真夏のラプソディ

第21話

 夏休みの寮は閑散としている。

 全員ではないけれど、ほとんどの寮生は休みを家で過ごす。美空も家へ帰ってしまったから、二人部屋だった部屋は私一人のものとなっている。


 でも、寂しくはない。


 寮に残ることは私が決めたことだし、お盆は家へ帰る。

 夏休みは練習室を使う生徒も少ないから、練習も好きなだけできる。環境は悪くない。練習ばかりの夏休みだけれど、去年も受験でピアノばかり弾いていたし、こんなものだと思う。


 じゃあ、この音は――。


 今、レッスン室に響いているベートーヴェンの『ピアノ・ソナタ 第十八番 Op.オーパス31-3』第一楽章は、夜道をさまよっているような重苦しさを纏っている。

 夜はいつまでも明けない。


 理由はわかっている。


 コンクールに出ると決めたのに、その気持ちが揺らぎかけているからだ。


 先生からコンクールの本選で弾く曲としてベートーヴェンのソナタ、十八番の一楽章をもらうまでは良かった。コンクールに挑戦しようという気持ちが強かった。でも、この曲のレッスンが始まって、夏休みが一日終わるごとに予選が近づいて、不安が強くなっている。


 中学のときのような失敗をしたら。

 コンクールで手が止まり、弾けなくなってしまったときのような失敗をしたら。


 そんなことが頭に浮かんで、それにつられるように良くない思い出がどんどん蘇って、悪いことばかり考えてしまう。手を怪我したでも、足を怪我したでもなんでも良いから理由を作って、コンクールから逃げ出したくなる。


 今も過去の記憶に引きずられて気持ちが暗くなり、そんな私が嫌になって、それが音に滲み出る。ピアノは弾んだ音を鳴らすはずだったのに、指に鎖が巻きつけられているように重い音となってレッスン室に落ちて消える。


「もう夏休みに入ったのに、梅雨みたいな十八番を弾かないの。これ、そういうじめっとした曲じゃないからね」


 鍵盤から指を離すと、隣から前川先生のキリリとした声が聞こえてくる。


「はい」


 美空が言うように前向きになるべきだと思う。

 今弾いている曲を考えれば、そういう私になるべきだ。


 ベートーヴェンのピアノ・ソナタ 第十八番 Op.31-3は四楽章で構成されていて、明るい雰囲気を纏っている。私が弾く一楽章も明るい空気を感じる曲だ。始まりは静かだけれど、優しい明るさを感じさせる声に誘われ、森へ出て、愛らしく駆け、跳ねる子鹿とともにステップを踏みたくなるような朗らかさを持っている。


「倉橋。もう夏休みなんだし、もう少し明るい気分で」

「そういう気持ちになりたいんですけど……。予選の曲は練習しなくていいんですか?」

「それはさっきやったでしょ」

「でも、予選通らないと本選に出られ――」

「くーらーはーしー」


 私の言葉を遮り、前川先生が口角だけを上げて不自然に笑う。

 もちろん、目は笑っていない。


「はい」


 これからなにを言われるのかなんとなく想像できて、やや小さな声の返事になる。


「予選に通らないと本選には出られないというのは間違いではないけど、倉橋の気持ちは?」

「気持ち、ですか?」

「そう。本選に出るぞって気持ちでいる?」


 前川先生の言葉が頭の中をぐるぐると回る。

 コンクールに出ると決めてから、ずっと予選のことばかり考えてきた。


 失敗しないように。

 もし、あのときと同じことを繰り返したら予選に通らない。


 思考回路はそんなことばかりに使われていて、本選に出られないと考えたことはあっても、本選に出るぞと考えたことは一度もなかった。


「じゃあ、コンクールは結果がすべてだと思う?」


 なにも答えられず黙っている私に、先生が次の質問を投げかけてくる。


「思いません」

「先生もそう思う。でも、予選を通過して本選で弾くぞという気持ちで練習して予選を通過できなかったという結果と、予選に落ちると思って弾いて予選を通過できなかったという結果は違うと思うよ。結果がすべてではないけれど、その過程は大事。今のような気持ちで予選の曲を練習してもなにも得られないし、コンクールに出ても意味がないよ」


