけではなかった。変えようのない自分の意見があるし、必要があればその意見を包み隠すことなく口にする。それが敵を作るような言葉であっても躊躇わないから、危なっかしい。


「音瀬だって口が悪い」

「唄乃には言われたくない」


 私も感情的で、言わなくても良いことまで言ってしまうことがよくあるけれど、唄乃ほど酷くはないはずだ。唄乃はもう少し言葉を飾ったほうがいい。


 今回は奥枝先輩だったから良かったが、相手によっては微妙な空気どころか地獄に突き落とされたような時間を過ごすことになったに違いない。


 それにしても、奥枝先輩は不思議な人だと思う。

 唄乃になにを言われても気にせず、にこにこしながら美味しそうにカレーを食べていた。


 あの状況を気にせずにいられる奥枝先輩の頭の中がどうなっているのか気になる。バッハ先生やショパン先生だけでなく他の作曲家も降臨するし、楽譜も頭に入っている。しかも、その作曲家たちの曲を弾く技術もある。


 そんな先輩に喧嘩を売っているようにも聞こえる言葉を口にしていた唄乃は、怖いもの知らずだと思う。彼女らしい反応ではあったけれど、私にはできない。


「唄乃。コンクール、上位に入るつもりなんだよね?」


 私は、食堂にいるときからほとんど表情が変わらない唄乃を見る。


「上位? 一番しか考えてない」

「奥枝先輩も出るけど」


 唄乃には技術がある。

 でも、奥枝先輩のピアノは技術だけではない。


 ピアノから紡ぎ出される音に、奥枝先輩という人を感じることができる。先生が降臨しているときも、していないときも、奥枝先輩が紡ぎ出す音に耳を傾けずにはいられない。


 先輩は特別な人だ。わかりやすく言えば天才に分類される人間で、先輩のようにピアノを弾くことは簡単ではない。唄乃もそういうカテゴリーに入る人間だけれど、技術だけではどうにもできないものがあると思う。


「だからなに? さっきも言ったけど、奥枝先輩に負けるつもりないから」


 唄乃が淡々という。


「……難しくない?」


 ピアノに優劣をつけたくないが、コンクールに出れば順位という結果がでる。そこで奥枝先輩より上の順位になることは難しいことに思える。


「音瀬。やる前から負けるって思ってたら勝てないよ」

「……コンクールで勝つことって、そんなに大事?」

「大事だよ」


 唄乃がはっきりと言い切る。


「結果がすべてってこと?」

「私にはね。勝てなかったら意味がない。負けたらそこで終わりだから、勝ちたいって思ってる」


 ぺたぺたと歩く廊下に、唄乃の凜とした声が響く。

 私と唄乃は違う種類の人間のように思える。

 私は、唄乃のように勝ちたいと強く思うことができない。


「大事なのは結果だけじゃないと思う。そこに至るまでの過程も大事だし、駄目だったら、それを次に活かせばいいでしょ。あまりいい言いかたじゃないけど、負けても次があるじゃん」

「なかったよ」


 唄乃が足を止めて私を見た。

 真っ直ぐ見つめてくる瞳に、窓の外から聞こえてくる蝉の声が遠くなる。


「どういうこと?」

「私には次がなかったってこと」

「それまで出てたコンクールが次の年は開催されなかったってこと?」

「第一回の次は第二回で、第一回とは違うし、たとえまったく同じコンクールがあったとしても、参加できるとは限らない。だから、次はないよ。そのコンクールはそのとき一回だけ。今度、私たちが出るコンクールも同じ。来年は今年のコンクールとは違う」


 そう言うと、唄乃が私を置いていくように歩き出す。夏休みの人気のない廊下、独りぼっちになりそうで私は唄乃を追いかける。


「唄乃、待ってよ」


 次がなかった理由を聞きたいけれど、唄乃は喋らないし、足を止めない。蒸し暑い廊下を静かにゆっくりと歩いていく。


「話、まだ終わってない」

「なに話してたか忘れた」

「忘れたって。今まで話してたじゃん」

「負けても次があるじゃん、なんて言う人に話すことない」


 唄乃の言葉に蝉の声を遠ざけるような空気が消え、夏のべたつく空気が纏わり付く。


「それは……。勢いで言っただけだから」


 失言だったと思う。

 結果が出るまでの過程を大事にしたら、負けても次があるから、なんて言葉は出てこない。


「勢いでも言うことじゃないと思う。音瀬は、そんな甘いこと言ってるから駄目なんだよ」


 彼女は、私の弱点を上手に探してくる。突かれたくない部分を的確に突いてくるから、苛つく。


 美空も私をネガティブだとか、後ろ向きだとか、耳が痛いことを言ってくるけれど、彼女はからりと晴れた空のような爽やかな空気を持っているから気にならない。でも、唄乃はわざと私を苛つかせる言葉を選んでいるようで、頭のてっぺんがキリキリする。


「甘いって。これでも一生懸命やってるんだけど」

「じゃあ、もっと一生懸命やって。音瀬は一生懸命が足りない」


 唄乃が情け容赦ない言葉を投げつけてくる。

 私には足りないものがたくさんあって、前川先生にはそのうちの一つ『自信』が足りないと言われた。でも、一生懸命は足りていると思う。


「できる範囲で一生懸命やってる」

「できる範囲じゃなくて、それ以上にやらなきゃ一生懸命って言わない。本気でやりなよ」


 私の一生懸命は唄乃に一刀両断される。

 唄乃は、前川先生よりも厳しい。

 息が詰まりそうなくらい厳しくて、廊下の空気が薄くなったような気がする。でも、唄乃に空気は関係ない。重くなろうと、薄くなろうと気にしていない。


 私はなにを言えばいいかわからなくなって、口を開くことができなくなり、廊下が蝉の声だけになってしまう。


「私、これから練習するけど、音瀬は?」

「……練習するに決まってるじゃん」

「じゃあ、早く歩いて」


 そう言うと、唄乃が私を置いて歩き出した。

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