第22話

 レッスン室のある学校から中庭を突っ切って、寮へ向かう。


 どこからか聞こえてくる蝉の声に夏を感じる。

 でも、嬉しくはない。耳の機能の大半を奪う声は、夏をさらに暑くする。泳ぎたいわけではないけれど、今すぐプールに飛び込むことができたら涼しそうだと思いながら足を動かす。


 正午に近い夏の強い日差しが頭のてっぺんに突き刺さる。


 焦げそうな暑さに汗が流れ、軽いはずの制服のブラウスが重く感じられる。むき出しの腕や足が太陽に焼かれそうで、どうせ焼くなら不安を焼いて消してほしいと思う。

 いや、不安は自分で消すべきだ。


 さっきレッスンで前川先生に言われたことを思い出して、口角を上げてみる。でも、やっぱり自信がありそうな顔になっているかわからないし、どちらかと言えばにやにやしながら歩いているように見える気がする。


「やめよ」


 誰かに見られたら、暑さでおかしくなっていると思われそうだ。


 私は歩くスピードを上げて、影の少ない道を早足で歩いて寮に入る。玄関で室内履きスリッパに履き替え、部屋へ戻って制服からTシャツとショートパンツに着替える。廊下へ出ると、長い髪を束ねた唄乃の背中が見えて、小走りで彼女に近づき、声をかけた。


「今からお昼?」

「そう」


 足を止めずに唄乃が答える。

 廊下には規則正しい足音が響いている。


「夏休みってなにするの?」


 聞いてはみたものの、答えはわかりきっている。

 それでも聞いたのは、前川先生の「夏休みを楽しむことも大事」という言葉が私の頭に残っていたからだ。


「練習以外にあるの?」


 予想通りの言葉に「ないかな」と答えると、廊下に響く音が外から聞こえてくる蝉の声と私たちの足音だけになる。


 唄乃は隣を歩いているのに喋らない。

 私も彼女と話すことがない。


 ショートパンツを履いた私とデニムパンツを履いた唄乃の足音が連弾のように重なるが、練習室で一緒にピアノを弾いたときに感じた弾んだ気持ちにはならない。私たちは面白みのないリズムを刻みながら食堂へ向かう。


 コンクール出なよ。


 そんなふうに人を誘っておきながら、唄乃は素っ気ない。

 最終的にコンクールへ出ると決めたのは私だし、愛想良くしてほしいわけではないが面白くはない。楽しい夏休みにはほど遠い態度だと思う。


 唄乃の先生は、夏休みを楽しめとは言わないのかもしれないけれど。


 つまらなそうな顔にしか見えない唄乃が食堂に入り、私も後に続く。カウンターでチキンカレーを受け取ると、聞き覚えのある声が聞こえてくる。


「倉橋さーん、田中さーん! こっちきて一緒に食べよう」


 食堂の真ん中、バッハもショパンも降臨していないらしい奥枝先輩がぶんぶんと手を振っている。


 先輩は、夏休みを楽しんでいそうな眩しいくらいの笑顔を私たちに向けている。夏休みが始まってからは一人で食事をすることが多かったから、優しくて話しやすい奥枝先輩と一緒にご飯を食べたら楽しそうだとは思う。


 でも、奥枝先輩の隣には三輪みわ先輩がいる。


 三輪先輩とは、先生が降臨した奥枝先輩を捕まえてきてくれと頼まれたり、廊下で挨拶するくらいしか話をしたことがない。一年生に積極的に接してくる先輩ではないから、少し緊張する。


