緊張の果て

第19話

 手が冷たい。

 指先を動かしてみるけれど、震えて上手く動かない。

 温まらないくせに手のひらに汗をかく。

 ハンカチで手を拭く。


 実技試験の当日。

 私は予想通り緊張している。

 理由は簡単だ。


 人前で弾くから。


 もちろん、いくら人前で弾くことが苦手だと言ってもまったく弾けないということはない。だが、少し広めのレッスン室で行われる実技試験は、先生が何人かいるし、実技試験を受ける生徒もいる。


 美空だったら、それくらいは人が見ているうちに入らないと言いそうだけれど、私は美空のようには思えない。


 試験官の先生が数人。

 弾く順番を待つ生徒が数人。


 受験のときと同じでたったそれだけの人しかいなくても、緊張する。部屋に入ってきたばかりで私が弾くのはもう少し先なのに、すごく緊張している。


 蚤の心臓。


 そうは思いたくないけれど、肝心なときに臆病になる私の心臓はそう呼ばれるものなのだと思う。


 バッハの平均律クラヴィーア曲集 第一巻 第十七番 前奏曲とフーガ、ショパンのエチュード Op.10-8。


 何度も練習してきた曲を弾くだけなのに、練習通りに弾ける気がしなくて心臓がうるさい。

 私は少しでも落ち着けるように、目を閉じて息を吐く。


 当たり前のことだけれど、実技試験やコンクールなどでは暗譜で弾く。


 今日弾くバッハとショパンは、当然、私の頭の中にしっかり入っている。でも、弾いている途中に、覚えているはずの楽譜がわからなくなって、弾けなくなってしまうのではないかと不安になる。部屋に響いているピアノの音が私の頭の中にある楽譜を追い出しそうで、耳を塞ぎたくなってくる。


 落ち着かなくてハンカチをスカートの上に置いて、ネクタイを直す。


 マズいな、と思う。

 緊張が収まらない。


 ハンカチで手の汗を拭こうと思うけれど、手の中にハンカチがない。心臓の音がリズムを速めて、視線を動かすとスカートの上に置いたハンカチが目に入る。


 落ち着け。


 もしも、理想通りに弾けたら。

 理想ではなくても、自分が満足する演奏ができたら。

 そのときは――。


 目を閉じて、開く。

 今弾いている加藤さんが弾き終えれば、私の番だ。


 ドレミ、ドレミ、大丈夫。


 小さく呟いてみるけれど、心臓は落ち着かない。

 時間は永遠のようで短くて、あっという間に私の番がやってくる。

 ピアノの前に座って、そっと鍵盤に触れる。


 最初はバッハ。

 十七番を前奏曲から弾く。


 息を吸って、指先が鍵盤から離れる。

 そして、吐き出す息とともに私の中にある気持ちを指先から鍵盤に伝える。けれど、伝わったのは緊張だ。


 練習通りに指が動かない。


 この前奏曲は、気持ちが浮き立つような明るいイメージがある。

 でも、指がもつれる。


 マズい。

 マズい、マズい。

 どうしよう。


 もたもたとした音に背中が冷たくなって、顔が強ばる。

 右手も左手も私のものとは思えない。

 他人の手を操っているような不自然な音のまま走って行く。


 緊張が緊張を呼び、曲はどんどんと悪い方向へ向かう。頭が真っ白になって、指だけが動く。そして、足が地につかない前奏曲があっという間に終わり、緊張を引きずったままフーガも終わって、静かに息を吐く。


 落ち着け。

 大丈夫。


 心の中で唱えると、なにも考えられなかった頭に唄乃の声が響く。


 下手。


 今の演奏を聴いたら絶対に唄乃が言いそうな言葉に、肩の力が少し抜ける。

 そう言えば、唄乃と一緒にピアノを弾いたときは、人前だったけれど緊張はしなかった。


 次はOp.10-8。

 何度も、繰り返し、飽きるほど弾いたショパン。


 鍵盤の上、静かに指を置く。

 緊張はしている。

 でも、さっきよりはマシになった気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る