第20話

「田中さんかあ。予想通りって感じだね」


 校内掲示板の前、ぺたりと貼られた紙を見ながら美空が言う。


「だねえ」


 そう言う瑠璃ちゃんも、校内掲示板をじっと見ている。


 校内コンサート出演者。


 一番上にそう書かれた紙には、予想から大きく外れた名前は書かれていなかった。奥枝先輩の名前もあって、やっぱりな、という感想以外はでてこない。


「フルートは千代さまだ」


 美空の言葉通り、ピアノだけではなく他の楽器を専攻している生徒の名前もあって、フルートの演奏者には山吹千代女と書かれていた。


「校内コンサート、めっちゃ楽しみになった。あー、千代さまの伴奏者、急に私になればいいのに」

「それはさすがに無理でしょ」


 実技試験でも校内コンサートでも、専攻している楽器や曲によっては伴奏者がつく。そういうときの伴奏者は基本的に先生ではなく、頼まれた生徒がするものだけれど、実技試験で伴奏をした生徒が校内コンサートでも伴奏をするだろうから、急に伴奏者が美空になったりはしないはずだ。


「いいじゃん。希望、希望! もしかしたら千代さまが、美空さん、私の伴奏お願いできないかしら、って突然言ってくるかもしれないし」

「美空って、ほんとにポジティブ人間だよね」

「そのほうが楽しいじゃん。音瀬もなんか希望ないの? 来年は私が校内コンサートに出る! とかさ」

「無理だと思う」

「ほんとピアノに関してはネガティブだよね。もっとポジティブに行こうよ」

「そんなことができたら、もうやってる」


 美空ほどの前向きさはいらないが、その半分くらいが私にあればピアノともっと上手く付き合えるはずだと思う。

 でも、見習えないから、今もきちんと前を向けずにいる。


「そろそろ戻ろうよ」


 見たいものを見終えた今、校内掲示板に用はない。


「そうしよっか」


 瑠璃ちゃんの声とともに廊下を歩き出すと、後ろから「音瀬」と呼ばれて振り返る。


「コンクール、どうなったか聞いてない」


 声の主は唄乃で、美空と瑠璃ちゃんが両サイドから腕を引っ張ってくる。ついでに言うと、私の周りにいる何人かの一年生が驚いたように唄乃を見ている。


 気持ちはわかる。


 普段、必要なこと以外喋らない唄乃が自分から他人に声をかけているのだから、そういう反応になっても仕方がない。私だって突然声をかけられて驚いた。


「申込用紙、先生に渡した」


 コンクールには出ない。

 そう決めていて、それを覆すつもりはなかった。

 でも、心のどこかでずっと迷っていて、私はその迷いを実技試験で断ち切ることにした。


 もしも、試験で私が思っているピアノが弾けたら。


 そんなことを考えて弾いたピアノは、理想とはほど遠いもので、評価もそれほど良くはなかった。でも、Op.10-8はほんの少し、本当に少しだけれど、日の光が差すような演奏ができたと思えて、私は自分の名前を書いたコンクールの申込用紙を先生に渡した。