「今、行きます」


 食堂の真ん中に向かってした返事は、緊張を反映したらしくいつもより声が高い。


「私、あっちで食べるから」


 先にチキンカレーを受け取った唄乃はそう言うと、表情を変えずに食堂の真ん中ではなく端へ体を向ける。


「奥枝先輩たちが呼んでるけど」

「音瀬だけ行けば」

「唄乃のことも呼んでる」


 倉橋さんと田中さん。

 今、食堂にその名字を持つ人間は、私と唄乃しかいない。


「大丈夫ー? なにかあった?」


 動こうとしない私たちに奥枝先輩が声をかけてくるけれど、唄乃は返事もせずに食堂の端に向かって歩き出す。愛想はなくてもいいかもしれないが、先輩の声を無視するのはさすがにマズい。


「すみません、大丈夫です。少し待ってください」


 私は奥枝先輩に笑顔を向けて、唄乃のTシャツを掴む。


「呼んでるの先輩だし、行かないとかありえないでしょ」

「先輩だからって行かなきゃいけない決まりないでしょ」

「行かないなら理由くらい説明したら」

「なにも聞こえなかったことにしといて」


 唄乃が無責任なことを言う。

 先輩には絶対服従なんて規則はないが、行かないならその理由くらいは告げるべきだと思う。それに、聞こえないふりで通せるほど小さな声でもなかった。


「田中。ひなたに付き合ってあげて」


 三輪先輩がなにかを察したのか、唄乃を名指しで呼ぶ。


「はい」


 唄乃の代わりに返事をして彼女のTシャツをぐいっと引っ張ると、渋々と唄乃が私の後をついてくる。食欲をそそるスパイシーな香りとともに先輩たちがいるテーブルへ行き、椅子へ座ると、少し遅れて唄乃が私の隣に座った。


「みんな揃ったし、食べよっか」


 奥枝先輩が楽しそうに言って「いただきます」と続ける。


「いただきます」


 私と三輪先輩の声が重なり、唄乃の平坦な声が聞こえてくる。


「奥枝先輩、なんなんですか?」

「なんなんですか、って?」

「ここへ私を呼んだ理由です」

「みんなで食べたほうが美味しいから」

「それだけですか?」

「それだけ。倉橋さんも、みんなで食べたほうが美味しいって思うでしょ?」


 唐突に私の名前が聞こえてきて、「そう思います」と答える。

 三輪先輩が近くにいると思うと緊張するけれど、基本的には奥枝先輩が言うようにみんなで食べたほうが美味しいと思う。でも、唄乃は違うらしい。


「私は一人でいいです」

「せっかく同じコンクールに出るんだから、ご飯くらい一緒に食べようよ。寮生ほとんど帰っちゃってるし、バラバラに食べてるのつまらないでしょ」


 私と唄乃。

 そして、奥枝先輩と三輪先輩。

 夏休みに入って知ったことだが、このテーブルにいる四人は同じコンクールに出る。


 意外だな、と思う。


 この高校から同じコンクールに出る生徒が何人かいると聞いていたけれど、その何人かのうちに奥枝先輩と三輪先輩が入っているとは思わなかった。二人なら、今年初めて開催されるコンクールではなく名の通ったコンクールに出ることもできるはずだ。


「私、向こうで食べます」


 二人の先輩と同じく、他のコンクールを選んでも良さそうな唄乃がはっきりと言う。


 普段、感情の起伏が少ない、と言うよりも、感じられない唄乃だけれど、今日は彼女にしてはわかりやすく嫌がっている。

 ここまできたら、抵抗しても仕方がないのにと思う。なにが嫌なのかわからないが、大人しくみんなと一緒に食べれば食事の時間なんてあっという間に終わる。


 私は頑なな唄乃を見ながらカレーを食べる。

 三輪先輩も黙々とカレーを食べている。

 でも、奥枝先輩と唄乃のスプーンを持つ手は止まっている。


「向こうで食べてもこっちで食べても味は変わらないよ。敵じゃないんだし、ご飯くらい一緒に食べようよ」

「……敵ではないですけど、負けたくはない相手です」

「どういう相手でも、ご飯はみんなで食べたほうが美味しいよ」


 奥枝先輩が優しく微笑むが、唄乃の顔はコンクリートで固められているみたいに動かない。私は怪しいほうへと流れていくテーブルの空気に耐えられなくなって、なるべく明るい表情で隣に声をかけた。