 私の心臓に、先生の言葉がナイフのように突き刺さる。

 私は高校生になっても、中学生だった私となにも変わっていない。コンクールに出ると決めたのに、今もずっと本選で弾いている私を思い浮かべることができずにいる。


「コンクールに出るなら、予選を通過して十八番を本選で弾くつもりでやりなさい。レッスンは予選の曲もやるけど、本選の曲も同時に進めていくよ」


 そこまで言うと、先生がじめっとした空気を変えるようにパンッと手を叩いて私を見た。


「はい、倉橋。そんな自信なさそうな顔しないの。音も引きずられるから」


 静かに先生が言う。

 私は自分がどんな顔をしているかわからなくて、頬を撫でて、唇の端に触れる。

 頬は上がっていない。

 口角も上がっていなかった。

 あまりいい顔ではないことは確かだ。


「倉橋に足りないのは自信。自信がなくてもありそうな顔してなさい」


 先生の言葉に体が強ばる。この部屋は、エアコンで丁度良い温度に保たれているはずなのに体温が下がった気がする。


「じゃあ、早速そういう顔してもらおうかな」

「え? そういう顔って、自信ありそうな顔を今しろってことですか?」

「そう。やってみて」


 逆らうことを許さない強い口調に、とりあえず口角を上げてみる。でも、自信がありそうな顔がどんな顔かわからないから、今作っている表情が正解なのかわからない。


「もっと余裕がありそうに」


 先生の声に従ってさらに口角を上げるが、合格という声は聞こえてこない。仕方がないから眉間に皺を作ってみる。ついでに顎に手を当てると、先生がにんまりと笑って言った。


「変顔だね、それは。まあでも、自信なさそうな顔よりそういう面白い顔をしてるほうがいいか。じゃ、その顔でもう一回弾いて」

「……この顔でですか?」

「そう、と言いたいところだけど――。その顔は面白すぎてベートーヴェンの腹筋が割れちゃうから、もう少し真面目な顔で弾いて」


 先生の言葉にマッチョなベートーヴェンが頭に浮かんで、吹き出しそうになる。


「にやにやしないの」

「はい」


 私は息を吸って吐く。

 唄乃だったら、この曲をどう弾くんだろう。

 一瞬、そんなことを思って頭を振る。

 彼女がどんなピアノを弾くかは関係ない。

 今は自分のことに集中する時間だ。

 一度目を閉じて、ゆっくりと開いてから、鍵盤に指を置く。


 軽く、跳ねるような音。


 イメージを膨らませ、鍵盤から音を紡ぎ出すと、さっきよりも明るい音がレッスン室を飛び回る。


 気持ちは大事だ。

 美空が言う前向きも、先生が言う自信がありそうな顔も。

 そういうものに背中を押され、私は後ろ向きに走り出しそうな気持ちの首根っこを掴んで、前を向かせてピアノを弾く。


 私はエンジンがかかるまでに時間がかかりすぎる。


 もっと気持ちの切替が早くできれば、時間いっぱいきちんとレッスンを受けられるのにと思う。いや、それでもエンジンがかからないまま終わるよりはいい。そう思うべきだ。

 指がさっきよりも軽い。

 弾んだ気持ちでピアノを弾いていると、十分、二十分と時間が経って、レッスンが終わる。


「倉橋。午後からの予定は?」


 レッスン室を出ようとしたところで声をかけられ、振り向く。


「練習です」


 短く答えると、「休みは楽しい?」と短い質問が飛んでくる。


「普通です」

「普通ねえ。学生は夏休みを楽しむことも大事だよ。練習ももちろん大事だけど、ピアノを弾いているだけじゃわからないこともあるからね」


 楽しむ。

 夏休みを。

 美空も仲が良い他の寮生もいないこの寮でどうやって?


 パッと頭に浮かぶのは仲が良いとは言えない唄乃で、彼女は夏休みを楽しんだりしない。


「次のレッスンまでしっかり練習して、夏休みも楽しんできなさい」

「はい」


 私は機械的に返事をして、レッスン室を出た。

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