 でも、それを唄乃には言っていなかった。


「それは出るってこと?」

「そういうこと」

「出るなら、今よりいい演奏してよ」

「相変わらず失礼だよね」

「いい演奏してほしいって、失礼な言葉じゃないでしょ」


 なにを考えているのかわからない声でそう言うと、唄乃が私に背を向ける。


「あ、唄乃。校内コンサート、おめでとう」


 なんとなくそのまま背中を見送りたくなくて声をかける。


 唄乃は、練習室での連弾が嘘のように素っ気ない。

 彼女はあれからずっと無口で、相変わらず人を寄せ付けない。

 休み時間は楽譜を見ているし、空いている時間を練習に費やしている。いつもとなにも変わらないから、声をかけないまま時間が過ぎてしまった。


 いや、そもそも私と唄乃は気軽に会話をするような仲ではないのだけれど。


「当然の結果だから」


 唄乃が振り返って私を見る。


「当然かもしれないけど、普通、ありがとうって言わない?」

「言わない。この先も校内コンサートはあるし、音瀬は私におめでとうなんて言ってる暇があったら努力したら」


 私を励ましているのか。

 それとも馬鹿にしているのか。

 声に感情が乗っていないからよくわからない。

 ただ、口が悪いということは確かだ。


「努力してるよ」

「それ、結果出してから言って。じゃあね」


 そう言うと、唄乃が今度こそ私の前から立ち去る。


 連弾をしてからも、唄乃は唄乃だ。

 いちいち人を苛立たせるようなことを言う。


 唄乃のことは嫌いではないけれど、やっぱり気が合わない。もう少し連弾したかったなんて思ったのは気の迷いに違いない。

 はあ、と息を吐き出すと、両隣から、べしん、と腕を叩かれた。


「……音瀬って?」


 美空の驚きを隠せない声が聞こえてくる。


「……唄乃って?」


 瑠璃ちゃんの驚きを隠せない声も聞こえてきて、周りを見る。


 唄乃が去った廊下の右端、好奇心を多分に含んだ生徒の視線が私だけに注がれている。私は二人を引きずるように歩き出し、田中唄乃を唄乃と呼ぶようになった経緯を端的に話す。


「練習室の予約が手違いで被って、下の名前で呼ぶようになっただけだから」

「え、説明ざっくり過ぎない?」


 瑠璃ちゃんがわけがわからないというように言って、美空が「まったくわからない」と続ける。


「言い争ってるうちにこうなった」


 もう一言、間違ってはいない事実を伝える。

 連弾のことは、伝えるとややこしい話になりそうで言いたくない。


「田中さんと言い争いになるっていうのが、もうわかんないもん。音瀬ちゃんって前にも田中さんと廊下で喋ってたみたいだけど、実は田中さんと仲良いの?」

「仲良さそうに見えた?」

「見えなかった」


 瑠璃ちゃんがきっぱりと言う。


「そうだ、音瀬。呼び方にも驚いたけど、コンクール出るっていうのも驚きなんだけど。この前は出ないって言ってたじゃん」

「そうそう。それに田中さんが音瀬ちゃんのコンクールのこと気にしてるってなに?」


 私は二人の声に足を止める。


「コンクールは気が変わっただけ。唄乃が私のコンクールのこと気にしてる理由は私にもわからない」


 正直に答えると、美空が驚いたように言った。


「えー。わからないって、わからないことのほうがわからないんだけど」

「そんなこと言われても、ほんとにわかんないし」

「まあ、わからなくても音瀬ちゃんはコンクールに出るんだ?」


 瑠璃ちゃんの声に頷くと、続けて「予選って夏休み中だよね?」と聞いてきて「うん」と答える。


「あー。私、家に帰るから行けないや」


 実家に帰ると言っていた美空の残念そうな声のあと、瑠璃ちゃんの明るい声が響く。


「私、聴きに行くね」

「……え?」

「私、聴きに行ける距離だし」


 寮生ではない瑠璃ちゃんが明るく言う。


「ほんとに来るの?」

「音瀬ちゃんの演奏、ちゃんと聞きたいし」

「ごめん。気持ちは嬉しいんだけど、聴きにこられたら緊張する」

「ほんっと、緊張魔だよね」


 美空の呆れたような声に、私は「しょうがないじゃん」と返す。


「じゃあ、音瀬ちゃんのピアノ聴きに行くのは本選にとっとくね」


 にこにこしながら瑠璃ちゃんが言って、美空が「いいね」と私の代わりに返事をする。


「楽しみだな、音瀬の演奏」

「ちょっと待って。来てもいいって言ってないし、予選通るかどうかわからないんだけど」


 冗談っぽい口調で話していることがただの冗談で終わってくれるなら、二人を止めたりしない。だが、この二人は冗談っぽく笑いながら、本選当日にしれっと客席に座っていてもおかしくないところがある。大体、予選に通らなければ本選に出ることはできない。


「そこは予選絶対に通るから本選楽しみにしてて、くらい言おうよ」

「不安しかない」

「音瀬、ポジティブ!」


 美空が明るい声で言い、「前向き、前向き」と付け加える。そして、なにかに気づいたようににんまりと笑った。


「そうだ。田中さんが音瀬のコンクールのこと気にしてたってことは、田中さんも出るの?」

「出るって言ってた」

「そっか。じゃあ、田中さんの本選を聴きに行くってことで」


 美空が悪戯っぽく言うと、瑠璃ちゃんが「そうしよう」とくすくすと笑う。


「二人とも楽しそうだよね」

「出ない人間は気楽だから」

「美空、ひどい。あー、どうしよう。緊張して予選上手く弾けそうにない」

「上手く弾けないって言ってると、その通りになるよ」


 美空の明るい声にその通りだと思うが、気持ちはすでに前ではなく、後ろを向いている。


「……夏休み、練習がんばろ」


 あと数日。

 高校生になって初めての夏休みがやってくる。

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