「唄乃、ご飯くらい一緒に食べたらいいじゃん」


 私に唄乃を説得できるとは思わないが、奥枝先輩のアシストくらいはしたいと思う。


「一緒に食べることに意味があるとは思えない」


 エアコンから出る風よりも冷たい声が響くけれど、奥枝先輩は笑顔を崩さずにカレーを一口食べる。代わりに三輪先輩がため息を一ついて、ごくりと水を飲んでからゆっくりと口を開いた。


「田中、ストップ。バチバチしたいなら食堂じゃなくて会場でやって。カレーの美味しさ半減するから。夏休みなんだし、お昼くらいは先輩のいうこと聞いて楽しく過ごそうね」


 不毛な会話に終止符を打つべく、三輪先輩が奥枝先輩の十倍くらいの笑顔で唄乃を見る。それは「笑顔」と書いた紙をおでこに貼っているのではないかと思うくらいわかりやすい笑顔で、ちょっと、いや、かなり怖い。


「……はい」


 珍しく感情が滲んだ声で唄乃が答える。


 鬱陶しい。


 そういう心の声が聞こえてきそうな声だったが、表情は死んでいる。いや、いつも死んだみたいに表情が動かないのだけれど、いつもに増して表情が死んでいる。


「二人ともずっと家に帰らないの?」


 奥枝先輩が朗らかな声で言って、カレーを食べる。


「私はお盆だけは帰る予定です。先輩たちは?」


 唄乃は答えないだろうから、私が答えて会話を回す。


「倉橋さんと同じかな」


 奥枝先輩がにこやかに言い、三輪先輩が「私も」と答え、沈黙が訪れる。

 シーンという音が聞こえてきそうなくらいテーブルが静かになって気まずい。


 どうすればいいんだ、この微妙な空気は。


 唄乃に首を絞められたときよりも苦しい。

 黙っていると窒息死してしまいそうな気がして、私は無理矢理話題を作り出すことにする。


「あの、先輩。このコンクールにでるのってどうしてですか? 他にもコンクールありますよね?」

「先生にコンクール出たいって言ったら、このコンクールの申込用紙渡されたからかな」


 奥枝先輩がなんでもないことのように言って、「カレー美味しいね」と続ける。


「三輪先輩は?」

「ひなたが出るから」

「奥枝先輩が出るからなんですか?」


 予想外の返事に思わず聞き返す。


「ひなた、一人にしておけないし。会場で先生が降臨したら困るでしょ」


 三輪先輩が冗談とは思えないことを言って、大きく息を吐き出す。

 確かに、待ち時間に「バッハ先生が呼んでる」なんて騒ぎ出して、ステージに乱入なんてことになったら笑い事では済まない。

 面白いけれど、笑えないと思う。


「倉橋は?」


 三輪先輩に質問を返されて、私はちらりと隣を見た。


 唄乃に言われたことがきっかけになって。


 そんなことは言いたくない。


「えーと、先生に勧められて」

「田中は?」

「私は音瀬が出るからです」


 唄乃が当然のように言って、私はスプーンを落としそうになる。でも、手からスプーンが離れる前に、奥枝先輩が信じられないようなことを口にした。


「そっか。田中さんと倉橋さんは仲良しさんなんだ」


 誤解だ。

 違う。


 私は立ち上がって宣言したいくらいの勢いで奥枝先輩に告げる。


「唄乃とは仲良しではないです」

「音瀬とは仲良しではないです」


 声が揃って、私は唄乃と顔を見合わせた。


「わー、いいハモり。二人とも本当に仲がいいんだね」

「仲がいいわけではないです」

「仲がいいわけではないです」


 また声が揃って大きく息を吐くと、奥枝先輩が「またハモったね」と笑った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る